王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

舞台『管理人/THE CARETAKER』感想

舞台『管理人/THE CARETAKER』を観ました。






今回も、観られて本当に良かったです…!!!!!!!!!!
びっくりマークをいくつつけても足りません。



私、イッセー尾形さんのお芝居をいつか生で観てみたいと思っていたんです。(すごかったです…!!!)
あと入野自由さんの人物設定ごとの日本語の発音の的確さにいつも驚かされるのと、(今回も感動しました…!!!)
実は(実は)木村達成さんのお芝居と声と言葉の発し方が大好きなんです。(大好きなんです…!!!)









いや、


その御三方が誰かしらずっと喋ってる100分間てやばない!?!!!????!!?



観劇中ずっっっっっっと幸せでした……………
好きなドラマのサントラ聴いてるみたいだった……
何がきてもずっと好きっていう……………
しかも木村さんのこの地声っぽい(いやわからないですが、私が勝手にそう感じただけです)声のトーン結構珍しいのでは!!?!?しかもこんな長台詞…………!!!!!!!全員声が良い!滑舌が良い!!!お芝居が素敵!!!!!!!!!
どうしよう「好きな役者さんが代わる代わる喋ってるのをずっと聴いている権利」を使ってしまった……一生に一度あるかないかでしょこんなの…………使い果たした感あるわ…………
でも本望です、好きなお芝居だったので。
作品を受け止められた自信はありませんが、作品の懐に飛び込んで観られた気がしています。
面白かった。だからこそもっと観たかったです。




以下、ネタバレありの感想です。
すみません、役者さんについての感想はあまりありません。「好き」で感想が振り切れてしまった。




見ていて驚いたのは、不条理劇といっても劇自体が不条理なわけではないんだ!?!?というところです。私の不条理劇のイメージ、昔読んだ某戯曲で止まってしまっていて、それはほんとに作品自体が不条理というか、会話や言葉やシチュエーションが一般常識で理解できる範疇になかったのですよね…なので今回も「とりあえず意味は何もわからないんだろうな!!」という意気込みで臨んでしまったので、見ていて「(言葉の意味が)わかる………わかるぞ…………!!!」という、勉強なんて何もしてないのに進研ゼミみたいな状態になってしまっていて逆に面食らいました。
会話があんまり成り立ってないな、とは感じましたが、言ってることの意味はわかるので、「これくらいの食い違いなら現実でも意外とあるよね……」という気持ちでした。インテリアコーディネーター(でしたっけ)って言ったと思い込んで怒られるとか、そういう理不尽、あるよね………社会人……理不尽…………


中でも一番驚いたのが、アストンの独白のところで。登場人物同士の対話がうまく成立しない理由が作品の中で明かされる、というところに不条理どころか親切を感じました。(私が読んだ不条理劇が不条理すぎたのか…?わかりませんが…)
つまりこれは劇自体が不条理なのではなくて、この劇が人間や社会の不条理を描いているのだな………とここでようやく思い至りました。
とはいえ、何かものすごく劇的なことが起きるわけでもなく終わることとか、彼らの間のディスコミュニケーションといった普通の劇ではあまりなさそうな点はやはりあるわけで、しかしそれゆえに、観客側が「会話や言葉をどうにでも繋げられる」「いかようにも意味を持たせられる」という、作品の懐の深さを感じました。どのような解釈にも耐えうる強度というか……だから、私がどのように身勝手に解釈しても大丈夫だなと…そこがすごく面白くて。作品の懐に飛び込んで感想を書こうと思いました。




この作品を観ている間、私の頭の中は「好き」という言葉と「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」という言葉で二極化していました。
前者は説明するまでもなく御三方が好きですという意味で、後者はTHE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』の歌詞です。
私は、最初この話は権力と差別の話だと思ったのです。声の心地よさの反面、彼らの差別的な言葉が耳についたので。


デーヴィスはすぐ人種差別的な発言をするし、ミックはデーヴィスを罵り臭いと言う、デーヴィスに手のひらを返されたアストンもまた彼に「臭いんだよ」と言い放つ。


私がこの作品で第一に突きつけられたのは、差別される痛みを知るはずの人もまた誰かを差別し、見下すという、純然たるこの世の不条理でした。




ここで個人的に気になったのが、「この作品でデーヴィスはどの程度の差別主義者として描かれているのか?」ということです。
令和を生きる私の個人的な感覚だとデーヴィスの発言は「あり得ない」と感じましたが、「でも、年配の方なら全然いるよな、こういう人」とも思いました。だからこそこの作品に古臭さを感じないのだろうな、とも。それにはシチュエーションも大きな役割を果たしているような気がしていて、これが周りに人のいるカフェとかだったなら、「いくらなんでも今なら公共の場でここまで堂々と差別的発言をする人はいないだろうな」と思えた気がするんですが、ここは密室。家の中でなら、これくらい言う人、まだいるような気がしてしまいました。職場で研修があって建前は理解していても、内輪の場になると「とはいえ…」という人、結構いるような気がします。もちろん私も例外とは言えないと思います。まだそんな時代だからこそ、この物語は古典にはなっていない、と感じました。


ちなみにこの作品の初演は今から62年前の1960年だそうで、(この作品が生まれたイギリスではなくアメリカの話になってしまいますが)モンゴメリー・バス・ボイコット事件 が1955年、マーティン・ルーサー・キング牧師が「I Have a Dream」の演説をしたのが1963年だ、と考えると………デーヴィスが倫理観の面で「かなり差別的な人間」として描かれたのか、それとも「一般的な高齢男性」として描かれたのかはよくわからないなあ、と思います。後者なのかも、とも思いましたが、今回は令和の日本で上演されているわけなので、そのまま私の感覚で、両者の中間くらいとして受け取りました。
なお、こちらの記事(BBC NEWS JAPAN「あなたが、そしてイギリス人も知らないかもしれないイギリスの黒人の歴史」)によれば当時は人種を理由にした差別は違法ではなかったとのことです。そうだよなあ……当時アメリカ以外はどうだったのかとか、あまり考えたことがなかった……。



もう一つ気になったのはアストンが精神病院で受けたという処置のこと。観ていた時はロボトミーのことかと思いましたが、立ったままやられてしまったと言っていた気がするので調べてみるとなるほど電気ショック療法(電気けいれん療法)もロボトミーと同時代(1930年代以降)に治療として用いられていたのですね。こちらの記事(つぼみクラブ「電気けいれん療法ってどんな治療?」)がわかりやすかったです。1950年代以降から薬物療法が発展して使われなくなったということなので、1960年時点でこのように描かれているのも納得がいきました。ちょうど評価が移り変わっていった時代だったのですね。
この処置については(少なくとも立ったままのアストンに対しての処置は)「非人道的であった」という観点から批判的に描かれていると思うのですが、さらにその後遺症で考えがまとまらなくなってしまったと……当時未成年だったアストンの治療に対して「母は、許可を、与えた」という台詞がズシンと重く響きました。いくら子どものことを思っていても、「永続的に正しい」選択をするのはなんと難しいことか……。
この独白シーンはアストンの辿々しくなっていく言葉に一緒につまずきながら、だんだんしぼられていく照明の効果もあいまって、肌寒さというか……合理性から切り離されていく寂寥感のようなものを感じました。アストンはあれだけモノに囲まれていてもあのようなひっそりとした世界の中で生きているのかなと思ったりしました。


その不便さを抱えたアストンを、デーヴィスは「まともじゃない」(すみません、実際どのような言葉だったかは忘れてしまいました)と言って見限ろうとする。しかしその言葉がミックの逆鱗に触れ、管理人という権力を握るつもりだったデーヴィスは逆に兄弟から見限られてしまう、、、



この部屋の中のパワーバランスが流動的で、デーヴィスはそれを見誤って差別構造に乗っかって失敗したんだな、なんだかさみしい話だな、と、思ったのですが……


観終わってからは「穏やかな演劇だったな」という印象だったのでそれが自分の中で意外でした。
どことなく演劇の毒よりも優しさで包まれた舞台だったように感じたのです。
どうしてだろう、と考えて、またアストンの暗がりの中での独白のシーンを思い出して。
なんとなくですが、役に人間の尊厳を放棄させない演技、演出だったように感じられたのかもしれない、と思いました。



入野自由さん演じるアストンは、本人の中に戸惑いは感じられても、決して不気味な人物ではありませんでした。
イッセー尾形さん演じるデーヴィスは、独善的ではあっても、どこか憎めない、ちゃっかりしてるなあと笑ってしまうような人でした。
木村達成さん演じるミックは、何を考えているかわかりにくい部分はあっても、その目に兄への複雑な思いを湛えていました。



彼らにおいて、差別的な言動こそありましたが、それを批判的にだけ捉えるのではなく、それがなぜ発せられたのかを考えなくてはいけないのかもしれないと思いました。



デーヴィスはここを追い出されたら帰る場所がない。ミックは兄の家に不審者がいた。あるいは兄を侮辱された。アストンは自分の中の核ともいえる出来事を明かして馬鹿にされた。



これは、互いの人間としての尊厳を守るための攻防だったのかなあと思いました。
特に、デーヴィスとアストンの。


そしてアストンに付かず離れずで見守っていたミックの、彼が時折見せる複雑な表情は、現代の言葉を借りれば「きょうだい児」の葛藤を示唆していたのかもしれないとも思います。
たとえば彼の使う「友達」という言葉ひとつとっても、そこに込められた気持ち、意味、言葉自体のちょっと幼いチョイスの理由に思いを馳せずにはいられませんでした。
その感覚で言うとこの興行の『管理人/THE CARETAKER』というタイトルも、わざわざ英語の原題を併記したのは(「caretaker」に人の面倒を見る人の意味があるのはアメリカだけのようですが)ケア労働、ヤングケアラー、医療的ケア児など「ケア」という言葉が日本語として浸透して一定の何かを想起させるものがある言葉となった現代の潮流を見越してのものではと感じました。



「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」、それはなぜなのか、「弱い者」「さらに弱い者」は誰が決めるのか、どうしたら彼らがたたかれないのか。
その「弱い者」を当たり前に「今」(それは令和の日本ではないかもしれないけど)を生きる人間として描こうとしたのが今回の作品だったのかなあと、個人的には感じました。
私は多分、「不条理劇」という言葉のイメージとあらすじだけを読んで、もっと「わからない」「不気味な感じ」「現実から少し離れた感じ」を想像していたのです。でもこの作品はそうじゃなくて、彼らは同じ現実を生きる可能性のある人間なんだよ、と、イッセーさん、入野さん、木村さんのお芝居が、小川さんの演出がそう言っているように感じられました。カンパニーが彼らの尊厳を守っているようでした。「彼ら」とか偉そうに言ってる私も彼らなんだよなあ、と。もちろんこれも「不条理劇」の懐に飛び込んだ私の勝手な解釈ですが。








共感できる部分もたくさんありました。特に、シドカップに行くと言って行かない、小屋を作ると言って作らない、家をリフォームすると言ってしない、というのは先延ばし癖のある私にはめちゃくちゃわかる行動(行動しないんだけど)です。
特にデーヴィスとアストンの場合は、おそらく妄想にも近く、しかしながら「それ」に失敗した場合また自身の尊厳に関わるのですよね。だから余計に一歩が踏み出せない。



クスッと笑えるシーンが多かったのもまた意外でした。鞄、掃除機、マッチ……そうそうそれからバケツに仏像と、小道具が効果的に使われているのも印象的でした。



目を瞑ってインテリアを語るミックには「朗々誇大」という言葉が頭のなかにうかびました。そんな四字熟語はない。



三者三様の御三方と雑然とした部屋、写実的な窓の光だけでも観て良かったと思ったのですが、観た後の印象に刺々しいものがなくて、観劇の記憶として心の中に大切にしまっておけるなあと感じました。



あっ!そうそう、血の婚礼と管理人を見て、木村さんって役でピリつかせたら天下一品だなあと思いました。誰かが機嫌悪い時の波動と同じようなやつが劇場の空気をつたってくるかんじありますね……すごい……今年の前半にはグリブラの「出来るさ!」とかSLAPSTICKSとか君嘘見て「真面目で優しい好青年がぴったりだな!!!!!!」て思ってたのに……この振り幅……
そして来年は校長先生から始まるのほんと好きです。毎回何かしら楽しみな予定があるの、本当に生きる糧になっててありがたいな……。
今年も楽しかったです。
ありがとうございました………!!



以上