王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

あなたと共に私は生きるの──舞台『ビニールの城』を観た

誰かの夢とか、理想とか。
空想、未来の恋人とか。
もうここにはない笑顔とか。


誰かが心に思い浮かべ、
どこかの紙に描いたもの。


舞台とは、
荒唐無稽の有様を
この世で唯一
突きつけることのできる場所。











ポエミーかよ。


先日、V6森田剛さん・宮沢りえさん・荒川良々さん出演の舞台「ビニールの城」を観ました。なんとなく感想をメモしておきます。ネタバレあり。あらすじ等は公式サイトにて。




突然ですがアイドルとはなんでしょうか。
一般的な定義は置いておいて、私はこんなふうに考えています。


・若くして世に出ることが叶い、
・大人からおもに歌という名の言葉を与えられ、
・それゆえに一定の大人から軽んじられる人。


この「わたくしのかんがえたあいどる」に当てはめると、森田剛さんと宮沢りえさんはまぎれもなく私の中のアイドルであり、荒川良々さんはその範疇から外れています。
この三人が朝顔、モモ、夕一(ゆういち)として配置されただけで、私にはいびつな三角形が見えて仕方ない。


今回の作品は、森田さんと宮沢さんが共通して持つアイドルという経歴とそれにまつわる醜聞とを、まとめて喰らって飲み込むような舞台に仕上がっていると感じました。




人形(夕顔)を探し続ける腹話術師・朝顔役の森田剛さん。
そのへんの百均で売ってるそっけないグラスのコップみたいだな、という印象。
演出家の注いだものが、何が変わることなく、何を失うこともなく、そのまま表現に出てしまう。ものすごい稀有な才能。
今回個人的に目を見張ったのは、朝顔が水槽の上から「諸君」に語りかける演説シーン。疾風怒濤のような彼の言葉は多くの固有名詞が繰り出されるにも関わらず概念的すぎて、こちらはうまくその意味を理解できない。それなのに、私はなぜか胸を打たれ、会場の雰囲気は静かに高揚し、彼の存在は代え難いものとなった。
つまり彼は、発する言葉の意味が受け手に伝わらなくとも問題ない、「もはや注がれるものはなんでもいい」ことすら身をもって証明してしまった。言語的矛盾は彼の実在の前に無力。おそろしい。



朝顔に思いを寄せるモモ役の宮沢りえさん。
突如として現れた鈴を転がすような声に耳を疑い、その発信源が宮沢りえさんの口であったことに目を疑いました。なに、その、声。とにかくあどけなく美しい。最後のビニールの城のシーンはその声が発せられていないのに全く同じ感想で、まるで赤ん坊のように横たわる宮沢りえさんの身体はやはりあどけなく美しい。



朝顔の演説とモモの籠城、この二つに共通するのは物理的な位置の「高さ」で、やっぱり人は見上げると崇めたくなるんですかね。
反対に地に足が着いていたのは、夕顔になりきろうとする夕一役の荒川良々さん。私荒川さんってめちゃくちゃ上手くて場の空気を支配できる俳優さんだと思ってるので、今回もその才が如何なく発揮されてるのに森田さんが持っていかれていなくて結構びっくりしました。
森田さんって、アイドルじゃないの?舞台役者さんに、太刀打ちできちゃうの?



私のこの疑問は、アイドル=演技が下手、という大人の偏見によるものです。私はV6のファンで、これまでにも森田さんの演技を拝見しているので、その認識が誤っていることをもはや知っているのに、それでも毎回驚いてしまう。ファンだからこそというのもあるかもしれません。歌って踊って、あんなにキラキラしてるのに、その一方でそんなに澱んだ空気を身に纏うの?と。
宮沢りえさんにしても同じです。伊右衛門でしょ?初代リハウスガールでしょ?そんなあられもない格好しちゃうの!?あれ、でもそういえば……



アイドルにはスキャンダルがつきものです。そして彼らはそれを、超えてゆく。




嘔吐を促そうとモモの口腔に入れられた朝顔の指先に、そこにいた800人の観客の視線が釘付けになっているのを感じました。



私のような即物的な人間にはまったくもって理解不能な世界観にもなんてことなく馴染んでそこにあり、理解し難い台詞にも決して振り回されないこの二人。
アイドル、元アイドルのイメージを覆す、れっきとした舞台人なんだと思いました。



しかし、しかしですよ。
なぜか、この二人、歌うときだけは稚拙さが顔をのぞかせるのです。



ああ、そんなんじゃアイドルだということがばれてしまうよ。





って、それが狙いなんだろうなあ。
二人の歌が、本来しっかり組み上げられたであろう土台の骨を五、六本抜いたような不思議なグラつきを生んでいて、そのおかげでこの舞台は不完全な完全体として最高の魅力を放っている。
実際のところ二人とももう少ししっかりと声が伸びると思うので、これも演出であるとわかってはいるのですが、それでもふらふらとした二人のアイドルの歌声に心を掴まれずにはいられませんでした。












ところで、夕顔と朝顔はまあ現代だと本音と建前とか子供と大人とかネットとリアルとか、この文でちらつかせてるアイドルとその中の人とか色々な見方ができると思うんですけど、吐瀉物はなんなんでしょうね。
モモが朝顔の口に指を入れて吐かせてあげた、その逆もあった、その吐瀉物とは。朝顔の声と夕顔の声、二つの声を塞ぐもの。二つの声の出処が同一であると証明するもの。
考えてもこれという正体には思い至りませんでしたが、ただこれをそのまま放置すれば死につながるとすると、複数の声の同一化は実は不自然な末路であるということでしょうか。


私の声と、私の中の私の声と、私の中のあの人の声。
確かに、私もいくつもの声を聞きながらこのブログを書いているかもしれません。

じゃあ朝顔たちの中の声、森田さんたちの中の声って、いったい誰の声なんでしょうね。



そういえば今回の舞台では、朝顔やモモたちと同じ地点には立っていない、まるで無関係のような人が何度か登場して喋っていたような気がします。

朝顔やモモからは離れたどこかから語りかける、
それはまるでなんだか、“蜷川さん”のような人。
えも知れぬ、遠くからきた人。


私たちは複数の声を抱え、それゆえに生じる矛盾に苦しむこともままあります。
でも無理に消化する必要も、忘れる必要もなく。
ただ聞こえるうちはその声を聞きながら、時に耳を傾けながら、彼らの声と共に生きていっていいのだよと、そんなふうに言われているように、少しだけ感じました。






アイドルは大人たちから言葉を注がれた傀儡で、中身が空っぽに見えるがゆえに大きくなっても心は子供だと揶揄されることが多い世の中です。


しかし、彼らは大人たちから注がれた言葉をそのまま垂れ流していたわけではありません。そこに言葉は、“彼ら”の声はとどまった。


言語的矛盾は実在の前に無力。
言葉の定義は時代とともに移り変わり、大人になったアイドルたちはたまにぞっとするような場所から反旗を翻します。



ここはアングラ演劇最高峰。
私がこの目で見たものは、
アイドル風情の成れの果て。




1985年の夏はどのくらいの暑さだったのかな。
2016年の夏は、ホント、“蜷川さん”の台詞のそのまんま。
ああ今日も、なんてじめじめした陽気だろ。