王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

音楽劇『銀河鉄道の夜2020』感想メモ(9/27)


9/27に音楽劇『銀河鉄道の夜2020』を観ました。



以下、感想です。
ネタバレありです。



9/20に観た時の感想はこちら



※ この感想は私が一方的に受け取った印象から思いを巡らせたものであり、自分でもなに言ってるのかよくわかってません。





● 木村さんのジョバンニの好きなところ

・等身大感
前回すごくプレーンだと感じだけど、今回見てやっぱりすごい等身大で立ってるなあと改めて驚きました。
いや等身大と言ってもジョバンニが26歳という意味ではなく、ただ子供っぽさや少年らしさに囚われないというか、そういうのから解放されたお芝居をしているなあと……
ジョバンニの心が動いた結果としてあどけなさが出るところはたくさんあるんだけど、それを演技の目的にはしてないというような。
何にも寄せてないし、ただそこにあろうとしているだけみたいな。


でもこのジョバンニの素朴さ、個人的には「うわ……うわあ〜〜〜〜〜!!!!」って思って見てますね……「元からそんな感じの演技の人です」感でてるけど今まで見てきた役全然違ったから!!!もっとキリッ!とかキラッ!とかシュッ!とかヒャッホー!とかイェーイ!!!みたいな感じが多かったから!!!びっくり!!!すごい!!!!


それにしても、何にも寄せないと、演者自身が透けて見えそうな感じするじゃないですか。雑誌の『Stage Stars vol.11』で「役者としてのボキャブラリー」の話をしていましたけど、まさにそのボキャブラリーがあらわになってしまうようなお芝居だったと思ってて、そこに健やかさと自信と弁えと覚悟を感じて、こんなお芝居もこれからもっと見たいなあと思いました。


あと今までの木村さんのお芝居はわりと攻めていってたものが多かったんだなあとも思いました。
ジョバンニのお芝居は、全部受け止めてる。どっちがいいとかじゃないんだけど、今回初主演だけど「やってやろう」みたいな肩に力が入った感じもなくただジョバンニと彼らの物語を見せるために立っているのがいいな……と思いました。
初日のカーテンコールから、きっとあるはずではなかろうかと思う感慨や思い入れをあまり出さずに…というかパッ!と出してサッ!と引っ込めて颯爽と去っていく姿が好きで。
あ、あとカムパネルラの佐藤さんが歩いて帰っていくのも好きです。このお二人なんだかとても良い。



・「今夜星の光が」
「今夜星の光が降ってきて 僕たちの魂に幻燈を灯す」
ってむちゃくちゃ素敵な台詞じゃないですか……推しに言ってもらいたい台詞ランキング上位に食い込んできた。てかもう言ってるし。好きな役者さんにこんな台詞言ってもらえるの最高ですね……生きててよかったな……
木村さんジョバンニ、ちょっと2回目どう言ってたか忘れちゃったんですけど、冒頭で言うところは「幻燈を灯す!!」ってびっくりマークついてる感じで歯切れ良く言ってましたよね…?ちがったかな……
それが勢いと若さがあって、「はじまり」の宣誓みたいですごくいいなあって。
他に好きな俳優さんならどう言うかなって考えたら、結構余韻を残す感じでしみじみ言ったりするのが似合う人もいると思ったので、そうかこれが木村さんらしさなんだなあって。



・声
ジョバンニの声とても好きなんですよね〜〜〜普段の表面湿度の低い声も好きだし、「毒虫だ!」のところで激昂して叫ぶのに声はまるみを帯びた感じになって聞き苦しくないのもすごく好きなんですよね……いい声。



・「牛乳瓶に天の川が入っていました」
前回の感想間違ってました、牛乳瓶に暴れん坊じゃなくて天の川ですね……すみません。混線しました。
「かぷかぷかぷ…こぼれたものはなんでしょう」
やっぱこの一連の台詞言ってるとこすごい好きですね……急にジョバンニが詩的に心情を語るの、浮きそうなのに全然浮いてない。言い方も動作も情緒的ですごくいい。めちゃくちゃいい。ほんといい。好き。もっと見たい。ファンになりそう。ファンです。ファンレター書きたい。





● 石炭袋

鳥捕りさんは「来ようとしたから来た」と言った、ということは行った時も「行こうとしたから行った」のだろう、ということはカムパネルラもきっと石炭袋に行こうとしたから行ったんだねえ。彼にはその辺に綺麗な野原とお母さんが見えてそこに行きたかったんだねえ。と思いました。
そのちょっと前にこれは「帰る」列車だ、みたいなことをジョバンニたちが話していた気がするんですけど、あれって、私「家にいるのに帰りたい」って思うことがよくあるんですけどそれに似てるなあと思いました、完全に「そんなのと一緒にするなよ」案件ですけど。魂が心の平穏を得られる場所を求めている……みたいな。それが天上だったり、お母さんのいるところだったりするっていうことなのかなぁって。







● 与えられた物語

原作の最終形はそんなにわかりやすい結論や教訓は出していないと思うんですけど、この舞台ではジョバンニとカムパネルラ、ザネリにそれぞれ物語を用意してある程度の結論のようなものを出させているなあと。
まず原作で一番情報の少ないザネリ、彼にはサソリの物語を重ね(言われてみればまず字面がちょっと似ていた)、さんざん弱きジョバンニをいたぶった彼が溺れた時に悔い改めたかもしれない可能性を提示している。(しかも役者さんが青年役を兼ねるという新演出によってザネリのその後の姿までうっすらと想像させている)
カムパネルラには大学士によって存在を証明される地層の物語を重ね、森羅万象は消えたあと他者によって証明されなければ何もなかったのと同じ、無になるのだと怯えさせる。
そしてジョバンニに用意されたのはその彼らの物語を一身に受け止め終わらせる役割で、彼はザネリを赦しカムパネルラに証明を誓うことで心の安寧を与えた。原作の最後では描かれないジョバンニの2人に対する想いについて一案をもって(舞台版としての)補完がなされ(舞台版として)据わりが良くなっているなぁという印象。「全部言ってしまう」のは趣がないような気もするけど、ザネリとカムパネルラとジョバンニの決着がついているからこそ観賞後そこまでどーんとは引きずらない感じになるのかなあと。帰路に着く時それこそ小さな星をひとつ掌に包み込んで持って帰るような感覚があった。
あれは、とてもよかった。


● 見ていた人

溺れるシーンが繰り返されることもあって、この舞台のジョバンニは「見ている」時間がわりと長くて。実はそれほど物語の当事者ではない感じもするんですよね。お母さんにジョバンニが言った「ぼく岸から見てるだけなんだ」ってその言葉の通りで……ジョバンニは船に乗れない少年で、彼は何もできずに見ているしかなかった。
ジョバンニにも「ミルクももらえたしお父さんも帰ってくるかも」っていう結末があるんですけど、それってジョバンニの根本的な何かを解決してるんだっけ?みたいな疑問もあって。原作だとカムパネルラもザネリも何も解決してないので別にいいんですけど、舞台版はその2人の物語をジョバンニが解決してるんで、それで、ジョバンニは?ジョバンニはどうなるの?みたいな……
よく考えてみたら2人の物語を終わらせられたこと自体がジョバンニの変化のあらわれなんですけど、でもカムパネルラが消えて、そこからどうしてそうなれたんだっけって考えるとあんまりわかりやすい描写はなかったような記憶で……(いや、あったかも、忘れてるだけか)
ただ、だからこそ、ザネリを見た木村ジョバンニの、泣いている赤ん坊を見たような、頷くように頭の微かに揺れる「受容せずにはいられなかった」ことが伝わってくる身体の動きと、あとからついてくる心情を素直に出した顔の表情と、そしてそのジョバンニの行動が間違っていなかったことを示すザネリの手指の行き先が、すべての説得力をもって胸に迫ってくるのがすごく好きなんですよね……生きているのに彼岸から見ている人だったジョバンニが、この世に戻ってきた瞬間みたいで。離れる時に周りの子たちにザネリを任せるところも好き。人を慮り周りを見る余裕がある。静かな演技だけれど、とても良かったなぁって思います。


● 見ていた人たち

前回見た時うっすら気になって今回しっかり受け止めたとこなんですけど、ジョバンニがうわーってなる前に鳴り響く声、最後はザネリだけどそれまでは大人の声が大部分を占めてますよね。先生、お母さん、活版所の人、牛乳屋さんの人だったかな?
このことが引っかかって。ここは大人たちの責任を問うてるんじゃないかと。
疲弊して授業もまともに受けられないジョバンニに、大人たちはもっと早く手を差し伸べられたんじゃないか、という(現代の価値観的な)疑問をこの舞台は投げかけているのではないかと。大人たちの見逃しがドミノみたいに連なって、ザネリたちは最後のきっかけだっただけだとすら言いたいんじゃないかと思ったりしました。
なんなら、さっき私は木村さんのジョバンニを「子供っぽさや少年らしさに囚われないというか、そういうのから解放されたお芝居をしている」って言いましたけど、それを良しとするこの舞台のジョバンニ、彼から「子供らしさ」を奪ったのは大人たちかもしれない、とも思いました。
カムパネルラと一緒にいるジョバンニは、とても子供らしくはしゃいでいて、銀河鉄道に乗ってどこまでも行きたがる(まるで日常にほとんど未練がないように)。
でも地上にいた頃は、先生には何も言えず、活版所では何度も頭を下げ、お小遣いをもらって嬉しそうにするけど喜び方は分をわきまえており(自分には使わなそうだし、お母さんの角砂糖はあれで買ったのかな……と思わせる)、お母さんと笑顔で話して家を出ればスッと表情を消し、牛乳屋のおばあさんには駄々をこねたりせずに言葉を飲み込んで身を引く。
木村さんの、「あってもいいはずのものを無くしている」ような小さく繊細なお芝居の積み重ねと、「前面に出さなかった『子供らしさ』」こそが、ジョバンニという少年の前半の本質なのではないかと、ちょっと思ったりしましたね……。



● 証明する

最後のジョバンニとカムパネルラのシーン、木村ジョバンニめちゃ優しい顔してて、あーそうか生きていたことを証明するって私には難しくてイメージ湧かないけど、その顔はわかる気がする、あれだ、「思い出すからね、安心してね」ってことかな……っと。
この別れの時に、決してこの人の顔を翳らせてはならないと、心に一点の曇りも残してはならないと、どうか安心してほしいと必死で作る心からの笑顔、のように見えた。
忘れないで、忘れないよ、約束だよ、当たり前じゃないか、覚えていてね、ああ君の好きな花やお菓子や星を見ていつだって思い出すよ、みたいな会話でもあるのかな……と勝手に解釈しました。
カムパネルラが石炭袋にお母さんを見つけたように、ジョバンニは天の川を見上げてはその石炭袋にカムパネルラを思い出す。言われてみれば、何もない暗闇こそ想像の生まれるところだものなあ。
そうやって思い出すことで、ジョバンニはカムパネルラと一緒に生きていくことができる。またどこまでもどこまでも一緒に行ける。そう考えるとジョバンニが持っていたどこまでも行ける切符は「想像力」みたいなものかなあと……想像は果てがない、確かに幻想第四次の銀河鉄道なんかどこまででも行けそう。


● 活版所の見出しと「銀河」の意味

活版所のシーンで出てくる3つの見出し、特殊相対性理論発表、ミンコフスキーの四次元、タイタニック出航……ってこのあとの展開の伏線にもなってるとは思うんですけど、よくわかんなかったのでWikipedia先生に聞いたらそれぞれ1905年、1907年、1912年で銀河鉄道の夜が書かれたのが1924-1933年頃だそうだから、執筆時からしたら結構最近の出来事じゃないですか。四次元とかいう概念が発表されて、それが一般の人に浸透するのにどれくらいかかったのかなあ。宮沢賢治はどんなイメージで幻想第四次って書いたのかな。銀河空間をどこかに向かって走る列車ってすごい四次元っぽさあるなって思うんですけど、多分私の四次元のイメージはドラえもんのタイムマシンなので色々間違ってる。
え、ていうかひょっとしてジョバンニが地上に戻ってきて時間はそんなに経ってなかったのってもしかして特殊相対性理論的なことなの!?


あと私「タイタニック」のこと「(ディカプリオの)タイタニック」って思ってる節があって、でも宮沢賢治の思い描くタイタニックは多分もっとリアルで切実なものですよね。もっと生々しい「憧れ」「まさか」みたいな感情があったんだろうなあと思うと、
言葉の表すものって変わっていくんだなあと思うしだからこそ時代が変わっても読まれることに普遍性以外の意味もあるのかなあと思うし作品として送り出す時そこ(表象の変化)と戦うこともあるんだろうなあと。(でもディカプリオのヒット作によってわりとタイタニックを知ってることもすごい)


で、それ考えたらそもそも「銀河」自体宮沢賢治の想定していたものと違うんじゃね?と思ったのでまたWikipedia先生に聞いたんですけど難しすぎて全然わからんので適当なこと言うんですが1924年頃にハッブルがこの天の川銀河の外にも銀河があったよ!的な論文を発表したっぽくて、それまで銀河はこの太陽系のある天の川銀河ひとつだと考えられてたらしく、いや銀河他にもあったよすごくね?アンドロメダって星雲じゃなくて銀河だったよ!?って学者たちが言ってるそんな超大転換時代に銀河鉄道の夜書いてるのまじですごくないですか。やば。ていうかむしろそんな時代だからこそ書いたのか?劇中にも歌われる星めぐりの歌では「アンドロメダのくもは」っていってるから、歌を作った頃はまだアンドロメダ星雲だったのかな?当時、学者たちのそういう発見が一般の人々に届くのってどれくらいタイムラグがあったんだろうか。
そして宮沢賢治は銀河というものがどのくらいありそうなイメージで書いてたんですかね……今だと少なくとも1000億個は望遠鏡で見えてるらしいです、なに1000億個って。しかも推定だと2兆個。めっちゃあるな。宇宙やば。


そういうわけで「銀河」を取り巻くイメージ(スケールとか大きさとか)も当時と違いそうなんですけど、そういえば新潮文庫で注釈ついてて面白いなあと思ったのが、これは劇中ではカットされてるんですけど原作では午後の授業で先生が銀河の詳しい話をしてて、「これがつまり『今日の』銀河の説なのです」と言ってるんですよね。宮沢賢治の時代の「銀河」とあとの人が知ってる「銀河」はおそらく違う、ということを賢治が意識しているということがわかるし、なんなら「今はどうよ?」って聞かれてるみたいだなあと。今大体100年後だから普通に宇宙旅行くらい行ってると思ってたかも。宇宙旅行はもう少し先だけど銀河は1000億個見えてるってよ、宇宙めちゃくちゃ広いね。どこまでもどこまでも、って、どれだけ遠くまで行けるだろうね。この世って思ってたよりスケールでかい。
賢治は銀河という言葉に約束された意味合いの変化にワクワクしながら未来に向かって使ってたんですかね。


って考えた時にね!!タイトルに「2020」つけたのはすごくいいなあと思うんですよね。やっぱりどうしても未来の話なんですよね。銀河鉄道の夜2020は。2020に生きるお客さんが観ている限り。
だって今からまた100年経ったら2120ですよ、その頃「銀河」ってどんなものとして人々に捉えられてるんだろうって考えたら、たぶんまたもう今と全然違うんだろうし、今これが2020の銀河鉄道ですって宣言しておくのはなんかマイルストーンみたいで面白いですよね。


● ほんとうの幸みたいなこと

ほんとうの幸ってなんだろうねえ、みたいな話がたびたび出てくる気がするんですけど、それに関してはまったくピンと来なくて、なんだろうねえ。で終わりなんですけど。ただ、蠍の火のシーンで、蠍は「まことのみんなの幸」って言ってて、その「みんな」という言葉と、
青年が他人の子供を押し退けてまで自分の子供(教え子)を助けようとすることに葛藤する姿、カムパネルラが目の前で友人が溺れている時にどうするかと迷う姿に、私は何か通じるものを感じたような気はしました。
「自分(たち)を犠牲にしてまでも」みたいなことがいいこととされてるのかとずっと思ってたけど、実は自分や大切な人の命を守る(生きる)ことを否定しているのではなく、ただ自分たちさえ良ければいいという気持ちがあるならそこは少し自問をしてもいいんじゃないかくらいの意味だったのかなあと少なくともこの舞台に関しては思いました。
宮崎さん演じる青年の、「できない!」という台詞がとてもよく響いている。この子たちを生かしてあげたい、でも、他者を犠牲にすることもできない。自己を守ることで生じる他者の不利益に目を瞑ることのできない気持ちに重きが置かれているのであって、その先の行いについて判定しているものではなかったのかなあと……お金はあるから助けろと叫ぶ大人の姿が追加されてたことも青年の立ち位置を浮き彫りにしていたような。
原作にしても、自分をただ犠牲にすることが良いことだと言いたいならカムパネルラはあんなに不安がってないのかもしれないなそういえば。わからん。
でも、さっき言った最後のジョバンニとザネリのシーンでジョバンニがこの期に及んで「ラッコの上着が来るよ」と言われてまでもザネリを「受容せずにはいられなかった」理由は、カムパネルラや青年のように「まことのみんなの幸」に通じる何かにあるのかなと思ったりもしました。



● その他


ケンタウルス、露をふらせ
このシーンすごい好きです……このお祭りいいなあ、楽しそう……あと鳥捕りさんのシーンも楽しい……好き……あと活版所も……全体的に人々の動きのデザインが美しい……


・毒虫を検索して引っかかった宮沢賢治の『双子の星』を読みました、ザネリを毒虫と言うのはサソリを毒虫と言うこの作品を通した伏線にもなっていたのかなあ、、、同作には乱暴ものの彗星も登場してた。


銀河鉄道があらわれる時、祭囃子みたいなてんてててんててでかきたてられるワクワク感がすごい。そこにシンセとかエレキギターとか電気で鳴らす音が入ってくるのもしびれる。世界が変わる、ジョバンニが救われる!という高揚感をそのままカムパネルラたちのシーンになだれこませるのもすっごい。


・すべてを楽しむには目と耳もだけど頭の処理回線が足りない。もっと見たいよー。


・後ろのふりこが最高。あれに銀河鉄道の夜のすべてが集約されている気がする。


・装置が海賊船を模した秘密基地みたいに見えて子供心がうずく。


・原作に描かれる美しい光たちが舞台上に眩くあるいは薄ぼんやりとそこかしこに広がっている。贅沢。


・バックに映る風景に目をやると、不思議と高台から街の夜景を見下ろしているような気分になる。なぜか人々の暮らしや営みを思い出すような。


星めぐりの歌のメロディを弦楽器で弾かれるとなぜかわからないけど涙腺にくる。家に帰りたくなる。


銀河鉄道でおっかさん…って言ってる時ジョバンニは下、カムパネルラは前を見てる。


・お父さんが帰ってくるかもしれない話のところで汽笛が聞こえるの素敵だな


・ジョバンニとカムパネルラが2人でいるとチップとデールみたいで可愛らしい。ひとりずつ見るとそんなのほほん要素なさそうなのに……声揃っちゃうのかわいい……くるみコツンてやってたけど何あれ……楽しそう……


・ところで私は木村さん佐藤さんのジョバンニとカムパネルラが大好きだけれども、普通の「銀河鉄道の夜」のイメージからしたらジョバンニとカムパネルラはもう少し表面的に子供らしいほうが「見やすさ」に限っては上だと自分は思っていて(見やすいのが無条件に最上とは思わない)、それより重視されたものがなんなのか、意図がどこにあったのかは気になる。


・2回目見たら冒頭は銀河鉄道というイベントが発生しなかった世界線という感じがしましたね……


(2020/10/02追記)
・二幕の最初の方、「ぷくぷく」と水の中のような音がほのかに聞こえる気がして「?」と思っているとケンジが「水族館」というワードを出してきて「なるほど…!」となるのが好き。列車を直接的に水と結びつけるこのシーンで、「銀河鉄道」というものに新たなイメージが加わる。あと新幹線がトンネルに入って窓に客席が映る瞬間を思い出したりもする。
「こんなやみよののはらのなかをいくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる」
これは『春と修羅』の「青森挽歌」の一節だとあとから知って読んでみたんですけど、なんだかこの詩の中にケンジのもうひとつの『銀河鉄道の夜』がある気がして、この劇は私が知らないだけで実はとても堅固な『春と修羅』との二重構造を保っているのかなと思った。
汽車がりんごのなかを走っているという表現も、劇中で聞いたときはりんご=宇宙を連想したけれど、詩を読むと青森のりんごの木立の中のイメージも重なる。ひとつの大きなりんごだったり、たくさんの小さなりんごの集まりだったり、多分そのどちらも正解で面白い。この劇は宮沢賢治がその心象を繰り返し書きつけることで妹トシの生を証明しようとしたのではないかと言いたいのかななどと思いました。そういえばケンジがトランクから原稿?を取り出す場面がとても印象的で、この劇はやはり彼の物語に帰結するのだと思ったのだった。


・木村ジョバンニがめちゃくちゃ健気だって話はしましたっけ……?


(追記終わり)


・この舞台上の世界は、人々が賑やかに歌って踊っても、大人が愉快な姿を見せても、子供が誰かを罵ってすらも、地上の現実に降りてくることなく当たり前のように童話世界としての品を保っている。この作品の何より素晴らしいところはその点であるような気がする。


・「ひかりはたもち その電燈は失はれ」
電燈が失われることをかなしみ、しかしひかりがたもちつづける奇跡に思いを馳せたいと思わせる、芯の通ったジョバンニの笑み。彼の結論は掌に包み込まれる小さな星のよう。私はそれを持って帰ったんだと思う。
あれは、とてもよかった。






以上

音楽劇『銀河鉄道の夜2020』感想メモ(9/20)

音楽劇『銀河鉄道の夜2020』を観劇しました。
とても素敵な、祭りの夜を過ごしたようでした。


以下、ネタバレなしの感想です。



・ジョバンニ&カムパネルラの佇まいが非常に令和的。「2020」というだけあって今ならではの若者像に思える。
少年らしさは全面には出ておらず、むしろ青年のような向きもあり、ところどころで宮沢賢治と保阪嘉内の関係性を彷彿とさせる。



・描写順序の再構築により浮かび上がるザネリの物語が秀逸。米津玄師の『カムパネルラ』で銀河鉄道の夜やザネリ、カムパネルラに興味を持った人にぜひおすすめしたい。



宮沢賢治の世界が、複数の他者により言葉や歌や音楽やセット、照明効果などへとそれぞれに変換出力されている。それらが縒り合わさってまたひとつの舞台となっているのだが、その出来上がりが「つなぎめのない綺麗なひとつ」ではなくガチャガチャしているのが面白い。そこに宮沢賢治の描く世界のでこぼこした手触りが確かに再現されており、どこか祭りの夜のような空気感が生まれている。
音楽好きの宮沢賢治がこの生演奏の音楽劇を観たらなんというだろうか、と想像しながら見るのも面白い。









以下、ネタバレありの感想です。
薄い知識で適当なこと書いてすみません。
知ったかぶりですみません。



● 脚本
脚本がすごい。ここをここに重ねて繋げるんだー!!!と何度も感動した。特にザネリの物語を真ん中に据えたことでドラマチックに、かつ、観る側の感情のやり場ができている。原作にない台詞も世界観の中で雄弁に響いてる。



● 令和の二人組
木村さんジョバンニ&佐藤さんカムパネルラの佇まいの令和感がすごい。二人が舞台上で少しだけ浮いている(そこがいいんです)。彼らより上の世代の創り手の方々が「それでいく」と決めたことがすごいし(他の世代が特定の世代の傾向を良しとしないことってたまにあるような気がして。)、実際に二人の醸し出す令和感を内包して見せる作品と演出の懐の深さに驚くし、嬉しいし、白井さんってすごいんだなって……
演出の指示でもっとエモーショナルにもなっただろうけど、個人的にはこれでこそ「2020」にふさわしいと思いました。
2020の今、銀河鉄道の夜をやるんだものね!!!
しかもそんな二人が楽しそうに話すところは宮沢賢治と保阪嘉内を彷彿とさせるっていう。大学時代の二人もこんなふうに語り合っていたのかなあと。気の合う仲間がいる喜びは令和も大正も変わらないのだなあと感じるとても良いシーンだった……ここは彼らが令和的であるからこそ光るシーンなんですよ!!!!時代性と普遍性。



● ザネリとタイタニックの青年とサソリ、そしてカムパネルラ
これらの要素をひとつのシーンに重ね合わせたのほんとびっくりしました、なるほど、なるほど、なるほど……!!!ってなるほどばっか思ってた。あそこが山場の一つとなってとても見やすくわかりやすく、しかし本質は失わずで、すっごいなあ……赤い照明弾の使い方とかもグッときてしまいました。「わかりやすい」が「わかりにくい」より優れているわけではないけど、こうして誰かの視点から整理されたものを提示してもらえるのはひとつの作品を理解しようとする上でとてもありがたいことだと思いました。論文みたい。
宮崎さんのザネリと青年は本当に素晴らしくて、ジョバンニとカムパネルラに比べて彼は平成のお芝居で私にとってすごくわかりやすかったんですよね。古いとかどちらがいいとかそういう話ではなくて、うまく違いを言葉にできないので年号使って仮に表現してるだけなんですけど。宮崎さん、身体の使い方もうまくて溺れているところも演技と約束事を違和感なく両立させていてすごい。


● また令和の話
そして、そんなザネリと並ぶ時ジョバンニとカムパネルラは圧倒的に令和だなと……令和ってなんですかね……自分で言っててよくわからないんですけど、なんか、受動性……というか、「感情や言葉を表出だけに頼っていたらあまり何も出てこない感じ」?いや令和を生きる若者がそうだって言いたいわけじゃないです。とにかく二人が同じような存在感だったのでザネリとの対比がよく出てたなって事です……
ジョバンニは感情に振り回されるしかなり表にも出してるんですけどね。なにか独特な波長があって、不思議です。




● ザネリとジョバンニ
で、その対比が特に終盤でめちゃくちゃ効果的なんですよね。
ジョバンニは負の感情はわりとぽろぽろざらざらとこぼれ落としてそれ以外のところは結構借りてきたような言葉で喋るんですけど、最後ザネリに対しては、抱き締める……というかザネリの身体と心と発している言葉を「抱き留める」という行為で何かを伝えようとする。言葉はあとで、身体が先に動いた。ただ、借りてきた言葉たちがあの時彼の身体に染み込んでいるのが姿からわかるんですよね。そこにアメユキの「手足」ってすごい組み合わせだなって……
宮崎さんの演技、ザネリが本当はなんと言いたかったか、言葉に出せていないのに手に取るようにわかるし、それに対して木村さんジョバンニも言葉では返さず行動で受け止める。ジョバンニは感情表現や喋りが上手くなったわけではないけど、そこには確かに言葉を超えた対話が存在していて、ザネリがジョバンニに「受け止められた」ということがはっきり伝わってくるシーンになっていて、すごく良かったなあと。
ジョバンニらしさを失わず、しかし何かが変わったというのが見て取れた。あそこで対話が見えてこなかったらすべて台無しになってしまいますからね……
そして最後に、カムパネルラが自分の要望をジョバンニに言葉で伝えるという。佐藤さんのカムパネルラはどこか心ここに在らずで、それがこのシーンではちょっとイメージが変わって。あれは自分の気持ちを探していたのだな……と。



● 赤
そういえば、私は宮沢賢治作品には青とか白っぽいイメージが浮かぶんですけど、この舞台では赤がとても印象的に使われていたなあと。さそりの火、りんご、からすうり……確かにこの話には最初から赤の要素がたくさん散りばめていたのだと気づきました。この舞台本当に気づきが多かった。
宮沢賢治の生と死が隣り合わせのような「青」に対して、この舞台の生命が燃えているような「赤」は、原作とは少しだけ違うジョバンニの「生きていく」決意の象徴みたいだなと。



● 標本
ジョバンニが大学士にも鳥捕りにも「標本(にするん)ですか?」って聞いてて驚いた。しかも両方否定されてる。彼は最初の方でお父さんが寄贈した標本の話もしてるんですよね。ジョバンニにとっての標本というもの、とても示唆的だったのだなあと。標本にするのではなくて、自分の中に取り入れるのだ、存在を証明するのだと彼らは言う。
木村ジョバンニが無邪気に聞いててすごくいい反復感が出てました。


● 二人が似ている話
木村ジョバンニと佐藤カムパネルラ、たまにしぐさがシンクロしててちょっと可愛らしかったです。背格好も衣装も似てて、もし髪型が同じだったら私は見分けがつかなかったと思う。「二人が似ている」ということについてはいろいろな解釈ができますね……
あとジョバンニがカムパネルラのことめちゃくちゃ好きだなっていうのが表情や仕草ですごい伝わってくるんですけど、カムパネルラもカムパネルラで結構ジョバンニのこと好きだなって目線とかから感じられたりするのがすごく良かったです。
でもそれが「二人が似ている」ということによって「このカムパネルラはジョバンニの生み出したカンパネルラではないか」みたいな気持ちに度々なりましてうっすらしょんぼりしました。
それにしても二人の距離感が絶妙でしたね……ジョバンニのやや一方的な感じが宮沢賢治もこうだったのかなみたいに思わせたりとか。



● ジョバンニの孤独
作品紹介の「孤独な少年ジョバンニ役」という説明があまりピンときてなかったんですが、劇中のジョバンニがあまりにも孤独で……脚本が用意した孤独に演出とお芝居が見事にこたえている……結構えぐられました。
窓の幻灯に映る人でしたっけ?を聞かれておかあさん、おとうさんしか出てこなかった場面、親しい人が家族以外にいない、そして家族にも全てを話せるわけではない、ということがよくわかる描写でつらい。そういう種類の孤独ありますよね…………
しかも後半の女の子からりんごをもらうシーンで食べたあとちょっと涙拭ってて、「もしかしたら『カムパネルラ』でなくてもよかったのかもしれない、とにかく誰かとこうして心を通わせたかったのかもしれない」と思わされまして、より孤独が深まったなと……



● カムパネルラの孤独
私はカムパネルラのことがよくわからないんですけど、この舞台はカムパネルラの迷いや、ひょっとしたら彼の抱えていた孤独についてにも寄り添っているような気がしたので、次見られたらそこに注目したいと思いました。佐藤さんのカムパネルラは、電気が流れたり流れなかったりする感じがまさに「明滅する青い照明」といった感じでとても良かった。



● 鳥捕り
ジョバンニカムパネルラと鳥捕りさんのシーン、昭和のおじさん(めっちゃいい人)にからまれた令和の若者みたいですごい好きでしたね……宮沢賢治があそこで描いた戸惑いや居心地の悪さやわからなさって、本当にその類のものも入ってたんじゃないかってちょっとだけ思った。




● 木村さんのジョバンニ
こんなプレーン(プレーン?)な木村さん見たの初めてでは…!?と思った。割と低めの声だったのが意外で。もっと少年らしい声色も出た気がするけど、そうじゃなかったことで(カムパネルラの佐藤さんも同じくそんなに高くしてなかったので)何度も書くけど大学時代の宮沢賢治と保阪嘉内っぽさがあったなあと。
賢治の友人であった保阪嘉内はカムパネルラのモデルの一人とも言われているらしいんですけど、子供の頃に描いた彗星の絵を賢治に見せたみたいな話があって、そのエピソードが劇中ジョバンニとカムパネルラが天の川の話をしてるシーンと重なって見えたんですよね。。あれはなんだかとてもとても大切にしたいシーンですね。
(そういえばそのシーンで、ジョバンニ自身が「銀河鉄道」という言葉を発したことでそれが彼自身の中から生まれた幻灯的なものであるという印象が原作よりもやや強めになったように思いました)
しかし青年ぽいと言いつつ、木村さんの破顔や涙は少年性の発露のようであり、その縦に連なる二面性にぐっと心を掴まれました。



● 牛乳屋さんのシーン
「牛乳瓶に暴れん坊が入っていました」みたいなジョバンニの台詞あったじゃないですか……?あれ、原作にはない気がしたので宮沢賢治の詩なのかなと思ってググったんですけどよくわからなかったんです。でも、あそこの台詞が、この日観ていて一番前のめり(気持ちの中でだけ)になったところでした。言葉の発し方めっちゃ良かった。びっくりした。声色も感じもジョバンニの地の台詞と変わらないのに始まった途端ぞくぞくしました。空気がチリッとした感じがした。あれなんだったんだろう!
「かぷかぷかぷ」みたいなことも言ってたような気がしたんだけど、木村さんの発話とそのオノマトペ最高の組み合わせかよと思いました。
宮沢賢治の作品はちょっとしか知らないんですけど、個人的には「物語によって巻き起こる五感への刺激を(誰にでも)再現できるように文字に残すことに心を砕いた人」というイメージがあって、だからこそのハッとするようなオノマトペの数々が出てくるんだと勝手に思ってて、
「やまなし」の「かぷかぷわらった」とかその最たる例じゃないですか。「にこにこ」とかではなく「かぷかぷ」で、これを口に出した時の感触とそれが耳に入った時の刺激によって笑い方を再現しようとしていて、しかもこの「かぷかぷ」は「カプカプ」ではなく「かぷかぷ」でこの見た目によって雰囲気を再現しようとしているみたいなそのこだわりの宮沢賢治オノマトペを固めの音の発音が明瞭な木村さんが言うっていうのめっちゃいいねって思いました。
ジョバンニの台詞のそれは宮沢賢治の言葉なのかどうかも平仮名なのか片仮名なのかローマ字なのかもわからないんですけどね。
なんか中原中也っぽさもあったのでいつか中原中也の詩も発音してみてほしいと思いました。



● ケンジとアメユキ
アメユキさんが「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と言ったのを聞いて初めて「アメユキ」ってそのあめゆきだったのかと気づきました。『春と修羅』「永訣の朝」の一節ですね……カムパネルラのモデルの一人とも言われる宮沢賢治の妹さんが、亡くなる朝に「あめゆきをとってきて」と。ケンジとアメユキ、そうか、と……
その二人がジョバンニを見守っていたのか、と……
二人ともメタ的な(っていうんですかね?)存在だと思うんですけど、さねよしさんのアメユキの歌と岡田さんのケンジの言葉が他の登場人物とは異なる声の響きをもって優しく、しかし渦のように物語を包み込んでいて、宮沢賢治もこんなふうに登場人物と対話しながら心象を描き留めていったのかなあと思いました。
春と修羅』の「序」、「わたくしといふ現象は〜」を繰り返しケンジが言ってたり(他の詩だったかな…)、冒頭ではかしわばやしの話もちょこっと出てた(あれも銀河鉄道『の夜』と同じ「かしわばやし『の夜』」なんですよね)りして、ジョバンニやカムパネルラはあくまで宮沢賢治の心象スケッチのひとつであり、これは宮沢賢治の創作過程の物語であるとも感じました。自分と対話しているとも言えるしね……
それにしても誰かの心や頭の中の映像が人の身体から外へ出て舞台の上で他者によって再現されるってめちゃくちゃ面白い現象ですよね。きっとこぼれ落ちるものがほとんどだけれど残った一握りの何かがこんなにきらめいている。



● その他
・木村さん、膝をつかせたら世界一(私調べ)
・木村さん、火花のように負の感情をほとばしらせたら世界一(私調べ)
・ジョバンニカムパネルラとザネリは夏の大三角
・「銀河鉄道の夜」というタイトルは何億回見ても天才、それだけでブログ書きたい
・そういや川と銀河だけじゃなくてジョバンニの牛乳とミルクがこぼれたミルキーウェイもかかってんのかー!って今更気づいた





セットや音楽といったスタッフワークと身体表現で創り上げられる「世界」とびりびり伝わる振動を体感して、本当に「演劇を観てる」って思いました。非日常が目の前に広がっていて、どことなく祭りの櫓を見ているような気分でもありました。
本当に久しぶりに、抽象の世界に身を置いた。現実で具体のことばっかりやってたから、その不確かさとものの幅が新鮮でした。




今回は言葉ばかり追ってしまって全体をよく受け止めてきれなかったので、また観られたらもっと広く見たいなあと思いました。作品のテーマである本当のさいわいや自己犠牲などについても全然頭が追いつかなかった。素晴らしい音楽ももっとちゃんと聴きたいです。



以上

演劇の配信を観て思ったことメモ

最近、演劇の配信をいくつか観ました。全部面白かったです。


以下、演劇の配信というものに関して個人的に思ったことをメモ。
推敲・成形する余裕がなくて表記とか名前とか書いてある内容とか全部いい加減ですみません。




● プラットフォーム的な話

サービス内訳(全9作品)イープラス5、ぴあ1、YouTube1、観劇三昧1、vimeo1(ファンキャスのアーカイブ

・イープラ×スマホ×ライブ配信だと頻繁に音切れやフリーズが発生する。たぶんサーバー側の問題ではなくスマホのせい。同じ公演でもPCに切り替えると問題なく視聴できる。イープラ×スマホ×アーカイブ配信は普通に観れる
・ぴあ×スマホ×アーカイブ配信は、視聴中に一時停止→他のアプリを使用→戻る→動画につながらない など何回か。私の使い方が悪い。集中しろ。
YouTube×スマホ×ライブは音切れもフリーズもなかった。ただずっと画面をつけっぱなしにしていたら始まらなくて冒頭見逃した。(リロードで始まった)
・どこで画質調整できるかのわかりやすさは大事。特にライブ配信だと慌ててしまってギャーとなる(そして結局どこでやるのかわからなかった)
・vimeo×スマホ×アーカイブはたまに音割れしてたけどこれはアップロードされた動画の問題
・観劇三昧×スマホ×アーカイブは普通に観られた
スマホを新しくすればライブ配信も普通に観られるだろうか…?


・プラットフォームが多岐に渡るのでいちいちアカウントを登録しなきゃいけないのが面倒。しかし結構既存のアカウントが使えたのでプレイガイドで配信やるというのは合理的だなあと思った。


・配信によって演劇の存続をはかるならアーカイブはアマプラとかネットフリックスとか、演劇に興味ない人がアカウント持ってるプラットフォームにのせるくらいしても良さそうな気がした。演劇に興味ない人の検索に引っ掛かったりおすすめに出てきたりしてほしい。演劇に興味ない人が出会う可能性やアクセスのしやすさを高めないといけない気がする(新感線がパラビで髑髏城流してるのさすがだなって)
・宝塚はただでさえテレビチャンネル持っていてすごいのに、WOWOWでもやってるし、U-NEXTでライブ配信アーカイブ配信やるようになるし、本当にアクセスの良さがすごい。
・簡単にアクセスできるようにしてしまうと消耗されるというか価値が下がる感もあるかもしれないけど、今は販路を開拓して多くの人に見てもらって裾野を広げることも大事なんじゃないかと思ったり思わなかったりする
・劇場での観劇は「体験」だからオンラインでは補完しきれないという点で演劇配信はオンライン旅行に似ているのでは…と思う。光景の美しさや風の音みたいなものはオンラインでも伝わる、それで感動して、さらに実際に行って自分の身体で体験してみたいという気持ちになるというのが大事なのでは




ライブ配信アーカイブ配信の話

ライブ配信のみの公演で音切れ、フリーズが頻発すると絶望感がすごい
・その点アーカイブ配信があるとあとでカバーできるので少し心の余裕が生まれる(でもせっかく生で観てるんだからそこで観られるのが一番に決まってる)
アーカイブ配信や複数日ライブ配信があると「最初興味なかった人が、観た人の評判を聞いて観てみようと思う」ということが起こるのだなあと知った(数日にわたって公演やるのと同じかんじだな)
アーカイブ配信は神。日中のスケジュールを調整しなくても深夜や早朝に見られる。そしてこれは不快に思われるかもしれないが、移動中や家事の合間に「ながら見」ができるのも大きい。生活への圧迫感が少ない。中断ができるので、面白いものは ながら見をやめてあとで集中して観るという選択ができる。
・配信が19時開始のみで観られなかった作品があった。ライブ配信のみの場合、配信日(平日/土日祝)や時間(マチネ/ソワレ)にある程度バリエーションがあると多様な生活リズムに対応できるのでは……
ライブ配信のみでは「ちょっと興味のある人」はほぼ見ない気がする。スケジュール調整しようと思うくらい「すごく観たい人」とたまたまスケジュールが合った「ちょっと興味のある人」しかみられないような。それで良いならそれで全然良いけどもしそれだけでは収益化できないなら「ちょっと興味のある人」も見られるようにアーカイブしないといけない気がした(しかしきっと権利の問題とか色々あるのだなあ……)
・視聴人数が意外と気になる いきなり1000人とか減ったらどうしようとかちょっと思う(別に表示をなくしてほしいとかではない)
・カメラワークなしで全景でもいいって思う作品ある 劇場でもむちゃくちゃ後ろの席でオペラグラス忘れたら全然見えないことあるもん それでも面白いのは面白い


・配信、映像化予定の有無は公演概要発表時に教えてもらえるとありがたい……………劇場に行かなければ未来永劫観られないのなら、最初からそう宣告してほしい………あとチケットとってから(あるいは劇場に行かないと決心して、チケットを取るのを諦めてから)「配信あるよ」ってなるの、一見喜ばしいようだけど、チケットとる取らないの時点で趣味(演劇or推し)vs 命or生活or信頼で悩みまくって苦しんでいるので、その頃にはだいぶぐったりしている。そんなことで疲弊させている場合ではない……みんな劇場でみたいんだよ、配信でいっか、って思ってるわけじゃないよどうしてもいけないからせめてもの配信なんだよ〜〜


・‪でも、6月に思っていたよりずっと多くの演劇が配信されていてとても嬉しい。‬本当に本当に本当にありがたいと思っている。特に一番難しいのではと勝手に思っていた東宝さんがラボ、SHOW-ISMS、JB、帝劇コンと立て続けに配信予定を組んでいてめちゃくちゃ感動してる。‪SHOW-ISMSで「配信許可がおりた楽曲を…」とおっしゃっていて、ああー配信に漕ぎ着けるまでにたくさんの調整があったのかなあ…!!!!などと想像してありがたい気持ちになった‬。配信があるのは全然当たり前なんかじゃない

・「劇場に行きたくても行けない人」が少数派から多数派になっていそうな感のある今、趣味と生活を天秤にかけなくてはいけなくなっている人も多そうな感のある今、‬‪その「劇場に行かない」という決断に宿る小さくない悲しみや苦しみをどう包み込むかというのは商業演劇の存続に関わる新たな課題なのでは………とか勝手に思ったりした‬。
「行けない」から「じゃあ、もういい」、「こんな苦しい思いをするなら演劇はもういい」ってなってしまったらおしまいなんだよな……いやおしまいじゃないようにしないといけない



● その他いろいろ

・変な話だけど配信は「脱落しやすい」。劇場での観劇は途中退席しにくいけど(そこが良いと思うけど)配信なら「合わないな」と思ったら「観ない」という選択を気兼ねなくできる。観劇ってお金だけじゃなくて時間や体力も費やしているけど、途中退席できれば時間や体力を他に回すことができる……ので、その手軽さは普段演劇をあまり観ない人にもとっつきやすいのではないか……と少し思った。
・配信だと最悪見られなくても空席ができない、というのがとてもありがたい……劇場で直前に体調悪くなったり仕事で都合悪くなったりで空席作ってしまうのむちゃくちゃこわいので……(劇場でも当日券に回してもらえる仕組みがあるといいのにな)
・配信、移動しなくていいので多ステしやすい(←これ、配信のものすごい強みだと思う。アーカイブで何度でも観られるから配信は1日分でいいやーなんて思わない。あるならあるだけ観たくなる。だって全部違うから。劇場へ全通は無理でも配信なら全通するかもしれない)
・配信チケットの価格設定は難しそうだ…


・話それるけどプラットフォームが分散してアカウント登録面倒な話、クラウドファンディングの時も同じことを思った。何か応援したい気持ちはあったけど、個人情報をあちこちに登録することにちょっとためらいを感じた。自分は結局あちこち登録したけど、それがひとつハードルになってる気はする。ニックネームだけで支援できたらいいなあとかどれかひとつのサービスに演劇系のクラファンがまとまってたら嬉しいなあと思うけど、そういうわけにもいかないというのはわかる(ので言ってみただけ)
・あとクラファン、支援対象(誰の力になれるのか)がしぼられていればいるほど支援しやすいのでは……とも思った 劇団四季クラウドファンディングですって言われたら劇団四季の力になれるってかなり具体的なイメージわくので支援しやすい しかしそれが適切でないケースがあるというのはわかる(ので言ってみただけ)


・調べもせずに書いてしまうけど権利の問題で配信できない(=劇場に行けない人は未来永劫観られない)って、ひょっとしてわりと演劇特有のできごとだったりする…?映画は映画館で観られなくても我慢して待てば円盤か配信で見られるような気がする。音楽ライブはアーティストさんの予算や信条が許せば、あと楽曲さえ気を付ければ配信できそうな気がする。スポーツの試合も同じく配信?中継?できそうな気がする…わからないけど…
「観られる人」と「全く観られない人」が出てきてしまうのってもしやけっこう演劇だけ?



・配信は劇場での観劇の完全な代替にはならない。体験の大部分は損なわれる。生で観たほうが良いに決まってる。それでも、作品の良さは、客席の感動はこちら側にも伝わる。
・こちら側の感動は劇場に伝わっているのか?どうしたら伝わるのか?アンケート書けば伝わる?SNSで感想書いたら伝わる?



以上

『アンチフィクション』を配信で観たメモ


DULL-COLORED POP『アンチフィクション』アーカイブ配信で観ました。
谷賢一さん(作・演出・出演・照明操作・音響操作)による一人芝居です。


この記事は感想ではなく、見て思ったことそのままの独り言メモです。
コロナ禍でこんなこと考えとったんかい と、あとから振り返るための書き残し。
ネタバレありです。まとまりがなさすぎて自分でも何を言ってるのかわからない。




● コロナ禍でフィクションを書けなくなった劇作家の独白
酒、家族とのすれ違い、書けない苦悩、自己正当化……と、語られる内容は割と「芸のためなら 女房も泣かす」(『浪花恋しぐれ』)的な感じなのだが、完全に文学的なものに昇華させてはいないのが好き。
浪花恋しぐれ風にいうなら「芸のためなら 女房も泣かす」「それがどうした 文句あるか」と来て「あっごめんなさい僕が悪いです」となる感じ。ロマンに沈みきらない。完全に自己を正当化しようとはしてない。「妻からのLINE」を出すことで、パートナーである奥様にもリアル、人間味を感じ同情できるように仕掛けられている。私小説と見せかけてエッセイっぽいというか、平等な目線。モヤモヤしない。




● 「アンチフィクション」
台詞と身体があまりにも密接しているように感じる。私が谷さんを劇作家だと知っているからだと思う。だからフィクションじゃない風に見えるのであって、これを役者さんが演じていたらもうそれだけでフィクションになってしまう気がする。全く同じ台詞・演出でも。
私が谷さんのお顔を存じ上げず、知らない役者さんが舞台に立ち「自分は劇作家」だと名乗って始まればフィクションじゃない風に見えるだろうか。いや、でも「本当に劇作家なのかな」と疑ってしまう気がするな。紛れもなく劇作家だと知っているからこそ「これは本当です」の前提で立ち止まらずに観ることができたのだと思う。アンチフィクションを成立させるには戯曲の内容だけでなく誰が演るかも重要なのだな。本人から出る言葉だと思わせることがアンチフィクションの第一歩?それは演劇だろうか、もしや学会の発表的なものに近いのじゃなかろうか。面白い。


中原中也『春の日の夕暮れ』
作中で登場した詩。今までよくわからなかったこの詩がこの時むちゃくちゃ響いた。

私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

コロナ禍を前にしてフィクションが書けないってまさにこういうことじゃないか。
中原中也はそういうことが言いたかったのか!」……と思ったわけではないけれど、自分の中で詩に具体的なイメージが宿ったという意味で感動があった。
そもそも「歴史的現在」とはなんて空疎でフィクション的で、尊大な言葉か。それが歴史として紡がれるべきものかはあとから判定されるもの。そして歴史自体、誰かの目線に偏った物語。現代を生きている人間がかたるものではない。でも今起きていることは間違いなく歴史の教科書に載るよね…というこのふらふらした感覚がぴったりおさまった言葉だった。「歴史的現代」響いた〜
しかも、そりゃあ空や山に笑われる、まず時間の尺度が違うから。何が歴史的だ、山や空は今も昔もそのままにあった。
この間観た白井晃さんと野村萬斎さんの対談動画で、野村さんが「(常日頃、古典というものをどう存在させていくかというのを考えているので)存亡の危機というものにあまり動じなかった」とおっしゃっていたのを思い出した。白井さんはそれを受けて「たしかに、ペストが流行ったってスペイン風邪が流行ったって演劇は残ってきたし劇場は残ってきたわけですもんね」と、野村さんのお言葉を力強く感じたとおっしゃっていて、伝統芸能と現代演劇の尺度の違い、時間の捉え方の違いを知った。ちょっとそれに似てる。
そういえば歌舞伎だって早々に図夢歌舞伎を始めて、離れたところで演じるお二方を2画面でつなぎ合わせるシーンについて「物を渡すところを合わせるの難しかった、たくさん稽古したー!!」と言ってたのだった、胆力というか、時代の変化に対応していく気概がすごい。
(演劇が簡単には消滅しないのは今演劇があることが証明してくれているとして、じゃあ過去疫病流行の最中に劇場は開いていたのか否か、中止していたのなら再開までどれくらいかかったのか、というのが今知りたい事柄だけれど、不要不急の疑問につき図書館には行けなかった。でもネットで調べたら色々な情報があって面白かった)



話を元に戻すけど、空と山は自然の代表とすれば、コロナ禍も人間が制御しきれていないものという意味では自然の脅威という感じなので、フィクションを書こうとしてコロナ禍が立ちはだかるというイメージによく重なる。強すぎるのだ。コロナ禍の物語が。関節の外れた世界が。



● アンチフィクションてなに
フィクションではないもの。ノンフィクションでもないもの。
「この話にはフィクションはありません。起こること、起こったことはすべて本当です」。冒頭でそう宣告される。
ここで「すべて事実です」とは言わず「すべて本当です」としているところが重要な気がする。「事実」だとノンフィクションになってしまう。でも「本当」という言葉なら、認識のワンクッションを置けるというか、実際にそうだったのかどうかを疑わせる余地を残せる。これはまったくのノンフィクションではないと伝えられる。
ではこれは何か、で、アンチフィクション、反虚構を名乗っているのだけど、
私はこれはゴリゴリのフィクションだと思った。どれもわりと本音でどれもわりと本当かもしれないが、その包み紙は虚構そのものに見えた。「本当」をかたるゴリゴリのフィクションを見せることでの、フィクションの再発見、再出発。
フィクションが現実にかなわない今、それでもフィクションを再開するには、「現実の一環」のふりをする(「ふり」である余地を残して)必要があったのではないか。現実を装って最初はそっと、のちに大胆不敵にフィクションを滑り込ませた。アンチを名乗って。そういう勧誘の仕方がありそう。



● リアリティの話
「すべて本当」といいつつ、そこにリアリティを持たせようとしていたかというと、後半は言わずもがな、前半もそういうふうにはするつもりないのだろうなあと個人的には思った。もちろん「今書けない」という焦りは本当の本当の本当に感じたけれど。
お酒についても既存の「作家イメージ」を刺激したり利用したりしてより強く印象付けるよう演出されているように感じた。しかしLINEのくだりがいちいち強いのでそれだけでリアリティの演出としては十分だった。
「登園自粛となった子供がPCの上に登ってくるので全然書けない」などの描写があったらコロナ禍特有の切実なリアリティみたいなものが出そうだけれど、そういう生活感をこの作品の中で見たいかというと別にそういうわけではない。
アンチフィクションを名乗るのに徹底したリアリティというものは特段必要ないんだな、という知見を得た。




● フィクションは普通に有効
見ていて強く思ったこと。少なくとも自分にはフィクションは必要。というか物語、非日常が必要。それが事実であってもなくても。強度がどうであっても。
なぜなら、今あまりにも自分の日常が強すぎるから。


緊急事態宣言下、最小の共同体にとじこもり、極力「ウチ」で解決することを求められた。やることがむちゃくちゃ増えて自分の時間が全然とれなくてしんどかった。
それが明けて今も、「日常に専念しろ」と言われている感覚がある。言われているというか、それが命を守る最善の策なので……。
そしてお互いを監視しあっている。変なところに行かないか。不用意なことをしないか。
監視って言葉はちょっといまいちで、心配している、が近い。みんな。お互いのことを。有り難いのだけど、少し息苦しさも感じる。
生活にがんじがらめになっている。
日常の檻の中に閉じ込められている。
仕事に専念し家庭内の役割を務め安全な範囲で息抜きをする毎日。




いや他人の物語にワープしたくもなるって!!
要するに自分の物語から少し離れたい。



現実はいま一時的にフィクションを超えているかもしれない、でも、それはそれ、これはこれ。現実と違う種類のフィクションは普通に楽しめる。延長線上にあるものはイマイチに感じるかもしれないけど。



● (配信でしか観られなくても)演劇でなくてはいけないか?
他人の物語にワープするだけなら小説やドラマやゲームでいい。Twitterでいい。
ほんとそれで全然良くて、いや「それで」って言い方は失礼で、小説もドラマもゲームもTwitterも普通に面白いので「それが」いい、家で楽しめて安全だし。それがいいのに「演劇も観たい」って思うのはなんなんだろうな。
この作品の配信を観ていて、その答えの一つは即時性のような気がした。
今がすぐに反映されるリアルタイム性。同時代性。共感の近さ。
あとはやっぱりそこに観客がいて、みんなで泣いたり笑ったり手を叩いたり、そういう他者と自分の感情のうごめきや連動を感じて共有できること。無観客上演の配信だとしても、コメントやSNSでその擬似体験をしている気がする。
あと、一発勝負であることによる、成立の奇跡、切実さ。
あと、劇場で観劇した時の記憶、体験の蘇りもある。
あと、物語を人が再現している、物語に実体が伴うという点。生身の人間が目の前で何者かになるというごまかしのきかない誠実さ。
あと、劇場という場所の懐の深さ。響き。
……よくわかんないけどとにかく演劇は私にとってそういう感じの理由で「結構好きなもの」で、だから配信でも演劇を観たくなってしまう。



● (演劇を見るのは)今でなくてはいけないか?
いや今一番難しいのこの問いじゃない……??
この作品は間違いなく今書かれたからこそ出来上がったもののように思えるし、今上演されたからこそ観客が我が事として観られたように思える。
今以外なかった。そういう作品がいま生まれているんだと思う。今やることに意義はあると感じる(私が感じても仕方ないんだけど)。
でも一方で、たとえばとある作品の地方公演や同じライブエンタテイメントであるコンサートの振替公演決定に対する意見をTwitterで見ていると、延期してほしい、という声が少なくないように感じる。
そうだよなあ……推しのこと心配なんだよね……推しが感染することも、感染させることも、その結果責められるかもしれない世の中であることも、少しでも「推しの非」みたいなことが見つかろうもんならもうどうなるだろうって、全部心配なんだよね…………しかも行きたくても行けない人いっぱいいるんだよね……なんで今やらなきゃいけないのってなるよね……そしてこの心配はまた息苦しさにもつながっていくという悪循環。
私も、今年予定していた演目ぜーんぶそのまま来年か再来年に移行しますと言われたら、ちょっと嬉しいかもしれない…………コロナ禍の演劇にまつわる個人的な悲しさのひとつは演目が「観られないまま消滅してしまった/してしまう」ことだもんな……
それでも、おいそれと延期なんてできないんだよな。だからつらいんだよな……そしてその損失よ………………しばらくまた自粛して「もう大丈夫、さあ演劇をやろう」となったとき会社や劇団が存続している保証なんてない。



今更なんだけど、感染症、つくづく演劇と相性よくないとあらためて…人の目の前で人の営みを再現するんだからそりゃそうなんだなあ、客席も舞台上も、、、さっき書いた演劇の好きなとこ全部感染に繋がる。
新しい生活様式ガイドラインもさることながら、感染者が1人でも出たら中止になるの、わかってはいたけど実際起きてみると本当につらい。どなたの身になって想像しても苦しい。そして不確実が過ぎる。でも新型コロナでもインフルエンザでもなんでも本当は同じなんだよな、体調の悪い人が休める環境のほうが健全だしそれでも中止にならない仕組みが整えられていくのかな…また新たな負担が増えるけれど…………
(ところで四季や巌流島、帝劇も、感染者の方がいらっしゃってもクラスターが発生していない、周囲の方にうつっていないというのは、それだけご自身や関係者の方々、運営さんの感染予防対策がしっかりされていたという証だから、本当にすごいと思うんですよね……こうやって少しずつノウハウが蓄積し共有されアップデートされていくのですよね…)



6月半ば、3月に一時的に劇場が開いた時のことを思い出してあれこれ書いたけど、
今、個人的には3月よりつらい状況になっているという感じがする。
感染自体の恐ろしさに加えて、感染したら社会的にやばいという恐怖が強くなっている。自分が劇場で感染した/させたら、自分や周囲の方(感染させた場合はその方々も)の健康を損なうにとどまらず、仕事も生活も趣味も全部失い、家族や職場や演劇や推しに取り返しのつかない迷惑をかけてしまう可能性を感じるという、なんていうか、よりソーシャルな、村八分的な恐怖がある。

そして、劇場に行くのが難しくなった人は多分私だけじゃなくてしかも多分3月よりも多くて、「(観られる人がいるのに)観られない」というつらさ悲しみは思っていたよりもさらに大きなもので、
何より収束する気配がなく「いつまで」という先が見えないというのが耐える気力を削いでいる。
「じゃあ、もういい。こんな苦しい思いをするならもう演劇はいい」
と自分がなってしまうんじゃないかというのが、結構不安。


(でも6月に想像していたよりも配信をやってくれる作品がたくさんあって、その点は本当に本当に本当に嬉しい、とっっっっても救われている)


何度でも言うけど、劇場を疑っているわけでは全然ないのにな、、、
劇場の感染予防対策は万全。
そうであるところがほとんどで、
あとは自分もしっかりすれば、大丈夫なはずなのになあ。



とかなんとか、ぐるぐる考える自分と、
「うるせー!!!!!!いつだって劇場で観る演劇が一番に決まってるだろ!!!!!!」
と出てくるルフィみたいな自分がいる。
この作品はルフィに加勢してくれました。




それでも今、演劇をやるのか?
という問い、私は部外者で無関係だから考えてもなんの意味もないし誰かの答えをどうこういうつもりもないんだけど、
自分が興味ある範囲で誰かが「今やる」と決めたならそれはまさしく今がそのタイミングなのだと支持したいし、
「今やらない」と決めたならそれは今ではないのだと支持したい。当事者の、現場の方々のどういう決断も支持したい、応援したい、そこは変わらない。支持するっていっても別に何もできないけど否定せずにいたい。何もできないけど。




● というようなことを考えさせられた作品だった
見てから少し時間が経ってしまったので、大事なところの記憶が抜け落ちてしてしまっている気がする。あとでまた見返そう。アーカイブ配信のいいところ。
この作品では、「今」、「自分のこととして」観られるような、コロナ禍により事前に共有済みの議題、共通体験が取り扱われていました。
なぜ今、演劇をやる(観る)のか?
今でなくてはいけないか?
その問いに対する答えを、出そうとする過程を見せてもらったような気がしました。
ディベートみたいな演劇だった。

TOHO MUSICAL LAB. 『CALL』感想メモ



TOHO MUSICAL LAB.を観ました。
2作品とも、とても素敵でした。


今、この状況下で東宝さんがこのプロジェクトを立ち上げたその意義についてや、何が演劇を演劇たらしめるのか、この作品は我々に何を伝えようとしているのか……といった考察をしてみたい気持ちはあるのですが、
いま頭の中が

「推しがお芝居してた!!!!!」

という「赤ちゃんが寝返りした!!」みたいな感動でいっぱいなので、
何も考えず素直に「うわ、好き」ってなったとこを書きます。
なお推しは木村達成さんです。
『CALL』ヒダリメとても好きだった。

※ すみません、すべてネタバレです。




● ヒダリメとミナモが出会うシーン
舞台上にいるミナモと客席側にいるヒダリメを横から写すことで意識にのぼる、舞台と客席の境界線みたいなものが好き。2人の間で一番星みたいに光る照明が美しい。



● ヒダリメという名前
記録やカメラの擬人化のような「メ」に「ヒダリ」という言葉が付いていることでその名前に方向や重力を感じさせる。どうしても対になる言葉だから、聞いた瞬間に「ミギメもいるのかな」という考えがふっと頭をよぎり、結局それが登場しないことでなんの説明もないのにヒダリメという存在に微かな喪失感が宿る。でも「ミギメ」と「ミナモ」って若干響きが似てるじゃん!?とか思ったりする。
すごくいい名前。



● 「ドローンだから声も見つめられる」
彼はどうやら動画で見つめてるっぽいのに、残る記録は映像ではなくて写真であるという設定が切ない。写真に声は残らない。だから我々は声の残る円盤を所望してしまうのだ……けど、彼は一瞬一瞬を彼のフィルターを通して記録に残してきて、そこに誇りを持っているというのがそこかしこの台詞から伝わってきて良い。その時の音が蘇るような、聴こえてくるような写真ってありますよね。



● 記録用ドローンは観客になれるのか
「じゃあヒダリメは観客?」と聞かれた時の、「…え?」という、「何言ってんの?」みたいな、心底そんなこと考えたことなかったみたいな反応が良かった。
その前にヒダリメは、観客とは「作品を見てる、人」だと言って劇場を見渡しているから、「客席上方」を飛んでいたであろう「ドローン」の自分が観客と呼ばれるなんて思ったこともなかったのかもしれない。
そしてミナモに観客認定されて、自分の中でじわじわ飲み込んで何度も頷いて、嬉しそうに「そうだね」と言ってからのテンションの上がりようがとてもかわいい。
ミナモはヒダリメに色んなこと教わったけど、ヒダリメもミナモに自分の価値みたいなものについてたくさん気づかされていて微笑ましい。



● お辞儀を促す手と頭の角度が良い
お辞儀を促す手と頭の角度が良い。



● 星空みたいなクラップ
このシーンめっちゃ良かった、好き、「わあ」って思った。
最初ヒダリメが「上出来だね」って拍手した時、なんか耳に残る音出すなあと思ったんだけど、それをミナモが「星空みたいにクラップする」って表現したから「ああーーーそういうーーーー!」ってひっくり返りました。

ヒダリメの拍手、「パン」寄りの「ポン」(なにそれ)に聞こえるんですよね。
ポン、ポン、ポン、ポン、ポンポンポン。
これは「パン」という音が出る時よりも手のひらに空気が内包されてるせいかなと思ってて、それが両手に感情を包み込んでいるみたいで良いんですよね、、、そして最後にその感情を握り締めている。
さらにここに音の高低がついていて、
たん、とん、たん、たん、たん、たん、とん。となっているので、拍手に表情が生まれてまた良い。
それをミナモが童心と感受性で「星空みたい」って言っちゃうの最高だなと。


そこへさらに「静寂の暗闇にひとつずつ星を並べるみたいなクラップ」という追い討ちですよ。そんなド直球なメルヘンロマンチック直喩する〜〜〜〜!?めっちゃいいんですけど〜〜〜〜!?!?

そこからミナモがクラップで星を飛ばしてみせて、それを二人の視線が追うシーンがほんと好きですねーー! 二人の動きで星の上がるスピードがわかる。
これはある意味、残響の行方を追ってるんだと思うんですよね、自分の拍手がどこへ行き誰に届きどう影響するのかっていう。
ここでミナモは手のひらをずらして平たくパン、パンと叩くので、そのまま遠くまで飛ぶんですよね。星が。あっちこっちに。その勢いに若さがある。
一方でヒダリメは「ポン」だから、そのままだと星は手のひらの中にとどまってしまう。それで勢いをつけて外に解き放つみたいな動作が加わるんですよね。届けたい方向を意識して。で、星を放ったあと、自分の手のひらを見つめる。自分の拍手の力を初めて知ったみたいに。
すっごい好きです。
田村さんと木村さんで銀河鉄道の夜をやろう。(?)
(追記:後日本当に木村さんが銀河鉄道の夜に出演されることが発表され驚きました)



● 「鳩でしょ?それは」
グッときた台詞オブジイヤー
この言い回しめっちゃ良くないですか????
「かもめだね」「『クルックークルックー』か!」ときて「それ鳩だし!」とかだったら普通の若者たちのボケとツッコミなんですよ。
そこを「鳩でしょ?それは」ですよ。
めっちゃ柔らかくないですか????
あああー、文字だとあの優しさを表すことができない!!!!もどかしい!
劇場専用ドローンだから実物見たことないのかもしれなくて、覗き込むような仕草から「俺だってそれくらい知ってるんだぞ」的なニュアンスも感じられるのが好き。


あと、最初の出会って2回目の「ごめんね、」も良い、柔らかくて良い。1回目「ごめん、」だった上での2回目「ごめんね、」が最高に良い。「そうだね」「上出来だね」「この席ね」など、今回「ね」がむちゃくちゃ良い仕事をしている。
一人称は「僕」じゃなくて「俺」だし、敬語を使ったりもしていないんだけど、言い回しは柔らかくてふわっとしていて、しかもそこに違和感がない。そこが良い。
きわめつけは「聴こえてるよ」の優しさ〜〜〜!!!!!
全体的に文字で見るとかなり年下の子に話しているようなイメージでこういう口調になっているのかなとも思うけど、木村さんのヒダリメはミナモをそれほど子供扱いしてない感じだし、むしろわりと対等なのにこの口調が不自然じゃないのが好き。


ある程度当て書きだったのか、稽古で細かい言い回しのすり合わせがあったのかわかりませんが、役と 木村さんの纏うことができる空気と、あと田村さんとの間合いの相性の良さがぴったり合わさってめっちゃ可愛いヒダリメというキャラクターが出来上がっている感じがして「すごく良い」と思いました。(良いしか言ってない)


三浦さんがインタビューで木村さんについておっしゃっていた浮遊感と現実味、ファンタジーとリアルの両立って超わかる、めっちゃいい………三浦さんありがとうございます……
三浦さんの滲ませる愛情深さとか全肯定感が木村さんのスーパーポジティブ包容力を引き出していて最高でした。
劇場そのものみたいなヒダリメの、あたりを愛おしそうに見つめるあの顔や佇まいは、なんていうか今だからこそより強く胸を打つんだろうなあと…………
‪劇場という場所の懐の深さを、木村さんが表現してくれていた気がする。‬
あと髪型、パーマかけて大正解だと思いまして。あのフワフワ感が出で立ちに合ってた。



● ミズハシさんの席に座るところ
あそこに座るとき何か驚いたように座面を見てますよね?あと胸のとこ叩いたりとか、あの一連の動作の意味が読み取れなくて、「客席に座ったのが初めてだったのかな…?」とか「過去の記録を読み込み中なのかな…」とか考えたんですけど答えは出ませんでした。いや、だって、「自分に何か異常を感じた」とかだったら一気にさみしくなるじゃん…………あの笑顔……


そしてここすごく見せ場だなーと思った、画面いっぱいの赤い客席に二人だけが座る姿。空席に二人が映えていた。数ヶ月前までたくさんの人たちが座っていた場所だという共通の認識があるからこその「映え」。
それにしても、真っ赤な座席が規則的に並んでいる風景は圧巻ですね……劇場のこんな顔は知らなかった。

両端の二人がひと席ずつ近づいていくのがただでさえ芝居掛かった演出でサイコーなんですけど、さらに今は観てる側に「距離」っていうセンサーが発動するじゃないですか。最後に二人が隣り合うことはないと、言われる前からわかってしまう。だから、ヒダリメの早めの表情変化も読み取れる。
「2m」とか「座席は前後左右空ける」とかっていう(今までにはなかった)定量的な「距離」の共通指標が身に染み込んでいる、この特異な状況だからこそ面白く観られるシーンだなあと。
あと、二人がくるって回るとこが可愛い。



● わかんない
「どうして来なくなっちゃったの」
「わかんないな俺には」
作品中で一番好きだった台詞。
「この場所のことしか知らない」劇場専用ドローンの悲哀のようにも思えるけど、実は誰だってわかんないんですよね。人のこと。劇場の外のこと。


(7/14追記)
配信終了間際の駆け込み再生で思ったけど、「わかんないな俺には」はやっぱりその後に続く「俺はこの場所のことしか知らないから」込みで好きな台詞だったなと……「わかんないな俺には」には、ヒダリメらしくない自嘲と自棄みたいなものがほんの少しだけ感じられるんですけど、それに続くこの台詞がまるでそれを拭い去るような覚悟と自覚を持って宣言されている。その演技が良くて響いた台詞だった。あと1回目見たときは気づかなかったけど、そうかシアタークリエもそんなふうに思ってたのかな……と思った。今を強く反映する台詞だ……


● 小声
「距離が縮まって!」
「ほんと?」
「えっ?お姉ちゃんいたの?」

三大可愛い小声。



● 「感謝」
ミナモがオドリバさんに何してるのか聞かれて「感謝」と答えた時のヒダリメの「!」なリアクションがいい……



● オドリバとシーナ
オドリバさんめちゃスケールでかくないですか……負け惜しみでも強がりでもなく本当に静寂に景色に聞いてほしいと思ってるんだなあと。妃海さんの説得力が、ともすれば劇場の「内側」の話に終始しそうなこの物語に突き抜けた広がりを持たせていた。
森本さんのシーナさんは一番突拍子も無いようでいて現実へのリンクになっている。初っ端からストロングゼロ持ってて「そうか」と思いました。お姉さんたちは拍手とか知ってるんだね。
舞台上で行われているのは演劇じゃなくて音楽のライブなんだけど、「三人姉妹」に「かもめ」の衣装を着せることでヒダリメに演劇の記憶を思い出させてライブと演劇をないまぜにしているのが上手いな〜と思いました。


● 小声2
ミナモ「ヒダリメ」
ヒダリメ「ん?」
ミナモ「またあたしたちのうた見つめてくれる?」



● 「配信やめてよーバズっちゃうからー」
に対する「……(笑って)はい」が酔っ払ってしまった上司にウザ絡みされた時でもちゃんとしてる部下みたいで良い。



● サビのヒダリメ視点の映像
これがヒダリメが目に焼き付けている風景か……っていう感慨。生の舞台でもヒダリメ視点の映像を映すとかはできそうだけど、配信だと完全に一人称的になるのが良かった。てかミナモばっか見てるじゃん……ミナモがキラキラして見えたよ、、、
ミナモもいい名前ですよね……新しいことをたくさん知ってキラキラ輝くミナモ。ヒダリメの水鏡のようなミナモ。
田村さんのこと、去年ちょうどシアタークリエのLLLで初めて拝見したのですが、けだるくてむちゃくちゃかっこよくてすごく素敵だったんですよね……木村さんとのお芝居をこんなにほわほわした雰囲気で見られるとは……もっと色々見たい……



● 歌って踊るヒダリメ
「歌うんかーーーーい」「しかも舞台上がるんかーーーーい」と「そう来なくっちゃね!!!!!!」という相反する感情が同時に湧いた。
歌って踊るヒダリメとても可愛い。楽しそうで生き生きしてる。
キラキラしてるヒダリメとミナモのダンスがとても可愛い……手を伸ばしてくるくる回るとこめっちゃ可愛い……二人とも回るのが似合う。
木村さんまた歌とダンスが上達していてすごい。公演は中止になったけど、確かにリフと公生を経験したのだろうと感じられる……
木村さんの射るような高音本当に好きだな〜「呼ぶんだー」で裏声に上がるのも好きだし、ガールズバンドに混ざって歌う推しとか考えたことなかったけど最高だな……
あと編曲がとても好き。木村さんをこのキーにしてくれてありがとうございます……それにしてもこの短期間で脚本から何から、1ヶ月で全部作ったのほんとすごい。


全然関係ないけど、大サビの前で木村さんと妃海さんが後ろ向いて両手を挙げた時
「バク転する!?」と思ってしまった。あのタイミングでの後ろ向きはV6なら台宙するやつ。(危ない)



● 「この拍手を贈るよ」
舞台上でこの拍手を贈るよ と歌っている時に客席が映ったのには込み上げてくるものがありました。
空席の客席がこんなに万感の思いを伴ってカメラに抜かれることなんてそうそうないよ……



● クラップで完成する物語
『CALL』のサビ、「君の名前呼ぶんだ」を繰り返した後の「テンテンテレン テンテンテテンテン」ってメロディ、
歌詞がなく音だけだったところに雄弁なミズハシクラップが乗ってくるのがとても好き。空白にクラップが乗って完成するって、まさに最後の拍手で完成する演劇と同じで。
歌い終わってお辞儀する時の静寂がそれを物語っていたというか……拍手がない、あの寂寥感こそがこの話の「結末」だなあと。




● 「感謝を伝えたくて」
そしてここに戻ってくる。
ヒダリメはなぜミナモに拍手をしたのか、その問いに対して「どうしてだろう、」と一度自問するのは、理屈じゃなく自然と湧き上がった行為だからなんですよね。
そして、それを言葉にするなら、「感謝を伝えたくて」。
ほんとそうなんですよね……感謝伝えさせてよ〜〜〜〜!!
とても良かったのに、ほっこりと元気をもらったのに、
家からじゃ拍手の音、届かないよ〜〜〜!!



……と思ったけど、ヒダリメみたいにクラップが星になるなら、もしかしたら想いは劇場にも届いていたかなあなんてメルヘンなことを考えて、感想、終わり。


メルヘンだけれどわりと切実な、祈りのような拍手を『CALL』に。

劇場から遠く離れて

この記事の内容は
1. 応援している役者さんの出演舞台が中止になった
2. 劇場が怖くて観劇を躊躇したのではない
3. 劇場に行けなくても観客になりたい
の3本です




1. 応援している役者さんの出演舞台が中止になった


応援している役者さんがいます。
7〜8月に予定されていた、その方の初主演舞台が中止になりました。
本当に残念です。
観たかった。観たかったに決まってるだろ!!!!!コロナ!このやろ!!!!!
4〜5月の出演予定作品も中止になって、もう半年以上舞台に立つ その役者さんを観られていません。





仕方ない。残念だけれど。どうしようもない。
カンパニーや関係者の皆さんの気持ちを思うと言葉が出ない。



なので、とにかく、またその役者さんが舞台に立つ姿を見られる日を楽しみに毎日を過ごします。
ただしコロナ!!推しは優しいからファブリーズの刑って言ってるけど!!私は普通にアルコールでこするからな!!!!普通に石鹸で手洗いしてアルコールで消毒するからな!!!!
せめてもの復讐だ!!!!!!




それにしても、今、非日常が足りない。
日常から丸ごと切り離される劇場での非日常体験が圧倒的に足りない。
日常のタスクが倍々倍増してそれを支えていた非日常だけがごっそりなくなるとか、そんなことある????疲労が回復しないんですけど??????



なんか劇場に行っていたあの頃がとても遠く感じる。





2. 劇場が怖くて観劇を躊躇したのではない


‪そんな中で、白井晃氏のこちらの寄稿や本多愼一郎氏のインタビューを読んで、いろいろぐるぐると考えていました。





あらためて大変なことになったなあと……
この特殊な状況下で、私自身はなんかよくわかんないこと考えてるなあと思ったのでなんとなく文字にしました。だってこんなことそうそうないだろうし…….あってたまるか。
これはただの一個人の話で、別に代表してる気も代弁してる気も主張してる気も何もなく、なんでもないことです。
ただ、そのうち自分で読み返して「あーあの頃こんなこと考えてたわ、あはは」って早く思えるようになるといい。







新型コロナの件に関して、私自身は2月下旬から今まで、劇場への信頼が揺らいだことはありません。3月に観劇した時も、できうる限りの感染予防対策を講じてくださってありがたいと思っていました。公演の中止も実施もどちらの決断も支持したいし、何か応援したくてCFや基金に心ばかりの寄付もしてみた。
そしていま、大変な中、「演劇を再び始める」ことの可能性を模索してくださっている方々のおかげで、徐々に劇場が開き始めていることが嬉しい。‬

‪仮にこれから劇場を疑うようなことがあるとすれば、それは観客やカンパニー、劇場スタッフや現場の方々の安全を軽んじるような対応が出てきた時かなあと思いますが、そのへんはその時になってみないとよくわからない。それにその場合は概念上の「劇場」ではなく個別の主催に不信感を抱くと思う‬


‪でも、いくら劇場のことを信頼していても、どれだけ劇場で観劇をしたくても、実際に行くのは難しいという状況はあるよなあと…‬


‪3月に演劇が一時再開した時の空席は、「劇場こわい」「三密だ」「コロナうつるかも」といった漠然とした不安によるものだけではなくて、もっと具体的で生活に密着したひとりひとりの苦渋の決断のあらわれでもあったのではないかなあと、、‬
あの時の状況では、どんなに劇場の態勢が万全であっても、道中での曝露や個人個人のうっかりの余地がある以上感染の可能性を考えざるを得なかったと思うので。


‪ご家庭や職場など身近にお子さんや高齢者の方や心身に心配のある方がいるとか、休校や施設休止などで家に居なくてはならなくなったとか、自分が感染したらそれだけで色々回らなくなるとか、基礎疾患があるとか、遠方からなどで長時間の交通機関の利用・宿泊を伴うとか、多忙になり自分の時間を取るのが困難であるとか。
新型コロナの影響で観劇するための生活の基盤や道のりみたいなところからすでに崩れてしまっていて、劇場まで足を運ぶことが難しくなった。
「感染するかも」のその先をふまえて「劇場に行かない」という決断を迫られた


でも趣味を楽しむことは、状況によってただのわがままのように見えることもあるかもしれないけど、それが自身のケア、健康に生きるための命綱になっている人も少なくないと思うので、そんな簡単に切り捨てられるものではないですよね


あと当時の自分の場合は「自分が無症状の感染者で感染させるかもしれない」という不安もあって。人が密集するところに行けば誰かにうつしてしまうかもしれない、人の健康を害してしまうかもしれないということがものすごくこわかったし、
さらに万が一クラスターを発生させて作品の名が悪いイメージで取り沙汰されたり外部から「演劇はダメ」とひとくくりにされてすべての劇場が閉鎖に追い込まれたりその後の再開が困難になったりしたらどうする??? と、、、、、、


自分は結局観劇を諦められなくて、とにかく自分にできることはすべてやった上で「何も起こらない」ことに賭けてしまった。

あの時劇場に行くにも、行かないにも、結構な覚悟が必要だった人がたくさんいたのではないかと勝手に想像しています。
3月の空席に座るはずだった方々がどれだけの思いで観劇をやめたのか、これから行けない人は再開する劇場をどんな気持ちで見つめるのか、というのを軽視してはいけない気はしている、別に誰もしてないけど。‬
あと、演劇をやる側の方々の中にも(中にこそ)これらの状況と戦う必要があった方がいるということも忘れてはいけないなあと……



‪というか自分もこれから劇場が再開して観たい作品があっても行けるかどうか怪しいので、「むむ…」と思っている。しかも客席数が減るならチケットがさらに取りにくくなるしなあ。「劇場で観劇」の難易度、むちゃくちゃ上がりますよね。でも、行けたら絶対に行く。劇場、信頼してる

‪仮に行けなくても、やっぱりどこかで劇場が再開し、観客が集まり、非日常を楽しみ、感想を呟いてくれるというのは嬉しいだろうなと思う。界隈の賑わいが戻ってくるってそれだけでも心が明るくなる。‬
ここ最近のイリュージョニストの情報解禁や、大地のソーシャルディスタンシングバージョンの発表、宝塚再開のお知らせなどは、やっぱりテンション上がりました。
未来の希望、大事。



3. 劇場に行けなくても観客になりたい


話が逸れていくんですけど、
‪そもそも「劇場に行きたくても行けない人」「行くのが難しい人」というのは、新型コロナ流行の前にもいたんですよね。入院してたら行けないし。遠かったら行けないし。お金と時間がなかったら行けないし。‬外出困難だったら行けないし。


‪家族のお世話を託せるところがない、優先したい人生のイベントがある、仕事上の先々の予定が定まらないのでチケットが取りにくい、自分や家族の体調が不安定で当日空席作るのがこわい、感覚過敏で人が大勢いるところが苦手、「1時間音を出さずに座っている」ということが難しい、特性上必要なものが劇場内で使用できないor設備がない、お風呂に入るのが辛い、パニック発作を起こすのが心配、日常を生きるだけで精一杯だ、とかとか。‬


頑張れば解決できることもあるかもしれないが、何かの拍子に頑張れなくなることはある。


‪私は、今「配信」「ソフト化」「テレビ放送」といった映像化、しかも劇場から個人のデバイスへの発信が増えてきている状況は、そういうもともとあった機会の差における光明のようにも思えていまして……‬


‪これから行けなくなるかもしれない人、これまでも行くのが難しかった人、みんなに対しての救済のひとつになるのではないかと……いやもちろん権利の問題で難しい作品があるというのはわかってはいるんですけど、それもちょっとこの世界情勢で状況が変わったりはしないのかなあ…………‬


‪これからの配信、
‪「本来劇場に来るはずだった人が来なくなるもの」という側面よりも‬
‪「本来見たくても見られないはずだった人が見られるもの」という側面がより強く認識されるのではと思っています。‬


‪配信(や円盤やテレビ)で見るのと生で見るのとでは全然違う、劇場で観劇してこその演劇、というのはそれはそうかもしれない。
でも、だからこそ「劇場に行かない」という選択はつらくて、だからこそそういった痛みを少しでも和らげる代替手段が必要なのだよなと……「行けない人」が増えてしまうかもしれない今こそその時なんじゃないかって……


‪それに、演劇を「劇場に行ける人たち」だけのものにしてしまうのは(別に誰もそんなこと言ってないけど)‬、あまりにも勿体無い。と思う。
だって演劇って面白いから……


昔、「不幸な人は劇場に来られない」みたいなことを言っていた人がいて、そもそもなんだその「不幸な人」とかいう傲慢なレッテルは、と憤ったんだけど、言ってることはわからなくもないと……昔の劇場は人によってはとてもとても遠い場所で、でも今はあの頃に比べてアクセシビリティや支援もかわってて、きっと行ける人はすごく増えているんだと思う


それでも、‪今も、元気で健康でそれなりの条件を満たしていないとまだ観劇はなかなかハードルが高くて、‬
‪這いつくばうように勇気や希望や生きる活力を必要としている時に劇場に行くのは難しいことがある、と、感じていました。‬


‪でも配信やソフト化がされていれば、そのとき劇場に行けなくても、「自分の居場所」で劇場を疑似体験して胸を躍らせることができる。‬何かを受け取ることができる。
‪そして、実際の空気に触れたいと思った時、「いつか劇場に行くこと」自体が生きる希望になる。‬
自分でどうにかできることならば頑張れることもある。
‪(もちろん「行きたいけど行けない人」「行くのが難しい人」が頑張らずに行けるような劇場にしていくこともとても大事)

作品の良さは、劇場から遠く離れても根こそぎ奪われたりなんかしない。



‪私はなんやかんやあってそんなに劇場に足を運べないけど、劇場への憧れによって生かされている みたいなとこがある。



‪だから、配信が今だけ特別な一時的なもの……ではなくて、それ以降も定着してくれたら嬉しいなって‬…………
ライブ配信は家と劇場で時間・最新・最速を共有できるし、アーカイブ配信は仕事の終わったあと・家族が寝たあとに見ることができる。ソフトなら病室や未来のファンの手元にまで届くし、テレビ放送された作品は今まで演劇を知るきっかけがなかった人と出会うかもしれない。



いや興行としてどうなのと言われたらあれなんですけど………でも「観劇三昧」のサイトとかめちゃくちゃありがたいじゃないですか…………でもでももしかしたら配信してもそこまで劇的に「見る人」が増えるわけではないのかもしれない、それはやはり演劇は劇場で観るのが一番であり、劇場に行けない人はそもそも演劇に出会う機会はあまりなく、「演劇が好きだったけど行けなくなってしまった人」はよほどソフト化等が充実しているジャンルでない限り好きでい続けるのが難しいなぜなら劇場以外では観られないことが多くてつらいから、つまり今配信をやっても今まで劇場に行けていた人と行けるなら行きたいと思い続けられてきた人しか見ないということなのだろうか……わからないけど……でも「ちょっと気になってるけどまだ沼には落ちてない何か」ってアーカイブ配信とかテレビとかでやってたら見たくなるけど……ど………ど……………


今そんな夢みたいなこと言ってられる時ではないのは重々承知しています………………




それならいつか、たとえばロボット(OriHimeとか)で遠隔観劇ができるようにならないかなあ……とか。
そうしたら遠く離れたところからでも観られるかもしれないし、そこから劇場にまで拍手が届くんじゃないかって。
技術の力で、これまで劇場に来られなかった人も観客になる。可能性がある。





とはいえ。劇場に行けるのにチケットが取れなくて「劇場で観てる人がいるのになあ」と思いながら配信とか円盤で観なきゃいけないとかだときっとストレスたまりますよねーーーーーあーーーーー。
体験として完全な代替にはならないので。‬ VRとかでそれも変わるだろうか、、、


‪演劇が「劇場に行ける人」どころか「チケットを取れる人」だけのものになってしまったらもはや太刀打ちできる気がしないので、
この機会にチケットに関するあれこれもどうにかいい感じになってくれたら……うれしい‬



あとそもそもの話で、作品中の距離感はいつか元に戻るのだろうか……?
客席やオケは検証してくださっている方々のおかげでわりと近い将来に距離を保たなくても大丈夫となる可能性もありそうだけど、舞台の上はどうなんだろう……?マスクなしの歌やお芝居の検証も始まっているんだろうか……
ドラマの撮影もアクリル板使って撮って後から消したり色々対策してると知って「やっぱそうなんかー!」と思いました、もろもろ過剰な対策とわかればアップデートされていくのだと思うけどそうならない限りは役者さんの安全を犠牲にしてまで元に戻ってほしいわけではなく……
制約を逆手に取った新作や新演出は新しい何かを生み出してくれる(そしてそれはすでに始まっている)と思うし、それぞ演劇と思うけど、それが難しい既存作品はどうなるんだろう。演劇の、過去を目の前に展開するみたいな側面はどうなるんだろうか……



よくわかんないこと書いたけど、まずはとにかく劇場での演劇が再び始まっていくことを応援したいです……今は配信を観る……他には何もできないけど……



そしてだんだんとまた
‪劇場を、行きたい人が行ける場所に。
行けない人や行かない人にも扉が開かれた場所に。
それぞれが心地の良い距離で楽しめる場所に。
なっていくといいなとか、思ったりしました。

木村達成さんファンクラブ「Foot loose」6thイベント感想メモ(東京1部)

先日、木村達成さんファンクラブ「Foot loose」6thイベント東京1部に参加しました。
念願の初FCイベント参加だったのですが、満足度が高すぎてびっくりしました。
本当に楽しかったです。



記憶したいことが多すぎて頭がパンクしたので、覚えてる中で個人的に特に後世に語り継ぎたい(?)くだりだけメモします……
内容、言い回し、すべてニュアンスです。
それぞれぶつ切りですみません。
たまに私の心の声とか感想とか入ってしまっているのはご容赦ください。


なお、イベント構成は下記の通りです。


◾︎ 前半 45分
・オープニング
(登場、紹介、お誕生日お祝いなど)
・2019年振り返り
(ロミジュリ、朗読劇2本、エリザベート、ファントム)


◾︎ 後半 45分
木村達成 達成(たっせい)できるかな?
(歌しりとり、即興芝居)
・2020年について
(WSS3、君嘘、2020年に向けて)


全部で1時間30分くらい。




以下メモです。


【オープニングのくだり】

● MCはせとさん
せ:司会はわたくしマセキ芸能社で芸人をやっております、せとたけおと申します木村達成さんとは以前共演させていただいたことがきっかけで何度かイベントの司会をやらせていただいておりまして、一緒にスナックに行ってカラオケなんかしたこともある仲でございます!
私:(存じ上げておりますありがとうございます!!!!!)



● コンタクト
達:(お誕生日おめでとうの流れで)もう26歳ですよ…最近目やにが出ます、僕
せ:それは眼科に行ったほうがいいね
達:僕目に何もつけてないんすよね、せとさんコンタクトとかしてます?
せ:あ、僕コンタクトですよ!
達:それって朝起きたときしょぼしょぼします!?
せ:いや寝る時はコンタクト外すよ!?
達:いやなんか、つけて寝る用のやつあるじゃないですか。
せ:矯正みたいな…?
達:そう!それ!それやったことあります?
せ:いや……(舞台袖を見て)スタッフさんからコンタクトの話はいいから早く次に行けと指示が出ましたw


司会がせとさんなので、さぐりさぐりな時間もなく早々にコンタクトの話に突入していたので最高だなと思いました



● マイク
せ:マイクそこ(タートルネックの喉元)で大丈夫!?
達:ここからの声が一番届く!!(良い声を響かせながら)
せ:喉仏に刺さってますけど!?
達:ここからが一番届く!!(嬉しそうに響かせながら)
せ:骨伝導みたいになってるよ!!胸元とかにつけられないの?
達:(服を)つまむみたいになっちゃうんすよ
皆:(なるほど)

(しばらく喋ってから)

達:いやこれ声大丈夫すか!?
皆:(ですよねwww)
達:僕だけ音量下げてもらえばいいんですかね…テステス…マイクテス…(せとさんのほうを向いて)大丈夫ですかね?(超響く)
せ:いやこっち見るとマイクが喉仏についちゃうんだよねww
達:なるべく前を向く感じで喋ります!


よく響いてました。いい声……



● アラームからのよだれかけ
せ:ファントムも終わって、年末年始はちょっとゆったり……?
達:そうっすね。あのーアラームをつけないで寝る!っていう!!(嬉しそう)せとさん最近アラームつけないで寝ることありますか?
せ:たまにありますよ!次の日お仕事がない時とか
達:でも家族サービスがあるじゃないですか!
せ:そうなんです私2ヶ月前に子供が生まれまして…
皆:(おめでとうございます!!!)
せ:そうそれで、木村達成ファンの方は人格者の方が多くて、大変ありがたいことに前回の大阪イベントの時もお手紙やプレゼントをいただいたんですけど、よだれかけもいただきまして!
た:赤ちゃんよだれいっぱい出ますもんね~(にこにこして)
せ:そうなんだよね~
達:せとさんもよだれいっぱい出ますもんね~(にこにこして)
せ:そうなんだよね~ だから僕と子供でよだれかけ併用してます!
達:wwwww



こういうせとさんとの何気ない会話がたくさんあって好きでした…!!




【2019年振り返りのくだり】


● ロミジュリのオーディション
達:実は、ロミジュリのオーディションを受けたのは確か2回目なんですよ。
難しいしキーが高い歌が多いんですよね。だから、僕舞台で喉を潰したことってなかったんですけど、1回目のとき喉をやってしまってて、普通のセリフは大丈夫なんだけど歌になると全然でないっていう。
だから途中で「もう帰っていいよ」ってなってしまって。でも、「ちゃんとできる子だから今度また」みたいに言っていただいて、「次こそは頑張ります」みたいになって、で次も呼んでいただいて。
せ:次の時は受かったと思った?
達:いや!実は演出家の方に、「もう会うことはないと思う」って言われて!!「もう君と会うことはないけど、歌は続けてね」って言われて、「うわダメだ」って。そしたら受かってて。キュンときました!なんかかっこいいですよね!
オーディションで決まった役は、より愛着がわくというか、実力を認めてもらったというか、そんな感じがするんですよね。



● ロミジュリの役作り
達:ベンヴォーリオは今まで演じてこられた方々のイメージだと兄貴分みたいなリーダーみたいな感じだったと思うんですけど、僕はカンパニーの中でも割と年齢が下の方で、しかも僕こんな感じなので(うぇーいなかんじ)、そういう方向よりもむしろ弟みたいな感じの方がいいんじゃないかと思って、周りの人たちに作ってもらったキャラクターでもあるし、自分でもすごく考えて役を作っていきましたね。
台本の中にはそんなにパーソナルな部分は描かれていないので、話の合間合間でベンヴォーリオのキャラクターを植え付けるようにしていました。



● 朗読劇
「稽古の時間が少ないからこそ、相手の方がどうくるかわからない、それで刺さる表現をいっぱいされたり、自分は刺さる表現をできているか考えたり、そういうところが楽しい、またやりたい」というようなお話をされていたような気がします。
木村さんが逃げ恥の原作を「ピュアな恋愛と一周回った恋愛が描かれている作品で…」みたいに表現していたのが興味深かったです。



● 運命のエリザベート
「ミュージカルをやるなら帝劇に立ってみたいというような憧れはあった」、
「まさか本当に帝劇に立てるなんて……(客席を見て)ねえ。」
と、本当に感慨深げにしていたのが印象的でした。
また、『NARUTO』で共演した悠未ひろさんから「たつなりはミュージカルをやりなよ」とエリザベートの歌を教えてもらっていて、事務所にエリザベートのお話が来たら絶対言ってと言っていた、そうしたら本当にお話をいただいて、実際に出演できて、運命だったと思っている、というお話もありました。



● トート役の古川雄大さん
達:エリザベートの現場にルドルフを演じられてきた役者さんがいっぱいいたんですよ!ほんといっっっぱい!
だから、皆さんのお話を聞いたり、あとは「このルドルフって合ってますか?」って聞いたり。
せ:特にこんなアドバイスが心に残っている、とか…
達:んーーーートート役の古川雄大さん……「たつなりは高音いいから闇が広がる半音上げたら?」とか言うんすよ!「高音パーンて出るのカッコよくない?」とか。いや無理無理無理みたいな。
せ:それは実際にやってたらどうなってたの?
達:僕の時だけ全部半音上がった闇広になったんじゃないですかね?笑(トートとオケを巻き込む)
でも僕その闇が広がるで少しトライをしていて。というのも古川さんが「たつなりウィーン版見た?」と言ってきて。ウィーン版は微妙に日本版とフレーズ違うところがあって、でそれを最初に確か古川さんトートの時に僕がやったんですよね。そしたら、こう、振り付けで僕がこうやって座ってる時で古川さんがこうなって(ルドルフに向かってかがむ)るんですけど目が「おまえやったな!!!!!」ってギラギラしてて!そっから二人ともめちゃくちゃ上がりましたね、そういうのがすごく楽しかったです。あの歌で変えて歌ったりした人今まででいないらしいんですよ。挑戦できてよかったです。



● トート役の古川雄大さん②
達:そもそも声が少し似てるんすよね。あと見た目も多分ちょっと似てるんすよね。
一回稽古場で二人とも上下アディダスのジャージに靴もアディダスのブーストっていうランニングシューズまで一緒で、二人ともマスクしててあとその時前髪も下ろしてたんすよね。
カンパニーのみんなからすごい似てるねみたいになって、でも古川さんは落ち着いていらっしゃって僕はわーわーみたいな感じだから。
せ:落ち着いてるかはしゃいでるかで見分けられるんですね!
達:そうっす!(嬉しそう)



● ファントムのヒロ君と城田さん
達:いい意味で、Wキャストが嫌だなって思った作品ですね。
今までのWキャストトリプルキャストの皆さんはみんな我が道を行くというか、個性的で、もちろんたくさん助けていただいたりして、自分の信じた道を進んでいけばよいのかなと思えたんですけど、
でも今回のヒロ君はスマートでカッコよくて自分が目指そうと思っていたシャンドン像そのものだったので。
だから悔しくて、こういう時にWキャストがつらいって思うんだなー!と思いました。
稽古場で何やってるかわからなくなることがあったりして、そんな時に演出の城田さんが「俺たつなりのいいところはどこかなって考えたんだけど。やっぱり笑顔とかまっすぐなところだと思うんだよ。だからたつなりはそのままでいいんじゃないかな。よく笑ったり、無邪気だったり、そういう伯爵だって絶対どこかにいると思うよ」っておっしゃってくださって。
それで自分なりのシャンドン伯爵を、最後まで演じることができました。
でも、やってると無意識にヒロ君のシャンドンによっていってしまうことがあって。
そしたら城田さんに呼び出されて「周りと俺どっち信じるんだ?」「城田さんです」「じゃあ俺についてこい!」みたいな。
せ:かっこいい…言ってみたい
達:かっこいいっすよね。でも無意識に寄ってしまってる分、わかんなくなって、本当に難しかったです。



● クリスティー
クリスティーヌのお二人が元共演者だったことも大きかったそうで、「たっちゃんらしくやったらいいんじゃないと言ってくれて」、「僕の役作りにめちゃくちゃ時間がかかってしまった分、本番ではクリスティーヌをエスコートというか、ララランドを二人で思いっきり楽しんでやろう!というふうにしてました」とおっしゃっていました。



● ファントムのシャンパングラス投げ
例のシャンパングラス投げ、稽古場では一度も成功したことがなかったそうで、
「僕みんなから『ヒジ神』って呼ばれてたんですよ」
とおっしゃっていたのがあとからじわじわきました。ヒジ神(ひじしん)……
フルポン村上さんの「ヒザ神」みたいなニュアンスです。


達:でも劇場で本物のセット組んだあたりから成功するようになって。「たつなり、やっぱこれで行こう!」、ってなって。
なのに、まさかのDVD収録の日に失敗しちゃって!カーン!てすごい音しました、そのあと必死で笑いをこらえながら歌っていました。
せ:じゃあDVDには失敗バージョンが…
達:いや、どうですかね、他にもいくつか収録候補日みたいのがあったんで……でも自分としてはあれは失敗じゃないっていうか、失敗してもそれもいいって思ってたので。カッコつけてるけどキマらないよみたいなとこも僕のシャンドン伯爵なんですよね。



● ファントムその他
その他、ゲネプロでクリスティーヌにオフマイクで色々言ったら、歌唱指導の方に「何か変なこと言ってたでしょ!」と言われ「えっ、マイク入ってました!?」と聞いたら「入ってないけど顔でわかるあなたは役に入ってる時と役が抜けてる時の顔が全然違うからすぐわかる!」と言われた話。「顔でわかる」って一瞬面白いけどすごい褒め言葉のような気もしますね…!!


あと振付の先生に「『おはようございます』のタイミングでもう、こう(クリスティーヌの腰に手を回してステップ)しなさい」と言われていて、実際稽古場でやってたら机の向こうから演出の方(城田さん)がめっちゃ見てて「そこイチャイチャしてんじゃねえ!!」って言ってくる話。
「そこから『俺のクリスティーヌだ!』『俺のクリスティーヌだ!』って取り合いが始まるみたいな、本当に楽しい現場でした」。



● FNS歌謡祭(四月は君の嘘)の注意点
「ローファーで机に登ってはダメです!皆さん真似しないでくださいね!危ないです!あれはミュージカルだからいいんです!」と結構本気の注意喚起をしていました。



● FNS歌謡祭を見た
達:ファントムの本番中に練習したんですよ!
でも(四月は君の嘘の話が)決まった後にワイルドホーンさんの前でこういう感じですって歌うことがあったので、知ってる歌ではありました。
ただ出来上がりを見ていなくて、テレビで初めて見たので、「たのむー!!ちゃんとできててくれ自分…」(祈りながら)みたいな気持ちで見てました。
せ:出来栄えは?
達:んんん60点…
せ:ここをこうしたらよかったとか……
達:それは言わないっす!言い訳になっちゃうんで!(かっこいい)



● FNS歌謡祭の楽しみ方
「あと最近ミュージカルに出させてもらっているので……結構知ってる方が出ていたりとか……!出てたねって電話したりして。僕的にはそういう楽しみもありました」と言っていたのもなんか好きでした…!!



以上、前半部分のメモでした。

このメモではかなり端折っていますが、実際は本当に色々とお話をしてくださって……今年出演された作品について、どう考えていたか、何が楽しかったか、何が辛かったか、どう思ったのか、具体的なエピソードが盛りだくさんで、45分があっという間に過ぎてしまいました。
もうここまでで十分満足ですお腹いっぱいですありがとうございました……
という気持ちだったのですが……
後半はさらにすごいことになっていました。





【歌しりとりのくだり】
木村達成 達成(たっせい)できるかな?」という、ファンクラブイベント恒例のチャレンジ企画だそうです。


今回ひとつめのチャレンジは、「歌しりとり」。
ルールは
・歌のフレーズでしりとりをしていく
・所定の時間まで続けられたら達成、うまくできなければ連帯責任で2人とも罰ゲーム
というものなのですが、
これが少しずつ色んな歌を歌う木村さんせとさんを堪能できてとても最高な企画でした……10分15分くらいやってくれてたのかな……?
ちなみにチャレンジは失敗で(理由は「なんかリズムが悪かったから」)、お二人で尻文字をやらされていました。


以下、個人的に好きだったところメモです


● スタートの「り」でいきなり全然浮かばない木村さん、「フレーズの途中からでもいいの!?(せとさん「どのくらい途中?」)たとえば、『……リンゴをほおばる ♪ 』(せとさん「むちゃくちゃ途中だな!!!」)」と初っ端からキャンディーズの『年下の男の子』を歌い出し、「さすが昭和歌謡好きを公言するだけある……」と思わせる


● 木村さんの『硝子の少年』めっちゃいい……しかもステップ付き……声と哀愁漂うメロディがすごく合ってる……声の伸びがいい……声の高さもいい……


● うっかり難しい文字でとめてしまう木村さん「せとさんごめんね!!おれ連帯責任ってこと忘れちゃう!!!(>人<;)」← ほんとにこんな顔してた


● 「せ」で始まる歌が浮かばないせとさんにヒントを出す木村さん「左手は添えるだけ!」→ せとさん「世界が終わるまでは ♪ 」→ 私「スラムダンク最強」


● 木村さんの『トゥモロー』(アニー)上手い………声がいい……溌剌としている……もっと聴きたい……


● 「け」が回ってきた木村さん「舞台で歌った歌とかでもいいですか? ……喧嘩もしたけど次の日は許し合ってた ♪ ……これテニミュの歌なんですけどこれしか出てこなかったです!」……………ハイステからファンになった私が『笑顔見せよう』を聴ける日が来るなんて……ありがとうございます………


森山直太朗さんの『夏の終わり』を歌う木村さんを見た私「声が似ている」



あと何歌ってたか全然思い出せないのですが、とにかく何歌っても上手くて声がよくてほんと好きでした。神企画。



【即興芝居のくだり】
ふたつめのチャレンジは即興芝居。
せとさんの持ち込み企画だそうです。
10分間の即興芝居だったのですが、これがすごく面白くて、私、2019年の最後にまた木村さんの新たな面を知りました、本当にびっくり。


内容をレポしたいんですけど、ちょっと上手く書けないので、とにかく個人的に印象に残ったことと感動したことだけ記録。(すみません)


● 最初に即興芝居について説明するせとさん「シチュエーションだけは決まっております、こちら」。バックに映し出される銀行窓口の写真。せとさん「これはどこでしょう?」木村さん「有楽町の…パスポートとかを更新するところ…?」せとさん「そんな間口の狭い設定やだよ!!」の流れめっちゃ好きでした。あと劇中で木村さんが銀行のこと「店」って何度も言ってせとさんを「店…?いや確かに支店と言うけれど……??」って混乱させてたのも楽しかったです。
というわけでシチュエーションは銀行。
セットは長机ひとつと折りたたみ椅子2脚。


● 即興芝居スタート、最初にせとさんが出てきて椅子に座る。「なんで俺が受付なんてやらなきゃいけないんだ…」うだつの上がらぬ銀行員。そこへチャラい木村さん登場。なんとせとさんの隣に座る。
せ:!?
達:俺も受付っす
せ:何くわえてるの!?
達:チュッパっす(チュッパチャプス
せ:君も受付……!?
そこから即興での二人芝居が展開されていくんですが、
もし今後FCサイトで動画公開とか!!!DVD販売してくださったりなんかしたらアレなので!!!!!その後の展開は差し控えます!!!
もう一度見たいなあ…………



● 個人的に驚いたのが話の起承転結がしっかりついていたことで、しかもそれぞれを次の局面に展開させるということを木村さん自身がやっていたんですよね。きっかけ台詞がいくつも出てきて。そしてオチもちゃんとついていた。
せとさんは、(イベントの主役である)木村さんが展開を回さなかった場合いくらでも回す準備はできていたのではないかと思うんですけど、木村さんが適宜次の展開に進もうとしているような台詞を出してくるのでそれを随所随所で最高の形で受け止めてくださっていて、あと逆に木村さんがせとさんの台詞をちゃんと拾って後半の展開に繋げてたりもしててすごい良いコンビネーションを見られたなあと感動しました。
話の「転」の一手がうまく出なかったり、オチないで終わってしまう即興芝居もよくあると思うんですけど、そうはならず……
木村さん……よかったなあ……そういうのも出来るんだなあ……そしてせとさん……さすが芸人さんというか、受けも突っ込みもフォローも完璧ですごい。懐がむちゃくちゃ大きい。
終わった後木村さんが「いるだけでおかしいキャラにしようと思った」(→最初にせとさんが受付として座ったので、なんとなく木村さんはお客さんとか銀行強盗とかの相対するポジションでくるかな?って雰囲気だったので、初っ端からそれを覆して横に座った時点でもう意外性あって良かったんですよねー!!!)、「(とある小道具を)ふたつ持ってればどういうケースにでも持ってけると思った」とか言ってたのも、狙いがちゃんと当たっている…!と思ったし、なんか本当に、私が勝手にイメージしていたよりずっとずっと演劇的で創造的でエンターテイナーな方なんだなあと思いました。
あ、あとこれも終わったあとですけど「いきなり音鳴って俺マジでびっくりしちゃってひっくり返ったら拳銃スコーン出ちゃってめっちゃ焦った!!!!!」みたいなこと言ってたのなんか良かったです。とても楽しそうだった。



● ファンの皆様のレポを拝読しましたら、2部の即興芝居はさらに大爆笑かつ最強だったそうなのでほんとすごいですね。
見たかったーーー!!!!


● 【今回のまとめ】私の思うマセキ芸能社せとたけおさんのすごいところ
・さわやか
・的確なツッコミ
・雰囲気が穏やか
・「そこもう少し聞きたい!」と思うところをちゃんと掘り下げて聞いてくださる
・話やテンションをむやみに遮らない
・木村さんがいい表現を探しているとスッ…とハンカチのように言葉を差し出してくださる(「えっと…」「運命?」「そうですね」みたいな)
・とにかく主役を立てようとしてくださる
・木村さんと仲良し
・木村さんのボケに「今の突っ込んでいいところ…?」ってならない
・司会なのに木村さんと即興芝居ができる ← New!!




【2020年のくだり】


● ウエスト・サイド・ストーリー Season 3
達:僕はまだ日本キャスト版は見られていなくて、来日版を見たんですけど、やっぱりとても素敵だなと思いました。
僕、実はこの劇場に立ってみたいと前々からおもっていて。何度かあそこでお芝居を見させていただいて(髑髏城やメタマクを観劇されてましたね)、すごく役者としての力量が試されるように感じたというか。反響で台詞が聞き取りにくくなったりするので、一言一句聞き取らせるぞと。踊りも多いですし、頑張ります。


四月は君の嘘
何をおっしゃっていたか思い出せない……!


● 最後に
達:2019年は本当に考えて、考えて、考え抜いた年でした。人間としても成長できたと思います。
だから2020年はどこかでそれを咲かせたいと思っています。
ブログでも書きましたが、走り抜けるので、もしよろしければ、ついてきてもらえるとありがたいです。
2020年も、そしてそれからも木村達成をよろしくお願いします!






メモは以上です。
本当に楽しかったなあ……
贅沢な時間でした…………
ありがとうございました。