『虎に翼』最終週130話まで見ました。
見終わったあと、なんだか不思議な気分でした。
私はなかなか連ドラを見続けることができない性分なので、最後まで見られたということは、それくらい面白かったとか、好きだったとか、何か理由があるのだと思うのですが、それが自分でもよくわからず。
でも、他のドラマを見ていて主人公にイライラしたり、史実のままやったほうがよっぽど面白くない!?と思ったことはあるのですが、このドラマを見てそう思ったというわけでもなく。
考えても考えてもこの気分を言葉にできないので、諦めることにしました。
その代わり、好きだったところと引っかかったところを書いていきたいと思います。
……下記の感想を書いていて思いました。
私はやっぱりこのドラマが好きだったんだなと。
色々考えさせてくれるから、面白くてずっと見ていられたんだと思いました。
以下、好きだったところ。
秋山さんのために寅子が動くところ
なぜか他のエピソードよりも安心して見られました。主役が当事者じゃないからかなあ……やはり無意識のうちに「主役には正しくあってほしい」と思ってしまっているのかもしれない。
秋山さん、いつも綺麗にして誰よりも努力して弱みを見せないようにしてたのに、っていうの、男性社会の中での戦い方のひとつとしてリアルだなと思いました。
「ご婦人のお化粧は紳士のひげそりと同じ良識ある大人の証しですよ」と言ってよねさんと喧嘩になるのもさもありなん。(「仕事の本質でない部分は何を言われても気にしない」的に自分を曲げないよねさんとは反対に)職場で男性に「なんであろうと文句を言わせる隙を見せない」というのが秋山さんの考える立身出世の唯一の方法だったのに、「妊娠しました」という最大の「これだから女は」が出そうなことになってしまったの、本当に絶望しただろうと思いました。早速よねさんに「度肝を抜かれるほどのなまぬるさだな」とか言われてるし。
これオブラートに包まれているけど、要するに「ちゃんと避妊しろよ」ってことですよね。寅子の時もそう。そんなに働き続けたいのに、なんでそんなに脇が甘いんだ!?という。
それは本当にその通りだし、でもその通りだけどでも、当人たちにもいろいろあるよね、、、、、、、、と口をつぐまずにはいられないというか……………なかなかそんなにうまくはいかないという現実もあるよな…………と、、、、、、そんなにいろいろ人生計画上手くいったら、計画通りにいった人はマジですごいけど、計画通りにいかなかった人もでも責められんです私は………という感じです。歯切れが悪くなる。私は秋山さんや寅子とはどちらかというと逆の感じですけど……妊娠出産とか女性のライフプラン周りでこんな感じの後ろめたさを抱えているの、私だけではないんじゃないかと……秋山さんもわかってるから言い返せないんですよね。ほんとに。でも、寅子に続いて秋山さんも二人とも計画性がなかったように見えてしまったから、どちらか一人は「そうならざるを得ない理由」があるとドラマ的には見やすかったかなあとは思います。
でも、令和の今でも職場で暗に「時期や順番考えなさいよ」って言われたりするところもあると思うんですけど、いやそんなん「人権なくね!?」という気持ちと「でも実際問題この人数でまわしてるんだから考えなきゃいかんよな」という気持ちの狭間にいる時に妊娠しちゃって「ああああああああああああどうしよう」みたいなのとか、なんかそういうの色々あると思うんですよね、それで「男だったらここまで気にしなくていいのに」とか。でも今は男性でも育休取ることが珍しくないから、このタイミングに悩まされるのも女性だけではなくなってきていて、それはなんというか分かち合えるようになってきていていいな、と思います。
寅子が秋山さんのために奔走して、「絶対に帰ってくる場所は守るからね」みたいに言ってあげていたの、寅子が穂高先生に言ってほしかったのはこういう言葉なのかなあ、と思ったりしました。そうだよなあ、出産のために仕事を休んだら、戻ってこられる保証なんてどこにもなかった時代だろうし、、、、、、、、でも、寅子が穂高先生に怒りをあらわにしたところについてはいまだにあまり理解できていません。後ほど書きます。
百合さんの認知症
原爆裁判のかたわらで百合さんの認知症の症状が進んでいくの、すごくわかるなあ、、と思いました。
病気は人生の都合を待ってはくれない。
私は受験の時に祖母の認知症の症状が進んだので、優未が我慢できなくなる気持ちもわかる気がしました。百合さんがせっかく作ったシチューを流しちゃうの、あれたぶん毎日やってますね……いつもよりひどいことを百合さんがやらかしたから優未がキレたんじゃなくて、いつもいつも同じことをやってしまうその繰り返しによって優未がキレたんだと思ってます。米津玄師さんの『毎日』って歌、あれ、認知症の方のそばにいる人の歌だな……って思います。毎日、毎日、毎日同じことの繰り返しで……子どもは日中おばあさんと一緒にいる時間が他の家族より長くなりやすいんですよね。
あと寅子が百合さんに更年期障害のこと話すシーン、あれもリアルだなと思いました。認知症で話が通じないとわかっているけど、それでも昔の姿が頭の中にあって話しかけているんですよね。どこかで戻ってきてくれないかなと期待もありつつ。
涼子様と小橋の言葉
私、憲法第14条「法の下の平等」によって「今までより立場が下がった」人のことを考えたことがなかったんですよね。太宰治の『斜陽』がまさにそのあたりのことを書いていたのだなぁとは思うんですけど、そこについてあんまり深く考えて読んでなかったなと。
で、このドラマでは涼子様がまさにその立場なわけで、でも彼女は「仕方のないこと」という感じで結構すんなりと受け入れていて。(その当時の描写はないので、最初は葛藤など色々あったのかもしれないですが)
私はそれを見て、「周りより偉かったのが偉くなくなる」って、「特権が奪われる」ということで、到底受け入れられるものではなくない!?!?と思ったんですよね。
その葛藤を、擬似的に体験していたのが「男性」である小橋だったんだ、というのがわかったのが小橋の「わかる!!!」に続く男子学生に対しての声掛けでした。そうか、こんな気持ちなんだ、と。
「俺たちの特権が奪われる、なんだよ、ちくしょう」ってたぶん令和の今でも思ってる男性いるよなって。女性の社会進出が進むにつれて、男性は領分を侵されている気持ちになるのかなあと、、、
「平等」が進めば進むほど、自分の持ち分がなくなる(気がする)って、そんなの嫌だって思うのも全然わかるなあと。小橋は「自分が平等な社会を阻む邪魔者になるのは嫌だ」と思えたけど、そう思えない人がいても全然不思議じゃない。
「平等の実現のためなら自分が損をしてもいい」って思えるのってすごく高尚じゃないですか?そんな気持ちにみんながならないと平等が達成できないならめちゃくちゃ大変だし、あ、だからこそ「法の下の平等」なんだ、これがなければ対応がまちまちになるから法に明文化しなきゃいけないんだって納得がいきました。
法、大事だなって。
虎に翼を見ていて思ったこと「法、大事」ってめっちゃ単純だけど、実感こもってるんで許してください。
リソースを注ぎ込んだものについて割合を変えてもいい、変えなくてもいい
寅子の友人たち全員が全員、法律に関係のある職業についたわけではないというのがいいな〜、と、ドラマを見ながら思っていました。
人生のある時期において感情、時間、体力、お金などリソースのほとんどを注ぎ込んだものであっても、その後その注ぎ込む割合を変えてたっていい、変えなくたっていい、というのは、『虎に翼』が最後まで言っていたことかなあと。
部活で何かに打ち込んでいたからと言って、絶対にそれを続けなきゃいけないわけじゃない、プロにならなかったからといって負けたとか失敗したわけじゃない、その経験が何かの役に立つ、というのは私もいつも思っていることなので、ドラマの主張に共感しました。
だからむしろ最後の方で香子さんや涼子さんが司法試験を受けていたのが「あれ、そうなんだ」って感じではあったんですけど、それも「何歳から何を始めても遅くなんてない」「もとの道に戻ったっていい」というのもいつも思っていることなので、励みになるなーという感じでした。
血のつながりを大事にしてもいい、大事にしなくてもいい
寅子が家族に大切にされる一方で、梅子さんが血のつながりのある家族と縁を切って道男と疑似家族のような共同体を築いたことなど、「血縁」がすべてではない、という主張にも共感しました。
「運命の人」との間に恋愛があってもいい、恋愛がなくてもいい
寅子と花江ちゃん、寅子と優三さん、寅子と航一さん、寅子とよねさん、寅子と桂場さん、よねさんと轟、玉ちゃんと涼子さんなど、このドラマには「運命の人」と呼べそうな関係がたくさん出てきましたが、そういうのは別に恋愛関係に限らなくてもあるよね、と思いました。
すべて正しくなくてもいい、人にはいい面と悪い面がある
これは優三さんをはじめいろんなところで言われていたと思うんですが、ほんと、そう、と思います。
寅子が音羽さんに言った「すべて正しくなくては声をあげてはいけないの?」も。
でも、「こうあるべき」を言う人の「正しくないところ」「悪いところ」って目立つんですよね。「そっちどうにかしてから言えよ」とか「どの口がそれ言うんだよ」とか思われちゃうし、
誰か一人を救うと、他にも救えない人がいることが余計に目立つ。誰も救わないほうが救えない人がいることの後ろめたさが弱くなるというか。どう考えても誰も救わないよりは一人救ってる人の方がすごいと思うんですけど、「じゃあなんで他の人は救わないんだ、差別だ」って言われそうというか。
だから声をあげるのって本当に難しい。罪のない者か、あるいは自分の罪を棚に上げてそれを攻撃されても耐えられる者でなくてはいけないから。
超難しくない!?!?!?!?
でも、でもですよ、本来は、「その人がすべて正しいか」ではなくて「その人の言う『こうあるべき』は正しいか」が精査されなくてはいけないんですよね、「その人に正しくないところがある」っていうのは本来関係ないはずなんですよ、でもやっぱり目立つんですよ「その人の正しくなさ」は。
私は、『虎に翼』になんとなく落ち着かないところがあったんですけど、それの理由のひとつはこれかなと思っています。
「すべて正しい人なんていない」を体現したキャラクターたちが描かれた結果、その人たちの「正しくなさ」が気になってしまう、みたいな……
特に寅子はわかりやすく間違えもしていたから、、、
しかも、戦前はまだ良かったんですよ、「女性は無能力者」とか、今なら「それはちょっとおかしいよね」と多くの人が言いそうなくらい評価がある程度定まっている、「あきらかに正しくない」差別を扱っていたので。
でも、戦後は違う。憲法は今と全く同じで、法律は地続きで、社会に存在する構造的差別は今にそのまま横たわるもので。登場人物の振舞いひとつひとつが、「何がどこまで正しくて、何がどこまで正しくないか」が今でも曖昧だから、視聴者によって登場人物や出来事に対して感じる「正しさ」「正しくなさ」が異なってしまう。結果、なんだかすっきりしない。誰が悪い!何が悪い!とすっぱり言えないから。
そう考えると、法に照らし合わせて「正しいか」「正しくないか」を判断する判事というのはすごい仕事だなと、心底実感するのですが。
原子爆弾の投下は「国際法違反」、尊属殺重罰規定は「憲法違反」。この判決に関して、今の私が「その通りだ」とはっきり思えるのは、たぶん当時その判決が出て、現代社会が裁判例や判例にのっとって運営されているからなんですよね。昭和48年に違憲判決が出ていなかったら、私たちの生活はまだ尊属殺人規定とともにあって、その価値判断は定まっていなかったかもしれない。
「みんないい面と、悪い面があって、守りたいものがそれぞれ違うというか……うん……だから法律があると思うんだよね」という優三さんの言葉が思い起こされます。すっきりしないことを、法律に照らし合わせてみる。正しい。正しくない。
その中でもはや法律自体の正しさを問いたくなる事例が発生する。法律を、憲法に照らし合わせてみる。正しい。正しくない。人によって解釈が割れる。同性婚を認めないのは違憲か?合憲か?旧優生保護法は違憲か?合憲か?
登場人物の「正しくなさ」が目につく心証の悪さに加えて、
その「正しい」「正しくない」の判断自体が揺れる、居心地の悪さ。
このドラマは常にその天秤の上にあったから、なんとなく落ち着いて見られなかったのかなあと思っています。
声を上げるのは当事者じゃなくてもいい
これもこのドラマが強く主張していたことではないかと思ってるんですが、個人的には多胎育児のサポートを考える会の事例を思い出しました。こちらも当事者に近い立場の人が声を上げた例だったなあと。
当事者は様々な事情から声を上げられない状態に陥っていることも多いと思うので、そのそばにいる人が声を上げて動き続けてくれたらありがたいことこの上ないですよね……特に育児関連は、喉元過ぎれば熱さを忘れるじゃないですけど、その時期その時期にそれぞれの大変さがあって、都度都度それと向き合っていたら前の大変さのことなんて声上げてられないみたいな感じありますよね。。だから運動が続けにくいみたいな。なのに当事者の男性が声を上げたらすぐに実現しちゃうみたいな。液体ミルクの解禁とか。いや、ありがたいんですよありがたいんですけど同じ当事者なのに女性の声より男性の声の方が届きやすいんだとしたらなんだかなって思う部分はありますよね。なんの話でしたっけ。
あ、で、当事者は声が上げにくい/上げても聞いてもらえない(それこそたとえばその人の「正しくない」部分があげつらわれるので)みたいな面があるので、声を上げてくれる人がいたらすごくありがたい、、、、、それが!!たとえばこの物語でいうところのよねさんだったという。
私は、このドラマを見ていて最初にめちゃくちゃテンションが上がったのが寅子が女性初の弁護士の一人になって祝賀会で演説を振う場面なんですよね。
「困っている方を救い続けます。男女、関係なく!!!!」という台詞に痺れたんです。詳しくはこちらの感想をご覧ください。
私がこのとき想像した展開は、その後の寅子の歩みとはちょっと違っていました。モデルの三淵嘉子さんのことを「家庭裁判所の母」と呼ばれていらっしゃることくらいしか存じ上げていなかったので、なんか、「まずは弁護士となって法律で弱き者をバンバン救う!」みたいなイメージを思い浮かべてしまったんですよね。
でも、寅子は家庭裁判所の設立に奔走したあと判事になってしまったので、そもそもの戦い方が違った。判事には判事の人の救い方があって、それは私が想定していたものとは違っていた。
じゃあ『虎に翼』は私が思っていたドラマとは全然違っていたかというとそんなことはなくて、それはなぜかというと、私が期待していたこと、それを全部よねさんがやってくれたからです。
山田轟法律事務所……………好きでした。
こちらの感想(『虎に翼』平岩紙さんと『アンメット』野呂佳代さんの切り拓く道について - 王様の耳はロバの耳)で書いたんですが、
私にとって、これに対する答えがよねさんの「これは自分たちの手で手に入れたかったものだ 戦争なんかのおかげじゃなく」という言葉でした。寅子の気持ちは描かれていないけれど、この日本国憲法は「自分たち国民が自由や権利のために戦った結果として手に入れたもの」ではないということをドラマの中の登場人物も複雑な気持ちで受け止めている、ということがわかっただけで十分でした。
これは私の個人的な趣味ですが、このねじれた成り立ちに対して何も思わず「やったー!」と受け取る人々であってほしくはなかったので。
この時からすでに、私の思っていた物語を担うのは寅子じゃなくてよねさん(と轟さん)だと決まっていたのかもしれない。
戦争孤児支援、身体障害者福祉法の手帳申請支援、就職差別、原爆訴訟、尊属殺裁判、などなど。
男女関係なく、困っている人の力になり続けている……私が思い描いていたのはまさしくこのような姿でした。
特に私の胸を打ったのは、よねさんが原告の一人である吉田さんに、「出廷するのはやめましょう」と提案したこと。
かつて「戦いもせず現状に甘んじるやつらは愚かだ」と言っていたよねさんが、「戦わない」という選択を尊重するというのがすごくいいなって……
あと「声を上げた女にこの社会は容赦なく石を投げてくる」という言葉にもハッとさせられたけど、その時思い浮かんだのは現実社会で訴訟を起こした実在の女性の方々だったんですよね。でも、ここは寅子のことが思い浮かんだほうがドラマとしてはいいのかもってあとから思いました。「声を上げた女は石を投げられかねない、だからこその地獄」だと思うんですよ。個人的には。その地獄を、ドラマの中で寅子が通ったかというとそうではない気がしていて。私が寅子にあまり共感できない部分があったのも、そのせいかもしれないと思いました。
寅子が事実婚を選んだこと
これは、モデルである三淵さんとはそうではないのに……という点で気になったのではないです。そこはご遺族の方が納得されていたのであれば大丈夫かなと私は思うのですが(あくまでドキュメンタリードラマではなくモデルなので)、、、
ドラマでは寅子と航一さんは夫婦別姓のため、遺言書を取り交わして事実婚を選んだと言っていたように記憶していますが、それによるデメリットが描かれなかったのが気になっています。
そのやり方で特に問題が生じないなら、令和の別姓を選びたい夫婦もみーんな事実婚でいいんじゃない!?って思ってしまって。同性婚も事実婚でいーんじゃない!?みたいな。
実際にはそれでは済まないから、遺言書を取り交わすだけでは救済されない何かがあるから、
選択的夫婦別姓制度の導入や同性婚が認められるようみんなが声を上げているんですよね?
それなのに寅子が事実婚を選んで航一さんとハッピーに人生を終えられてしまったら、そのデメリットが見えなくなってしまうと思って。
どうなんでしょう?何かデメリットがあるんですよね?それとも別にないんでしょうか?それを知りたかったなと。
晩年、面会が親族に限られて航一さんが寅子の病室に入れない場面とかがあったら、「ああ、だからみんな法律婚での実現がより良いと声を上げているんだな」と思えたかもと……いや最終回間際にそんな切ないシーン見たくないですが。
ここはちょっと気に掛かりました。
「愛」ってなんだろう
個人的になんですけど家庭裁判所における「愛」の実体がよくわからなかったのが引っかかりました。私は「対話を続ける」ことかなあと思ったんですけど、、、、、、、、
マクロな視点からも見たかった
寅子が以前桂場さんに言っていた「法律は使うものじゃなくて守らなければいけない水源のようなものだと感じる」という話、尊属殺重罰規定における違憲判決の経緯を見ていてすごく納得できました。
流れる水は腐らず、淀む水には芥溜まる、的な意味でも、変動する社会をよそに一つ所にとどまっていては、法も古くなるんだなあと……
で、そういう違憲判決や法改正(議論含む)の背景には、必ず社会の変化があるものと思われ、ドラマでも色々実際の映像を交えてやってくれてはいたのですが、もっとマクロな感じで社会を俯瞰して相互作用が見えたらわかりやすくて嬉しかったなっていう個人的な好みの話です。もちろんドラマはミクロの積み重ねだとは思うんですが。
いい人が多すぎた
何度考えても、私から見たら穂高先生はめちゃくちゃいい人なんですよね……!!
ひどいところもあったと思いますが、でも、令和でももっとひどい人いっぱいいない?って思ってたんだ、私、って、最近気づきました。
こちらの感想(『虎に翼』戦後の寅子に共感できない件 - 王様の耳はロバの耳)でこんなことを書きました。
「家事育児が免除される」「長時間労働できる」以外にも、名誉男性でいるための苦労ってめちゃくちゃあるんじゃないかと思うんです。その苦労を、寅子が味わっている描写は少ない。
男たちの下ネタを一緒になって笑ったりしてない。
男たちのセクハラを笑って受け流したりしていない。
男たちにいきなり一芸の披露を迫られても動じない。
男たちに飲み会の場で「今日、娘さんはどうしてるの?」とか言われない。
男たちに「ダンナに夕飯作らせるなんて、鬼嫁だな!」とか言われない。
男たちに「色目を使って出世したんだろ」とか言われない。
男たちに「まだ再婚しないのか〜?」とかいじられない。
この環境の良さが、寅子の周りが特別いい人ばかりだからだとは思いません。いい人でも無自覚にやってしまうんですよね。悪気なくやる人もいるし善意からやる人もいる。その反応を見てこの「女」が自分たちの仲間に相応しいかどうかを常々篩にかけているんだと思う。無自覚に。
逆に「名誉男性=本当は女性」だからこそ求められる役割もあって。でも寅子はそういう役割を押し付けられることもあまりない。
お茶汲みをやらされたりしていない。
男たちのやらない庶務を押し付けられたりしていない。
お酌をさせられたりしていない。
接待の場で偉い男性の横に座らされたりしていない。
職場で「田舎から送ってきたから梨切って」とか言われない。
男性に花束を渡す役割を強要されない。←これはまさに寅子が女性だからこそ与えられた役割だったけど、寅子はやらなかった。
「女性だから」受ける可能性が高いハラスメントを、寅子はほとんど受けていない、そういう描写がない。そもそも桂場さんが下ネタを言うシーンなどない。そんな桂場さん絶対嫌だし。でも、穂高先生の弔いの場で、多岐川さんが寅子の肩に手を回したりしていたけれど、寅子は特に嫌がるそぶりは見せませんでした。
気を遣うとかおだてるとか媚びとか迎合とかおべっかおべんちゃらなく、寅子は職場でも飲み会でも男性たちの中で普通に馴染んでいるのです。男たちに無理やり合わせている様子がない。
それは寅子のいいところであり強みなのかもしれません。でもそれがなんか、リアリティがないと思ってしまう。
自然に馴染める寅子もすごいけど、やっぱ周りの人がみんないい人すぎた。
だって、時代が時代ならライアンさんとか「やあ、よねよね!」とか言って挨拶がわりにお尻を触るキャラにされてますよ。絶対。そこまで昔の漫画じゃない『のだめカンタービレ』ですら、連載当時はこうだったわけですし……
ふふふ。地味に色々、変わっているのですよ。 https://t.co/f0uDHkNyYU
— 二ノ宮知子🧨 (@nino0120444) 2022年2月23日
ついこの間までこれが「冗談」で済んだ時代だったんですよね。私も普通に読んでいたと思います。
あと私、ずっと申し訳ないと思っていることがあって。
昔職場で、上司がお子さんが生まれたばかりの先輩(男性)について「今毎日こいつが朝ごはん作ってるらしいぞ!ご飯も作らないなんて鬼嫁だよなー!」って私に言ってきたことがあって。
私、なんて言ったと思います?
「んんんんんんんんどうでしょう笑」ですよ
プリティ長嶋かよ。
同じ女性である私は上司に何も言い返さなかったんですよ、、、しかも、その先輩が「違いますよ、妻は出産したばかりで大変なので僕が作るのが当然なんですよ」と言っていたのにですよ。先輩、本当に立派でいらっしゃったな…………それにひきかえ私の愚かさといったら。
でも、言い訳させてください。ここで私が反論すると、「うるさい奴だな」と思われて反論きっぷがひとつ減ってしまうんですよ、雑談で反論きっぷを浪費しているといざというとき仕事で絶対に譲れないケースで反論してももう聞いてもらえないんですよ。森元首相の言うところの「わきまえる」「わきまえない」を場面ごとに使い分けないと、いざというときマジでどうにもならないですよね……!?
でも、それで私が「わきまえて」しまった結果がさっきのアレです。わきまえちゃいけないんですよ…………でも、いつもわきまえずにいたら、本物の狼が来たときに警鐘を鳴らしても聞いてもらえないんですよ……………そんなの、仕事にならないじゃん。どうしたらいいの…………
この上司との雑談が、平成時代の話です。
上司はめちゃくちゃいい方でした。それでもこういうことを言う。全然言う。
もっとひどいことを良かれと思って言う人すらいる。そういう時代でした。
だって森元首相の「わきまえない」発言ですら2021年、令和3年ですから。
平成の時代なんてそりゃもう。で、私も私でそれを内面化してしまっているから。
そういう社会を生きてきて、ぱっと穂高先生を見たとき、いや全然マシじゃん!!??
って思ってしまうのも仕方ない……と私自身は思っているのですが。
だから穂高先生は許されるべき、とかそういうことが言いたいんじゃないですよ、
ただ、前の感想でも言ったけど、タイミングも、言い方もわきまえずに社会的地位のある男性に対して泣いて怒った寅子が、なんかふつーにアメリカとか視察に行ってたのがやっぱり私は納得がいかなくて!!!!そこなんですよ結局。なんで「これだから女性はすぐ感情的になる、だから仕事にならない」って言われないのって。
そういうことを言う権力者も、セクハラ上司も、パワハラ上司も寅子の周りにいないのが、いいなあ羨ましいなあって思いました。
でもね、朝ドラですからね……そんなストレス溜まりそうなドラマ誰も見たくないですよね………
だからいいんです、私は穂高先生も桂場さんもライアンさんも多岐川さんもみんな好きです。
いい人ばかりで羨ましいけど、いい人ばかりでよかったです。
いい人が多すぎた②
物語の中で、当時もいたはずなのに「いないもの」とされてきたマイノリティの方々を描くことについては、私は賛成です。
ただ。
彼ら彼女らに対するマジョリティの反応が、美化されすぎてはいないか?というのが気になるんです。
たとえば寅子は轟と遠藤に対して配慮の足りない発言をしたと轟に謝罪していましたが、寅子のような人が、当時にそのようなことに思い至るだろうか?と。
私、最近まで忘れていましたが、幼い頃にとんねるずが保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)のコントをやっているのを見たことがあります。「これは面白いものなのだ」と思ったと思います。
私が子どもの頃ですらそういう時代です。
「いないもの」とされてきた人々とは、私たちマジョリティが踏みつけてきた人々そのものです。もっと苛烈な生きづらさがあったのではないか、と思います。ドラマの中の昭和時代を生きる寅子が、令和の私たちから見ても配慮あるように見える反応をすることは、私たちからその靴底に張り付いているマイノリティの方々の無念を忘れさせることにつながらないでしょうか。私たちの側が、マイノリティの方々に対してどんな反応をしてきたか、思い出して反省するようでなければ、当時のマイノリティの方々を描く意義が薄れてしまいはしないでしょうか。
でもね、朝ドラですからね……そんな差別心丸出しなシーンは誰も見たくないですよね…………
でも、ちょっと引っかかったので。
ここまで書いていて思いました。
私はやっぱりこのドラマが好きだったんだなと。
色々考えさせてくれるから、面白くてずっと見ていられたんだと思いました。
寅子に共感できないとは言ったけど、伊藤沙莉さんのお芝居は本当にすごいなあと思いました。
だってすごくおばちゃんなんだもの……まだ30歳なこと、本気で忘れていました。
あとやっぱり、声が好きです。
最後に。
演劇では、昔の作品が「再演」されることがよくあります。
同じ戯曲でその当時の社会を照射しつつ、舞台作品として作り直されます。
今、なぜこの作品が上演されるのか。
それを考えながら観るので、初演当時のこと、現代のことを勉強することもあります。
『虎に翼』を観て、「法と社会」の在り方とちょっとだけ似てるところもあるかも、と思いました。
演劇も社会と共にあるのだなあと。
好きな俳優さん(木村達成さん)が舞台をお休みして大河ドラマの撮影をしているので、時間にゆとりができてテレビドラマを見る機会が増えたのですが、いろんな発見があって楽しかったです。
それにしても、木村さん(三条天皇)が『光る君へ』に本格的に登場する前に『虎に翼』が始まって終わってしまいました。
はたして木村さんはいつ出てくるのか……!?
来期は『海に眠るダイヤモンド』と『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』が気になってます。
ここまで『虎に翼』の感想を読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。
反応をいただけたこと、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。