傑作には二種類ある。
観終わったあとに
言葉が溢れて止まらない作品と、
打ちひしがれてなにも言えない作品だ。
(これは私にとっての話)
ドラマ『銀河の一票』は前者である。
この「木村達成さん(出てない)ファンブログ」での記事の多さがそれを物語っている。
ちなみに野木亜紀子さんの作品は後者であることが多い。
何も感想が浮かばないからと言って何も受け取っていないわけではないのだ。
当初時間が惜しくて1.75倍速で観ていたこの『銀河の一票』だが、最初の感想を書いたすぐあと4〜5話あたりからもう等倍速で観始めている。
観ちゃうよね〜等倍で
私にとって「作品を等倍速で観る」とは
「ブラウン管テレビの前に正座して5分前からチャンネルを合わせてCM中も席を立たない」くらいの心持ちである。夢中だ。
言葉が溢れて止まらない。
考えたいことがたくさんあって頭が休まらない。
これはドラマ『銀河の一票』からいくつかのテーマを経由して宮沢賢治に思いを馳せた、一生活者の感想メモである。
長いので入眠のお供にどうぞ。
※ 考察のような高尚なものではないのですみません。
[目次]
◆ 宮沢賢治のいう「銀河」とは何か
最初からクライマックスである。
以前、私の好きな俳優さんである木村達成さんが『銀河鉄道の夜2020』という舞台に出演したことがあった。
この時の私はそれはそれは言葉が止まらなかったのだが、結局下書きに入ったままの感想がいくつもある。実際に投稿まで漕ぎつけたのは3つだけだ(それでも多い)。
わからなかったのだ。結局、銀河鉄道とはなんなのか、宮沢賢治のいう「ほんとうのさいわい」とはなんなのか。賢治は本当に「自己犠牲」を良しとしているのか。結論は出なかった。
なんとなく、「自己犠牲」という思想に反発したい気持ちもあった。
そして月日は流れ、いつのまにか時は2026年に、、、えっ嘘でしょ6年も経ってるんだけど
2年前くらいかと思ってたわ
2026年、ドラマ『銀河の一票』第一話で主人公の茉莉はこう言った。
「世界がぜんたい、幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないんです」
これは宮沢賢治が地域の農民たちを集めて設立した私塾「羅須地人協会」の講義教材、『農民芸術概論綱要』の一節の引用である。協会設立前に岩手国民高等学校で教諭を務めていた際に担当した農民芸術の講義の内容がもとだそうである。
このあとにはこのように続く。
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
さらに読み進めると、
第四話でガラさんが自宅の壁に貼っていたこの一節に辿り着く。
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
????????
である。
私にはなんか哲学的で難しい、、、、と思う。
『銀河鉄道の夜2020』を観た時もこんな感じで、頭の上に30個はてなを並べながら何か手掛かりになるものはないかと本を探したりした。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
銀河系を????自らの中に??意識してこれに応じて、、、、、????
懐かしい。
こんな感じで、2020年の私も思ったのである。
「宮沢賢治のいう“銀河”って、なに?」と。
そもそも当時の「銀河」という言葉と今の「銀河」という言葉で意味は同じなのだろうか?
宇宙論は光速で深化している。宮沢賢治が生きていた当時、「銀河」とはなんだったのだろう。てか「銀河鉄道の夜」ってタイトルセンス良すぎない?????
そのヒントはこちらの本にあった。
まず、〝銀河〟だが、これは現代の天文学では一般名詞であり、恒星の大集団を銀河と呼んでいるだけである。しかし、賢治が『銀河鉄道の夜』を書き始めたといわれる1924年頃では、銀河=銀河系、つまり天の川のことを意味していた。
実際、これまでに紹介してきた当時の天文学の教科書を見ると、銀河=天の川となっている。銀河という言葉は天文学の教科書には出てくるが、普通の人たちがどの程度、銀河という言葉に慣れ親しんでいたかは分からない。おそらくは、銀河よりは天の川のほうが馴染みのある呼び名だったのではないだろうか。そういう普通の人がこの物語を構想した場合、タイトルは『天の川鉄道の夜』になっていたかもしれない。(谷口義明.「天文学者が解説する 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と宇宙の旅」.光文社,2020,電子書籍より)
『天の川鉄道の夜』……!?
嫌だ。なんかかっこよくない。『銀河鉄道の夜』のほうが圧倒的にエモくてメロい。「天の川鉄道」は大井川鐵道のような実在する鉄道を思い起こさせる。「銀河鉄道」のような神秘性がない。しかも『天の川鉄道の夜』では「の」が多い。漢字の中にたった一つひらがなが混ざっているから効果があるのである。二度も使うな。
補足すると、宇宙には天の川のような銀河がたくさんあることを、あのエドウィン・ハッブルが発見したのが1925年なのだそうだ。アンドロメダ星雲が独立した一つの銀河であることを発見したそうで、
確かに、これ以前に宮沢賢治が作ったと思われる『星めぐりの歌』には「アンドロメダの くもは」という歌詞が出てくる。
では、宮沢賢治のいう「銀河」とは、天の川のことなのだろうか?
ここが微妙で、『農民芸術概論綱要』が書かれたのは1926年頃、『銀河鉄道の夜』が書かれたのが1924〜1931年頃だそうで、まさにこのハッブルの大発見の時期を跨いでいる。
2020年、私は勝手に思ったのだった。
「宮沢賢治は、ハッブルの大発見に触発されて、まさにリアルタイムで動向を追いながら『銀河鉄道の夜』を書いたのだ」と。
だから何度も何度も書き直したんじゃない!?と。
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
よくよく見るとこの文では「銀河」ではなく「銀河系」となっているのがすごい。私は恥ずかしながら知らなかったのだが、「銀河」(a galaxy)はあまたある銀河のうちのひとつのことで、「銀河系」(the Galaxy)と表記した場合、「太陽系が属している銀河(天の川銀河)」 のみを指すのだそうである。
わざわざ「系」をつけているということは、賢治はこれを執筆した時すでに「銀河」と「銀河系」の違いを理解していたのだろうか。
言われてみれば、『農民芸術概論綱要』にはこんな文章も出てくる。
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
よくわからないのだが(わからないんか)、
「銀河の空間の太陽日本 陸中国(明治時代初期に存在した日本の地方区分で現在の岩手県の大半と秋田県の一部にあたる)の野原」というところに、
「宇宙の中の銀河群の中の銀河系の中の太陽系の中の地球の中の日本の中の岩手県の中の自分たちの生きている場所」という徐々に拡大していくダイナミズムを感じる。
なんだこのGoogle Earth的感覚は。
「銀河系」とは私たちの住む地球の日本の岩手を含む天の川銀河のこと。
そして、宇宙には、同じような「銀河」が数多存在する。
ということを、おそらく宮沢賢治は当時すでに知っていたのではないか(根拠はなく私が勝手に思ってるだけである)。
宮沢賢治、なんとなく写真の素朴そうなイメージしかなかったのだが、知れば知るほど最先端の男なのである。
ここで振り出しに戻ろう。
『農民芸術概論綱要』序論を引用する。
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
実は私はここが好きなのだ。
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
気持ちがわかりすぎるのである。
おれたちはみな社畜である
ずいぶん忙しく仕事も辛い
時間があれば横になりたい
もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい
だから芸術やろうぜ(e.g.音楽やろーぜ)
私はそう受け取ったのだった(横になりたいは私の気持ちである)。
そして周囲の農民たちから「芸術なんてそんな食えないもんやってる暇ねーの」と言われたんだろうなと。
話が逸れたが、逸れるのは必然で、
この文は「おれたち農民」の話から飛躍して「宇宙」の話をしているのである。
「おれたちは社畜である」から自然と宇宙の話に行ける奴いる?いねえよなぁ!!?
でも、でもなんですよ
『銀河の一票』は、「あなたと私」の話から東京都、社会、日本、世界の話をしていると思いませんか……??
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
そういうことだったのか、と、
2026年に至ってようやくひとつ納得がいきました。
社会全体の「私とあなた」が幸せにならなければ、
特定の「私とあなた」だけの幸せなんてありえない
「私とあなた」はそれぞれ「個」を保ったまま社会を構成する
正しく強く生きるとは、社会全体の「私とあなた」を「私」の中に意識して行動することである
的な
銀河とは、
星の数ほどの「私とあなた」が生きる場所。
あくまで私個人の解釈だ。間違っていていい。
ドラマがひとつの補助線となり、6年前にはぼんやりとしていた宮沢賢治の言葉の解釈に繋がった。面白いものだと思う。
ところで、この羅須地人協会の取り組みに関して宮沢賢治は1927年、社会主義運動との関係を疑われ、警察の事情聴取を受けている。また、「労働農民党」を支援していたとも言われており、その労農党は1928年三・一五事件ののち結社禁止処分となっている。これらの背景には1925年の治安維持法の成立がある。
今年5月に成立した国家情報会議設置法や、高市政権が成立を目指しているスパイ防止関連法のことを思い浮かべずにはいられない。
宮沢賢治が時代の犠牲にならなくてよかったと思うと同時に、実際に犠牲となられた方々を思いを馳せる。これらの過ちを繰り返してはいけない。今と宮沢賢治の生きた時代が悪い意味で「地続き」であることにハッとさせられる類似点であった。
さて『銀河の一票』の中には、他にも宮沢賢治と関連があると思われる固有名詞がいくつか登場している。
雫石さんをはじめとした星野鷹臣氏の秘書の皆さん(野田村、住田、平泉、滝沢)や葛巻さんなど民政党関連の人々(遠野、大船渡)の苗字は宮沢賢治の故郷岩手県の地名であった。
同じく星野鷹臣氏が密会で使うお店「マリヴロン」は賢治の『マリヴロンと少女』に登場する美しい歌い手「マリヴロン」、
白鳥光留さんのAIが動画で朗読していたのは賢治の『グスコーブドリの伝記』、
それに何より、大きな謎のひとつとなっている転落死した楢ノ木医科大学・新座値利学部長の名前の中に『銀河鉄道の夜』に登場する「ザネリ」の名前が見られる。
ザネリか……ザネリ………な……………
これらがこの先の展開の暗示となっているのか否か、気になるところである。
(今9話を観ていたらそのことに触れていた、そろそろ謎が明かされるだろうか)
◆ 『銀河の一票』が伝える「音楽の力」
『銀河の一票』では、登場人物たちが音楽に影響を受けて生きていることがわかる描写がよく出てくる。
第三話:中島みゆき『悪女』
第四話:ウルフルズ『笑えれば』
第五話:大黒摩季『あぁ』
第六話:合唱曲『フェニックス』
第八話:さだまさし『いのちの理由』
これらのシーンで「そういうことあるよね……」と深く共感する、音楽に力をもらってきた人は多いのではないかと思う。
何を隠そう宮沢賢治もそうなのだ
※ 私は今なんでも宮沢賢治に結びつけるマンと化しているが、特に宮沢賢治の作品を多く読んでいるわけでも、詳しいわけでもない。基本的に憶測だけで物を言っている。ごめんなさい。
こちらの本にこんな記述がある。
やがてしっかりした解説書といっしょに英国盤の「月光」や「運命」の組物が入ってきたときの兄の歓びは大したもので、「この大空からいちめんに降りそそぐ億千の光の征矢はどうだ。」「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ。おれも是非共こういうものを書かねばならない。」と言いながら書き出したのが『春と修羅』である。
(宮沢清六.「兄のトランク」.筑摩書房,1991,p.54より)
この「運命」とは、そう、あのベートーヴェンの交響曲第5番である。
宮沢賢治も音楽に背中を押されて創作活動に勤しんだのかと思うと親しみが湧く。
しかも、この『春と修羅』には「冬と銀河ステーシヨン」という作品があるのだが、そこにこんな一節があるのだ。
あゝ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道……!!!
「軽便鉄道」とは、「銀河鉄道」のもとになったと言われる、宮沢賢治の生きる時代に花巻〜仙人峠間を結んでいた「岩手軽便鉄道」の「軽便鉄道」だろう。
「この冬の銀河軽便鉄道」はJosef Pasternackが指揮していると言うのである、こんなに彼の心象スケッチをイメージするのに大きなヒントがあるだろうか。
とはいえ私はJosef Pasternackを知らないのでとりあえずAmazon Musicで検索してみた。そしたら出るわ出るわ、、、、現代にこんな昔の音が聞けるのか、、、と驚いた。
でYouTubeでこんなものをみつけた。
Fifth Symphony (Beethoven)……!!
これがあの宮沢賢治が背中を押されたというベートーヴェンの「運命」なのだろうか。第四楽章のようなので冒頭のあのジャジャジャジャーンではないのだが、宮沢賢治がこれを聴いて銀河軽便鉄道、銀河鉄道を想像したのかもしれないと思うととてもワクワクする。音楽と文学は時空を超えるのだ。
説明にレコーディングが1917年とあるので70年以上経っており著作権関係は大丈夫なのでは、、、?と思うのでリンクを貼るが違っていたら申し訳ありません。
その宮沢賢治が『運命』に背中を押されて書いたと言われている『春と修羅』だが、
序としてこんな言葉がある。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
私は茉莉の大切にするおもちゃの電球を見て、なんとなくこのことを思い出していた。
これも2020年、意味がわかるような、わからないような、、、となった文章だ。
ただ、その「電燈」という無機質なものに、なんとなく「いのち」を感じたのだった。
そもそもその「電燈」というものは、この時代に岩手県まで普及していたのだろうかという疑問がまた湧いた。
岩手県一関市博物館のホームページにこんな記述がある。
一関に初めて電気の明かりがともったのは、大正3年(1914)の2月1日のことでした。本寺(ほんでら)の水力発電所で作られた電気が現在の一関、山目(やまのめ)、中里(なかさと)、厳美(げんび)の範囲に供給されました。当初は3,398個の電球が使われたそうです。
(先のとがった電球 | 近代 | 一関のあゆみ | 館蔵品 | 一関市博物館
つまり電燈自体がかなり新しいものであって、、、
それでも東京にいた時期のある宮沢賢治にとってはそんなに珍しいものでもなかったのかもしれないが、その最新機器の「電燈」に自らの想い、命、魂を重ねて「有機」的なものとした賢治の感性は素敵だなあと思う。
2026年にもなって宮沢賢治の作品を「素敵だなあと思う」などと今更言うのも気が引けるが、よくよく考えたら素敵だったので、、、そういえば電信柱や信号機にも命を宿らせていたな、動物や自然も人のようだし、最新無機物から最古の有機物まですべてが賢治の手の中にあるようで面白い。
その明滅するおもちゃの電球に茉莉やあかりの命の輝きを重ねて見るのもまた一興だと思うのだが、
あれ、音楽の話どこいった。
そうそう、宮沢賢治ですら音楽に心と身体を動かされることがある、ということに感動してそれを誰かに伝えたかったのだった。
音楽の「人の心と身体を動かす」という力を私は異様に信仰しているのだが、その不思議な力を最大限に発揮しているのが「劇伴音楽」というジャンルだと思っている。
そのためこのブログには劇伴音楽について捲し立てている記事も多い。
※ 私は今なんでも音楽の力に結びつけるマンになろうとしているが、特に音楽について学んだことがあるわけでも、詳しいわけでもない。基本的に憶測だけで物を言っている。ごめんなさい。
※※ こうして詳しくもないジャンルについて語ろうとするたび、「ああ、勉強したいなあ」と思うのである。好きな物を正確に語る言葉が欲しいのだ。もっと勉強しておけばよかった。
そんなブログなのに、このドラマの劇伴音楽には一度も触れてこなかった。
その良さを語る自信がなかったのである。
私はどちらかと言うと物語と音楽が1:1になるくらい前面に出てくる劇伴音楽を好きになることが多く、なんだろう、わかりやすい例で言えばドラマ『半沢直樹』とかだろうか。物語を音楽が盛り立て、映像が音楽を盛り立てる、その相互作用に興奮してしまうのだ。
しかし、このドラマの劇伴は違う。
決して物語の前には出てこないのである。
物語の盛り立て役に完全に徹している。
すごい、と思った。
そもそもこのドラマ、前へ前へと出てくるような人物がいない。あえていうなら雲井蛍さんが主役オーラを滲み出してしまうことがあるし、日山流星も俺が俺が系の人物になりすますこともあるが、でも、悪目立ちするような人物がいない。ドラマとしてのトーンが統一されていて見やすいなあ、と思う。そのトーンの中に、音楽もまた溶け込んでいるように私には感じられるのだった。
このドラマの音楽を担っているのは坂東祐大さん。
Wikipediaで梅林太郎さんと一緒にアニメ『ユーリ!!! on ICE』の音楽を担当された方だと知り、また米津玄師さんと共に編曲を担当することがある方だと知って深く納得した。
米津玄師『カムパネルラ』もこの方が関わっていらっしゃるのだ、ずっとリピートして聴いていたよ『銀河鉄道の夜2020』の感想を書きながら、、、
(ユーリの時坂東さん25歳だよどういうことすごすぎ)
すなわち、
音楽を主演にも、助演にもできる方だ。
サントラを聴いていても思うのだが、『銀河の一票』の劇伴音楽はあまり主旋律然としたメロディを奏でない。主旋律はあくまで物語であり俳優たちの語る言葉なのだ。それを縁の下で支えているのでドババーーーンとは耳に入ってこないが、サントラを単品で聴くと「めちゃめちゃ知ってる」となる。
超超・名バイプレイヤーなのである。
まるで花束をラッピングするような劇伴だ。
この物語はそれだけでも優しく、美しいが、坂東さんの音楽で包むことでよりその魅力が増す。
ファンファーレやメインテーマなど、パーンと音の出る金管を使っているのにこんなに暖かく物語を包んでくれる劇伴にうっとりしてしまう。ドラマを観ている時はあまり意識上にのぼらないのだが(そのように振る舞っているから)、サントラを聴いて初めて実感するこの巧みさ。すごいな、、、と思う。
さらに私が驚かされたのが、オープニングテーマ『おーへい』の作曲も坂東さんが担当されているということである。
劇中音楽を担当された方がテーマソングの作曲も担当するという、「国宝形式」だ。
(映画『国宝』の劇伴担当・原摩利彦さんがテーマソング『Luminance』の作曲も手がけられているのを知って私が「へーそのやりかためっちゃいいじゃん!!」と思っただけである アニメではよくある気がするが実写作品で劇伴担当者が歌詞のあるテーマソングも作曲するというパターンは寡聞にして知らなかった)
このやり方は作品のてっぺんからつま先まで音楽の方向性が統一されてとても良いと思うのだが、『おーへい』は逆に劇伴音楽とはまた違う方向にパワーを振り切っている気がする。
なんか悪目立ち感がすごい(いい意味で)。
歌詞&ボーカルがハマケンこと浜野謙太さんなのはなんとなくわかるのだが、なぜゴマキ!?と最初は思った。思ったが、ドラマと一緒に何度も聴いているうちになんとなく納得させられた。
この歌は中年の『うっせぇわ』だ。
その中年(私含む)にとって、ゴマキ(やラブマシーン)は「日本がかろうじて元気だった最後の思い出」なのである。そのゴマキがファンキーに歌っている。ゴマキが元気だと私も嬉しい。
本家の『うっせぇわ』の相手はわりと上司世代、すなわち中年に向けられている気がするが、
中年の『おーへい』はリアル権力者に向けられたプロテストソングだ。「弁えないな」は当然森喜朗氏の「わきまえておられる」発言がもとになっていると思うが、2番の「読み取らないな」は私自身が空気が読めない人間なだけにグサッときてしまった(だがそういう歌じゃない)。
これは政治家を含めた権力者たちへの、私たちはもう「弁えない」、「忖度しない」、「権力者にとっての『横柄』な態度でいてやる」という表明の歌である。今に生まれるべくして生まれた歌だと思う。
拳を突き上げる動作をしただけで冷笑されかねないこの現代日本だが、今、「私の手」に「熱い火種」の存在を感じている人々は少なくないと感じる。
この火種は、デモやスタンディング、メールやFAXなどで権力者に届けられ、目の上のたんこぶにならなくてはならない。
そのための悪目立ちである。
音楽には人を動かす力がある。
この歌には、映像と合わせて自身の「火種」を見て見ぬ振りしてはいけないと思わせる力がある。
本当に、音楽を主演にも、助演にもできる方だ。
◆ 賢治も傷が欲しかったんじゃないか?
このドラマは急に無自覚なミソジニーの煮凝りみたいなものを見せられることがないので安心して見ていられるのだが、一人だけ見ていてざわざわする登場人物がいる。
雨宮さんである。
だ……大丈夫?茉莉に依存してない?
他に友達とかいる?
趣味とかある?
ごはんちゃんと食べてる?
お風呂にゆっくりつかれることある?
大丈夫……?
なんだか心配になってしまうのである。
でもこのドラマは雨宮さんに対してYESともNOとも言っていない。だから私も彼女のことを良いとか悪いとかは評価する立場にないと思っている。
ただ、彼女が「傷が欲しかった」と言った時、昔の記憶がぶわっと蘇った。
いつかどこかの本屋で立ち読みした、漫画『NANA』の評論である。
矢沢あいさんの伝説的漫画、『NANA』。
実は私はきちんと読んだことがないのだが、姉が掲載誌『Cookie』を購読していたため飛び石で触れていた。内容自体はよくわからなかったが熱狂的なファンの方々がいることはよくわかった。内容を理解できない私でも、矢沢あいさんの描く登場人物たちが魅力的であることは否定のしようがなかった。
その『NANA』について特集を組んだ雑誌があったのだと思う。たぶん高校生とか大学生とかの時の話なのでもう記憶が定かではないのだが、私は待ち合わせがてらそれらしきものを本屋で読んでいた。
そのなかのコンテンツのひとつ、どなたかが書かれた『NANA』の評論が強く私の心を掴んだ。
小松奈々(ハチ)は自分があまりにも普通であるためにナナたちの不幸なところに憧れて自分から不幸になろうとしてしまうみたいなことを言っていた気がする。心に刺さったので買って帰ったのだが、昔すぎてさすがに処分してしまった。
NANA読者の方が見たら「は????????」と思われると思うが、これはこんなあやふやな記憶をここに提示した私が100%悪い。申し訳ありません。
これと少し似たような話で、もっとあとの時代に精神科医の方が「自分のダメなところの免罪符として発達障害の診断を欲しがる人がいる」と苦言を呈していたのを見たことがあるが、私はこの二つは似て非なるものだと思っている。
「発達障害の診断」がほしいのは、免罪符としての人もいるかもしれないが基本的にはその先の適切な治療や支援に繋がりたい一心だろと思う。
「私、発達障害なので、、、」と言い逃れたいがために受診していると思っている精神科医の先生がいらっしゃるなら悲しい。
一方で、ハチの場合である。
あまりにも普通である、、、というか、
はたから見たら恵まれている状態の時、
悩む権利がほしくて不幸に寄っていってしまう、
というのは、私は少しわかる気がする。
このハチの不幸に寄っていってしまうのと
雨宮さんが傷が欲しくて神待ちをしてしまったのは
なんだか似ている気がするのだ。
雨宮さんはそのバックグラウンドはそこまで詳しく触れられていないが、「無駄に健康」で「親も家も普通」とのことなのでおそらく日山流星の「今俺は、完璧に『かわいそう』だ」という状況とはほぼ正反対の、はたから見たら「恵まれている」と思われる環境にあったのではないかと憶測している。
「恵まれている」人は、というか、端的に言うと
「実家が太い人は悩む権利がない」
のである。
「この間振られちゃって、、、」
「この間カバンひったくられちゃって、、、」
「会社の上司がパワハラしてきて、、、」
「今の仕事向いてないかなと思って、、、」
「義母と考えが合わなくて、、、」
こういう悩みを聞いて、
「でもあんた実家太いじゃん」
とちょっとでも思ったことはないだろうか。
正直に言う、私は、ある。
実家が裕福だからからどうにでもなるのでは?と思ってしまっていたのである。
でも、それなりに色々あって私は学んだ。
実家が裕福なことは、解決方法のひとつになる可能性はあるが、「悩む必要がない」理由にはならない。
実家がいくら裕福であろうと、不幸せな人や、深く悩んでいる人、消えてしまいたいと思っている人は山ほどいる。そのことは阿部慎之助前監督の騒動を見てもわかる。児相と警察が動いたのは私は適切だと思っている。あんな娘に罪をなすりつける手紙を読んで犬笛を吹く父親はそれだけでも非難に値すると思う。
でも、こんなケースですら「大事に育てられたのに文句を言うわがままな娘」と見るひとが多くいるのだ、と今回の件であらためて知った。どうか適切なケアを適切な環境で受けてほしい。
雨宮さんが「神待ち」をしてしまったのは、傷をつけられたかったから。傷つけられたかったのは、愛されたかったから。雨宮さんは実家が裕福で、「自分はあまり苦労や努力をしてこなかった」と思っていたのだろう(本当はそんなことなくても)。たぶん今の職業から考えて成績も相当優秀だったと思われる。
いつも100点なのに90点を取ってしまって、でも75点で喜んでいる友人の手前落ち込みを外に出すことはできず、家に帰って親から「どうしてこんな点とったの!」と怒られるけど誰にも言えないみたいな感じだったのだろうか、親に愛されていると自信があれば「神待ち」などしない、、、のではないか。
そんな彼女の前にもっと実家の太い茉莉が現れた。
いや、実家の太さでどうこう思ったのではないだろうが、あの茉莉の様々なところから滲み出る「育ちの良さ」は、雨宮さんをどんなにか救ったであろう。雨宮さんはあのとき茉莉に会えて本当に良かったと思う。ドラマなのに肩入れしすぎである。
そんなことをつらつら考えていて、はっ
としたのである。
「宮沢賢治も、“傷”が欲しかったのではないか……?」
いや、そもそもなのだが宮沢賢治については頭の良い人がたくさんあれこれ考えているので、私が今更どうこう考えてもまったくしようのないことなのだが、でもまあちょっと賢治の気持ちを知りたいみたいなとこがありうっかり考えてしまっている。
宮沢賢治も実家が裕福なので、そのことを逆スティグマのように思っていたのではないかとふと思ったのだ。
『春と修羅 第三集』にこんな詩がある。
土も掘るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし
われわれはわれわれだと
……山は吹雪のうす明り……
なんべんもきき
いまもきゝ
やがてはまったくその通り
まったくさうしかできないと
……林は淡い吹雪のコロナ……
あらゆる失意や病気の底で
わたくしもまたうなづくことだ
いくら農業をやっても、
いくら一時的に食べられない時があっても、
やっぱりおまえらはおまえらだし
われわれはわれわれだと
何遍も言われ、
やがてはまったくその通りだと
あらゆる失意や病気の底で
私もまた頷くことだ
「やっぱりおまえらはおまえらだし
われわれはわれわれだ」
これを思ったことがある人、
言われたことがある人、
どちらの立場でもつらい言葉である。
両者の間に佇む高い高い壁。
それをいくら崩そうとしてもうまくいかない
私はあなたにはなれない
宮沢賢治は、本気で壁を越えたかったのだと、
そしてそれを証明するために
自己を犠牲にしても構わない、
命を擲っても構わない、
と言いたかったのではないか?
「死なないと本気だとわかってもらえない」
映画『ラストマイル』でもこんな感想を書いた気がする。
宮沢賢治も傷が欲しかったのかもしれない。
おのれも同じ人間だと
同じように傷つき、苦しみ、のたうち回るのだと
わかってほしかったのかもしれない。
◆ これは「自己犠牲」ではなくて「自己再生」の物語である
第8話で声優の白鳥光留さんのAIが朗読をしていた、『グスコーブドリの伝記』。
物語の最後、主人公ブドリは冷害から故郷(イーハトーヴ)を救うために火山を人工的に噴火させる役割を自ら志願して亡くなってしまう。
火山を噴火させることで大量の二酸化炭素を大気中に放出し、気温を上昇させて飢饉を回避するという寸法なのだが、
もしここまでこの記事の全文を読んでくださった方がいたとしたら、予想がつくのではないだろうか。「この時代に二酸化炭素の温暖化効果を理解していた一般人がいたのだろうか!?」と私が疑問に思うことを。
ちなみにその通り疑問に思って調べたのだがよくわからなかった。今後の課題である(また何年後に宮沢賢治に興味を持つかわからないので)。
このように、宮沢賢治の物語には周囲の人のために自らの命を犠牲にする「自己犠牲」の物語が多いと言われている。
『銀河鉄道の夜』でも、溺れたザネリを救ってカムパネルラが亡くなってしまう。
私は、『銀河鉄道の夜2020』を見た時からずっと不思議だったのだ。
宮沢賢治は「自己犠牲」を賛美しているのだろうかと。
私は、「あの」第二次世界大戦後に生まれた人間なので、過剰な「自己犠牲」礼賛には距離を取りたい気持ちがある。
6年ぶりに考えたが、答えは出なかった。
ただ、宮沢賢治をモチーフとしたこのドラマ『銀河の一票』については、「自己犠牲」を少なくとも奨励してはいないことはわかる。目の見えない明の事故が、「誰かの身代わりになった」という物語として描かれなかったからだ。
私が三流の脚本家なら絶対にやる。
明が誰か、子どもなどをかばって亡くなった展開にする。それによって視聴者に、明と透にカムパネルラとジョバンニを重ねる考察をしてもらうのだ。そして透は言う。「なんだよおまえ、一人だけかっこいい死に方しやがって、、、」
ダサい。ダサすぎる。でも全然あり得たと思うのだこの展開。これをしなかったというところに、このドラマのすごさがある。透の人生に、明の死にまつわるヒロイズムなど不要なのだ。明は生きている時からすでに透のヒーローだったのだから。
自分の身を挺して誰かを救うことは尊ぶべきことである。自分もそうありたいという気持ちもある。でも、権力者がそれを良いことのように触れ回るのは違うと思っている。だから少なくとも今は、この一点においてだけでもこのドラマの制作陣のみなさまを信頼できると思っている。
では、このドラマは何を描いているのか?
この物語に出てくるみなさんは自分を犠牲になどしていない。(9話でチーム風間のみなさんもそうだというのがわかってとても良かった)
むしろ、自分の得意なことを活かして生き生きと「チームあかり」を支えている。
まるで再び息を吹き返したようだ、と思う。
9話で後援会長の樫田さんが心底楽しそうなのがすべての答えではないだろうか。
このドラマは、「自己犠牲」ではなく「自己再生」の物語だ。
「自分は誰かの役に立っている」と思えることが「本当の幸せ」のひとつなのかもしれない。
だがこれ、方向性を間違えると「やりがい搾取」になるので難しい。
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
正しく強く生きるとは、社会全体の「私とあなた」を「私」の中に意識して行動することである
と、いう意味に解釈した私の場合。
意識すべき対象が「あなた」だけじゃなく、「私とあなた」であるということが重要なのである。
「私」も、大事にしなくてはならないのだ。「あなた」と同じくらい、尊重されなくてはならないのだ。
茉莉は、お父さんの秘書をやっていた時とは違い自分の正しいと信じる道をひた走ることができて、幸せそうに見える。
あかりも不安はあるけれど、自分の感じていた生活のモヤモヤを解決できるのが政治という手段だと知って、前向きに自分のできることをやっていて素敵だ。
「私」は「あなた」にはなれないけれど、
「あなた」も「私」にはなれない。
だから協力しよう。
この銀河には、
星の数ほどの「私とあなた」がいる。
矛盾しているように聞こえると思う。
でも、「私とあなた」じゃない「私とあなた」も
「私とあなた」と同じくらい大切な存在なのである。
『グスコーブドリの伝記』はこのように終わる。
そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅あかがねいろになったのを見ました。
けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。
ネリはブドリの妹である。
物語のはじまりで、ブドリのおとうさんやおかあさんは兄妹にわずかな食物を残して消えた。
ブドリが身を挺して守ったのは、
たくさんのブドリと、その家族たちなのだ。
とはいえ、である。
これはブドリが自主的にやったからありがたいのであって(そう言うのもなんだか躊躇われるが)、
権力者がこれを賛美してそのような行動を強制するのは違う。
そういう権力者は物語の最初のブドリのおとうさんやおかあさんの行いも美しいと絶賛するだろう
家族はこのように助け合うものだと
私はそのことにNoを言いたい。
実家が太かろうが細かろうが、
親から愛されていようが愛されていなかろうが、
人は、特に子どもは大切にされるべきである。
親の所得によって障害児手当の額や利用できる奨学金が変わるのはおかしい、と思う。
親が全員子どもにお金を惜しみなく使うわけではない。そのことをわかっているはずなのに、
「家族は、互いに助け合わなければならない」などとわざわざ憲法に書こうとしている、そんな自民党の改憲草案に私は反対である。
見捨てられる子どもや逆に背負わされる子どもが出るのは目に見えている。
その子どもたちを、家庭から切り離して守るのが本来のこども家庭庁の役割だったはずではないのか。
当初案の「こども庁」に「家庭」をつけた時にその精神は死んだと思っている。
私が引っかかるのはここだけではないが、
とにかくあのような改憲草案を読まされて
国民投票法改正法案に賛成するわけにはいかない。
宮沢賢治の作品の「自己犠牲」的性質が
「道徳的に正しい」として教材に使われる時代が来るのは困るのである。
そんなわけで
#国民投票法改正法案に反対します。
今のように、いろんな作品を自由に鑑賞して
自由に感想を述べ、
そんな感想もあるよねーで終わらせられる日本がいい。
茉莉や、あかりや、ドラマのみんなが、
遠い世界の人々にならない未来がいい。
ドラマ残り2話、どんな結末になるのかとても楽しみである。