すみません、無惨な記憶力により、レポなどはできません……
特に印象に残ったところ(全部印象的だったのですが…!!!)についていくつか書きます。
なんかこう、ふんわり、こんな感じのこと、言ってたかな〜くらいで、話半分、あまり信用しないでください。
演出の稲葉賀恵さん、出役の木村達成さん、敬二役の酒井大成さんのアフタートーク。
司会は女性の方で、お名前を名乗ってくださっていたのですが失念してしまいました。プロデューサーさんなどのスタッフ関係の方ではなく、そのご発声からアナウンサーや司会業の方かと思います。
⚫︎ この作品の魅力はどこですか?という質問で
木村さん「1969年当時は、出が突拍子もないことをした時に、お客さんが笑えていたんじゃないかという気がするんです。でも今はそうじゃない。稲葉さんの演出がそういうセンシティブなところを駆け巡っている。演出によって魅力が1にも10にもなる」
ああああそうだそうだった、プロデューサーズとかSLAPSTICKSを観た時にも強く感じたこと、
「当時は笑えてただろう冗談が今は笑えない」
そのことを私は今回観ていてほとんど感じませんでした。
たぶん、「面白いでしょ?」という形で提示されていないから。丁寧に丁寧に、ガラス瓶に紙粘土をくっつけてペン立てを作るみたいにひとつひとつ「面白いでしょ?」から今にふさわしい別の意味に付け替えられていたのだと思います。
「稲葉さんの演出がそういうセンシティブなところを駆け巡っている」ってそういうことだろうか、、、と思いました。
「当時は、出が突拍子もないことをした時に、お客さんが笑えていたかもしれない」ということに思いが至る木村さんだからこそ俳優として信頼できるんだよな〜〜〜とその想いを噛み締めました。
一方で、「自分のおっぱい触ると照明がピンクになる」は残ってたの、その稲葉さんのバランス感覚が面白い。
「堀部圭亮が自分のおっぱい触ると照明がピンクになる」が令和の今面白いのか面白くないのか、多大なる議論の余地がございましょう。すみません、私はニヤって笑っちゃいました。でも普通に不快感もあったな。それは作品全体的にそうで、でもその「不快感」は別に駆逐されるべきものだとは思いませんでしたね、、、現実を映しているからこその
「そこにある不快感」だからですね。たぶん。私たちは「きれいなジャイアン」が見たくて演劇を観に行っているわけではないんですよね。
⚫︎今回の演出で注力した点はどこかというような質問で
稲葉さん「言葉がものすごく時代を纏っている、それを現代に移す作業を緻密にやりました」
私はこれ(物語の強い時代性)もそんなに感じなくて(稲葉さんの演出が隅々まで行き渡っている証拠だと思います)、耳に残ったのはさっきの感想に書いた「アッピール自殺」と「警棒で殴られて狂った」というところ、あとは「電話交換手」「トルコ風呂」「猫いらず」とかかな、、、確かに扱っている具体的事象は昔の話なんだけど、令和の今の物語としても普通に観られる、、、というか、「え!?今じゃん!!今こそじゃん!!!!」というリンクが多かったなーと。
私は今回、堀部圭亮さんの演じる善一郎のバックボーンが一番時代を反映しているように思ったんですが、戦争観とか道徳教育の是非とかが身体に絡みついている人の苦しみを堀部圭亮さんがエッジをきかせて、泥臭く飄々と体現しながら水道橋で寝っ転がっている、その令和のこの瞬間、現実では自民党の新総裁が教育勅語を称賛して私たちを震え上がらせたり、現総理が「戦後80年所感」を発表して「ここまで」の日本の総括のひとつを提示したりしていて、「今じゃん!!ここじゃん!!ターニングポイントじゃん!!」と興奮せずにはいられなかったですね、、、そんで一部の男性はどうしていつの時代もストレスが溜まったら痴漢するんですか。そこ56年経っても変わらないって一番変わってて欲しいところだよ。よ、、、
それに加えて、今、「家族」というコミュニティの最小単位が「ケア」というキーワードで再捕捉されているのを感じていて、「ヤングケアラー」という言葉が「子どもにケアをさせてはいけない」との観点とともに広まっていることがその最たる発露かなと思っているのですが、
この作品の「家族」は「出のケア」というただ一点において強烈に結束を高めていて、その辺なんかかなり今の家族の在り方の問題提起になってない!?みたいな。「(出は)入院してもダメだった」みたいな話も出てきたけど、つい最近、強度行動障害の人を精神科病院の入院の対象外とする話が流れてきたばかりじゃないですか。
入院できなかったらどうする?家族で見るしかないの??訪問看護だけでどうにかなるの??無理でしょ???
そんな今の社会の不安を見越したような作劇じゃないか、と。
昔の戯曲の言葉や設定が今上演することで新たな意味を持つ、持たせる、というのが偶然のリンクも含めて再演の醍醐味なんだなと改めて思いました。
この家族が本物の家族なのか偽物の家族なのか常にぐらぐらとあっちに行ったりこっちに行ったりしているその状態も、令和の今Sora2の作った映像を見ている感覚に近くて。
オードリー・タン氏がこう言っていました。
「ソラ2では、何が合成で何が本物かを見分ける方法がなくなりました。私たちはもはやコンテンツを信じることはできない時代にいるのです。では、信じられるのは何か。人と人との関係、行為者とそのふるまいだけです」
(プレゼント機能により10月14日 14:48まで無料で読めます)
「いや、マジでこれですやん」とこの作品を観ながら思っていて。「この家族が本当のところ本物か偽物か」を見分ける術を観客の私たちは持ち合わせていないわけです。
「では、信じられるのは何か。人と人との関係、行為者とそのふるまいだけです」
出と善一郎、出とはな、出と愛子、出と敬二、
彼らの関係と互いに対する振る舞い、それだけがこの物語を決定するというのです。つまり、実際に家族か(あるいは娼家か)どうかは関係なく、彼らが家族らしい(あるいは娼家らしい)振る舞いをしていることが大事だと。「偽物の家族が、本物の家族より強い絆を持つことがある」という言説はSPY×FAMILYに代表されるような擬似家族もののフィクションでも、ドキュメンタリーでも近年多く見かける気がします。本質がどこに宿るか、常に見極めなくてはいけない令和の観客(私)にとってある意味「見慣れた」、親しみやすい設定だったのかもしれません。
⚫︎ 清水邦夫さんとはどんな方だと思われましたか?というような質問で
稲葉さん「清水さんイコール出なんだと思うんですよね、知識や知性に自信はあるが、男らしさ、マッチョイズムに対するコンプレックスがある、脚本から二律背反がものすごく透けて見える」
さっきの感想にも書いたんですけど、このコンプレックスに私は演劇の香りを強く感じるんですが、木村達成さんがそういったコンプレックスに気持ちを寄せる、それがものすごく面白いなあと思っていて、、、こんな、容姿も素敵で歌もうまくて多少オラオラしても生活に困らなそうな(私の一方的なイメージです)人が、それこそ『新ハムレット』の太宰治や今回の清水邦夫の紡ぐ、コンプレックスでねじくれたような言葉や物語にある種の共感を覚えてそれを演じることを選んでいるというのが、本当に不思議で、わからなくて、面白いなあと思います。
だってこの戯曲、普通に読んで「面白い!」ってなる!?って思うんですよ、令和の「面白い」ってもっとエンタメに寄っているというか、もっと楽しくハッピーで面白い物語なんていくらでもあるのでは!?!?と思うんですよね。
でも木村達成さんという人は一年に一度立つ舞台としてこの作品を選んでしまうんですよ、めちゃくちゃすごい、こんな苦しみしかなさそうな戯曲に自ら足を踏み入れるもととなる好奇心のような何かって、それこそ私が惹かれているものなのかもしれない。
令和の今こそじゃん!!と思う一方で、
でも、「その戯曲に設定された時代に対する切実さ」はやはり薄まらざるをえないよなあとも思っていて。
2011年から5年後に作られた『シン・ゴジラ』で誰が何を言わなくとも「ゴジラ」が震災の暗喩であることが観客にはっきりと伝わったように、
1945年から24年後に作られたこの作品、安保闘争真っ只中で作られたこの作品を観て、観客が「わかる」と感じたことは今の私たちよりもものすごく大きかったんだろうな、、、、、とは思う、それは羨ましい、だから新作も作られていかなくてはいけないんだな、と思いました。
古い戯曲も新しい戯曲も、「今」上演されて初めて持つ意味がある、それはやはり観客が持ち帰るものがすべてなんだろうなあと。
私、本当に本を読まなくなって、今回も『ケアの物語』とか『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』とか読めていたらもっと解像度高く観られたんじゃないかと思うんですけど、
そんな知識の辺境地にいるからこそ、マジでほぼ木村達成さんの出る作品だけが自分と現代とを繋ぐ唯一の架け橋みたいになってるんですよね。ほんとそれどうかと思うんですけど、
「木村達成さん、あざーす!!!!!!!」
って感じですね、、、、私を現代に繋ぎ止めてくれてありがとうございます。
⚫︎ 酒井大成さんが木村さんについて喋ろうとして
酒井さん「木村さんが……」
木村さん「木村さん?(圧)」
酒井さん「たつにいが……」
たつにい(達兄)!!!!!
ラジオで決まった呼び名のようです。
酒井さん、「公演が始まってこれで2日目、3公演」を混同してしまって一生「3日間」って言ってたのすごい可愛かったです。
⚫︎ 酒井大成さんについて
木村さん「実はこの作品の前に映像作品で共演していて、この作品に出るって決まった時に、彼が右も左も分からない状態にならないように、自分がやれることはやろうと思いました」
稲葉さん「酒井さん、木村さんがいてほんっっっっとに助かったと思いますよ!!!!」
酒井さん「いやもうほんとに、、、ほんとに」
酒井大成さん演じる敬二は、わたしは陰の主役であると感じていて、いや、だって、自分だけいない時に家族が心中するって本当に無理じゃないですか。
「自分にだけは生きてて欲しかった?」「長男と長女は一緒に連れて行きたかった?」そんなの、どっちが本当の愛情なのか一生考え続けることしかできない。答えなんか一生出ないことがわかっていてそんな渦の中にひとり放り込まれるなんて無理すぎる。
そして、最後長男と長女が飛び降りた後も敬二はずっ……とそこに座っているの、やっぱり無理じゃないですか。
飛び降りた長男と長女、
寝っ転がる父と母、
その間に座る自分。
無理すぎる。
彼は「自分も狂ってしまえば楽になれるのに」とわかっているのに真面目に努力して、うつで病気休職する人の仕事が全部降りかかってくる「正気の人」だと思いました。
酒井大成さんは27歳でいらっしゃるとのことですが、声がお若くて若者としてのリアリティがあって、「正気の人」の生きる地獄を見事に体現していたように思えました。
狂人が楽だとは言わない、でも、そのケアを任される正気の人が報われないならこの社会はおかしい。
おかしい、、、
⚫︎ 木村達成さんの印象について
稲葉さん「すっごいクレバーな人なんですよ、なのに時々小学生!?みたいな、、、(ラジオでは)中学生って言ってたんですけど小学生みたいになることがあって、『おっ、どうした、中二病か!?』みたいな」
会場の一部の雰囲気が「めっちゃわかる〜」みたいになってたの面白かったです。
稲葉さんはすごく木村さんのことを褒めてくださっていて、全部記憶したかったのに全然覚えていられなかったんですけど「頼りになった」「いいスクラムが組めた」とおっしゃっていたのが印象的でした。
いいスクラムが組めた、、、、めちゃくちゃ嬉しい言葉だなって。私は無関係者ですが。
⚫︎ 最後に一言
木村さん「私事ですが、昨日デビュー13周年だったらしく……この作品に没頭しすぎて気が付かなかったんですが、しかもすぐ裏の名前変わっちゃったんですけど東京ドームシティーホールでデビューしてて。感慨深いものがあります」
「あと6日間、さらにブラッシュアップされていくと思うので、もしお時間がありましたら、ぜひ見届けてください」
今回の二つの感想にお名前を出せていない伊勢志摩さん、橘花梨さんにも思ったことはめちゃくちゃいっぱいあって。「女たち」という括りで私は彼女たちを観ていて、偉大なるママかあ、と、、、
次回観劇の感想に書けるくらい考えがそれなりに形になればいいなと思います。
あと、どのシーンだったか忘れてしまったんですが、木村さんの縋り付くようなか細い声が耳から離れなくて。(その割には台詞とか覚えてないんですが)
木村さんからは、新しい作品のたびにいつも聞いたことのない声が出てくる。
木村さんは文学の香りがするけど、文学は文字だけど、でも彼が文字で書かれた言葉で空気を振るわせる時の「空間を分かつような声」はやはり演劇をやる者としての大きな強みだと、一人頷いて、帰路につきました。