王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

私の現在地。KERA CROSS『SLAPSTICKS』を観た

シアタークリエにて、KERA CROSS第四弾『SLAPSTICKS』を観ました。



私はこの作品をとても楽しみにしていました。
楽しみすぎて、公演を待つ間にも日記を綴ったくらい。いつもはそんなことしないのですが。


それがこちら
(特に読まなくて大丈夫です)


そしてこの日記が、はからずも私の現在地をそのまま記録するものとなってしまっていました。
気がついたのは12月にシアター1010公演を観劇して、しばらく経ってから。
具体的には、1月6日発売『すばる』2022年2月号に掲載された演出の三浦直之さんのインタビューを読んでからです。


その記事によって、三浦さんの演出作『Every Body feat. フランケンシュタイン』と『SLAPSTICKS』を続けて観て「たまたまかな」、と思っていたことが、おそらく意図されていたことだと分かった。


そうか、そうなのか……。


それならば、私は三浦さんの演出の後ろにある思いを、支持したいと思いました。


そのためにはまず私の価値観をアップデートしないといけない。
楽しみに待つ私の日記に記録されていたのは、私の現在の価値観でした。


9月某日、2003年版をDVDで観て私はこう書きました。

いやこれ、本当にこのキャストでやるの!?大丈夫!?!
東宝ミュージカルキャスト×シアタークリエ×ロマンティック・コメディのつもりの頭で見ると大混乱する。思ってるようなロマンティックはもらえない。なんかすごい。「大丈夫!?」っていうのは演出・キャストと作品のミスマッチを危惧しているのではなくて、キャストの布陣から観客が想像するものと実際の作品のギャップが大きそうという意味です。


また、10月22日のビジュアル公開時にはこうも書いています。

小西さんも木村さんも2003年版を見て想像してたビジュアルとイメージが違う!
というか雰囲気からして話のイメージと違う。
もしかして本当にこんな感じのスタイリッシュロマンチックコメディになるのかな…!?それもすごくいいな…!!それともあくまでイメージかな?

たぶん私はこのお話を「ロマンチック・コメディ」と表現することに違和感を覚えていたのだと思います。でも、そのことをあまり深く考えようとしなかった。そして、誰に忖度するでも弁えるでもなく、本気で「まあ、そういうものかな」と思い込んでいた。


三浦さんの演出版をあらためて「そのつもりで」観た今、なんとなくわかってきました。
性被害が物語の歯車の中心として置かれているにもかかわらず、そのことをベールで覆うように「ロマンチック・コメディ」と銘打たれていることへの違和感。痛みへの鈍感さ。あるいは鈍麻。見えている世界の違い。
これは誰にとってならロマンチック・コメディでありうるのか、笑い話にできる人は誰か。
距離がある人、当事者でない人、未来の人、「そういうもの」と思い込んでいた私。


「そういうもの」という封印が剥がれた時、そうか、私にとっては、これはロマンチック・コメディと呼ぶには痛みの多すぎる物語だったんだな、と気がつきました。



2003年版を観た時はスルーしていたくせになぜ急にそんなことを言い出したかというと、2022年版で演出の三浦さんが、亡くなったあとのヴァージニア・ラップを舞台上に登場させたからです。(彼女は実在の人物であり、このお話の事件の部分は実際に起きた出来事を参考に作られています)
2003年版では、彼女の出番は亡くなってそれでおしまいでした。彼女は物語を動かす機構のひとつの部品であったにすぎない。あの事件があって、ビリーの苦い青春物語とロスコー・アーバックルの悲劇は大きく展開していきます。被害者である彼女を舞台の外に置き去りにして。私はそのことに何も思わず、そのレールに乗ってたぶん彼女のことを忘れてしまった。「ああ、またそんな感じか」という諦めみたいな感情も亡き者にして。


12月にシアター1010で今作を観た時、そんな自分をガツンと殴られたような気持ちになりました。
ヴァージニア・ラップが、亡くなった後も舞台の上を彷徨っている。周りの人に話しかけている。懸命に何かを訴えている。そんな彼女の姿も、声も、舞台上で同じ時代を生きる人々には見えない。聞こえない。
でも、2022年を生きる我々には彼女の姿が見える。
それなのに、それでも、彼女の声は聞こえない。こちらには届かない。私はそれを聞き取ることができない。


これが私の現在地だ、と思いました。


KERAさんが意図的にしているのかはわからないのですが、僕が何より気になったのは、亡くなったラップの声が一切描かれていないことです。当時の性加害に対する認識とは違ういま、僕たちはどう向き合っていくのか。ラップは存在したのに、その声が奪われていることを真剣に考えなくてはと。書かれていないことを見つけるのも演出の仕事だと思います」

(沢美也子「『SLAPSTICKS』生者への眼差し、死者への眼差し」、『すばる』2022年2月号、306-307頁)


誰かの物語に、封殺された声を重ねること。
聞こえなくてもいいから、せめてそれが存在することに気づいてもらうこと。


それが、2022年のヴァージニア・ラップの姿に込められた意図、祈りではないかと、私は受け取りました。

ヴァージニア・ラップを演じる黒沢ともよさんは、声には出していませんがあきらかに何かの台詞を喋っているので、三浦さんには三浦さんの中の彼女の声が聞こえているはずです。
しかしそれを我々にも聞こえるようにはしなかった。この作品の重要な主題である「サイレント・コメディ」にかけた部分もあるとは思いますが、「2022年においてもなお彼女『たち』の声が届いていない」現状それ自体について問題提起したのではないかと思いました。




前述のインタビューは稽古中のものだと思われますが、三浦さんがこのような姿勢で30年前に書かれた脚本と対峙しているとわかった以上、舞台の1921年と現代の2022年の間にある「脚本の書かれた1993年」に目を向けないわけにはいきません。
なぜ亡くなったラップの声は一切描かれていないのか、KERAさんが当時はある部分においてすごく鈍感な脚本家だったからか。


……いや私はKERAさんのことは何も存じ上げないのでそれを語るような情報はなにひとつ持ち合わせていないのですが、ただ、思い当たることがあります。それがまた自分が日記に書いていたことなのです。


10月某日、私はむかし初めての観劇に(KERAさんの作品である)ナイロン100℃フローズン・ビーチ』再演を選んだ理由として、子どもの頃にナイロン100℃犬山イヌコさんと劇団⭐︎新感線の古田新太さんがやっていたラジオを聴いていたからだ、と書いています。
実はこの日記を書いた時、私はタイトルをググって当該番組のWikipediaを読んでいました。そこには、目を疑うようなことが書いてありました。

番組本回収事件

1996年3月に発売された番組本「野茂とホモの見分け方-はちゃめちゃベスト3」(扶桑社、ISBN 4594019439)が、「同性愛者を揶揄する内容」という理由で人権団体から抗議があり、回収されるという事態となった。その後、「コギャルと子ザルの見分け方-はちゃめちゃBEST3」(ISBN 4594019994)というタイトルになり、内容の一部を差し替えた上で再発売されることとなった。


(「古田新太と犬山犬子のサンデーおちゃめナイト」『ウィキペディア日本語版』より)


「私、そんな番組を楽しく聴いていたの……!?」と衝撃を受けました。今の感覚だと差し替え後のタイトルも無理です。
話が逸れるから(そしてたぶん目を逸らしたかったから)日記には書かなかったけど、かなりショックでした。
だからといって犬山さんや古田さんをいま嫌いになったりはしないけど、かつてはそうだったんだ、ということは事実として受け止めなければいけないと思いました。もちろん何よりも先に「自分が」そうだったんだ、ということをです。
この事件が1996年。今これを読んだ若い方々は「これが出版されてしまう」という1996年の日本の倫理観に唖然とされたのではないでしょうか。これは同性愛者への事例ですが、当時の人権というものに対する意識の希薄さがうかがえると思います。
1990年代って、まだそんな時代だったんだな、と……いくら子どもとはいえその頃の自分は何を笑ってしまっていたんだろうと思うわけです……
なので、1993年に書かれたこの脚本のいくつかの……多くの……倫理的問題点は、KERAさん個人というより時代の抱えていた問題なのかなあ…と思っています。


だから重要なのは、それを2022年のいま「わざわざ」持ち出した時に、どのように向き合っていくか、であって。
それは、一部では、作り手や主催側が2022年を生きる我々の価値観をどのように評価しているか、という話でもある、と思っていて。



私は、三浦さんは「2022年の観客にはヴァージニア・ラップの声が描かれていないことに違和感を覚える人は少なくないだろう」と感じ「そのことを無視すれば彼女『たち』の声を二重に封殺することになる」と考えたのかな、と思いました。


私はこのことに正直とても驚いていて……まさか、ヴァージニア・ラップの声が描かれていないことに気づき、ましてそれをわざわざ追加してまで描こうとする男性演出家がいるとは思っていなかった、という、本当に失礼な話なのですが……
実はシアター1010公演を観た時点ですら「たまたまかな」と思っていました。
ですが、前述の『すばる』のこちらの発言を見て、ようやく得心がいきました。

その際に自分が男性演出家であることを自覚しないと、と三浦は言う。
「意図せずして持ってしまう権力に対して、考えることが多くなりました。演出家は権力が集中しやすいし、僕が無自覚になると、虐げられている登場人物たちに寄り添えない」

(同記事、307頁)


「男性演出家が意図せずして持ってしまう権力」に自覚的でいようとしていること。そして「虐げられている登場人物『たち』」と認識していること。
「そうだったのかーーーーーーー」と。
それを意識して作られていたのか、と。たまたまではなく。


それを踏まえて2022年版を思い返した時、上記の発言が今作にあらわれている例としてわかりやすい気がするのは、「マリー(やたらと食べる女)」(※パンフレットのクレジットおよび劇中の紹介より)をロロの篠崎大悟さんが演じていることです。
シアター1010公演で最初に出てきた時は「異性装をオモシロとするタイプのキャスティングか…?」とうんざりしたのですが、話が進んでいっても特にそれをおちょくるようなシーンもなかったため、どういう意図なのかはかりかねていました。
でも、この補助線が引かれると見えてくる気がします。
なんというか、(1993年はわからないのですが)2003年のようにこの役を女性の役者さんが演じた時、今の私は笑えるか、ということかもと。過去の私は笑ったでしょう。「そうだった」ので。でも今はどうだろう。
マリーは他の女優たちとは違って「もう限界なのに芸を強要されるシーン」が具体的に描かれています。このくだりを今、女性の方が演じたら、たぶんもう笑えないような気がするのです。監督であるマック・セネットから女優への、そしてその向こうに重なる男性演出家から役者への、権力関係に基づいたハラスメントや暴力として目に映るからです。人によってはこのシーンだけでもフラッシュバックを起こしかねないと思います。
その「虐げられている」という印象…ショックを少しでも小さくするための策として、限りなく力の差の小さい人、つまり演出の三浦さんと同世代で同じ男性であり、かつ、ずっと同じ劇団で活動をしてきた篠崎さんがこの役を演じることになったのではないか、と感じました。結果として観客の印象にねじれのようなものが出てしまったようにも思いますが、女性があのシーンを演じるよりも、ダメージは小さくなったのではないか……と思います。なお相手が男性だからいいということではないです。「三浦直之さんにNOが言えるであろう立場に思える」という点が重要です。
みんながみんな篠崎さんと三浦さんの関係を知っているわけではないし、考えすぎかもしれませんが、マック・セネットを演じるマギーさんとの体格差もあわせて、少なくとも光景の見た目としてそのような効果はあったと思っています。
まあ、それで今日の私が笑えたかというと、結局暴力性が気になって笑えてはいないのですが……


ちなみになのですが、JDTAに掲載されている2003年版のクレジットには、(これが当時の正式なクレジットだったかどうかはわかりませんが)「マリー(太った女優)」と記載されています。こういうところにも時代の変化と主催側がそれをどう評価しているかが表れてくるのかな…と思います。



このように、2003年版に比べて「棘にヤスリがかけられている」ような表現や笑いの部分は多く、明らかに時代に合っていない何かを無自覚に放流していく作品に比べたら個人的には好ましいと感じます。
それでも、今日の私は「そういうものだ」、という鎧を外して観てしまったので、やっぱちょっとくらいヤスリをかけられてても言葉の棘は棘のままで、なかなかのダメージを負いました。
(でもやっぱり、前の感想にも書いたけど亀島さんの役(ハリー、フレディ、ラジオ司会者)の最低加減をどこまで体現するかのバランス取りに色々な葛藤が表れていると今日も思った。役者と演出家が自覚的でなければ、もう本当に簡単に「マジで無理、本当に勘弁して、いくら最低を演出するためとはいえここまでやるなんて軽蔑するわ」な表現となっていただろうと想像がつく……体の触り方とか。そういう表現、今でも多い気がするから……)



合ってるかわかりませんが、インタビューの他の部分を読むと、たぶん三浦さんは昔の戯曲の再定義や捉え直しをやりたかったのではなくて、単純にこの物語のロマンチック・コメディらしい部分やサイレント・コメディへの愛に魅力を感じて脚本を選んだのかなと感じました。そのことは、登場人物たちが愛らしく舞台上に存在していることからもうかがえる気がします。三浦さんは彼らを愛し、また彼らやKERAさんのサイレント・コメディへの「偏愛」に深く共感している。
しかしだからといって、私のように「好ましく思うものが内包する違和感」に目を瞑ることはしなかった。
それどころか、その違和感を作品中で表明していた。


そこにこの企画の「KERA CROSS」という名前が効いてくるのだなあと。戯曲をなぞるんじゃなくて、価値観を交差させていくんですね。


そっかあ、自分の価値観をいなさずに違和感を違和感として表明していいんだな、そりゃそうだよな、と……そこが今回の私の一番のアップデートです。
まして自分のブログに書いてる感想なんて違和感のひとつやふたつ書いたってなんでもないよな。
私の現在地、ちょっと動いた。


なので、
私は三浦さんが表明した違和感、意識してヤスリをかけたように思われる部分には共感したので、支持したいなあと思いました。
と同時に、たとえ括弧付きであってもこの作品を「ロマンチック・コメディ」と呼ぶことには今の私は抵抗があるし、
まして、今この作品の宣伝で「ロマンチック・コメディ」の看板を掲げることには大きな違和感を覚えます。そのイメージを期待して観て、「not for meだった」だけでは済まない人がいるかもしれない、そのリスクをどのように評価したのだろうか、と、思います。「そうはいってもそもそもKERA作品なので……」というのはあるかもしれませんが、趣旨からして初めてCROSSする観客も多いと思うので………
何より一番私がわからないといけないのは、「まあ、そういうものかな」と思っていた私も、そこに加担してしまっていた、ということだなと思います。



そもそも「ロマンチック・コメディ」からイメージするものに齟齬があったんですかね…?
私のイメージした感じと主催さん側がイメージしてる感じがそもそも違うんですかね?
なんかこう……私はなんか……綺麗な街灯とかをイメージしたのですが……(?)




まあそこはもうわからないのですが、じゃあ三浦さん自身が「ロマンチック・コメディ」を1993年でなく2022年の今、書いたらどうなるんだろう、っていうのは少し気になるんですよね。
で、これです、


当初2020年6月に行われるはずだった同名公演がコロナ禍により延期になったのですが、
このタイトルが超たまたま偶然こうなったものなのかどうかはわかりませんが三浦さんとロロのみなさんの価値観をもっと知りたくてこちらの公演を観に行きたいな、と思っている所存です。
「そういうものだ」、という鎧をつけずに観られる作品だといいな。









以下、その他の感想です。
まだ書くのって感じですみません
今日って書いてるけど投稿日ではありません(アップするまでに時間がかかってしまった)




これ、こんだけ言っといて本当に意味がわからないんですけど、私は今日、2003年版もあわせて鑑賞3回目にして、初めて観終わって「良くできた作品だな……」と思いました。
1回目はこれは夢とかこれは現実とか頭の中で付箋を貼りながら見てしまったのでそこにリソースを結構割いてしまって、観終わって「ああ普通に提示された順に見ていくだけでいいんだ」とわかったので2回目はそこは気にせず観られたんですけど、今度は2003年との違いに気を取られてしまって、今日ようやくちゃんと全体を見られたのかなと…

その結果、KERAさんの脚本の構成と三浦さんの演出と音楽舞台装置照明プロジェクションマッピングがかっちりはまって見えたので、なんかすごく良くできてるなと……スタッフワークが演出をバックアップしててとてもいいですね……!
仮になんですけど、この令和の時代に色々無自覚で無頓着な人々(仮にです)がヴァージニア・ラップという役を作り上げた場合、どんな衣装でどんな照明でどんな音楽がついて役者さんがどんな仕草どんな表情どんな声の出し方をさせられるのか、超想像つくじゃないですか、そうならなくて良かったと本当に思うし、演出家だけの成果じゃないよなって思いました。


木村さんの出演作を複数回観ることはあるけど、こんなに観賞後の印象が根本から変わることはそんなにないな……。
「そういうもの」という諦めフィルターを取っ払って観たので、笑いも合わないものが多いなーと思ったしあーもーそういう言葉やめて……と思うシーンも少なくないんですけど、色々合わなくても引きで見た時に「良くできてるなあ」と思うこともあるんだなと思いました。
なんか現実と虚構なんて全部めちゃくちゃだよとスタッフワークで畳み掛けてくる部分が今の私の実感に重なったのかもしれません。



一番好きなのは、アリスがアーバックルにサインをもらうシーン。
ここは誰も傷つけない笑いだから本当にほっとして……桜井さんの笑い声がなんだかとても耳に心地よいので、もっともっと笑ってほしいと思うし、このままこの安らぎが永遠に続けばいいのにと思ってしまうけど、金田さんがだらだら引きずらずにちゃんと切り上げてくれるのが良い。



アリスのこと。
今日観てやっぱり思ったのは、桜井さんのアリスは嘘をついていないよね……?ということで……………
2003年版では、アリスは何か事情があって嘘をつかされている印象で、なので最後の「裁判で証言はしなかった」と明かされるところで「良かった、嘘はつかなくて済んだんだ」と思うんですけど、桜井さんのアリスはそうは思えなくて……少なくとも、「嘘をついている」一択では演じていないような気がして。
アーバックルと初めて会った時はあんなに楽しそうに笑ってたのに、同居人さんの話からすると2年前にはもうあまり笑わなくなってた感じですよね。彼女にも彼女の「笑いが止まった日」があったのかもしれないって……
だから、そうかなあと思いながら最後のビリーとのシーンを見ると、本当に2人の見えている世界が違いすぎて、木村ビリーは優しいけど全然レイヤーが違うところにいるんだなあと……彼のいる世界線では確かにこれは「ロマンチック・コメディ」なのかもしれないな……と。彼にとってアーバックルのブロマイドはこれから甘く苦い恋の思い出になる。でもアリスから見ればあれはすでに思い出との訣別だったんだな……と。



金田さんのロスコー・アーバックル。
やっぱり、すごく良い。音の余韻を残させないような台詞の切り方が好き。
2003年版では人が良さそうで本当にやってないだろうなという印象だったけど、金田さんのアーバックルは淡白で、この作品が一方的なアーバックルへの擁護のみにならないように留意されていると感じます。
でも、その淡白さと、金田さん自身のつるっとした存在感が、事件後の彼の映画への思いを引き立たせてもいて、うん………複雑な思いで見ていたけど、セネットさんに言った「僕はもう映画できないのかなあ」みたいな台詞の言い方にすごく心を掴まれてしまった。自分の歩いてきた道が急に途切れた時、完全な断絶もつらいけど少しだけ可能性があるのかないのかみたいな状況もまたつらい……と、急に自分も過去の淵に立たされたような気分になって。金田さんも、金田さんをこの役にと決めた人もすごい。会心のキャスティングだと思いました。
ヴァージニア・ラップが被害に遭ったこと、ロスコー・アーバックルが逮捕されたこと、アーバックルが冤罪であったかもしれないしそうでなかったかもしれないこと、マスコミの報道が醜悪であること、大衆が扇動されること、みんなが手のひらを返すこと、排斥運動が起こったこと、「母親」がアーバックルから子どもを遠ざけようとすること、作品と作者を同一視すること、そういうひとつひとつがそれぞれ現代に続く問題を投げかけていて、どれを受け取るかも人それぞれだと思うんですけど、金田アーバックルのお芝居によっては偏った因果関係が結ばれたり構図が単純化されて見えたりしたと思うのでそうなってなくて良かったな……と思いました。



あ、でも、ビリーの、そしてこの作品の大きな問いである
「笑いのために老人を蹴飛ばせますか、メーベルさんを列車から突き落とせますか」に対して
「みんなを大笑わせできる映画が作れりゃ 死んだってどうってことないさ」という返しは、やっぱり答えになっていないのでは…?と思いました。
もちろん、アーバックルさんの心意気は伝わってくるんだけど。
ビリーは優しすぎると責め立てられてこれを聞いてるんだから、対応する回答は
「みんなを大笑わせできる映画が作れりゃ 人が死んだってどうってことないさ」
ではないの…?
アーバックルさんの答えに質問を合わせるなら、
「笑いのために蹴飛ばされても平気ですか、列車から突き落とされても平気ですか」ではない?
加害の対象が自分か他者かで話が全然違う気がしてしまって、ここがまだ納得できていないな……
「みんなを大笑わせできる映画が作れりゃ 死んだってどうってことないさ(だから蹴飛ばしたり突き落とされたりしても役者はみんな本望だよ)」ってこと…?




木に石を投げるシーン。
やっぱりここも今日も強く印象に残りました。
繰り返しになるけど、2003年版だとこのシーンはルイーズとドロシーしかいなくて、「女性も人間である」「コネのある女性も人間である」「女の敵は女ではない」ということが描かれている名シーンだと思うんですよね…いや何それ、って感じなんですけど、それを描けてる作品って実はそんなに多くなくない…?当たり前なんですけど女性だって人間なんですよ……
そもそもこの作品は、女性がたくさん出ているけど結構夢だったり想像だったりして本人たちが自分の言葉で喋ってるところってそこまで多くないんですよね。その点でも貴重なシーンで……
2022年版、ここにヴァージニア・ラップが加わったことによって、ルイーズとラップが「持つ者」と「持たざる者」として対比になっている部分があることが強調されました。ルイーズにはコネがあって、マック・セネット監督の映画にポンと出られてしまう。一方ラップは……と。そして、ここが本当に重要だと思うんですけど、この2人が「木に石を投げる」という行動を共に経て、物理的に立ち位置が入れ替わることで、「しかし彼女たちはある点では同じではないか」と、声はなくとも視覚的に示されるんですよね。2人とも一方的な構造の中でどうにか生きようとしている。その背景には、構造を作って維持・支持・黙認しておいて、その中でしか生きられない者を揶揄する人たちがいる。
本来対照的な存在として描かれていたかもしれない2人が、共鳴する痛みを抱えていると気づくことがすごいなあと思ったし、ドロシー、キャリー、メーベルも含めた彼女たちの背景に思いを馳せようとした人にしかできない追加演出だと思いました。


ただこれは自分が気をつけなければいけないと思うことなんだけどやっぱり奪われた声を他者が描こう、聞き取ろうとすることはとても難しくて、最後のシーンの演出でヴァージニア・ラップがまるで主演女優のようにスクリーンにとらえられているのが見ようによっては一番非当事者的感傷かもしれないとか思ったりもしました。わからないけど。



そういえば一幕、なんか音響…?に微妙な違和感があったような…?全然聞こえてるし全然聞き取れるんだけど、何かこっちまで声が響いてこないような…客席が「すん…」てなる前の段階で、そもそもなんか届いてないっていうか…くぐもってるまではいかないんだけど、舞台上だけでやってるようなそらぞらしさがあるというか。だからちょっとそちらの世界に乗り切れない感じがあって。クリエで他の作品を見た時や、あとシアター1010では体験してない違和感だった。あれなんだったんだろう?席のせい?あ、すごい時間差でビリーが吹っ飛ばした粉のにおいが届いたのは面白かったです。




あとは、メーベルさんのお召し物がとっっても素敵で壮さんが本当にかっこよく美しく着こなしていらっしゃるなあ……とか、小西さんの大人ビリーのキュートさに目を奪われたりとか、木村さんまたお芝居がうまくなってるなあとか、そんな感じのことを思っていました。
ビリーとアリスが踊るシーン、あれが三浦さんの思う幸せの表現なのかなあと思ったり。2003年は踊ってなかったよね…?小西さんビリーもちょっと離れたところで踊ってるのがすごく好き。あれが大人の役割かもなあって。
あとマギーさんのアドリブ(ここも人を傷つけない笑いで好き)に笑う木村さんがセネットさんのことを尊敬しているビリーと重なり合わさっていいな、とか。そういえばセネットさんがハリーのサスペンダーを軽くパチンとやるのは前回見た時は無かったような…?亀島さんの反応がちょっとかわいらしかった。


木村さんは、かっこよくて演技に愛敬があり声の通りが良くてお芝居にも好感が持てて最高ですね!!(めちゃくちゃ初心に戻った感想)
ビリーが父や好きな人とテーブルを囲む時、仲間たちとテーブルを囲む時、憧れの人々とテーブルを囲む時、好きだった人とテーブルを挟む時、
顔と全身でドキドキしたりハラハラしたりワクワクしたりピカピカしたり、浮かれたり焦ったり、刺すような痛みを感じたり、
そんな様子を見て「ビリーが生きてるなあ」、ってしみじみと感じました。
アーバックルさんとメーベルさんに挟まれて座っている時とか、ほんとに好きなヒーローと並んで立った時の子どもみたいで。そんなに浮き足立ってる場合じゃないと思うんだけど、そうだよね、嬉しいよね、好きなんだよね……と。好きなものを好きだと思えるのって幸せだよね。
そこにビリーが生きている、豊かな喜怒哀楽がそこにある、そして観客がそれを見ている、そのことに安心しました。
不思議ですね。
現実と虚構は全部めちゃくちゃで、虚構が現実に手を伸ばすこともあるんだろうなと思いました。
ダメージを受けることもあるけど、たくさん救われている。



なぜ拍手をするのか?という問いに「感謝を伝えたくて」、と言った『CALL』のヒダリメのことを思い出しつつ、拍手をしました。



以上