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舞台『セツアンの善人』感想(10/20)

舞台『セツアンの善人』10/20公演を観ました。

以下、途中までネタバレなしの感想です。




個人的に一年半ぶりの生木村達成さんのお芝居ということで、観劇が久しぶりすぎて双眼鏡を忘れました。
双眼鏡〜!!そんなものもあったね〜!!!
座席が結構後ろの方だったのですが、劇場のつくりのおかげか、舞台がすごく近く感じられました。双眼鏡がなくてもよく見えるし、人々の迫力がこちらになだれ込んでくる。
そんな劇場で観た『セツアンの善人』は、生の魅力に溢れていました。


なんといっても主演の葵わかなさん。
お人好しのシェン・テと冷酷なシュイ・タという一人二役を見事にこなしていました。
可愛らしくて、真面目で、ひたむきで、でもどこかスマートさを感じる。
こんなに大変そうな役なのに、がむしゃらさはなく、熱は存分に伝わってくるのに本人はどこまでも涼やか。
すごくきれいな人だと思いました。
歌とお話しの声が変わらず美しい。


葵わかなさんを舞台で拝見するのは3作目なのですが、彼女にはいつも驚かされてばかりです。
ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』では
「初舞台でこの仕上がり!?!?」
同じくミュージカルの『アナスタシア』(初演)では
「舞台2作目でもうこの域!?!?!?」
間が空いて7作目となる今作では、
「すっっっご!!!!!!!」
私はいつも木村達成さんに驚いているけど、葵わかなさんも相当ですね〜、、すごい。
いい意味でこの作品は、葵わかなさんを見るための作品だと思いました。彼女が輝けば輝くほど、人間の善性の脆さが際立つ。
あと、なんか、「この人は真ん中に立つべき人だ」という力学を感じます。


ぜひまたいつか木村さんとの共演が見られたら……できれば芝居の兵刃を交えるような役どころで……神様、いつかおふたりの『ダディ・ロング・レッグズ』が見たいです。
私は善人ではありませんがよろしくお願いします。




その木村達成さん。
「あーーーーーそれはメロってもしょうがない、しょうがないよシェン・テ、それはしょうがない。」
と言いたくなるイケメンクソ野郎でした。
しょうがなくない!!しょうがなくないぞ!!!
と思うんだけど、これはねーーー、しょうがない。どうしようもない人だ。わかってる。わかってるのにメロっちゃう。どうしようもないメロリン野郎でした。
作り話でよかった〜客席でロマンス詐欺に引っかかるところだった。
1年ぶりの舞台出演となる木村さんは、それはそれは活き活きとヤン・スンとして舞台に立っていました。
今日その姿を目の当たりにして、1年近くも推しが何やってるかわかんない状態が続くのめっちゃ泣きそうだったなって自覚しました。いや、やっぱり、浴びたいんですよ好きな俳優さんのお芝居は高頻度で……
また舞台に立ってくれて、ありがとうございます。
壊死していた心の筋肉が蘇りました。感謝しかない。



作品全体の印象は、「今、ここで観るのにぴったりなお芝居だったな」、と。
令和の今、世田谷パブリックシアターというこの場所で、このお話を。
ここまで観にきた甲斐がありました。
私は配信大大肯定派なのですが(昨年は『新ハムレット』と『スリル・ミー』どちらも劇場で観られず配信に救われました)、やっぱり劇場には劇場にしかないものがあるなと、ふと客席で天井を見上げた時に思いました。
この意匠が凝らされたこの劇場だからこそ、あの音がよく響く。
演出と場所、運命の組み合わせじゃん〜!!!!








以下、ネタバレありの感想です。


⚫︎ 劇場の天井
世田谷パブリックシアター、客席の天井に青空が描かれているのですね!!ふと見上げてびっくりしました。
なんて示唆的な場所なのー!!!!
ここでお芝居をやるって、なんだかとっても含蓄に富んでいる。
今回の作品では、上にこの空があることで飛行機のプロペラ音が引き立つこと引き立つこと。
本来想像させられるはずのものが具体的にそこにあって面白かったです。



⚫︎ 木村さんがヤン・スンを演じる意味

私はこちらのインタビューの白井さんのこちらのお言葉がものすごく嬉しくて……

そうなると、この作品の大事な役どころである飛行士のヤン・スン役は誰にお願いしようと思った時、過去に2作品一緒にやらせてもらっている木村くんの顔が浮かんできて。こういう役を彼がやってくれたら、きっと面白くなりそうだと思ったのです。


お顔が浮かんだだけでもすごいのに、「面白くなりそうだ」なんて!!!!!!
で、で、で、実際どうだっただろう!?という話なんですが。
ヤン・スンがクズであることは間違いなくて、
それなのに対峙したらすぐシェン・テがメロっちゃうこともめちゃくちゃ説得力のあるメロリン野郎であることも間違いなくて、
そのわりと普通にクズだなって思わせる手練手管と憎めない愛嬌みたいなのはやっぱさすがの木村さん、クズ役ばっかりやってるだけあるぜ!と思わせて冷静になるとそこまでクズ役多くないことに気づくくらいの上手さなんですが。


それとは別に「ああ〜、、、、これですこれ、これが観たくて木村さんの舞台通ってます」と思ったところが少なくとも2箇所あって。
ひとつはやっぱり雨の日のシーン、あの表情……………なんだろう、なんか聖母マリア像を彷彿とさせるなと思ったんですよね……
そこでそんな表情するんだ、って毎回思うけど今回も思った。
あのシーンで聖母マリアに準えるなら普通シェン・テでしょって感じなんですけど、あそこでヤン・スンがあの表情をしていることで、なんていうかもう彼に対して怒れないなみたいな気持ちが沸いて。
最初に弱みをギュッと握られてからのクズなので「でも、それでも!」みたいな気持ちになっちゃうんですよね〜〜〜
あの表情は幾通りも解釈があるであろうすごいフックだなーと思いました。


それともうひとつ。これは具体的にどのシーンとかではないんですが。
私はこの話を、利他主義シェン・テと利己主義シュイ・タのせめぎ合いの話の一面があるなあと受け取ったんですが(この話、他にもいろんな面があると思いますが)、
私も思い当たるところがあるなーと思いまして。
うちの子どもはスタバのバニラフラペチーノが大好きで、たまに買ってきてふたりでおいしいね、って飲んでいるんですが。
一方で今スタバといえば、不買運動を思い起こさないわけはなく。今ガザで起きていることから目を逸らしてぬくぬくと子どもとバニラフラペチーノを飲んでいていいのだろうか、と思うんですよね。
飛行機が飛んできて、地上の人たちは何かいいことないかと首を伸ばすだけ、みたいなことヤン・スンが言ってましたけど、この希望のかたまりみたいな飛行機も、神様も、上からやってきて、私たちはそんな青空を見上げて、
そんな青空から落ちてくる爆弾を目にした子どもがたくさんいるというのに、私はこうして親イスラエルといわれるスタバのバニラフラペチーノを自分の子どもに飲ませている、これって、倫理的、道徳的にどうなのよ?????
っていうようなことが多々あって。スタバに行くことに心を痛める、これはシェン・テ的感覚。私、ホロコーストって、人々が知らなかったから起きたのかと思ってたんです。でも今、私はこの空の下でジェノサイドが行われていることを知っていて、それでも何もしていない。何も。
でもでも、まずは自分の子どもとおいしいものをいただいてほっとする時間も大事だよね?と自分たちをまず愛そうとする、これはシュイ・タ的感覚。
私はなんでも『進撃の巨人』か『ハイキュー!!』に結びつけるんですけど、前者が「虐殺はダメだ」なハンジさん的で後者が「自由だ」なエレン的とも言える。進撃の巨人は実際アルミンが「良い人とは何か」に言及してますからね……
現実ではたぶん両者が自分の中にいることが多くて、どこまで他者を思いやったらいいのか、どこまで自分を大事にしていいのか、その線引きをどこにするかでその人がどちらかといえば利他的か、利己的か、とか決まるんだと思うんですけど。
でも、ここでもう一人の私が言うんです。
「そもそも子どもにバニラフラペチーノみたいな甘ったるいだけのもんあげたらあかん!!煮干しにしとき!!」
って。
これは誰かというと、なんですかね、「良き母」的なやつですかね。「良き母」が言うんですよ、「そんなもんばっか飲んでたら、虫歯になるで!!!」「鬼カロリーで栄養ゼロやで!!!」
ここで!本題に戻るんですけど、
木村さん演じるヤン・スンには、母親の存在を色濃く感じるんですよ。言ってみれば利母的。
木村さんはどちらかというと父親の影響を受けた人物像を演じることが多いなと思うんですけど、ヤン・スンはヤン夫人の存在がすごく大きい印象を受けて。
神とか法とか、何を規範として道徳的に生きるかは人によると思うんですけど、木村さんのヤン・スンはそれが母親になってるみたいだなって。
そう思うと、ヤン・スンがまた違って見えてくるというか。
評価軸を他者に奪われた者の苦しみみたいなものが浮き上がってくるんですよね。
自分で自分の思うように生きているつもりで、実はその行動を取らされている。カマキリとハリガネムシみたいな……


いっそシェン・テとシュイ・タのほうがよっぽど潔く見えたりもして。
七瀬なつみさん、私の中ではぽっかぽかの優しそうなお母さんのイメージだったので、こんなお受験ママのステレオタイプみたいなお母さんで全然イメージが違って驚きました。
なんか、こんなこと言うまでもないんですけど、舞台上に出てくる俳優さんがみんな当たり前に上手い作品、ありがたいですよね……みなさま本当にお芝居が上手い……当たり前に上手い……ハラハラとか、全然ない……
ヤン・スンはヤン夫人のトロフィーワイフならぬトロフィーチャイルドで、ヤン夫人を最後まで他者として切り分けることができていないように思うんですよね。


進撃の巨人でアルミンが「良い人」とは「自分にとって都合の良い人のこと」と定義してるんですが、それに則ればヤン・スンは「ヤン夫人の善人」として生きている。たぶん小さな頃からずっと母親に褒められたくて頑張ってきて、首を吊ろうとした雨の日、やっとその母親という規範から逃れられそうだったのに、結局もとの傘の下に戻ってしまった。ヤン・スンがシェン・テに対してはちゃんとクズで、でもシェン・テのことを愛しているから、ここの矢印がデカすぎてその陰でヤン夫人に対してどれだけ忠実に生きているかが見えにくくなっているのが面白いなあと思います。
別にお母さんを出さなくてもヤン・スンの人となりは成り立つんじゃないかなって途中まで思ってたんですけど、ヤン・スンのお母さんに対するちょっとした表情がね、、、、、、
木村さんのヤン・スンのクズさはお母さんの存在との合わせ技でできてるんだなと思いました。
木村さんのお芝居を見ていると、人は人との関係性の中に生きているんだなあということを改めて感じます。
「これこれ、この感覚ー!!」と思いました。「わー」って思いたくて木村さんのお芝居を追いかけている。



その他、感じたこと、考えたいことなど。



・結構最初の方で「西洋の神様とは違って複数いる」的なことを言っていた気がしたのですが、あ、西洋の神様モデルじゃないんだ、と思いました。セツアンは四川、というのはどこかで見ました。北京の名前も出てきてましたよね。アジアの宗教の感じなんですかね。


・作品を観ていて最初に連想したのは、「頂き女子りりちゃん」の事件でした。マニュアルで使われていたというギバーおぢ、テイカーおぢなどの用語も含めて。セツアンに降り立った3人の神様はテイカーおぢだなと。


・郵便飛行士
郵便飛行士であることを強調すればするほど、飛行機が戦争にも使われるものであることを思い起こさせる気がする。
郵便飛行士といえばサン=テグジュペリの『夜間飛行』を思い出しましたが、調べてみるとブレヒトと同時代を生きているんですね。『夜間飛行』が1931、『星の王子さま』が1943で『セツアンの善人』が書かれたのが1938-1940頃。二人ともアメリカに亡命しているのも同じだし、影響があったりするのか、ちょっと調べた感じでは出てこなかったけどもっと知りたいです。


オスカー・ワイルドの『幸福な王子』とか、それこそ同じ白井晃さん演出の『銀河鉄道の夜2020』を思い出したりしたんですが、究極の自己犠牲がいつ報われるかって、亡くなった後のような気がして。与える資産があるうちの善行は本当に尊いと思います。でも、シェン・テが自分を大事にしようとして「これ以上与えるのは無理です」と拒んでも「それでも善人であれ」と神様が言うのなら、そんなやつらはくそくらえだ、と私の今の価値観では思います。見返りを求めずに善人であり続けるのは、資産を持たざるものには難しい。その手にあるのは「自分の分」だからです。セツアンという貧困にあえぐ街で善人であり続けるということは、資産が底を尽きたら「自分の分」そして「自分」を切り売りするという究極の自己犠牲を強いられるということで、そこまですることを果たして「善人」という美しい言葉に包ませて良いのか、と疑問に思います。「ひとりでも善人がいればいいんだ」、いなかったら街を滅ぼすしかないんだっていうなら、それは前時代的な「生贄」と何が違うのか。
自己犠牲に生きるしかない者を「善人」という美しい言葉に包ませることができるのは、それだけの権力を持つ者です。
たとえば「絆」とか「家族愛」とか「公助」という言葉に変えてもいいかもしれません。
究極の自己犠牲に美しい別名を与えてそれを強いようとする3人の神様は、権力者の化身だと私は思いました。高いところでリズムに乗って歌い出す彼らの、無責任なことと言ったら。



・歴代ヤン・スン
大沢樹生さん→岡本健一さん→木村達成さん
その系譜、わかる……わかるぞ……


・シェン・テの物真似
ヤン・スンのツッコミ「誰だよw」が本当にそれすぎて笑ってしまった 葵さんの物真似キレがあって好き


・散乱するペットボトル
頭のパンクした私「使い捨て社会の残骸……」


・平成女児が見るシェン・テの衣装
衣装がどれも葵さんに似合っていてとっても可愛い。
これはわかってくれる人がおひとりくらいいると思うんですけど
安室奈美恵さんの結婚会見→SHAZNAMelty Love)→ウェディングピーチ
と思いました 思いましたけど調べたらウェディングピーチはそういう格好してなかった。



・厄日の歌
葵さんの歌っている歌もそうなんですけど、わかりやすく盛り上がるメロディラインにはなっていないので、この場所から、状態から抜け出したいのに抜け出せない、一生ここにこのままなのかもしれない、というセツアンの鬱積している感じが歌に表れているなあと思いました。歌っていてカタルシスがないというか、訴えかけるけれど何も解決しないみたいなメロディ。
やっぱり別人格を載せた木村さんの歌はいいなと。
顔を上げた時にゴーグルが落ちて、最後お母さんと出ていく時に拾って「あった」「あったー」って言ってたのあれいつもそうなんですかね可愛すぎないかずるいぞ


・工場の歌
ちょっと!!!!!!ヤン・スンが軽く踊り出した時めちゃくちゃときめいたんですけど!?!?!?
自分でもびっくりするくらい踊る木村さんにメロだった、
踊る木村さんももっと見たいです!!!!!!!!
またミュージカルに出て歌って踊ってください!!!!!!


・登場人物が観客に話しかけてくる
めっちゃわかるわーーー
私もみんなに主張したい、問い掛けたい
ちょっと聞いてくださいよってやりたい


・音楽がかっこいい
音楽がかっこいい!!好きです。
演奏者の皆さんがカプセルの中にいるのも好き。


・舞台装置好き
やっぱりこういう動きのあるセットだと見ていて楽しいですよね
そのユニット感にカプセルホテルとかコインランドリーを連想しました。なんだろ、雑多な人や物が合理性だけで無機質に詰め込まれている感じ。


・ヤン・スン、髪型のバリエーション豊か
長髪男性ヘアカタログみたいでかっこよかったです
衣装もいっぱいあってかっこよかったーーー
インナーがしましまのやつ好き


・最後の台詞
「いい結末を。いい結末を。いい結末を。」
なぜ「よい結末を」じゃないのか?
話し言葉だから?「よい」だと書き言葉すぎる?
または「よい」だと「良い」ではなく「善い」にもとらえられてしまうから?

ドイツ語版Wikipediaにそれらしき箇所(読めないからわかんないけど)の原文がありました。

Sie selber dächten auf der Stelle nach
Auf welche Weis dem guten Menschen man
Zu einem guten Ende helfen kann.
Verehrtes Publikum, los, such dir selbst den Schluss!
Es muss ein guter da sein, muss, muss, muss!


「guten Ende」だから「よい結末」でも「いい結末」でもいいんだろうけど、「いい」のくだけ感がなんとなく気になる。原文は「muss」(英語のmust的な)の繰り返しになっているから、直訳したら「しなければならない、しなければならない、しなければならない!」となる模様。
「いい結末を」の言葉選びは色々試して厳選した結果だろうと思うので、なぜ「いい」の方になったのか気になる。また見ながら考えたいです。



久々にいっぱい考えたいことだらけで楽しかったです。これこれー!!木村さんの作品を観劇する時の楽しさこれこれーー!!!!
今回は予習なしで観たので、次観るまでに原作とパンフレットを読めたらまた全然違って見えるかなと思います。戯曲が出版されているの本当にありがたいー!!!楽しみです。



この感想を書いている間に大河ドラマで推しが即位した気配を察知しました。
結局あまりにも情緒の変動が激しくなることが予想されたのでドラマのほうはまだ見てません。
供給が太鼓の達人の「おに」くらいいきなり怒涛でくるの嫌いじゃないです、
木村さん、これからもたくさんお芝居して、歌って踊ってください!!!!