王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

推しがオバさんになっても -ミュージカル『マチルダ』感想(4/2)

 
 
 

推しが〜オバさんに〜な〜っても ♪
渋〜谷についてくの ♪

















疲れている。


本当にもう毎日頭がまわらず、ずっと「アレ、アレなんだっけ、アレ」と思って過ごしている。


明日の持ち物なんだっけ?
昨日の夕飯なんだっけ?
あの人のお名前なんだっけ?
ああこの気持ちは 、───なんだっけ?


もはや前後不覚である。


ところがそんな毎日の中で、私は劇的な再会を果たしたのだった。
ラジオから流れてきた、『私がオバさんになっても』。森高千里である。


いま「森高千里である。」と言ったが、実際には「アレ、ほら、あのひとよ、アレ」、と悩んだ末に出てきた名前である。とにかく名前が出てこない。オバさんだ。私はオバさんになった。『私がオバさんになっても』にオバさんになって再会した。私がオバさんになって『私がオバさんになっても』に再会して森高千里の名前が出てこないことで「私がオバさんになった」ことを実感した。


話を元に戻そう。



私は最近ラジオで『私がオバさんになっても』を聞いて雷に打たれた気分になった。
なので感想を書きたいと思った。
が、8時間寝ても取れない疲労のせいでまったく語彙力がない。
回復するまで待つか、と思った。
が、一向に回復する気配がない。
歳をとると疲労が回復しない。
私はオバさんになったので(正しくは体力のないオバさんになったので)『私がオバさんになっても』の感想を書けない。


でも書きたい。
これは私に残された唯一の趣味だ。
これを失ったら、私はただの疲労のかたまりになってしまう。愛のかたまり(KinKi Kids)や米のかたまり(おにぎり)ならいいが疲労のかたまりはなんの()もなくて情けない。


でも、でも…………もう寝たい




かくして私は疲労のかたまりとなった。


それが4月1日までの私。




4月2日、私はミュージカル『マチルダ』を観に行った。




推しがオバさんになっていた。







〜これは『マチルダ』トリプルキャストのお一人である木村達成さんのミス・トランチブル校長と、森高千里さんの『私がオバさんになっても』の感想が錯綜する記事です〜












推しを観たら脳内の血流が良くなったので少しだけ『私がオバさんになっても』について書かせてください。


公式ライブ映像はこちら。






最近この歌を初めて真面目に聞いて、すごい歌詞だな……と思いました。


全歌詞はこちら

普遍的で、具体的で、ユーモラスで、切実だ。
まず「私がオバさんになっても」というそのワンフレーズだけで、何が言いたいか大体わかる。他はそれを具体的なエピソードで展開しているだけ。
そしてその具体性がおそらく強い共感と愛着を引き寄せるのでしょう。「サイパン」「ディスコ」「ミニスカート」「オープンカー」という単語によって歌の解像度が上がる人々がいるはず。
そのように時代を設定し、そこから10年後、20年後、「時間が経った時の私でも」あなたはそばにいてくれるだろうか?という普遍的な不安を「私がオバさんになっても」という言葉で表現する。なんなら多分、アイドル的人気を誇っていたと思われる森高千里さん本人のこともメタ的に重ねている。
森高千里さんの他の作品を聞くと、メタ的な意味では「不安」よりも「私もオバさんになるのよ」という事実を語ってみせた、という感じの歌にも取れます。森高さんの歌は「強い」)


これはエイジズムやルッキズムの歌だ、と思いました。
今もなお日本社会に蔓延る呪いのようなものが、軽やかに歌われている。
それに対していっときは「私がオバさんになったら あなたはオジさんよ」と「人はみな歳をとる」という事実を相手に提示してみつつ、やはり最後は「とても心配だわ」という心持ちで終わる、というのがこの歌の重要なところだと思います。
若くてかわいくないと好かれないのではないか、という不安は結局拭われない。




『マチルダ』で木村達成さんのミス・トランチブル校長を見ている間、ずっとこの歌が頭の中をぐるぐる回っていました。






推しが〜オバさんに〜な〜っても ♪
渋〜谷についてくの ♪
ミニスカートがとても似合う ♪
若い子にも負けない ♪






なんか衣装もちょっと似てるし……美脚だし……



そして何よりも、彼の演じるオバさんは、普遍的で、具体的で、ユーモラスで、切実、でした。



いやあんな人が普遍的でたまるかよと思いますが、ここで言いたいのは悪役としての普遍性ですね……ディズニーとか昔のアニメで見たことある感じのヴィランっぽさがすごい。






最初私は、推しがオバさんになったら内心ガッカリするのではないか?と思っていました。
私は木村達成さんのビジュアルが好きなのです。
特に前髪をおろしている時の見た目がかなり好きなのです。

これとか


これとか
これとか
これとか



えっっっめっちゃかっこいい……と自分でリンクを並べておいてびっくりせずにはいられないほどにはビジュアルが好きです。


それなのに、先行して公開されたミス・トランチブル校長のビジュアルは、





前髪がないのです(画像3枚目)。






いや前髪がないっていうか、それ以外にも色々違うっていうか……



だから舞台上に出てきてもあんまり興味持てないんじゃないかなってそんなふうにも思っていたのです。
もしかしたら私にとって木村さんは前髪が本体なんじゃないか的な。
でも、全くの杞憂でした声も好きだった(食い気味に)


昔舞台ハイキューのバックステージ映像で画面外からキーもテンションもやたら高い声が聞こえてきて、いざその人物が映ったら低音ボイスな影山役の木村達成さんだったのでびっくりしたんですけど、
「低い声のイメージだけど高い声も出るんだな!!!!」ってこの時思ったあの声がものすごく今回の役に活きていて最高でした。
オバさんぽく作り込んでいるわけでもなく、自然にヴィランなのが好き。その声で歌うのも珍しいからすごい貴重な瞬間を目撃している気がする。ああいう感じの「ファニーなのにドスも利いた声で歌う推し」ってなかなかないだろうなあ……何度でも観ておきたい。癖になりそう。


珍しいといえば、終盤赤い照明のあと後ろ姿で両手広げてバーンてめちゃくちゃ悪役っぽい感じになってるとこもすごい良かったなー
こういうシーンもヴィランじゃないとなかなかないよね、と耳も目も大満足でした。


で、結局、前髪のあるビジュアルも好きだけど何より「木村さんが役をどう生きるか」を見るのが楽しいんだな、と思いながら帰途につきました。


いつも思うのですが、木村さんは役を貶めるような役作りをしていないなあと。
今回のトランチブルも彼女は彼女なりに気位が高く、自身の正しさのために突き抜けていた。本人が大真面目に動いた結果 観客から見るとおかしみが生まれる、というのが心地よかったです。
表現によっては非当事者が中年女性やトランス女性を生贄に捧げてとる笑いにもなりかねないと思っていたので、そうはなっていないように感じられてほっとしました。木村さんのトランチブルの個性は、属性にはあまり関係ない個人としての振る舞いにあったように思います。だから、タイトルにしておいてなんだけど、実はあまりオバさんっぽくはなかった。


オバさんって、なんでしょう。
一定以上の年齢の女性のことでしょうか。
でもなんとなく、年齢以外に何か要件があるようにも思えます。
ここで定義を考えても仕方ないので突き詰めませんが、オバさんであるはずのトランチブル校長が、オバさんっぽく感じられなかったことが私にとってすごく新鮮で、面白かったのです。


そして、何か目の離せないような切実さがあって、あの全身から放たれる「満たされなさ」には脱帽でした。そこに彼女の行動すべての答えがあるようで。首の傾げ方、緊張の糸を操るような指先、開きっぱなしの瞳孔。
彼女は校長としてあれだけ自分のやりたいようにやっていてすら、「満たされない」何かがあるからああやって他人を攻撃せずにはいられないのだ、と感じました。



作品の中で、トランチブル校長と対照的に感じたのがミセス・フェルプスで。彼女はマチルダの才能を誰よりも早く見抜き、賞賛し、居場所を提供した。家庭でも学校でもない図書館という第三の居場所の存在が示されているところが、私がこのミュージカルで一番好きなところでした。
私はできればフェルプスさんみたいな人になりたい……難しいけれど……と考えたところで、実は自分の中にもトランチブル校長がいることに気づいたりもしました。自分の正義だけ振りかざして人を自分の思い通りに動かすことができたら楽だし気持ちいいだろうなあって。でも、じゃあなんで私はそれをやってはいけないと思っているんだろう。虐待だから?相手も自分と同じ人間だから?それもあるけど、トランチブルの姿を思い返すと、それをやっても自分が満たされないからかもしれないと思いました。まるで海水を飲んでいるよう。
トランチブル校長という存在、とても示唆に富んでいる……


ここまで読んでくださった方はお気づきのように、私自身、ルッキズムやエイジズムにまみれた人間です。まだ自分の中でそれを整理しきれていない。
でも、それはこの作品自体ですらそうであるように個人的には感じていて、たとえばトランチブル校長に一矢報いたように見えたマチルダの発言が「デブ」だったこととか……あの時のトランチブルの反応、キュートでおかしみがありつつも、彼女の「これまで」を思い起こさせるものであり、「今」を裏付けるといってもよさそうなものでした。「私がオバさんになっても」と若い子に言わせる、その呪いと近いものにトランチブルも苦しめられてきたのでしょうか。
チルダが「正しくない!」と言いつつ、相手に抵抗する術が「ちょっと悪い子になってみる」だったり「超能力」だったりするの、救いがなさすぎないか……?と途中で思ったのですが、最後にマチルダの語学能力という「知性」が問題の解決に一役買った展開があったので個人的に救われました。



内容の具体的な記憶が薄れてきたのでこの辺で……
本当に歳をとると記憶がもたない。
でも、感動は心の中に残ります。
子どもたちの歌、彼らに相対する大人たちの存在感、セットの色合い、弾むような日本語、客席まで飛び出してくるかのような演出、どれも素晴らしかったです。


あっ、あとひとつだけ、トランチブルが跳び箱の上で片膝立てて座った時のスカート捌きがめちゃかっこよかったです、さすが布バサァさせたら右に出る者がいない(私の中で)。




結論、
推しがオバさんになっても好きでした。




毎回お芝居が変わっているようなので、次観た時にどう感じるのか楽しみです。




さてそのあとは……




6/6から渋谷パルコ劇場の『新ハムレット』で「始末に困る青年」!





推しがオバさんになってもオジさんになっても
冷酷な殺人鬼になっても悲劇の革命家になっても
始末に困る青年になっても
木村さんを観に行きたいなと思いました。



以上