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永遠の彼方の蜃気楼 - ミュージカル『スリル・ミー』配信感想

連日スリルミーの配信を観ています。
私は木村達成さんのファンで木村さん前田さんペアが初スリルミーなのですが、全ペアの配信を観て木村さんの私と松岡広大さんの私がとても対照的で面白いと思ったので感想を書きます。


(本当はキャストとピアノ演奏のみなさま全員について感想を書きたかったのですが、9人の超人のパフォーマンスがそれぞれすごすぎてすべてを言語化するには脳内メモリが足りませんでした。)


木村さん私=木村達成さん私、松岡さん私=松岡広大さん私、わたし=筆者です。



⚫︎ 54歳の私について

松岡さん私を観ていて一番初めにハッとさせられたのは、54歳の私の「もっとひどい事件はいくらでもあったし 今も起きている」という言葉の言い方です。
「……今も起きている」ここでちょっとだけ速く、圧が弱くなる。確信を持った言い方です。
この人は理性の人だ、と思いました。
54歳の松岡さん私は相手に対してより効果的な方法で言葉を伝えようとしているし、34年間服役しているにも関わらず他者や外の世界に今も興味を持ち、それがどのようであるのかをきちんと把握している。


一方、54歳の木村さん私は喋り方がゆっくりで、声は低く、抑揚に乏しい。まるでこの世への興味を全て失ってしまったかのようです。
特に面白いのは上記台詞(「今も起きてる」)が予言めいた言い方になっている点で、木村さん私は世の中の動向を追っていたわけではないが「知らないがどうせそうであろう」と“感覚的に”確信しているのではないか、と思わせます。思考と知識が裏にありそうな松岡さん私とは対照的なのです。


同じような対比は終盤にも見られます。
「今でも新たな殺人犯が毎日のように生まれています」
「そして彼らを死刑から救う弁護士たちも」
二人とも確信を持って話していますが、二人の話し方の違いから、その裏には異なるものがあるように感じられます(松岡さん私は具体的な知識、木村さん私はぼんやりとした知識と“推測への共感”)。
その直前、検事からの手紙の話になった時に松岡さん私が急いで涙を拭いてみせる一方で、木村さん私がその滂沱の涙を気にするそぶりも見せないのは、二人がどれだけ目の前の相手に気を配っているかを表しているようです。
外の世界への興味を失っていない松岡さん私と、すべてがどうでも良くなってしまったかのような木村さん私。
同じ役でこんなにも違うのか、とあらためて演劇の面白さに震える思いでした。



⚫︎ なぜ「血の契約」だけではダメだったのか

以下、前回の感想より、木村さん私の印象についての部分をそのまま転記します。

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気になったのは、『♪契約書』で「二人は正式に結ばれる 対等な立場で 永遠に」って彼が言ってるし、最後は「二人を決して離さない 永遠に」って二人で言ってるんですよね。
で、実際なんだかんだ彼も律儀に契約を守っていたわけなのに、私はどうしてその契約では満足できなかったのかなあと。(わたしは前回の感想にある通り木村私は久々の放火のあたりからもう殺人にエスカレートすることを見込んで全てを計画していたと解釈しています)
色々考えたんですけど、ひとつめは、彼に殺人を続けさせるわけにはいかなかったから。うまくいったらきっと次はもっとエスカレートする。でも、それを止めることはできない。(私は彼がそれでしか幸せを感じられないことを知っているから)だからこうするしかなかった。ふたつめは、これから先、自分にも結婚の話とかが出てくるに決まってるから。同姓間の性交渉が違法であった時代に、彼とずっと一緒にいられるのは刑務所しかないと考えた。みっつめは、紙上の「契約」なんかじゃなくてもっと魂と魂の結びつきを求めていたから。よっつめは、彼がいずれ契約を守らなくなることがわかってたから。とか色々あれこれこねくり回してたんですけど段々どうでも良くなって、いや私は最初から「彼とともに生きていくため」って言ってるよなってなりました。ただそれだけ。それを実現しようとしたらこうなりました!ってだけなんだよな……と思うと、私の純粋さとその結末が哀しすぎて……しかも、それをこの時の私はまだ知らない。だからこんなに満面の笑みで嬉しそうなんだと思うともうたまらないです。
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上記の通り、木村さん私は、「彼とともに生きていくため」に直感に従って動いていたように思えました。



ですが、松岡さん私には、また別の理由があったようにわたしには見えました。19歳の松岡さん私は、54歳の私と変わらず理知的で、「好きな相手を永遠に自分のものにしたい」という相手を潰しかねない欲に溺れるような人には見えなかったからです。
顕著だったのが『九十九年』。
松岡さん私は、こんな時でさえ、山崎さん彼の顔色を窺い、彼の話を聴こうとしていました。
満面の笑みを浮かべて本当に本当に嬉しそうに前田さん彼に「僕のものだ」と滔々と語りかけた木村さん私とは大きく違います。


そんな松岡さん私がここまでしなければいけなかった理由は何か?
わたしは、それは「ニーチェへの嫉妬」だと感じました。
最初に山崎さん私からニーチェのことを告げられた時の「ニーチェぇ!?」の反応に代表されますが、その後の松岡さん私はニーチェの思想を理解してはいても傾倒まではしていないのではないかという印象がありました。うまく言えないのですが、そういうのにのめり込むタイプには見えないというか……それよりも、彼が自分ではないつまらない何かに心酔しているのが物悲しかったのではないか?そしてその感情を「嫉妬」だと自覚した上で、彼の目を覚まさせるには、自分こそがその彼の心酔する「超人」であると証明するのが一番合理的であると考えたのではないかと思いました。


ではなぜ、こんな残忍な手段でなければならなかったのか。パンフレットを読んでいて、この言葉がわかりやすいと思いました。

「超人」はまず、人生の無意味さに耐えることのできる、勇気ある人とされます。「永遠回帰」が示された時、「それならもう一度!」と人生をあらためて引き受けるのです。
 
(ミュージカル『スリル・ミー』2024年版パンフレット 岡本裕一朗氏寄稿『哲学者ニーチェはかく語りき』より)


「超人」であることを証明するには、まず「永遠回帰」が示されなければならない。
その「永遠回帰」がわかりやすく示されるような状態に自分を追い込む一番合理的な方法が、「あえて彼の要求に乗り『終身刑+99年』の判決を受ける」だったのではないでしょうか。

無意味な人生が永遠に繰り返されるのは、とても退屈で耐え難く感じるに違いありません。
 
(同)


拘置所でそのような疑似状況の瀬戸際(あるいはすでにそのもの)に追い込まれた山崎さん彼は、耐えられないと『♪死にたくない』で言っていました。これは実質、「俺は超人じゃない」という独白の歌です(とわたしは受け取りました)。
そこに、私が「これはすべて僕の計画したことだ」と言ってやればもう、完璧なのです。あえて「永遠回帰」が示される状況を作り、それに耐えうることを証明した私は、彼の中で「超人」になることができる。
ニーチェの枠組みを利用してはいるけれど。
そして嫉妬に駆られた自分は、本当は「超人」ではないのだけれど。
僕は、偽物の超人なのだけれど。


そんな感じのもっともっとなんかものすごく難しいことを、色々考えていたのかな……………
と、松岡さん私の姿を見ながら、ぼんやり思いました。


そしてもう一度木村さん私を見た時、ああ、この人は本当に感情で、直感で、前田さん彼が好きで好きでたまらなくて、永遠に一緒にいたくてこれをやったんだ、とあらためて思わされました。
嫉妬とかそういうのでもなく、ただただ彼と一緒にいたくて、
彼と一緒にいられるなら終身刑も死刑も何も怖くなくて。
刑務所の中で、永遠の無意味な人生すら彼と一緒なら乗り越えていける。
そう本気で思ってたんだなあ………と。



ああ、それが超人なのかもしれない。



自分が本当は超人ではないことを知っている松岡さん私と、
意図せずして本物の超人になってしまった木村さん私と。



とても対照的で、とても面白く、
本当はずっと見ていたいけど配信はもう見られなくなってしまうので、記録だけでもしておきたいと思いメモしました。



おしまい


※ なお、このように書くと木村さん本人が直感・直情型の役者さんのようですが、わたしはそうは思っていません。
個人的にいつもすごいなあと思うのは、これらのような感情の流れ(以前木村さんは『心のルート』とおっしゃっていました)が常にロジカルに考え抜かれ、観客に感知させる表出にまで至っている点です。だからいつも色々考えちゃうんですよね……!!!(抜け出せない)