王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

推しがBLコミックを原作としたドラマに出演する件について

木村達成さんがドラマ『オールドファッションカップケーキ』に出演されることが発表されました。


全5話で6/13よりFODおよび楽天TVにて配信、
第1話は無料で視聴が可能&フジテレビでも放送されるとのこと。


えっ、推しの恋愛ドラマがフジテレビで放送されるとか、あんまり考えたことなかった。
えっ、すごいね…???








この一番上のツイートの60秒予告を見ただけでわかる……!
これは推しである木村達成さんの「「「良さ」」」が役の魅力に直結する作品……!!





ただ、この発表を受けて、私には手放しに喜べない部分が少なからずありました。なぜだろう、とずっと考えていたのですが、なんとなくそれはジャンルや内容によるものではなく、「宣伝」への不安があるせいのような気がしています。
私はBLというジャンルについても「BLコミックのドラマ化」という現象についてもほとんど知識がないため、これは根拠のない漠然とした不安であり、映像業界に対する偏見に近いものです。もっと具体的にいうと「現実に生きる性的マイノリティの方の気持ちを踏みにじるような宣伝が展開される」ことを無意識に危惧してしまっているのではないかと思います。


実際にそのようなことがあり得るのか、映像界隈の動向には詳しくないのでわかりません。ただ、近年の人気作でそんなひどい煽り方をしている作品は見かけていないかも、とは感じています。にもかかわらず警戒してしまっていることを申し訳なく思います。




おそらく界隈では散々議論されたりその先の段階に進んでいたりしていることと思いますが、自分の中の不安を整理したくてこれを書いています。
無知をさらけ出すようでアレですが……



私は別のマイノリティ当事者に近い者(奥歯に物が挟まったような言い方ですみません)なのですが、たまに、マイノリティを描いた作品に少しだけ引っ掛かりを覚えてしまうことがあります。
社会で生きることや人間関係における障壁、それに対する葛藤というのは、理由はなんであれ皆ある程度は経験することであり、だからこそそれを描いた作品に共感したり気付かされたりするのだと思います。
でもたとえばその「障壁」が、現実にもある社会の構造や仕組み、マイノリティへの偏見などに起因するものであった場合、それらが温存されている事実を横に置いたまま登場人物たちのつらさに共感したり、それを乗り越える様を見て感動したりするのは、なんとなく、安全圏から当事者たちのつらさを消費することに終始してしまっているような気がして、個人的にはちょっと居心地の悪さを覚えてしまうのです。(いやそんなこと言ったらきりがないよ、というのはその通りだと思います。そしてそんなことを言いつつ楽しんでいることのほうが多いのも事実です。そこの矛盾は私の中にずっとあります)


ただ一方で、マイノリティを描いた作品が広く鑑賞され、「こういうつらさがある」ということを非当事者の方が知るというのは大事なことだとも思います。多くの人がただ知らないからその状態が放置されてしまっている、ということも往々にしてある気がするからです。
私自身、なんらかの作品を鑑賞して登場人物たちの直面する障壁を一緒に疑似体験することで、
「ああそうか、世の中にはこういうつらさがあるんだな」
「こういうところが不便なのに、ずっとそのままになってきたんだな」
「私には全然、見えていなかったな」
と気づかせてもらったことが今までにも何度もありました。
創作者や役者は、誰かが世界の片隅で抱える「つらさ」を広く伝えることができる職業であると私は思っています。しかしそのやり方があまりにも無神経であったり、内容があまりに現実と乖離していた場合の責任も大きい……ような気がします。


今回、佐岸左岸先生の描かれた原作を拝読して、この作品は、少なくとも、現実世界を関係ないものとしたり、つらさを極端に美化したり、マイノリティ性を一方的に都合よく扱ったりしているだけの作品ではないように思えました。「こういう苦しみを、自分も無意識のうちに誰かに与えることに加担してしまっていないか?」を考えさせられるような物語であったように思います。
そしてだからこそ、これをドラマ化した時、その原作にあるはずの思いを踏みにじるようなものにならないか、そして登場人物たち(とそれに近い状況にある現実を生きる人たち)を蔑ろにするような宣伝文句が展開されないか、という点について、少し不安になってしまいました。


たとえば、これはちょっと身近にあった例なのですが「禁断の」とか。その愛が禁断なのだとしたら、そうさせているのは誰なのか、という問題意識もなく、安易に使われたりはしないか。
あとは「熱演」とか……これはその言葉自体ではなくどこに掛かってくるかが重要なのですが、仮に「マジョリティがマイノリティを演じる」ことに掛かってしまうのだとしたら、それがそんなに大変ですごいことなのだとしたら(これは、自分がお芝居を楽しむ上での価値観における強い矛盾への内省でもあります)、なぜ両者の間にそんなに距離ができてしまっているのか。そもそも多くの作品の場合、当事者はどこにいるのか。いないのか、「本当はいる」のか、どちらにしても不自然さはないか。
多くの当事者たちが声を上げているのに同性婚の法制化が実現していない現実を無視して、「禁断の愛に苦悩する二人の熱演を、ぜひ見てね☆」と言うような宣伝がなされたら「いやだなあ……」と。


宣伝文句のことばかり言いましたが、たとえばドラマの内容自体が「女性はこういうのが好きなんでしょ????wwww」という作り手の声が聞こえてくるようなものになっていたらそれはもう論外です。ただ、予告を見て、なんとなくそこは大丈夫なのではないか……という気がしています。それと内容は見なければわからないけど、宣伝は作品を見ない人の目にも入ってしまうので、より影響力が大きいように感じています。


そして。その宣伝の一環として行われる出演者のインタビューなどで、俳優さん自身の持つ偏見や無自覚な差別意識、無知、不勉強が滲み出てしまうことがあります。(これは映像業界だけではなく演劇界隈でもよくあることのような印象があります)


正直、それが一番怖いな、と思っています。


でもよく考えたら、私自身こそが、この文章に滲み出ているように、偏見だらけで差別意識が根深く無知で不勉強であるので、人様のことを心配できるような立派な人間ではないのでした。むしろ私は木村さんの感覚をすごいなあと思うことのほうが圧倒的に多い。だから外川さんの演じ手として信頼していますが、万が一そんな推しのマイクロアグレッションを目撃するようなことがあっても(「マジョリティの気づき」のために誰かのつらさを量産するようなことはあってはならないので、それが起こらないに越したことはありませんが)、それはまず私自身が今までアップデートできていなかった部分について勉強するきっかけにすべきものなんだよな……と今書いていて思いました。あー、このもやもやや不安は要するに私の個人的な問題なんですね。


ドラマ化が発表されて、今のところ、そこまでべらぼうにひどい煽り方や発言、表現はされていないように私は(あくまで私は)感じています。
だからこれは勝手な杞憂で、濡れ衣で、本当に失礼な話です。
すみません。
映像業界の人権意識が全体的に底上げされてきて、もうそんなことは起きないようになっているのかもしれません。
そうであってほしいと願っています。



そんなこんなで(そんなこんなで?)(なんの結論も出てないが…?)、私の中のもやもやを整理してから言いたかったこと。
今回発表された予告も、キービジュアルも、とても素敵だと思いました。
6月からのドラマが楽しみです。





2022/06/03追記


6月はプライド月間。
SNS上ではタイのBLドラマに関わる人々からの発信が多く見られます。
一方日本はというと、私が探せていないだけかもしれませんが積極的な発信はあまり見られないような……?


<すみません、以下、1巻5話の台詞のネタバレがあります>
話は変わりますが、原作の1巻を読んだ時に少しひっかかりをおぼえたのが、終盤で外川さんが「大丈夫です。」と野末さんに語りかけるところで。
当事者の外川さんが年の差やマイノリティであることをなんてことありませんと言うのと、私がそれをそうだよねと思うのとでは全然違って、外川さんのは決意とか覚悟とか長い月日をかけて醸成された意識とか自分への言い聞かせとか野末さんへの思いとかいろいろで、私のはただのそれへの便乗となんなら現状の放置と差別の加担で、そこの違いがふわっとしたままこの物語が終わるのは危うい…?危ういって言葉があってるかわからないけど微妙だなと思いながら読んでいました。
だから続刊(withカプチーノ)で野末さんが「あの時は俺もそう思った。でも、今はそう思わない」と言い出した時、ああそのあたりもちゃんと描いてくれるんだなと思いました。


ドラマは多分1巻分だけだから、そこがどういう描写になっているのかなあ……というのが気になっています。外川さんと野末さんの覚悟への便乗だけで終わらずもう一歩なにかあったらいいなあとか……まずそもそもなぜ覚悟がいるのかという話であって……いや1巻の段階では覚悟とも描かれてはないか……
ここはなんとなく「同性間の恋愛も異性間の恋愛(それこそその異性同士の恋愛を「普通の恋愛」と書きそうになる自分の感覚ももうアップデートしたい)と変わらない」と言うのが誰なのかで色々変わってくる事象と同じような問題を孕んでいるような気がしている、けどうまく言葉にできない。


ただ、「異性間の恋愛と変わらない」のであれば、じゃあなぜその恋愛に障壁があり外川さんや野末さんがこんなにも悩んでいるのか、というところも大事で、そこが現実の差別とか偏見とかに繋がってくるはずなんだけど、それすっ飛ばして「なんてことありません」で乗り切って終わったらちょっと足りない気がするかもしれないなあと…あまりにも当人たちのとらえようや心の持ちように私たちが頼りすぎではないか、と……


で、公式の発信というのは、作品では描き切れないかもしれないそういった点を補い得る可能性を持っている気がするのですが、そういうのはまだ見られないなあ…….というのが冒頭のプライド月間の話です。



外川さんと野末さんのようなふたりの前に、どんな現実が立ちはだかっているのか、という話。



こちらは5/30に結審した「結婚の自由をすべての人に」東京第1次訴訟の最終弁論についてのツリーで、1991年からの道のりにも少し触れられています。




こちらは国側と原告側の主張のポイントが整理された記事。

同性カップルは「自然生殖の可能性が認めらないこと」や「社会的な承認が存在しているとは言い難い」ことから、異性カップルと同じようには扱えない

・現行の法律は、結婚の要件として「特定の性的指向であること」を求めているわけではなく、同性愛者も異性と結婚できるので、性的指向に基づく差別があるとは言えない

・男性でも女性でも異性同士であれば結婚ができて、同性同士であれば結婚できないので、性別に基づく差別があるとは言えない


国側の主張、これマジで言ってんの????
って思いますけど、こちらの書類(国・自治体側、【東京・第10回】被告第6準備書面)を見ると本当に言ってる感じですね……まだ全てのページは読めてないのですが……でも今までのこういった訴訟の主張や判決も「マジで言ってんの???」って思うものばかりなので、まあ、そうなんだろう………と。
これが今の日本の現実で。
こうだとわかっているからこそ、外川さんは「なんてことない」とわざわざ言う必要があったし、野末さんは自分たちのこととして現実と向き合った結果「なんてことない」ことだとは思えなくなった。



そしてこちらは原告の方の法廷での意見陳述なのですが、
https://www.call4.jp/file/pdf/202205/5ce0f86872850ecab10d98e6fb367667.pdf

SNS相談には次世代、若年層からの相談が多く寄せられています。7~8割が中学生、 高校生からの相談です。

この裁判は、原告の私たちだけではなく、次世代の希望も担っているのです。


私は今までこの観点が全然持ててなくて、ああそうかあと……私たちの今だけでなく、子どもたちの今と未来をも決めるものなのだなと……
「なんてことありません」「今はそうは思わない」外川さんや野末さんのような人にそうやって言わせる現状を温存している場合ではないな、と思った、という話でした。

東京第一次訴訟の判決は11/30。
今月20日には関西訴訟の判決があります。


これまでも関心を持ってはいたけれど、報じられた記事に目を通すだけで、全文や原文を読んでみたりはしなかった。
読まずにいられたのはたぶんひとごとだと思っていたから。
無知な私はまず知ることからだ、と思います。






2022/06/21追記

昨日、大阪地裁の判決が出ました。



自分が関わることでも常々思うけど、個々人の選択肢を増やすのってそんなにいけないことなんだろうか……?




2022/07/04追記
選挙関連で流れてくる話が頭を抱えるものばかりでつらいですね。今に始まった事ではないですが…(それこそがやばいのですが…)
悶々とします。考えもまとまらない…