王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

「入野自由マジすごくね」──ミュージカル『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』を観た

先日、ミュージカル『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』を観ました。






あまり作品に関係がないことなのですが、出演されていた入野自由さんに関してもうひとつ強く思ったことがあったので書きます。

※すべて私個人の感想と思い込みです。あと、私が知らないだけっていうのは重々承知した上で書いてます。





おいなんの話だよってところから入りますが、
クドカン以降、等身大の若者の言葉を台詞として書けるテレビドラマ脚本家が出てきてなくて、テレビドラマにおける若者像のアップデートが滞っているような気がしています。


クドカンの書いた『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』の脚本には、2000年代の若者たちの言葉が生き生きとしたリアルな台詞としておさめられていました。

佐藤隆太さんや塚本高史さんはまさに2000年代若者言葉のネイティブスピーカーで、彼らこそがクドカンの書く台詞をリアルにしたと思うし、
ジャニーズの長瀬智也さんや岡田准一さんはこの若者言葉の型にうまくハマったことでわかりやすいキャラクターとしての魅力を放つことができたと思います。


でもいま、2010年代の若者の言葉はまだあまり台詞化されていないような気がしてて、たぶん「マジすごくね?」とか「できますん」とか「ぶっさんの葬式ぜってーいかねーかんな!!」じゃないんですよね、彼らのリアルな言葉は……




ところが。去年、個人的に結構衝撃的な発見をしました。
その未だ台詞化されていないはずの2010年代の若者の言葉を、ネイティブに発話しているキャラクターがいたのです。



おそ松さん」のトド松。
入野自由さんです。




台詞が明確に若いわけじゃないのに、イントネーションやトーン、リズムや間など非言語的な部分がとにかくネイティブ。2010年代の若者の台詞のステレオタイプはこの人から作れるんじゃないかと思ったくらい。


ネイティブスピーカーはたくさんいても、それを芝居の上にのっけて人に届けるレベルで発話できる人はそうそういない。芝居の型ができてない今ならなおさらです。




今回、ミュージカル『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』でそんな入野自由さんの舞台上での姿を初めて見て、なんて端正な演技をするひとだろうかと驚きました。


当たり前ですけど、2010年代の若者らしさなんて微塵も見せない。彼は1880年代のテオであり、ゴーギャンであり、ゴッホの父であり。


なにこの人バイリンガルじゃないかと。清らかな日本語と、雑多な若者語のバイリンガル。文語と口語を軽やかに行き来するひと。
とても面白いと思いました。


もし私が、日常会話でいきなり教科書に載っているような言葉でおしとやかに話し始めたら周りは戸惑うでしょう。
逆に、たとえば結婚式のスピーチなどで「新婦マジすごくね?」とか言い出したらどんなに賞賛の気持ちがこもっていてもとりあえずいったん絶交されるでしょう。それはわかる。
でもじゃあ「僭越ではございますが…」と自分が違和感なく綺麗に言えるか、それを周りに違和感なく受け止めてもらえるかって話です。多分それは、言い慣れているかによる。



同じ日本語でも、その場その場の雰囲気に合った言葉があります。それを正しく選び取ることは、そんなに難しいことではありません。
でも、その言葉に合った発話ができるかどうかは別の話です。敬語、タメ口、文語、口語、お父さんことば、赤ちゃんことば。それぞれに合った発話の仕方があります。普段使い慣れていない言葉は、どうしても違和感が生じるものです。



その点、入野自由さんは「大体言い慣れてる」。




役者として舞台的な台詞回しに長けているのはわかるけど、その裏であんな若者らしい発音ができるんだもんなぁ。
いったいこの人はどれだけの日本語を聞き手に渡してきたのか。声優として、俳優として、歌手として、入野自由として。
齢28にして芸歴25年、その中で発し続けてきた数々の言葉が、彼ひとりの中に積み重なって層をなしてる。




え、入野自由マジすごくね?




しかも!!歌が!!普通に上手い!!!
彼は節のついた台詞すらも、綺麗なビブラートやファルセットを織り交ぜて客席に言葉として届けてくれるんですよ。



こんな役者がいるのだからはやく2010年代の若者を描けるドラマ脚本家が出てきてほしいし、入野自由さんにはそんなことにこだわらずに端正な日本語を話す脚本もそうでない脚本もたくさんやってほしい。



そして、2010年代のうちに今の若い役者さんたちに寄り添うような、彼らにとってのリアルな言葉を紡いでくれるようなドラマが見たいな、とふと思いました。