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言いたいけど言えないからここにうずめる

音楽劇『銀河鉄道の夜2020』感想メモ(9/27)


9/27に音楽劇『銀河鉄道の夜2020』を観ました。



以下、感想です。
ネタバレありです。



9/20に観た時の感想はこちら



※ この感想は私が一方的に受け取った印象から思いを巡らせたものであり、自分でもなに言ってるのかよくわかってません。





● 木村さんのジョバンニの好きなところ

・等身大感
前回すごくプレーンだと感じだけど、今回見てやっぱりすごい等身大で立ってるなあと改めて驚きました。
いや等身大と言ってもジョバンニが26歳という意味ではなく、ただ子供っぽさや少年らしさに囚われないというか、そういうのから解放されたお芝居をしているなあと……
ジョバンニの心が動いた結果としてあどけなさが出るところはたくさんあるんだけど、それを演技の目的にはしてないというような。
何にも寄せてないし、ただそこにあろうとしているだけみたいな。


でもこのジョバンニの素朴さ、個人的には「うわ……うわあ〜〜〜〜〜!!!!」って思って見てますね……「元からそんな感じの演技の人です」感でてるけど今まで見てきた役全然違ったから!!!もっとキリッ!とかキラッ!とかシュッ!とかヒャッホー!とかイェーイ!!!みたいな感じが多かったから!!!びっくり!!!すごい!!!!


それにしても、何にも寄せないと、演者自身が透けて見えそうな感じするじゃないですか。雑誌の『Stage Stars vol.11』で「役者としてのボキャブラリー」の話をしていましたけど、まさにそのボキャブラリーがあらわになってしまうようなお芝居だったと思ってて、そこに健やかさと自信と弁えと覚悟を感じて、こんなお芝居もこれからもっと見たいなあと思いました。


あと今までの木村さんのお芝居はわりと攻めていってたものが多かったんだなあとも思いました。
ジョバンニのお芝居は、全部受け止めてる。どっちがいいとかじゃないんだけど、今回初主演だけど「やってやろう」みたいな肩に力が入った感じもなくただジョバンニと彼らの物語を見せるために立っているのがいいな……と思いました。
初日のカーテンコールから、きっとあるはずではなかろうかと思う感慨や思い入れをあまり出さずに…というかパッ!と出してサッ!と引っ込めて颯爽と去っていく姿が好きで。
あ、あとカムパネルラの佐藤さんが歩いて帰っていくのも好きです。このお二人なんだかとても良い。



・「今夜星の光が」
「今夜星の光が降ってきて 僕たちの魂に幻燈を灯す」
ってむちゃくちゃ素敵な台詞じゃないですか……推しに言ってもらいたい台詞ランキング上位に食い込んできた。てかもう言ってるし。好きな役者さんにこんな台詞言ってもらえるの最高ですね……生きててよかったな……
木村さんジョバンニ、ちょっと2回目どう言ってたか忘れちゃったんですけど、冒頭で言うところは「幻燈を灯す!!」ってびっくりマークついてる感じで歯切れ良く言ってましたよね…?ちがったかな……
それが勢いと若さがあって、「はじまり」の宣誓みたいですごくいいなあって。
他に好きな俳優さんならどう言うかなって考えたら、結構余韻を残す感じでしみじみ言ったりするのが似合う人もいると思ったので、そうかこれが木村さんらしさなんだなあって。



・声
ジョバンニの声とても好きなんですよね〜〜〜普段の表面湿度の低い声も好きだし、「毒虫だ!」のところで激昂して叫ぶのに声はまるみを帯びた感じになって聞き苦しくないのもすごく好きなんですよね……いい声。



・「牛乳瓶に天の川が入っていました」
前回の感想間違ってました、牛乳瓶に暴れん坊じゃなくて天の川ですね……すみません。混線しました。
「かぷかぷかぷ…こぼれたものはなんでしょう」
やっぱこの一連の台詞言ってるとこすごい好きですね……急にジョバンニが詩的に心情を語るの、浮きそうなのに全然浮いてない。言い方も動作も情緒的ですごくいい。めちゃくちゃいい。ほんといい。好き。もっと見たい。ファンになりそう。ファンです。ファンレター書きたい。





● 石炭袋

鳥捕りさんは「来ようとしたから来た」と言った、ということは行った時も「行こうとしたから行った」のだろう、ということはカムパネルラもきっと石炭袋に行こうとしたから行ったんだねえ。彼にはその辺に綺麗な野原とお母さんが見えてそこに行きたかったんだねえ。と思いました。
そのちょっと前にこれは「帰る」列車だ、みたいなことをジョバンニたちが話していた気がするんですけど、あれって、私「家にいるのに帰りたい」って思うことがよくあるんですけどそれに似てるなあと思いました、完全に「そんなのと一緒にするなよ」案件ですけど。魂が心の平穏を得られる場所を求めている……みたいな。それが天上だったり、お母さんのいるところだったりするっていうことなのかなぁって。







● 与えられた物語

原作の最終形はそんなにわかりやすい結論や教訓は出していないと思うんですけど、この舞台ではジョバンニとカムパネルラ、ザネリにそれぞれ物語を用意してある程度の結論のようなものを出させているなあと。
まず原作で一番情報の少ないザネリ、彼にはサソリの物語を重ね(言われてみればまず字面がちょっと似ていた)、さんざん弱きジョバンニをいたぶった彼が溺れた時に悔い改めたかもしれない可能性を提示している。(しかも役者さんが青年役を兼ねるという新演出によってザネリのその後の姿までうっすらと想像させている)
カムパネルラには大学士によって存在を証明される地層の物語を重ね、森羅万象は消えたあと他者によって証明されなければ何もなかったのと同じ、無になるのだと怯えさせる。
そしてジョバンニに用意されたのはその彼らの物語を一身に受け止め終わらせる役割で、彼はザネリを赦しカムパネルラに証明を誓うことで心の安寧を与えた。原作の最後では描かれないジョバンニの2人に対する想いについて一案をもって(舞台版としての)補完がなされ(舞台版として)据わりが良くなっているなぁという印象。「全部言ってしまう」のは趣がないような気もするけど、ザネリとカムパネルラとジョバンニの決着がついているからこそ観賞後そこまでどーんとは引きずらない感じになるのかなあと。帰路に着く時それこそ小さな星をひとつ掌に包み込んで持って帰るような感覚があった。
あれは、とてもよかった。


● 見ていた人

溺れるシーンが繰り返されることもあって、この舞台のジョバンニは「見ている」時間がわりと長くて。実はそれほど物語の当事者ではない感じもするんですよね。お母さんにジョバンニが言った「ぼく岸から見てるだけなんだ」ってその言葉の通りで……ジョバンニは船に乗れない少年で、彼は何もできずに見ているしかなかった。
ジョバンニにも「ミルクももらえたしお父さんも帰ってくるかも」っていう結末があるんですけど、それってジョバンニの根本的な何かを解決してるんだっけ?みたいな疑問もあって。原作だとカムパネルラもザネリも何も解決してないので別にいいんですけど、舞台版はその2人の物語をジョバンニが解決してるんで、それで、ジョバンニは?ジョバンニはどうなるの?みたいな……
よく考えてみたら2人の物語を終わらせられたこと自体がジョバンニの変化のあらわれなんですけど、でもカムパネルラが消えて、そこからどうしてそうなれたんだっけって考えるとあんまりわかりやすい描写はなかったような記憶で……(いや、あったかも、忘れてるだけか)
ただ、だからこそ、ザネリを見た木村ジョバンニの、泣いている赤ん坊を見たような、頷くように頭の微かに揺れる「受容せずにはいられなかった」ことが伝わってくる身体の動きと、あとからついてくる心情を素直に出した顔の表情と、そしてそのジョバンニの行動が間違っていなかったことを示すザネリの手指の行き先が、すべての説得力をもって胸に迫ってくるのがすごく好きなんですよね……生きているのに彼岸から見ている人だったジョバンニが、この世に戻ってきた瞬間みたいで。離れる時に周りの子たちにザネリを任せるところも好き。人を慮り周りを見る余裕がある。静かな演技だけれど、とても良かったなぁって思います。


● 見ていた人たち

前回見た時うっすら気になって今回しっかり受け止めたとこなんですけど、ジョバンニがうわーってなる前に鳴り響く声、最後はザネリだけどそれまでは大人の声が大部分を占めてますよね。先生、お母さん、活版所の人、牛乳屋さんの人だったかな?
このことが引っかかって。ここは大人たちの責任を問うてるんじゃないかと。
疲弊して授業もまともに受けられないジョバンニに、大人たちはもっと早く手を差し伸べられたんじゃないか、という(現代の価値観的な)疑問をこの舞台は投げかけているのではないかと。大人たちの見逃しがドミノみたいに連なって、ザネリたちは最後のきっかけだっただけだとすら言いたいんじゃないかと思ったりしました。
なんなら、さっき私は木村さんのジョバンニを「子供っぽさや少年らしさに囚われないというか、そういうのから解放されたお芝居をしている」って言いましたけど、それを良しとするこの舞台のジョバンニ、彼から「子供らしさ」を奪ったのは大人たちかもしれない、とも思いました。
カムパネルラと一緒にいるジョバンニは、とても子供らしくはしゃいでいて、銀河鉄道に乗ってどこまでも行きたがる(まるで日常にほとんど未練がないように)。
でも地上にいた頃は、先生には何も言えず、活版所では何度も頭を下げ、お小遣いをもらって嬉しそうにするけど喜び方は分をわきまえており(自分には使わなそうだし、お母さんの角砂糖はあれで買ったのかな……と思わせる)、お母さんと笑顔で話して家を出ればスッと表情を消し、牛乳屋のおばあさんには駄々をこねたりせずに言葉を飲み込んで身を引く。
木村さんの、「あってもいいはずのものを無くしている」ような小さく繊細なお芝居の積み重ねと、「前面に出さなかった『子供らしさ』」こそが、ジョバンニという少年の前半の本質なのではないかと、ちょっと思ったりしましたね……。



● 証明する

最後のジョバンニとカムパネルラのシーン、木村ジョバンニめちゃ優しい顔してて、あーそうか生きていたことを証明するって私には難しくてイメージ湧かないけど、その顔はわかる気がする、あれだ、「思い出すからね、安心してね」ってことかな……っと。
この別れの時に、決してこの人の顔を翳らせてはならないと、心に一点の曇りも残してはならないと、どうか安心してほしいと必死で作る心からの笑顔、のように見えた。
忘れないで、忘れないよ、約束だよ、当たり前じゃないか、覚えていてね、ああ君の好きな花やお菓子や星を見ていつだって思い出すよ、みたいな会話でもあるのかな……と勝手に解釈しました。
カムパネルラが石炭袋にお母さんを見つけたように、ジョバンニは天の川を見上げてはその石炭袋にカムパネルラを思い出す。言われてみれば、何もない暗闇こそ想像の生まれるところだものなあ。
そうやって思い出すことで、ジョバンニはカムパネルラと一緒に生きていくことができる。またどこまでもどこまでも一緒に行ける。そう考えるとジョバンニが持っていたどこまでも行ける切符は「想像力」みたいなものかなあと……想像は果てがない、確かに幻想第四次の銀河鉄道なんかどこまででも行けそう。


● 活版所の見出しと「銀河」の意味

活版所のシーンで出てくる3つの見出し、特殊相対性理論発表、ミンコフスキーの四次元、タイタニック出航……ってこのあとの展開の伏線にもなってるとは思うんですけど、よくわかんなかったのでWikipedia先生に聞いたらそれぞれ1905年、1907年、1912年で銀河鉄道の夜が書かれたのが1924-1933年頃だそうだから、執筆時からしたら結構最近の出来事じゃないですか。四次元とかいう概念が発表されて、それが一般の人に浸透するのにどれくらいかかったのかなあ。宮沢賢治はどんなイメージで幻想第四次って書いたのかな。銀河空間をどこかに向かって走る列車ってすごい四次元っぽさあるなって思うんですけど、多分私の四次元のイメージはドラえもんのタイムマシンなので色々間違ってる。
え、ていうかひょっとしてジョバンニが地上に戻ってきて時間はそんなに経ってなかったのってもしかして特殊相対性理論的なことなの!?


あと私「タイタニック」のこと「(ディカプリオの)タイタニック」って思ってる節があって、でも宮沢賢治の思い描くタイタニックは多分もっとリアルで切実なものですよね。もっと生々しい「憧れ」「まさか」みたいな感情があったんだろうなあと思うと、
言葉の表すものって変わっていくんだなあと思うしだからこそ時代が変わっても読まれることに普遍性以外の意味もあるのかなあと思うし作品として送り出す時そこ(表象の変化)と戦うこともあるんだろうなあと。(でもディカプリオのヒット作によってわりとタイタニックを知ってることもすごい)


で、それ考えたらそもそも「銀河」自体宮沢賢治の想定していたものと違うんじゃね?と思ったのでまたWikipedia先生に聞いたんですけど難しすぎて全然わからんので適当なこと言うんですが1924年頃にハッブルがこの天の川銀河の外にも銀河があったよ!的な論文を発表したっぽくて、それまで銀河はこの太陽系のある天の川銀河ひとつだと考えられてたらしく、いや銀河他にもあったよすごくね?アンドロメダって星雲じゃなくて銀河だったよ!?って学者たちが言ってるそんな超大転換時代に銀河鉄道の夜書いてるのまじですごくないですか。やば。ていうかむしろそんな時代だからこそ書いたのか?劇中にも歌われる星めぐりの歌では「アンドロメダのくもは」っていってるから、歌を作った頃はまだアンドロメダ星雲だったのかな?当時、学者たちのそういう発見が一般の人々に届くのってどれくらいタイムラグがあったんだろうか。
そして宮沢賢治は銀河というものがどのくらいありそうなイメージで書いてたんですかね……今だと少なくとも1000億個は望遠鏡で見えてるらしいです、なに1000億個って。しかも推定だと2兆個。めっちゃあるな。宇宙やば。


そういうわけで「銀河」を取り巻くイメージ(スケールとか大きさとか)も当時と違いそうなんですけど、そういえば新潮文庫で注釈ついてて面白いなあと思ったのが、これは劇中ではカットされてるんですけど原作では午後の授業で先生が銀河の詳しい話をしてて、「これがつまり『今日の』銀河の説なのです」と言ってるんですよね。宮沢賢治の時代の「銀河」とあとの人が知ってる「銀河」はおそらく違う、ということを賢治が意識しているということがわかるし、なんなら「今はどうよ?」って聞かれてるみたいだなあと。今大体100年後だから普通に宇宙旅行くらい行ってると思ってたかも。宇宙旅行はもう少し先だけど銀河は1000億個見えてるってよ、宇宙めちゃくちゃ広いね。どこまでもどこまでも、って、どれだけ遠くまで行けるだろうね。この世って思ってたよりスケールでかい。
賢治は銀河という言葉に約束された意味合いの変化にワクワクしながら未来に向かって使ってたんですかね。


って考えた時にね!!タイトルに「2020」つけたのはすごくいいなあと思うんですよね。やっぱりどうしても未来の話なんですよね。銀河鉄道の夜2020は。2020に生きるお客さんが観ている限り。
だって今からまた100年経ったら2120ですよ、その頃「銀河」ってどんなものとして人々に捉えられてるんだろうって考えたら、たぶんまたもう今と全然違うんだろうし、今これが2020の銀河鉄道ですって宣言しておくのはなんかマイルストーンみたいで面白いですよね。


● ほんとうの幸みたいなこと

ほんとうの幸ってなんだろうねえ、みたいな話がたびたび出てくる気がするんですけど、それに関してはまったくピンと来なくて、なんだろうねえ。で終わりなんですけど。ただ、蠍の火のシーンで、蠍は「まことのみんなの幸」って言ってて、その「みんな」という言葉と、
青年が他人の子供を押し退けてまで自分の子供(教え子)を助けようとすることに葛藤する姿、カムパネルラが目の前で友人が溺れている時にどうするかと迷う姿に、私は何か通じるものを感じたような気はしました。
「自分(たち)を犠牲にしてまでも」みたいなことがいいこととされてるのかとずっと思ってたけど、実は自分や大切な人の命を守る(生きる)ことを否定しているのではなく、ただ自分たちさえ良ければいいという気持ちがあるならそこは少し自問をしてもいいんじゃないかくらいの意味だったのかなあと少なくともこの舞台に関しては思いました。
宮崎さん演じる青年の、「できない!」という台詞がとてもよく響いている。この子たちを生かしてあげたい、でも、他者を犠牲にすることもできない。自己を守ることで生じる他者の不利益に目を瞑ることのできない気持ちに重きが置かれているのであって、その先の行いについて判定しているものではなかったのかなあと……お金はあるから助けろと叫ぶ大人の姿が追加されてたことも青年の立ち位置を浮き彫りにしていたような。
原作にしても、自分をただ犠牲にすることが良いことだと言いたいならカムパネルラはあんなに不安がってないのかもしれないなそういえば。わからん。
でも、さっき言った最後のジョバンニとザネリのシーンでジョバンニがこの期に及んで「ラッコの上着が来るよ」と言われてまでもザネリを「受容せずにはいられなかった」理由は、カムパネルラや青年のように「まことのみんなの幸」に通じる何かにあるのかなと思ったりもしました。



● その他


ケンタウルス、露をふらせ
このシーンすごい好きです……このお祭りいいなあ、楽しそう……あと鳥捕りさんのシーンも楽しい……好き……あと活版所も……全体的に人々の動きのデザインが美しい……


・毒虫を検索して引っかかった宮沢賢治の『双子の星』を読みました、ザネリを毒虫と言うのはサソリを毒虫と言うこの作品を通した伏線にもなっていたのかなあ、、、同作には乱暴ものの彗星も登場してた。


銀河鉄道があらわれる時、祭囃子みたいなてんてててんててでかきたてられるワクワク感がすごい。そこにシンセとかエレキギターとか電気で鳴らす音が入ってくるのもしびれる。世界が変わる、ジョバンニが救われる!という高揚感をそのままカムパネルラたちのシーンになだれこませるのもすっごい。


・すべてを楽しむには目と耳もだけど頭の処理回線が足りない。もっと見たいよー。


・後ろのふりこが最高。あれに銀河鉄道の夜のすべてが集約されている気がする。


・装置が海賊船を模した秘密基地みたいに見えて子供心がうずく。


・原作に描かれる美しい光たちが舞台上に眩くあるいは薄ぼんやりとそこかしこに広がっている。贅沢。


・バックに映る風景に目をやると、不思議と高台から街の夜景を見下ろしているような気分になる。なぜか人々の暮らしや営みを思い出すような。


星めぐりの歌のメロディを弦楽器で弾かれるとなぜかわからないけど涙腺にくる。家に帰りたくなる。


銀河鉄道でおっかさん…って言ってる時ジョバンニは下、カムパネルラは前を見てる。


・お父さんが帰ってくるかもしれない話のところで汽笛が聞こえるの素敵だな


・ジョバンニとカムパネルラが2人でいるとチップとデールみたいで可愛らしい。ひとりずつ見るとそんなのほほん要素なさそうなのに……声揃っちゃうのかわいい……くるみコツンてやってたけど何あれ……楽しそう……


・ところで私は木村さん佐藤さんのジョバンニとカムパネルラが大好きだけれども、普通の「銀河鉄道の夜」のイメージからしたらジョバンニとカムパネルラはもう少し表面的に子供らしいほうが「見やすさ」に限っては上だと自分は思っていて(見やすいのが無条件に最上とは思わない)、それより重視されたものがなんなのか、意図がどこにあったのかは気になる。


・2回目見たら冒頭は銀河鉄道というイベントが発生しなかった世界線という感じがしましたね……


(2020/10/02追記)
・二幕の最初の方、「ぷくぷく」と水の中のような音がほのかに聞こえる気がして「?」と思っているとケンジが「水族館」というワードを出してきて「なるほど…!」となるのが好き。列車を直接的に水と結びつけるこのシーンで、「銀河鉄道」というものに新たなイメージが加わる。あと新幹線がトンネルに入って窓に客席が映る瞬間を思い出したりもする。
「こんなやみよののはらのなかをいくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる」
これは『春と修羅』の「青森挽歌」の一節だとあとから知って読んでみたんですけど、なんだかこの詩の中にケンジのもうひとつの『銀河鉄道の夜』がある気がして、この劇は私が知らないだけで実はとても堅固な『春と修羅』との二重構造を保っているのかなと思った。
汽車がりんごのなかを走っているという表現も、劇中で聞いたときはりんご=宇宙を連想したけれど、詩を読むと青森のりんごの木立の中のイメージも重なる。ひとつの大きなりんごだったり、たくさんの小さなりんごの集まりだったり、多分そのどちらも正解で面白い。この劇は宮沢賢治がその心象を繰り返し書きつけることで妹トシの生を証明しようとしたのではないかと言いたいのかななどと思いました。そういえばケンジがトランクから原稿?を取り出す場面がとても印象的で、この劇はやはり彼の物語に帰結するのだと思ったのだった。


・木村ジョバンニがめちゃくちゃ健気だって話はしましたっけ……?


(追記終わり)


・この舞台上の世界は、人々が賑やかに歌って踊っても、大人が愉快な姿を見せても、子供が誰かを罵ってすらも、地上の現実に降りてくることなく当たり前のように童話世界としての品を保っている。この作品の何より素晴らしいところはその点であるような気がする。


・「ひかりはたもち その電燈は失はれ」
電燈が失われることをかなしみ、しかしひかりがたもちつづける奇跡に思いを馳せたいと思わせる、芯の通ったジョバンニの笑み。彼の結論は掌に包み込まれる小さな星のよう。私はそれを持って帰ったんだと思う。
あれは、とてもよかった。






以上