王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

推しで世界を谷折りする ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』と宮沢賢治『銀河鉄道の夜』


 
推しで世界を谷折りしがちです。


先日、シアターコクーンの2階席に初めて座りました。
推しである木村達成さんの出演舞台『血の婚礼』を見るためです。
ところが席についてすぐ、「私はここに来たことがある」と思いました。
なんだろう、これがデジャヴというものか。それにしてはこの景色、舞台が遠くて近いようなこの距離感、そしてこの高揚感、あまりにも“知っている”。デジャヴとは斯様にもはっきりと「二度目」と認識するものであるのか……




……。



………………??



…………………………




……いや私ここにむかし自担の舞台観に来たんだった〜!!あの時も2階席だった〜!!



てなことがありまして、すっかり忘れていたんですが私の初シアターコクーン2階席はジャニーズの自担の舞台でした。
昔すぎて記憶が定かではありませんが、確かギリシア悲劇だったと思います。
今回の『血の婚礼』は近代古典ですが、特に二幕の激情をあらわにしてぶつかる感じが、昔観たそのギリシア悲劇の印象に似ているように思いました。


えっ、じゃあ、『血の婚礼』をギリシア悲劇的視点から見れば血の婚礼を少し読み解けるのでは……??
と思ったんですが、そもそもギリシア悲劇のこと知らなすぎてダメでした。ギリシア悲劇的視点って何。
今回は未遂に終わりましたが、私にはそういうことをしがちなところがあります。


折り紙の真ん中で谷折りして二つの角を合わせるように、
推しを真ん中に、二つの関係ない物事を比べてその共通点を見出し、両者をこじつける。


やりがち。


今回もギリシア悲劇ではできなかったけど、実は出演情報が解禁されて一番最初に『血の婚礼』(岩波文庫版)を読んだときにやっていました。



「この“わからなさ”、2020年に木村さんの出演情報が解禁されて一番最初に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだ時に………………似てる」



この記事は、そんなふうに推しで世界を谷折りして観劇した末路について書いています。
内容は個人の一方的な見解です。
途中までネタバレなしですが、宮沢賢治作品のざっくりしたネタバレがあります。(なんで?)




・・・




最初に『血の婚礼』を読んだ時、この作品は「詩的表現が多く」「土着的な感じがする」からよくわからないのだ、と思いました。
そしてその時「以前にもこれとほぼ同じような感覚を覚えたことがあるなあ」と思い出したのが、宮沢賢治作品でした。


2020年9月、木村達成さんはKAAT神奈川芸術劇場にて宮沢賢治作品を原作とした『銀河鉄道の夜2020』に出演されています。



(いやあこの動画見るとほんと良い作品だったな………綺麗で、大きく、ノスタルジックだった)
(この作品も生演奏で音楽の調和がすごかったです)


私はその出演情報が解禁されてすぐに、どこかから『銀河鉄道の夜』を引っ張り出して読んだと思います。(よく覚えていない)


なるほどわからん


それまでにも何度か読んだことがあったはずですが、毎回同じような感想でした。この時もそう。
何が書いてあるのかよくわかりませんでした。
でもそれまでと違ったのは、「木村さんが出る作品なのだから、もう少しくらいはわかりたい」と思って他の宮沢賢治作品もいくつか読んでみたこと。


そして思ったのは、宮沢賢治作品は私にとって「詩的表現が多く」「土着的な感じがする」からよくわからないのだ、ということでした。


具体的にいうと、比喩や象徴が多く抽象的で、また、私が持ち合わせていない共通認識(どこかの風景や地形、地質、天候、因習、倫理、言語感覚など)を前提に物語が描写されているので、(地理的にも時間的にも)離れた場所にいる私の常識で推測しても、全貌の半分も捉えきれていない気がする。という感じです。



ガルシーア・ロルカの『三大悲劇集 血の婚礼』(牛島信明訳、岩波文庫)を読んだ時もこれと全く同じような感覚を覚えました。
「詩的表現が多く」「土着的な感じがする」、
さらにこれに「私はこんな激情に身を焦がしたことはない」(=感情的にも共感できない)が加わり、
銀河鉄道の夜』よりもさらに大きな「わからない」となったのでした。





なんだか似ているこの二つの作品……、そう思い調べてみると、『血の婚礼』の初演は1933年、「銀河鉄道の夜』の初版発行は1934年と、非常に近いタイミングであることがわかりました。


ここから私の谷折りが加速していきます。
(典拠は大体Wikipediaでしかも斜め読みなので話半分〜1/4くらいで読んでください)



『血の婚礼』の作者フェデリコ・ガルシーア・ロルカは1898年、『銀河鉄道の夜』の作者宮沢賢治は1896年の生まれであり、二人は同時代を生きた人物でした。


ロルカはスペインのグラナダ県、賢治は日本の岩手県の出身。二人とも実は裕福な家庭の生まれです。
幼い頃の病気の後遺症で生涯悩まされました。
強者である親やその宗派(ロルカの親はカトリック、賢治の親は浄土真宗)の教えに対して反発心を抱いたこともあるようです。一方で他の様々な宗教に寛容でした。
二人はそれぞれ農村をまわり、賢治は農業や芸術の講義を、ロルカは演劇の公演を行いました。
個人的に一番印象的だったのは、自分自身は経済的に豊かであった二人が、自身の持つ属性からか弱者に強く共感し、寄り添おうとしたという点です。



ロルカは1936年に38歳で、賢治は1933年に37歳で若くして亡くなっています。


私にはこの二人の間にたくさんの共通点があるように思えました。
そして、何を思ったか。








──── 宮沢賢治の作品を読めば、『血の婚礼』のことがわかるのでは ──── ?












(??????????)






いったいどういう理屈なのか今思えば意味不明ですが、谷折りしがちな私は本気でそう思って、1回目の『血の婚礼』観劇後に2回目の予習として、宮沢賢治の作品を読み返しました。


シグナルとシグナレス』、
『かしはばやしの夜』、
水仙月の四日』、
『月夜のでんしんばしら』、
『虔十公園林』、
風の又三郎』……


もちろん、
銀河鉄道の夜』も。
……ちょっとだけ(長いから)。








いやロルカを読めよ。







まあ聞き流してください。
賢治の作品は、常に死というものが人の生活と隣り合わせにあるような気がします。
そして、それらの接点として生と死、人と人ならざるものが混じり合うのが、「林」や「丘」などの地です。


それは自然の中で生き、また自然の力を借りて生きてきた賢治の実感によるものだったのでしょうか。
(実感しているかいないかだけで人間誰しもがそうだと思いますが)



登場人物たちは、林や丘で、人ならざるものと対面します。その時、触媒のように風が吹く。
そして鼻先に死を突きつけられることもあります。
あるいはそこで、人と人ならざるものが一緒になって祝祭を行うこともあります。


人は、時に人ならざるものと自分たちとの「温度差」に絶望します。
人は彼らをどうすることもできない。
ニヤニヤと笑う彼らに出会ってしまったら、もう終わり。



それを見ているのは空の星や月。
人々は彼らに祈りを捧げます。
我らをお守りくださいと。




2020年9月に上演され、木村達成さんがジョバンニ役で出演した『銀河鉄道の夜2020』には、こんな台詞が登場しました。




「今夜星の光が降ってきて 僕たちの魂に幻燈を灯す」





これが、あの作品で生と死が出会う合言葉でした。




……不思議なもので、私はこのように宮沢賢治作品に触れることで、先日シアターコクーンで見た「よくわからない」ロルカの舞台作品が自分なりに解釈できるような気がしてきたのです。




そうして臨んだのが『血の婚礼』9/22のマチネ、というわけでした。













以下、ネタバレありの感想です。





1回目に見ていて一番わからなかったのは、というかわからなすぎて感想を書くのも忘れていたのが、二幕の樵の3人でした。
初めに出てきた時、何かの審判員かと思いました。
ギネスの公式審判員みたいなやつ。
ただでさえ樵という存在がわからないのに、その樵が樵のイメージとは違う何か別の職業のような格好をしているので、余計にわからなかったのでした。
でも、2回目に見た時、その1回目の審判員という印象はあながち間違っていなかったのかもしれないと思いました。


樵は、レオナルドと花嫁の逃避行、そしてレオナルドと花婿の決闘の、いわゆるオブザーバーという位置付けだったのではと感じました。この“出来事”の公平な立会人。だからあのような格好をしているのではと。このキャラクターは樵という呼び名からすれば人間のように思えますが、シアターコクーンのきこりはきっとレオナルドや花婿たちと同じ世界の「人」ではない。あまりに温度差がありすぎる。
ロルカに森にいるのが相応しいキャラクターであるとして選ばれたのでしょうか。「木」でも良かったのかなあ。あ、でも「木」はレオナルドたちを隠せる可能性があるから、この“出来事”の参加者なんですね。ということはやはり中立であるためには樵のような無関係でいられる第三者が必要だったんでしょうね。
このトリオ、なんだかほどほどに勇ましく、見てて脱力もしちゃうんだけどなぜかカッコよくも感じて、好きです。



続いて、月。
2回見てもあまりに存在感と違和感が大きすぎて戸惑った。我々の常識を遥かに超えていく超常現象そのものだと思いました。こんな「アッハッハッハー」なテンションで照らされて死の運命を決められたらたまったもんじゃないけれど、人と神との間にはこんなにも大きな力の差があるのだと思い知らされました。
安蘭さんの怪演(しかし美しくあまりにもキュートでありそれがまた畏怖の念を巻き起こす)と杉原さんの怪演出がもはや素晴らしい。
「人間の理解を超える」というのが神の条件なのかもしれません。



そして、老婆こと乞食こと死神こと死。
役名がどれだかわからない。(上演台本は「乞食」でした)
(後日訂正:これ何見て書いたんだ…上演台本は「死神(乞食の老婆)」でした…申し訳ありません)
今回見てて、小川でもあるのかな……ってちょっと思いました。
で、やはりこんなテンションで運命を決められたらたまったもんじゃないのよ(2度目)。
花婿と老婆の温度差…………人間というのが大いなる存在や自然を前にして、いかにちっぽけな存在であるかを感じます。
月と老婆はもっと荘厳な感じでやるイメージでしたが、このテンションで来られると本当に生と死というものへの虚無感がすごいので、地獄の演出だなと思います。怖いよ……(褒めてます)。
ニンゲン、頑張って生きようね……。我々、どうしてこんな目に……と思えてきた。もはや人間というだけで花婿たちに感じてしまう謎の連帯感。



私はおそらくこのあたりに宮沢賢治の影を受け取ったのです。


私たちは、森や丘で、人ならざるものと対面します。その時、触媒のように風が吹く。
そして鼻先に死を突きつけられることもあります。
あるいはそこで、人と人ならざるものが一緒になって祝祭を行うこともあります。


人は、時に人ならざるものと自分たちとの「温度差」に絶望します。
人は彼らをどうすることもできない。
ニヤニヤと笑う彼らに出会ってしまったら、もう終わり。



この作品が賢治の作品と違ったのは、『血の婚礼』では月や星は主人公たちの祈りの対象でも味方でもなかったこと。
彼らはそういった大いなるものたちからも逃げようとしていました。
神が、自分たちにとって理想的で正しいとは限らない。






この地獄の3連荘のあとに見るレオナルドと花嫁の逃避行、我々と同じ人間が来た!という安心感がすごい。
そしてやっぱりこのスローモーションがすごすぎる…!!木村さん、あんなにゆっくりあそこまで沈み込んで膝を曲げられるなんて本当にすごい。あれでなんで上半身がグラグラしないの???真似してみたらわかる。本当にすごい。私今筋肉痛です。(真似したの?)
早見さんも本当に上手で、駆け落ちする「画」がスローモーションであんなにかっこいいのすごい。二人がどの瞬間を切り取っても、土にまみれてよごれても美しいということをこのシーンが証明している。その「美しく、よごれた、けがれのない魂」と、それを追いかけるように煽るようにリズムを刻んでいく音楽とのねじれた共犯関係といったら。



そして始まる、というかこの前の樵たちのところからもう始まっているんですが、会話になっているのかどうかも私にはまだわからない韻文の応酬。
抽象的で、周りくどく、自分が台詞の本質を掬い取れているのか誰も教えてくれないので、どうしても難しいと感じてしまいます。


でも、私、意味がわかっているかはわからないけれど、「舌にはガラスの破片が突き刺さる!」という台詞がとても好きです。言葉のイメージも、SHIたにはGAらすのHAへん[ ŋa ] TSUKIささる、の響きも、4(5),8(7),5というリズムも、すべてが美しく少しずつ痛々しい。早見さんと木村さんの発語の違いも互いの個性を引き立てている。


それから、2回目に観た時に好きだと思ったのは、昂っていたレオナルドがはっとして呟いていくこれらの台詞です。


朝の小鳥たちが
木々のあいだでさえずり始め、
夜が岩山に引き裂かれ
息を引き取ろうとしている。
 
(舞台『血の婚礼』上演台本より)


ここから始まる台詞、木村さんの韻文と調和した声や表情の変化が素晴らしく、耳目と心を奪われました。
韻文というものが「意味」だけを伝えるものではないということを教えてくれるようでした。
色、リズム、音の響き、それらの美しさ、イメージの広がり、空間への拡がり。
一方でそれらは、受け取ることができるのはそれぞれの「私」だけなのだと感じました。
それぞれの感受性を持った「私」たち、その集まりが観客なんだなあと。
私と他のお客さんの受け取ったものは同じでなくていい、同じであるはずがない。
この台詞の木村さんの良さを「このように」感じたのは、私だけでいい。




花嫁とレオナルドの魂のぶつかり合いを見ていると、やはり「私はこんな激情に身を焦がしたことはない」という思いが頭をもたげます。
わからない。でも、

理解が追いつかなくとも、私が受け取れるものを受け取ったらいいのだと思いました。
この日私が「大きな何か」を受け取ったのは、この二つの台詞と、後述する一つの動き、そして一つの演出だけです。(細かいものはもっとたくさんありますが)
数えれば少ないかもしれません、でもそれでも深く満足したし、それでいいのだと思いました。





ここでいくつか、前回の感想からの違いや、誤りの訂正を……。
・レオナルドに怒鳴られていたのは幼い女の子ではなく、女の子役の出口さんでした。良かった。
・2階から見下ろすのと1階から見上げるのとではだいぶいろんなことの印象が違う。
・木村さんの脚がさらに長い
・二幕で壁がなくなったあとの舞台の後ろの威圧感がすごい、特に大きな扉が地獄の門みたいだった
・2階席からは壁の穴の向こうが見えなかった。1階席からは向こうが見えたのでより意味深く感じた
・1階席から見たほうが壁のこちら側の空間がかなり狭く見えた。息苦しい。
・レオナルド、全体的に前回よりマイルドだった。コップの置き方もやや弱めで、水がそこまで高く上がらなかった(前回はすごい高くまで撥ねてた)。終始どこか辛そうだった(レオナルドとして)
・音楽、特にテーマソングが本当に好き。あの曲と共に砂が落ちてくる演出が好きすぎて御礼が言いたい。子守唄も婚礼の朝の歌ももう歌える。脳内への定着度がすごい。
・歌舞伎のツケ打ちみたいな音がなかった。記憶違いだったのかも
・むかし親の田舎に行くと、ほんとにこの作品の村の女や花嫁の父や女中みたいなおじいさんおばあさんが縁側とか鍵の開いてる戸口から「あのさあー!!!!」って言いながら入ってきたなあというのを思い出した。まさかの圧倒的リアリズム。
・須賀さんって舞台上の自分のことを客席からみてるのかなってくらい客観的なお芝居をされるよなあ、と特に二幕を見ていて思う。すごいなあ。
・アフタートークで木村さんが、レオナルドは妻の「あたしも真っ白なまま家を出たわ」という台詞が刺さってああいう反応になっている、と言っていたけど、本当にこの台詞を言う時の南沢さんの声が良くてね……………ほんと妻……妻つらいよね……
・でも花嫁は「ここの女はみんなそういう目に遭う」、妻は「うちの母さんも同じ目に遭った」、と同じようなことを言っていて、先にレオナルドがいたか後にいたかだけの違いなのかもしれないとも思う




今回、衝撃を受けた動きの話。
二幕最後の女たちのシーンの冒頭で、花婿の母親と村の女が喋っている時だったと思いますが、喋りながら母親が後ろ手にゆっくり横へ横へと移動していて。
あれは、「見えない何か」をつたって歩くことで、壁がまだ存在していることを表現していたのでは……?
私は前回、家父長である男たちが亡くなって、壁、ひいてはイエがなくなったことで女たちは解放されたのだと思っていました。
でも違った。壁はなくなってなんかいなかった。
母親自身も言っていました。
「大地とあたし。涙とあたし。それに、この四つの壁。ああ! ああ!」
また、これより前のシーンでもこのことをにおわせる母親の台詞がありました。
「女が生きているあいだ、争いは消えない。」
考えてみれば、壁が本当になくなったのなら枠を出す必要もなく、広がる土、丘、そのままで良かったのです。ならばあの枠は壁の存在を思い出させるためにわざわざ持ち出されたのかもしれない。
女たちは解放されてなどいなかった。男たちが死んでなお、イエに、血に、壁に縛られたまま生きていく。
だから母親は最後にくずおれてしまうのだと、ようやく納得ができました。
前回違和感があったのは自分の感じていることと私の理解が逆だったからなのだと。
私はこの救いのなさこそ、現代につながるものだと思いました。この女たちを縛っているものは、現代の日本で女にも男にもXジェンダーにも緩く絡みついている。




今回、衝撃を受けた演出の話。
これも最後のシーンです。
母親が膝をつき、言葉を続け、そして照明が消えて物語は終幕となります。
私が好きだったのは、この照明の消え方です。
一瞬チカチカッと明滅してから、フッと消える。
実はレオナルドと花婿の決闘が終わった後、暗転から照明がつく時も同じようにチカチカッと明滅してから明るくなります。
いろんな受け取り方があると思いますが、私はこれ、むかし学校の教室のテレビで授業の資料映像を見せられた時みたいだな、と思いました。
生徒がテレビを見やすくするために、蛍光灯が消える。蛍光灯がつく。チカチカッと明滅して。その間に見たものは、昔の映像とか芸術的な映像とか、私には全然関係ないと思えるもので、ああ、感想文とか書かされるんだろうな、面倒だな、それくらいにしか私は思っていなくて。
そんな気持ちが「チカチカッ」ひとつでぶわっと蘇りました。
あの照明演出、どんな意味があるのでしょう。
「今見たものは全部遠いところの話である」
「私には関係ないものである」
本当に?
そうじゃないということを、教室の先生は言いたかったんじゃないの?
急に虚実が織り混ざったようで、私にとってはちょっと忘れられない「憂鬱さ」でした。
せっかく日常から離れて非日常を観に来たので、この詩的に表現されているものたちは私には関係ないことだと思いたかったのですが。


手のひらに収まるほどのナイフ、
驚く肉に
冷たく刺さり、
止まったところは
悲鳴の暗い根がおののき、
絡みつくところ。
 
(舞台『血の婚礼』上演台本より)




「悲鳴の暗い根がおののき、絡みつくところ。」



わかるようでわからない。
私には関係なさそうだけれど
でもその余韻は確かに形を作る。



今回、観ていてなんだかすごく疲れて、この最後の暗転中に天を仰いでしまいました。
たぶん女たちの憂鬱に心が巻き込まれてしまったからだと思います。



一瞬チカチカッと明滅してから、フッと消える。
その暗転の仕方にまた『銀河鉄道の夜2020』のことを思い出してもいて、天を仰ぎながら、照明って結構高いところにあるな、あー、あの『春と修羅・序』を引用していたところも難しくて当時色々考えたな、と思いました。


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
 
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
 
ひかりはたもち その電燈は失はれ
 
(音楽劇『銀河鉄道の夜2020』より)




「ひかりはたもち その電燈は失はれ」



わかるようでわからない。
私には関係なさそうだけれど
でもその余韻は確かに形を作る。







やはり、ロルカ宮沢賢治は私の中でちょっとだけ似ている。
推しで世界を谷折りしがちな私の、新たな私的発見でした。





以上






※ 音楽劇『銀河鉄道の夜2020』はこれまで衛星劇場で何度か再放送されているので、今後機会がありましたらぜひご覧になってみてください。




10/2の感想はこちら。
またさらに印象の変化がありました。