王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

曝け出されたものの行方 -舞台『新ハムレット ~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~』(配信)感想

あまり校舎が静かなので、はてな? と思って事務所へ行ったら、ここにも人の気配が無い。ハッと気附いた。きょうは靖国神社の大祭で学校は休みなのだ。孤立派の失敗である。きょうが休みだと知っていたら、ゆうべだって、もっと楽しかったであろうに。馬鹿馬鹿しい。

『正義と微笑』太宰 治著


 

この一節を読んだ時、「これは私だ」、と思った。
全体を読めば全くそんなことはないのだけど、ところどころ猛烈に共感してしまう描写があり、戦前戦中にこのような(今で言うなら「陰キャな」だろうか?)感覚を持っている人がいたことに新鮮な驚きを覚えたのだった。


太宰治


その作品を読み進めるうちに、その暗さはユーモアと表裏一体だと感じるようになった。




太宰治の作品を全部読んだことがあるわけではないけれど、いくつか読んでみた感じでは、結構、好きだ。
好きな作家を告白するのは恥ずかしい。
ましてどこに共感を覚えたのかなんて語った日には、心を曝け出したような気分になる。
自分がどんな人間なのか見透かされているような心持ちがする。
だけどこの作品を語る上で、これは結構重要なことだという気がするのだ。
好きだ。好きだ好きだ好きだ好きだ。



私は、太宰治の作品が、好きだ。


























そんな!!!!太宰治の作品に!!!!!
好きな役者さんが出ると知ったら!!!!!
観るしかなくない!??!!!!??



というのが情報解禁時の私。
そこからさらに、ラジオでの「僕のことが書かれてる。」という木村達成さんの発言を聞いて、




家庭の事情ぶっちぎっても観るしかなくない!!?!!!!?!????!!



となりました。
本を読んでいて「これは自分だ」って感じることって、なかなか稀有な読書体験だと思っているので、木村さんがそう感じた作品なんて絶対観てみたいと思ったんです。木村達成さんってどんな人なんだろうって、応援していていっつも思っているので。




ですが、結果、ちょっと日常で色々あり、観れなかったのです………………




〜終〜

























そこに朗報が!!!!


配信ありがとうございます!!!!!!!
観ました!!!!!!!


オタクの命がつながれた…………


いやほんっとに観られて良かった……………
上手い人しかいない………原作を読んだ時「太宰の延々と続く独り言」のように感じられた長台詞が長くない……………否、長いのにその長さを感じさせない役者の皆さんの巧さ…………素晴らしい………装置、衣装、照明、小道具、観ていて違和感がない……スマホとか出てきただけで拒否反応出そうなのにスッと受け入れられるのすごすぎる…………ハムレットスマホではしがき読んでるだけで「太宰の新ハムレットを紙じゃなくて電子で読む人」って定義されて衣装とあわせてもう「こんな感じの人」ってわかるのすごいよね……デンマークって言ってるのにあの衣装で違和感ないのほんとすごい、「狙いすぎ」って感じてもおかしくないのに全然思わなかった。衣装って象徴なんだなあ。


松下由樹さん、オフヰリヤとのシーンの情動的なお芝居によって唐突になりそうなあの結末に納得感を持たせてるのすごいし、池田成志さんの舞台上の空気を支配する道化師っぷりもすごいし、平田満さんの言葉の裏に影をつくる明るい台詞回しもすごい、大人組の皆様がすごければ若者組の皆様もすごくて、駒井健介さんの最後のシーンで担った印象的な「表象」、加藤諒さんの本から抜け出したかのような具象化、島崎遥香さんの思いもかけないオフヰリヤの闊達さ、そして木村達成さんのハムレットの「それな」感。すごい、すごいしかない。カーテンコールの時の「えっ7人しかいなかったんだ!?」っていう感じもすごい。



あとやっぱりすごく好きだったのは太宰治のユーモアがそのまま現代の笑いとして目の前に現れてくれたこと。これはさすがに現代人が入れたでしょと思えるプロレスシーン(原作では「組打ち」)ですら台詞は原作ほぼそのまんまっていうのとか最高だなと思いました。
この作品のコメディ要素が浮かなかったことで太宰治が浮かばれたのではないかと思うほどでした。


逆に原作と違うところで、ハムレットが亡霊を見た時にいう台詞は大元のハムレットからの引用だと思うんですけど、あれが聞けたことで本物のハムレット役を演じる木村達成さんも観てみたいな…!!!!!と思えたのも最高でした。
亡霊といえば亡霊役のところ木村さんが喋ってるって一瞬気が付かなかったなー!!
ラップも良かった!!!!!言われてみればあの太宰の感じはラップだよなあと本気で思った。なにげに「尊敬されたい」って原作のハムレットは一度も言ってないんだけどリリックとして出てきたのがすごいなと……なんか合ってる気がするから………


個人的にすごく好きだったのはハムレットがオフヰリヤを覗き込む仕草です。木村さんが好きな子と目線を合わせようとする仕草は必殺妙技なのでそろそろ名前がついてもいい。何度かやってたけど最後の「議論はこの次にまたゆっくりしよう」のところ、ぱるるの嬉しそうな表情もあいまって「ああ二人は愛を語らいあっていたんだな」と微笑ましい気持ちになりました。これは原作からは読み取れなかったので嬉しい驚き。言われてみればそれはそうだなと。




演出の話をすると、赤い円形がどれだけ象徴的であるかをいやというほど思い知らされました。
原作と同じ1941年に書かれた『十二月八日』を読むと、太宰がこの作品を書いた時に戦争に果たして批判的であったのかどうか考える足掛かりになって興味深いのと、あわせて1947年に書かれた『猿面冠者』あとがきを読むと、太宰自身は実は新ハムレットを書いていたその当時にはクローヂヤスについてそこまで性悪とは考えていなかったのではないか……と勘繰ってしまったりもして、時間が流れたからこそ、あの戦争を経たからこそ、太宰の中でクローヂヤスという人物が「近代悪」たり得たのではないかと思いました。太宰の中の「近代悪」と今回舞台上にあらわれたクローヂヤス&対峙するハムレット、そのシンクロが必然であれ偶然であれ、興味深く、面白い。
最後、音楽がぶつ切りになって木村さんの足だけが動いていたの、暗闇の中に印象が散乱して良かったです。「あとはあなたの考えにお任せします」はよくあるんだけど、印象が散乱したおかげで感想はいくつもあるはずであるということを全肯定されたような気になりました。




それにしても、この作品の台本を読んで「僕のことが書かれてる。」とおっしゃっていた木村達成さんは、毎日どんな気持ちでこの舞台に立っていたのでしょう。
勇気のような何かしらを飲み込んで、毎日心を曝け出していたのでしょうか。
嘘や謎のような盾なく立つのって、どんなに怖いことでしょう。役者ってすごいなあ。


実際のところはわかりませんが、今回もまた、舞台の上でその姿を見せてくれてありがとうございますという気持ちでいっぱいです。



そしてこれ、この台詞たち、当たり前だけどほとんど全部太宰が書いてるんだよなあ。太宰ってこんなこと考えてるのかなとか思われながら読まれたり舞台化されたり観られたりするのってどんな気持ちなんだろう。さっき「どんなに怖いことでしょう」って書いたけど、役者も、作家も、怖いだけならきっとやってないですよね。何かあるんだろうなと思うし、あってほしいし、私はそれを応援したいし、観客や読者の一人としてまっすぐに受け止めなくてはと思いました。そこは、本題ではないのだけれど。











いやー本当に面白かったなー!!!!
木村達成さん次はスリル・ミーに出るんですって?
いや大激戦な上に行けそうな日程が少なすぎたせいで全戦全敗したんですけどね……どうしよう……配信とかないのかな…………え……無理…………
いや、だって木村達成(さん)と前田公輝(さん)がスリルミーやってるのに正気でいられるわけなくない!!??!?!??!
推しは推せる時に推せというけれど、推せない時が来たオタク、人間として正気を保つのが難しくなりましたね…………これからもしばらく低浮上になりますがまた機会がありましたら何卒よろしくお願いいたします……!!!(ここまで読んでくださってありがとうございます…!!)
スリルミー、絶対やばいって!!!!!!!(みんな知ってる)





推しがオバさんになっても -ミュージカル『マチルダ』感想(4/2)

 
 
 

推しが〜オバさんに〜な〜っても ♪
渋〜谷についてくの ♪

















疲れている。


本当にもう毎日頭がまわらず、ずっと「アレ、アレなんだっけ、アレ」と思って過ごしている。


明日の持ち物なんだっけ?
昨日の夕飯なんだっけ?
あの人のお名前なんだっけ?
ああこの気持ちは 、───なんだっけ?


もはや前後不覚である。


ところがそんな毎日の中で、私は劇的な再会を果たしたのだった。
ラジオから流れてきた、『私がオバさんになっても』。森高千里である。


いま「森高千里である。」と言ったが、実際には「アレ、ほら、あのひとよ、アレ」、と悩んだ末に出てきた名前である。とにかく名前が出てこない。オバさんだ。私はオバさんになった。『私がオバさんになっても』にオバさんになって再会した。私がオバさんになって『私がオバさんになっても』に再会して森高千里の名前が出てこないことで「私がオバさんになった」ことを実感した。


話を元に戻そう。



私は最近ラジオで『私がオバさんになっても』を聞いて雷に打たれた気分になった。
なので感想を書きたいと思った。
が、8時間寝ても取れない疲労のせいでまったく語彙力がない。
回復するまで待つか、と思った。
が、一向に回復する気配がない。
歳をとると疲労が回復しない。
私はオバさんになったので(正しくは体力のないオバさんになったので)『私がオバさんになっても』の感想を書けない。


でも書きたい。
これは私に残された唯一の趣味だ。
これを失ったら、私はただの疲労のかたまりになってしまう。愛のかたまり(KinKi Kids)や米のかたまり(おにぎり)ならいいが疲労のかたまりはなんの()もなくて情けない。


でも、でも…………もう寝たい




かくして私は疲労のかたまりとなった。


それが4月1日までの私。




4月2日、私はミュージカル『マチルダ』を観に行った。




推しがオバさんになっていた。







〜これは『マチルダ』トリプルキャストのお一人である木村達成さんのミス・トランチブル校長と、森高千里さんの『私がオバさんになっても』の感想が錯綜する記事です〜

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『木村達成 10周年コンサート -Alphabet Knee Attack-』感想

木村達成 10周年コンサート -Alphabet Knee Attack-』(ニーアタ)のWOWOW配信を見ながら好き勝手に書きます。すべて個人の感想です。




木村達成 10周年コンサート -Alphabet Knee Attack-

配信で2年間も見られるなんてありがたすぎますありがとうございます。

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『進撃の巨人 -the Musical-』配信感想とハンジさんのこと

配信で『進撃の巨人 -the Musical-』を観ました。
私は幹部組が大好きなのですが……最高でした……


このブログは木村達成さんとハイキューの記事がほとんどなのですが、そもそもが
進撃アニメ1期を見る→幹部組にハマる→リヴァイ役の神谷さんが出るのでハイキューアニメ1期を見る→あるタイミングでハイキュー原作とアニメにどハマりする→ハイキュー舞台も見る→影山役の木村達成さんの沼に突っ込む
という流れなので、進撃がこのブログの生みの親であると言っても過言ではないんですよね……(?)





以下、ネタバレありの感想です。

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ニーアタ感想

木村達成 10周年コンサート -Alphabet Knee Attack-』の2日目の公演を観てきました。



何かを見て「何も語ることがない」と思ったのは初めてかもしれません。
いつも何かしら思いが溢れてくるのに、今日は空っぽです。



忘れたくない、書き残しておきたいという思いだけが先行して感想を書き始めたのですが、本気で言葉にならないので、
かろうじて言語化された部分だけ書いておきます。
歌唱楽曲のネタバレがあります。



あとで振り返って、この言葉にならなさをリアルに思い出すんだろうなあ。




  • バンザイ ~好きでよかった~

「イェーイ 君を好きでよかった」
それこっちの台詞…!!!!!


勝手にしやがれ大好き委員会のわたくしにとりましてはマイクスタンドが出てきた時点で優勝です


柿澤さんは宇宙刑事ギャバンを熱唱するタイプの方だということがわかりました(大好きです)


  • カブトムシ

そんなキャラメルボイス聴いたことないしそんなジャジーで柔らかい歌い方も出来るって知らなかったし


  • 最後のダンス

(なんか昔どっかの科学館か何かに行ったとき触るとめちゃくちゃ熱くてめちゃくちゃ冷たく感じられるっていう熱くて冷たい謎の物体があってそれが「あつめたい」って展示名で「ウマイな~」って子供心に思ったんですけど)木村さんのトートはまさにその「あつめたい」だった


  • 明日への階段

人を導くような希望の言葉がこんなに似合うって知らなかった 木村さんのすべての特性がこの歌に合ってた


  • ありのままの私

私には決意表明に聞こえました






なんでいちいちフォントでかくすんのって感じなんですけどフォントでも大きくしてないとさみしくって………………
終わってしまった………ニーアタ………………
発表されてから長かったから、結構長期間それを楽しみに日々頑張ってた気がするんですよね……………
フォントでもいじってないとさみしくって……




でも来年からはラジオもあるし!!
チルダもあるし!!
自分の人生もあるし!!


……自分の人生もちゃんとしないと、とあらためて思わせてくれるコンサートでした。



「これから先(も)、自分はこう生きるよ」というのを2時間かけて見せてもらった気がして。



これ以上は、語った先からぽろぽろとこぼれ落ちてしまう感じがするので、一旦自分の中にしまっておきます。




最高の時間だったなあ………楽しかったあー…………




さみしい!!!!




───────

2日目セトリメモ


バンザイ ~好きでよかった~/ウルフルズ
サウダージポルノグラフィティ

君は天然色大瀧詠一
ギザギザハートの子守唄チェッカーズ
勝手にしやがれ沢田研二

宇宙刑事ギャバン(柿澤さんソロ)

カブトムシ/aiko
ドライフラワー/優里
白い恋人達桑田佳祐

デスノート(柿澤さんソロ)/デスノート

映画みたいに/四月は君の嘘
最後のダンス/エリザベート
明日への階段/ルドルフ・ザ・ラストキス
Go The Distance/ヘラクレス
出来るさ!(川久保さん、木村さん)/プロデューサーズ

世界の王(柿澤さん、木村さん、川久保さん)/ロミオ&ジュリエット

ありのままの私/ラ・カージュ・オ・フォール

15の夜/尾崎豊


──────


川久保さんの誠実なMCと木村さんの穏やかな曲紹介も好きだったな……。


木村さん、加藤さん、柿澤さん、川久保さん、関係者の皆々様、楽しい時間を本当にありがとうございました……と言わずにはいられない………
そしてWOWOWさん、放送ありがとうございます…………


木村さん、美味しいハイボールを飲んでください…

舞台『管理人/THE CARETAKER』感想

舞台『管理人/THE CARETAKER』を観ました。






今回も、観られて本当に良かったです…!!!!!!!!!!
びっくりマークをいくつつけても足りません。



私、イッセー尾形さんのお芝居をいつか生で観てみたいと思っていたんです。(すごかったです…!!!)
あと入野自由さんの人物設定ごとの日本語の発音の的確さにいつも驚かされるのと、(今回も感動しました…!!!)
実は(実は)木村達成さんのお芝居と声と言葉の発し方が大好きなんです。(大好きなんです…!!!)









いや、


その御三方が誰かしらずっと喋ってる100分間てやばない!?!!!????!!?



観劇中ずっっっっっっと幸せでした……………
好きなドラマのサントラ聴いてるみたいだった……
何がきてもずっと好きっていう……………
しかも木村さんのこの地声っぽい(いやわからないですが、私が勝手にそう感じただけです)声のトーン結構珍しいのでは!!?!?しかもこんな長台詞…………!!!!!!!全員声が良い!滑舌が良い!!!お芝居が素敵!!!!!!!!!
どうしよう「好きな役者さんが代わる代わる喋ってるのをずっと聴いている権利」を使ってしまった……一生に一度あるかないかでしょこんなの…………使い果たした感あるわ…………
でも本望です、好きなお芝居だったので。
作品を受け止められた自信はありませんが、作品の懐に飛び込んで観られた気がしています。
面白かった。だからこそもっと観たかったです。




以下、ネタバレありの感想です。
すみません、役者さんについての感想はあまりありません。「好き」で感想が振り切れてしまった。




見ていて驚いたのは、不条理劇といっても劇自体が不条理なわけではないんだ!?!?というところです。私の不条理劇のイメージ、昔読んだ某戯曲で止まってしまっていて、それはほんとに作品自体が不条理というか、会話や言葉やシチュエーションが一般常識で理解できる範疇になかったのですよね…なので今回も「とりあえず意味は何もわからないんだろうな!!」という意気込みで臨んでしまったので、見ていて「(言葉の意味が)わかる………わかるぞ…………!!!」という、勉強なんて何もしてないのに進研ゼミみたいな状態になってしまっていて逆に面食らいました。
会話があんまり成り立ってないな、とは感じましたが、言ってることの意味はわかるので、「これくらいの食い違いなら現実でも意外とあるよね……」という気持ちでした。インテリアコーディネーター(でしたっけ)って言ったと思い込んで怒られるとか、そういう理不尽、あるよね………社会人……理不尽…………


中でも一番驚いたのが、アストンの独白のところで。登場人物同士の対話がうまく成立しない理由が作品の中で明かされる、というところに不条理どころか親切を感じました。(私が読んだ不条理劇が不条理すぎたのか…?わかりませんが…)
つまりこれは劇自体が不条理なのではなくて、この劇が人間や社会の不条理を描いているのだな………とここでようやく思い至りました。
とはいえ、何かものすごく劇的なことが起きるわけでもなく終わることとか、彼らの間のディスコミュニケーションといった普通の劇ではあまりなさそうな点はやはりあるわけで、しかしそれゆえに、観客側が「会話や言葉をどうにでも繋げられる」「いかようにも意味を持たせられる」という、作品の懐の深さを感じました。どのような解釈にも耐えうる強度というか……だから、私がどのように身勝手に解釈しても大丈夫だなと…そこがすごく面白くて。作品の懐に飛び込んで感想を書こうと思いました。




この作品を観ている間、私の頭の中は「好き」という言葉と「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」という言葉で二極化していました。
前者は説明するまでもなく御三方が好きですという意味で、後者はTHE BLUE HEARTS『TRAIN-TRAIN』の歌詞です。
私は、最初この話は権力と差別の話だと思ったのです。声の心地よさの反面、彼らの差別的な言葉が耳についたので。


デーヴィスはすぐ人種差別的な発言をするし、ミックはデーヴィスを罵り臭いと言う、デーヴィスに手のひらを返されたアストンもまた彼に「臭いんだよ」と言い放つ。


私がこの作品で第一に突きつけられたのは、差別される痛みを知るはずの人もまた誰かを差別し、見下すという、純然たるこの世の不条理でした。




ここで個人的に気になったのが、「この作品でデーヴィスはどの程度の差別主義者として描かれているのか?」ということです。
令和を生きる私の個人的な感覚だとデーヴィスの発言は「あり得ない」と感じましたが、「でも、年配の方なら全然いるよな、こういう人」とも思いました。だからこそこの作品に古臭さを感じないのだろうな、とも。それにはシチュエーションも大きな役割を果たしているような気がしていて、これが周りに人のいるカフェとかだったなら、「いくらなんでも今なら公共の場でここまで堂々と差別的発言をする人はいないだろうな」と思えた気がするんですが、ここは密室。家の中でなら、これくらい言う人、まだいるような気がしてしまいました。職場で研修があって建前は理解していても、内輪の場になると「とはいえ…」という人、結構いるような気がします。もちろん私も例外とは言えないと思います。まだそんな時代だからこそ、この物語は古典にはなっていない、と感じました。


ちなみにこの作品の初演は今から62年前の1960年だそうで、(この作品が生まれたイギリスではなくアメリカの話になってしまいますが)モンゴメリー・バス・ボイコット事件 が1955年、マーティン・ルーサー・キング牧師が「I Have a Dream」の演説をしたのが1963年だ、と考えると………デーヴィスが倫理観の面で「かなり差別的な人間」として描かれたのか、それとも「一般的な高齢男性」として描かれたのかはよくわからないなあ、と思います。後者なのかも、とも思いましたが、今回は令和の日本で上演されているわけなので、そのまま私の感覚で、両者の中間くらいとして受け取りました。
なお、こちらの記事(BBC NEWS JAPAN「あなたが、そしてイギリス人も知らないかもしれないイギリスの黒人の歴史」)によれば当時は人種を理由にした差別は違法ではなかったとのことです。そうだよなあ……当時アメリカ以外はどうだったのかとか、あまり考えたことがなかった……。



もう一つ気になったのはアストンが精神病院で受けたという処置のこと。観ていた時はロボトミーのことかと思いましたが、立ったままやられてしまったと言っていた気がするので調べてみるとなるほど電気ショック療法(電気けいれん療法)もロボトミーと同時代(1930年代以降)に治療として用いられていたのですね。こちらの記事(つぼみクラブ「電気けいれん療法ってどんな治療?」)がわかりやすかったです。1950年代以降から薬物療法が発展して使われなくなったということなので、1960年時点でこのように描かれているのも納得がいきました。ちょうど評価が移り変わっていった時代だったのですね。
この処置については(少なくとも立ったままのアストンに対しての処置は)「非人道的であった」という観点から批判的に描かれていると思うのですが、さらにその後遺症で考えがまとまらなくなってしまったと……当時未成年だったアストンの治療に対して「母は、許可を、与えた」という台詞がズシンと重く響きました。いくら子どものことを思っていても、「永続的に正しい」選択をするのはなんと難しいことか……。
この独白シーンはアストンの辿々しくなっていく言葉に一緒につまずきながら、だんだんしぼられていく照明の効果もあいまって、肌寒さというか……合理性から切り離されていく寂寥感のようなものを感じました。アストンはあれだけモノに囲まれていてもあのようなひっそりとした世界の中で生きているのかなと思ったりしました。


その不便さを抱えたアストンを、デーヴィスは「まともじゃない」(すみません、実際どのような言葉だったかは忘れてしまいました)と言って見限ろうとする。しかしその言葉がミックの逆鱗に触れ、管理人という権力を握るつもりだったデーヴィスは逆に兄弟から見限られてしまう、、、



この部屋の中のパワーバランスが流動的で、デーヴィスはそれを見誤って差別構造に乗っかって失敗したんだな、なんだかさみしい話だな、と、思ったのですが……


観終わってからは「穏やかな演劇だったな」という印象だったのでそれが自分の中で意外でした。
どことなく演劇の毒よりも優しさで包まれた舞台だったように感じたのです。
どうしてだろう、と考えて、またアストンの暗がりの中での独白のシーンを思い出して。
なんとなくですが、役に人間の尊厳を放棄させない演技、演出だったように感じられたのかもしれない、と思いました。



入野自由さん演じるアストンは、本人の中に戸惑いは感じられても、決して不気味な人物ではありませんでした。
イッセー尾形さん演じるデーヴィスは、独善的ではあっても、どこか憎めない、ちゃっかりしてるなあと笑ってしまうような人でした。
木村達成さん演じるミックは、何を考えているかわかりにくい部分はあっても、その目に兄への複雑な思いを湛えていました。



彼らにおいて、差別的な言動こそありましたが、それを批判的にだけ捉えるのではなく、それがなぜ発せられたのかを考えなくてはいけないのかもしれないと思いました。



デーヴィスはここを追い出されたら帰る場所がない。ミックは兄の家に不審者がいた。あるいは兄を侮辱された。アストンは自分の中の核ともいえる出来事を明かして馬鹿にされた。



これは、互いの人間としての尊厳を守るための攻防だったのかなあと思いました。
特に、デーヴィスとアストンの。


そしてアストンに付かず離れずで見守っていたミックの、彼が時折見せる複雑な表情は、現代の言葉を借りれば「きょうだい児」の葛藤を示唆していたのかもしれないとも思います。
たとえば彼の使う「友達」という言葉ひとつとっても、そこに込められた気持ち、意味、言葉自体のちょっと幼いチョイスの理由に思いを馳せずにはいられませんでした。
その感覚で言うとこの興行の『管理人/THE CARETAKER』というタイトルも、わざわざ英語の原題を併記したのは(「caretaker」に人の面倒を見る人の意味があるのはアメリカだけのようですが)ケア労働、ヤングケアラー、医療的ケア児など「ケア」という言葉が日本語として浸透して一定の何かを想起させるものがある言葉となった現代の潮流を見越してのものではと感じました。



「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」、それはなぜなのか、「弱い者」「さらに弱い者」は誰が決めるのか、どうしたら彼らがたたかれないのか。
その「弱い者」を当たり前に「今」(それは令和の日本ではないかもしれないけど)を生きる人間として描こうとしたのが今回の作品だったのかなあと、個人的には感じました。
私は多分、「不条理劇」という言葉のイメージとあらすじだけを読んで、もっと「わからない」「不気味な感じ」「現実から少し離れた感じ」を想像していたのです。でもこの作品はそうじゃなくて、彼らは同じ現実を生きる可能性のある人間なんだよ、と、イッセーさん、入野さん、木村さんのお芝居が、小川さんの演出がそう言っているように感じられました。カンパニーが彼らの尊厳を守っているようでした。「彼ら」とか偉そうに言ってる私も彼らなんだよなあ、と。もちろんこれも「不条理劇」の懐に飛び込んだ私の勝手な解釈ですが。








共感できる部分もたくさんありました。特に、シドカップに行くと言って行かない、小屋を作ると言って作らない、家をリフォームすると言ってしない、というのは先延ばし癖のある私にはめちゃくちゃわかる行動(行動しないんだけど)です。
特にデーヴィスとアストンの場合は、おそらく妄想にも近く、しかしながら「それ」に失敗した場合また自身の尊厳に関わるのですよね。だから余計に一歩が踏み出せない。



クスッと笑えるシーンが多かったのもまた意外でした。鞄、掃除機、マッチ……そうそうそれからバケツに仏像と、小道具が効果的に使われているのも印象的でした。



目を瞑ってインテリアを語るミックには「朗々誇大」という言葉が頭のなかにうかびました。そんな四字熟語はない。



三者三様の御三方と雑然とした部屋、写実的な窓の光だけでも観て良かったと思ったのですが、観た後の印象に刺々しいものがなくて、観劇の記憶として心の中に大切にしまっておけるなあと感じました。



あっ!そうそう、血の婚礼と管理人を見て、木村さんって役でピリつかせたら天下一品だなあと思いました。誰かが機嫌悪い時の波動と同じようなやつが劇場の空気をつたってくるかんじありますね……すごい……今年の前半にはグリブラの「出来るさ!」とかSLAPSTICKSとか君嘘見て「真面目で優しい好青年がぴったりだな!!!!!!」て思ってたのに……この振り幅……
そして来年は校長先生から始まるのほんと好きです。毎回何かしら楽しみな予定があるの、本当に生きる糧になっててありがたいな……。
今年も楽しかったです。
ありがとうございました………!!



以上

舞台『血の婚礼』配信感想

 
舞台『血の婚礼』配信を見ました。
雑記です。

⚫︎ 土が落ちてくるところ

ここ音楽も演出も大好きなのでもっと引きで映してほしかったーと最初は思ったんですけど、ドアップで床に落ちる土を見てたらこの土地に降り積もったものの取り返しのつかなさ、不可逆性みたいなものを感じてしまい、遠くから見ていただけでは気づかなかった意味合いに早速出会うことができました。
配信って視点が固定されるから不便だなと思うこともめちゃくちゃ多いけど、逆に自分が見ようとしなかったものを見せてもらうきっかけにもなるんだな…!!


⚫︎ 土が落ちてくるところの音楽

土が降り積もるという情景に合わせられた音楽が素敵すぎて毎回心の中でバタバタしていました。
私は3拍子大好き芸人(ただしリズム感がなさすぎて3拍子と6拍子の区別がつかない)(無念)なのでこの曲も3拍子なのか6拍子なのかわからないんですけど、本当に気持ちの根っこの部分に刺さってしょうがなかったです。


昔このブログで3拍子について書いたことがあって、6年も前なのに言いたいこと同じだったのでそのままコピペするんですが、


なんなんですかね?
巡り巡るみたいな、運命に弄ばれているみたいな、輪廻から抜け出せないみたいな、宿命と対峙せざるを得ないみたいな、彼らが巡り会ってしまったことみたいな、歴史は繰り返すみたいな。


 
まさにこれ……これなんです……
なんなの私6年前から一㍉も成長してないじゃん……怖すぎ….でもこれなんです……



巡り巡るみたいな、
運命に弄ばれているみたいな、
輪廻から抜け出せないみたいな、
宿命と対峙せざるを得ないみたいな、
彼らが巡り会ってしまったことみたいな、
歴史は繰り返すみたいな。



それらがすべて、あの土が降り積もる光景と音楽に詰まっている。


最高ですね……………
ありがとうございました…………





⚫︎ 花嫁が壁をドンしたあとの音楽

ここ……3拍子じゃないんですよね…!!!
劇場や配信で繰り返し見ていると、他が3拍子とか6拍子っぽい音楽が多いのでだんだんここで衝撃を受けるようになって。ここで4拍子が来るんだ!?みたいな。
本当だったらまだ花嫁はなんの踏ん切りもついてないシーンだから、3拍子のぐるぐる感が似合いそうなのに、迷いのない4拍子なんですよね…!!
音楽(ひいては花嫁の深層心理かもしれない)はもうとっくに走り出してる、みたいな疾走感ある印象になっているのがとても興味深いです。


⚫︎ 死の造形

スペインが舞台の話なのに、月と乞食の老婆の造形ってめちゃくちゃ仏教な感じするけどわりと違和感なく見てるよな……という自分への不思議。
月の姿はどこか空也上人や月光菩薩を思い起こさせるし、老婆は死装束?で左前だし卒塔婆持ってるし…???(でも老婆の見た目で一番最初に思い出したのは金田一少年の雪夜叉)
二人の存在自体の違和感がすごすぎて(いい意味で)、服装とか気にならなくなってしまってるんだろうか……?ほんと不思議。「アンダルシアじゃないんかい!」って気持ちがあんまり起こらなかった。不思議な文化融合だなあ。
普通にスペインっぽい死の象徴を作ろうとしたらこうはならないよね???と思うんですが、あ、いや、今自分で書いてて思ったけど本当にスペインっぽい死の造形だったら死の象徴だってすぐにはわからないのかもしれないのか……!持っていたのが卒塔婆だから「あ、死だ」ってすぐ思えたんだ、私……。そういうことか……(?)



⚫︎ 「まともに考えれば俺だってお前とは終わりにしたい」

そういうことってほんとあるよね……………
レオナルドや花嫁の熱情に共感できるかといえばおおむねできないけど、この台詞に関してだけは「せやな」以外の気持ちがない。
「まともに考えれば俺だって終わりにしたい」って世の中にごまんとある感情だよなあ…それでもやめられないところに自己を見出したりしますよね。
でもそれが破滅への道かもしれない場合があって、そういう時って本当にどうしたらいいんだろうね…………ということを考えたりはする。レオナルドも花嫁もきっと死ぬほど考えたんだろうな。
そんなもんないに越したことないんだけど絶対あるから口に出して言わずにはいられない日本語だな、「まともに考えれば俺だってお前とは終わりにしたい」。



⚫︎ 「目を覚ましなさい、花嫁さん」

まともに考えれば…というので思い出すのがこの言葉。普通に「朝ですよ起きなさい」という意味にも、「ちゃんと現実を見て花婿と幸せになりなさい」という意味にも、「自分に正直になってレオナルドと一緒になりなさい」という意味にも聞こえるすごい歌ですよね…
リズムを「ぽききぽき」という音で入れてくれていているので私でも5拍子だとわかるのですが、それでもめちゃくちゃ難しくない……!?(歌おうとした)どうなってるの?5拍子って何!?


それに引き換え!花嫁の父が入ってきたところの歌の歌いやすさよ!!!!びっくりするわ!!!
あそこは2拍子?とかですよね。「いっちに、いっちに」ってすごいリズムとりやすい。
この違いが鬼だなって……
花嫁のことを歌ってるところは5拍子でめちゃくちゃ拍を取りにくい。
花婿のことを歌ってるところは2拍子でがんばらなくても歌える。
自分がいかに普通や慣れに囚われているか、というのを音楽に教えられているようだなと。
5拍子ところ、6拍子とかにしたらすごく歌いやすくなるんですけど、その心地よさから1拍取り上げられるだけで安定感が奪われて拍を取ることに必死になってしまう。耳慣れた拍子で歌うことがいかに楽かということがよくわかる。
そしてその耳慣れた拍子で歌う花嫁の父や花婿の軽快な様子に「彼らが(少なくともこの結婚式にあたっては)自然体でいられるのはなぜか」を考えさせられます。
あと6拍子にするとぐるぐるしてちょっと幻想的になる気がするんですけど、そこを3+2で切り上げられるとなんか現実を突きつけられる気がしますよね……現実に疑問を持たずに身を任せることがどれだけ楽か、疑問を持たずにいられることがどれだけ幸せで恵まれていることなのかが、自分から「普通」を奪われただけでこんなにもよくわかる。
音楽で変拍子を用いることでこんな効果があるんだなあと感動しました。




しかもこの歌これだけでは終わらなくて、最後の「あんたが家を出るときは」のところ、訳詞の巧みさも相まって「あんたがたどこさ」などの手毬唄を彷彿とさせるんですよね。「あンた」「ぴかっぴかっ」「まっしろ」って撥音や促音が多用されて楽しげな、少女の純真さを象徴するような感じになっていて、それをレオナルドの嫁の話に被せるあたり、残酷だなあと……
ここのレオナルドの妻の台詞「何でも自分の思いどおりになると思ってた」がのちのちの花嫁の女の子たちへの問い「そんなに結婚したいの?どうして?」の答えかもなあとも思いました。レオナルドの妻も花嫁も「そうではなかった(自分の思い通りになどならない)」と気づいてしまっているのに「目を覚ましなさい」と繰り返すのはまるでそれを「気のせいだよ」と抑え込んでいるようにも聞こえますね。
この話って女の子と幼い女の子はいるけど子どもの男の子は出てこなくて、なんで子どもが幼い女の子と幼い男の子の組み合わせじゃダメだったのかな?と考えると、やっぱりこの本は各世代の女性とそれを取り巻くものを描こうとしてるんだなあとあらためて思いますね……



⚫︎ レオナルドの妻のお母さんが好きなワインケーキ

花婿が三ダース(三ダース)持たせようとするあのワインケーキ、どんなのか全然分かりませんがなんかめちゃくちゃ美味しそうに思えて気になっていたんですが、ツイッターで教えていただいた書籍(本当にありがとうございます…)にそのお菓子についての記載があり思わず声が出ました。



あれは「ロスコス・デ・ビーノ」というお菓子だそうで、その書籍ではこのように評されていました。

ロスコスとは輪の形をした焼き菓子のことで、水の替わりにビーノ、つまりワインを使って粉を練った滑らかな舌触りのロスコスは、今でもアンダルシアでクリスマスや復活祭など祝い事の時によく作られる。
(略)
そこで手渡されるロスコスには、この焼き菓子以上にもろく簡単に崩れてしまいそうな張り詰めた空気のなか、人々の揺れ動く不安な思いがこもっている……。
 
(渡辺万里「花嫁のミガス」、『ガルシア・ロルカの世界』行路社、1998年、p.266)

こちらを読んで、心底、物語って人の数だけ鑑賞の切り口があるんだなー!!と感嘆しました。
私が「あんたが家を出る時は」と聞いてあんたがたどこさの無垢な軽快さを思い出してウワッとなるように、結婚式での「ワインケーキ」と聞いてホロホロとした口の中の感触を思い起こして不吉さを感じる人がいる。
お芝居というのは五感で楽しむものなのだなあとあらためて実感しました。面白いなあ。





⚫︎ 丘を逃げてくるシーンの音楽

最高すぎませんか、なんてドラマチックなの。
チェロって人の声に近いってよくいうじゃないですか、そのチェロがまるで咽ぶような声でこの台詞のない脱走劇を雄弁に語っている…!、!!!!!
6拍子っぽいのを基本に、3拍子っぽいてれれってれれってーれーれーれーれーれーが入ってくるとこがすごく「走り」を感じてめちゃくちゃいいですよね(語彙)
そういえばこんなに転がったり土かけられたりしてるのに早見さんも木村さんもむせないのほんとすごいな……本物の土じゃなくてココナッツを使っているということだけど、装置としてすごいということなんだろうな…!!


あとやっぱり二人のダンスのようなやりとりに楽器で音がついているのが素敵で、普通に効果音がつくよりも婉曲的になるから、二人の詩的な雰囲気が引き立ちますよね。二人が動くから効果音が鳴る、ではなくて、二人が動くから音楽が鳴る、というのが彼らがこの瞬間だけは世界を従えて生きている(彼らの激情に世界も従わざるを得ない)みたいで劇的でした。


配信の特典映像には楽器紹介コーナーもあってとても勉強になりました。木村さんが奏でていたあの楽器は…ウクレレじゃなかった…!




あの楽器





(しかもWikipedia見たらスペインに縁のある楽器なんですね…すごい)





⚫︎ 決闘シーンの音楽

決闘シーンの音楽も3拍子な気がするんですよね…つまりもう言いたいことは最初と全く同じです。
このブログのサビなのでもう一度書いておきますね…



巡り巡るみたいな、
運命に弄ばれているみたいな、
輪廻から抜け出せないみたいな、
宿命と対峙せざるを得ないみたいな、
彼らが巡り会ってしまったことみたいな、
歴史は繰り返すみたいな。



そんな彼らの表現としてあの3拍子的な音楽が流れていること、もうほんと……素晴らしすぎて心の中でスタオベしました。




⚫︎ 決闘シーンのこと

ここまで書いていてようやく気づいたのですが、私、これまでの感想にハイステのこと多分一言も書いてないなあって……




この作品を観る前、これだけの感慨を抱えていたというのに、実際に見たら全て吹っ飛んですっかり忘れてしまっていた。
このシーン、完全に相容れない者同士の殺し合いだったから……人というよりけもの同士みたいで怖くて(二人が言葉を忘れたみたいに叫んでいたから)、日向と影山のこと少しも思い出さなかったな……すごいなあ。
最期に二人が花嫁の方へ歩いて行った時、レオナルドは花嫁に、花婿はナイフに手を伸ばしたところに彼らが「囚われていたもの」が明確に表れていて好きでした。
二人の共演がまた見られて、よかったなあ。



⚫︎ 木村さんのお芝居

ドラマ『オールドファッションカップケーキ』で木村さんのことを知ってこの作品を見た方から、「映像のお芝居も凄いし私もそれで達成くんを知りましたが舞台はまた別物でした」「生で観るべき『舞台の人』だと思いました」という旨のメッセージをいただいて、(ブログでの引用についてご快諾いただきありがとうございます、)私もそのご感想を拝読してあらためてそれを実感したというか……
木村さんのお芝居、映像での演技も本当に大好きなのですが、舞台でこんな姿を見せられてしまった日にはまた舞台に立つ木村さんを見たいと思う以外の余地がない………とものすごく思いました。映像のお芝居すごいな!?と思ったけど、舞台で見たらもっと素敵だった……知ってはいたけど今回もやっぱり舞台に立つ木村さんは最高でした。やったー。
これから先、映像でも舞台でも、木村さんのお芝居を見て楽しむために私ももっとインプットしていきたいなーと思った次第でございます。
いよいよ語彙が追いつかない。でも楽しい。


(こんなブログを読んでくださるみなさま、ご感想を教えてくださるみなさま、本当にありがとうございます…)




余韻さめやらぬ中、大千穐楽の翌日にはもう次の作品『管理人』のお稽古に入っていたと知り、素直に私も頑張らなきゃと思いました。仕事の活力をいただいている…私もちゃんとしなくては……

次は不条理劇ということで、おそらく初見は「わからない」ばかりであろう『管理人』、そのわからなさがどんな種類のわからなさになるのか、まだ想像がつかなくて今からとても楽しみです。



以上