王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

『アンチフィクション』を配信で観たメモ


DULL-COLORED POP『アンチフィクション』アーカイブ配信で観ました。
谷賢一さん(作・演出・出演・照明操作・音響操作)による一人芝居です。


この記事は感想ではなく、見て思ったことそのままの独り言メモです。
コロナ禍でこんなこと考えとったんかい と、あとから振り返るための書き残し。
ネタバレありです。まとまりがなさすぎて自分でも何を言ってるのかわからない。




● コロナ禍でフィクションを書けなくなった劇作家の独白
酒、家族とのすれ違い、書けない苦悩、自己正当化……と、語られる内容は割と「芸のためなら 女房も泣かす」(『浪花恋しぐれ』)的な感じなのだが、完全に文学的なものに昇華させてはいないのが好き。
浪花恋しぐれ風にいうなら「芸のためなら 女房も泣かす」「それがどうした 文句あるか」と来て「あっごめんなさい僕が悪いです」となる感じ。ロマンに沈みきらない。完全に自己を正当化しようとはしてない。「妻からのLINE」を出すことで、パートナーである奥様にもリアル、人間味を感じ同情できるように仕掛けられている。私小説と見せかけてエッセイっぽいというか、平等な目線。モヤモヤしない。




● 「アンチフィクション」
台詞と身体があまりにも密接しているように感じる。私が谷さんを劇作家だと知っているからだと思う。だからフィクションじゃない風に見えるのであって、これを役者さんが演じていたらもうそれだけでフィクションになってしまう気がする。全く同じ台詞・演出でも。
私が谷さんのお顔を存じ上げず、知らない役者さんが舞台に立ち「自分は劇作家」だと名乗って始まればフィクションじゃない風に見えるだろうか。いや、でも「本当に劇作家なのかな」と疑ってしまう気がするな。紛れもなく劇作家だと知っているからこそ「これは本当です」の前提で立ち止まらずに観ることができたのだと思う。アンチフィクションを成立させるには戯曲の内容だけでなく誰が演るかも重要なのだな。本人から出る言葉だと思わせることがアンチフィクションの第一歩?それは演劇だろうか、もしや学会の発表的なものに近いのじゃなかろうか。面白い。


中原中也『春の日の夕暮れ』
作中で登場した詩。今までよくわからなかったこの詩がこの時むちゃくちゃ響いた。

私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

コロナ禍を前にしてフィクションが書けないってまさにこういうことじゃないか。
中原中也はそういうことが言いたかったのか!」……と思ったわけではないけれど、自分の中で詩に具体的なイメージが宿ったという意味で感動があった。
そもそも「歴史的現在」とはなんて空疎でフィクション的で、尊大な言葉か。それが歴史として紡がれるべきものかはあとから判定されるもの。そして歴史自体、誰かの目線に偏った物語。現代を生きている人間がかたるものではない。でも今起きていることは間違いなく歴史の教科書に載るよね…というこのふらふらした感覚がぴったりおさまった言葉だった。「歴史的現代」響いた〜
しかも、そりゃあ空や山に笑われる、まず時間の尺度が違うから。何が歴史的だ、山や空は今も昔もそのままにあった。
この間観た白井晃さんと野村萬斎さんの対談動画で、野村さんが「(常日頃、古典というものをどう存在させていくかというのを考えているので)存亡の危機というものにあまり動じなかった」とおっしゃっていたのを思い出した。白井さんはそれを受けて「たしかに、ペストが流行ったってスペイン風邪が流行ったって演劇は残ってきたし劇場は残ってきたわけですもんね」と、野村さんのお言葉を力強く感じたとおっしゃっていて、伝統芸能と現代演劇の尺度の違い、時間の捉え方の違いを知った。ちょっとそれに似てる。
そういえば歌舞伎だって早々に図夢歌舞伎を始めて、離れたところで演じるお二方を2画面でつなぎ合わせるシーンについて「物を渡すところを合わせるの難しかった、たくさん稽古したー!!」と言ってたのだった、胆力というか、時代の変化に対応していく気概がすごい。
(演劇が簡単には消滅しないのは今演劇があることが証明してくれているとして、じゃあ過去疫病流行の最中に劇場は開いていたのか否か、中止していたのなら再開までどれくらいかかったのか、というのが今知りたい事柄だけれど、不要不急の疑問につき図書館には行けなかった。でもネットで調べたら色々な情報があって面白かった)



話を元に戻すけど、空と山は自然の代表とすれば、コロナ禍も人間が制御しきれていないものという意味では自然の脅威という感じなので、フィクションを書こうとしてコロナ禍が立ちはだかるというイメージによく重なる。強すぎるのだ。コロナ禍の物語が。関節の外れた世界が。



● アンチフィクションてなに
フィクションではないもの。ノンフィクションでもないもの。
「この話にはフィクションはありません。起こること、起こったことはすべて本当です」。冒頭でそう宣告される。
ここで「すべて事実です」とは言わず「すべて本当です」としているところが重要な気がする。「事実」だとノンフィクションになってしまう。でも「本当」という言葉なら、認識のワンクッションを置けるというか、実際にそうだったのかどうかを疑わせる余地を残せる。これはまったくのノンフィクションではないと伝えられる。
ではこれは何か、で、アンチフィクション、反虚構を名乗っているのだけど、
私はこれはゴリゴリのフィクションだと思った。どれもわりと本音でどれもわりと本当かもしれないが、その包み紙は虚構そのものに見えた。「本当」をかたるゴリゴリのフィクションを見せることでの、フィクションの再発見、再出発。
フィクションが現実にかなわない今、それでもフィクションを再開するには、「現実の一環」のふりをする(「ふり」である余地を残して)必要があったのではないか。現実を装って最初はそっと、のちに大胆不敵にフィクションを滑り込ませた。アンチを名乗って。そういう勧誘の仕方がありそう。



● リアリティの話
「すべて本当」といいつつ、そこにリアリティを持たせようとしていたかというと、後半は言わずもがな、前半もそういうふうにはするつもりないのだろうなあと個人的には思った。もちろん「今書けない」という焦りは本当の本当の本当に感じたけれど。
お酒についても既存の「作家イメージ」を刺激したり利用したりしてより強く印象付けるよう演出されているように感じた。しかしLINEのくだりがいちいち強いのでそれだけでリアリティの演出としては十分だった。
「登園自粛となった子供がPCの上に登ってくるので全然書けない」などの描写があったらコロナ禍特有の切実なリアリティみたいなものが出そうだけれど、そういう生活感をこの作品の中で見たいかというと別にそういうわけではない。
アンチフィクションを名乗るのに徹底したリアリティというものは特段必要ないんだな、という知見を得た。




● フィクションは普通に有効
見ていて強く思ったこと。少なくとも自分にはフィクションは必要。というか物語、非日常が必要。それが事実であってもなくても。強度がどうであっても。
なぜなら、今あまりにも自分の日常が強すぎるから。


緊急事態宣言下、最小の共同体にとじこもり、極力「ウチ」で解決することを求められた。やることがむちゃくちゃ増えて自分の時間が全然とれなくてしんどかった。
それが明けて今も、「日常に専念しろ」と言われている感覚がある。言われているというか、それが命を守る最善の策なので……。
そしてお互いを監視しあっている。変なところに行かないか。不用意なことをしないか。
監視って言葉はちょっといまいちで、心配している、が近い。みんな。お互いのことを。有り難いのだけど、少し息苦しさも感じる。
生活にがんじがらめになっている。
日常の檻の中に閉じ込められている。
仕事に専念し家庭内の役割を務め安全な範囲で息抜きをする毎日。




いや他人の物語にワープしたくもなるって!!
要するに自分の物語から少し離れたい。



現実はいま一時的にフィクションを超えているかもしれない、でも、それはそれ、これはこれ。現実と違う種類のフィクションは普通に楽しめる。延長線上にあるものはイマイチに感じるかもしれないけど。



● (配信でしか観られなくても)演劇でなくてはいけないか?
他人の物語にワープするだけなら小説やドラマやゲームでいい。Twitterでいい。
ほんとそれで全然良くて、いや「それで」って言い方は失礼で、小説もドラマもゲームもTwitterも普通に面白いので「それが」いい、家で楽しめて安全だし。それがいいのに「演劇も観たい」って思うのはなんなんだろうな。
この作品の配信を観ていて、その答えの一つは即時性のような気がした。
今がすぐに反映されるリアルタイム性。同時代性。共感の近さ。
あとはやっぱりそこに観客がいて、みんなで泣いたり笑ったり手を叩いたり、そういう他者と自分の感情のうごめきや連動を感じて共有できること。無観客上演の配信だとしても、コメントやSNSでその擬似体験をしている気がする。
あと、一発勝負であることによる、成立の奇跡、切実さ。
あと、劇場で観劇した時の記憶、体験の蘇りもある。
あと、物語を人が再現している、物語に実体が伴うという点。生身の人間が目の前で何者かになるというごまかしのきかない誠実さ。
あと、劇場という場所の懐の深さ。響き。
……よくわかんないけどとにかく演劇は私にとってそういう感じの理由で「結構好きなもの」で、だから配信でも演劇を観たくなってしまう。



● (演劇を見るのは)今でなくてはいけないか?
いや今一番難しいのこの問いじゃない……??
この作品は間違いなく今書かれたからこそ出来上がったもののように思えるし、今上演されたからこそ観客が我が事として観られたように思える。
今以外なかった。そういう作品がいま生まれているんだと思う。今やることに意義はあると感じる(私が感じても仕方ないんだけど)。
でも一方で、たとえばとある作品の地方公演や同じライブエンタテイメントであるコンサートの振替公演決定に対する意見をTwitterで見ていると、延期してほしい、という声が少なくないように感じる。
そうだよなあ……推しのこと心配なんだよね……推しが感染することも、感染させることも、その結果責められるかもしれない世の中であることも、少しでも「推しの非」みたいなことが見つかろうもんならもうどうなるだろうって、全部心配なんだよね…………しかも行きたくても行けない人いっぱいいるんだよね……なんで今やらなきゃいけないのってなるよね……そしてこの心配はまた息苦しさにもつながっていくという悪循環。
私も、今年予定していた演目ぜーんぶそのまま来年か再来年に移行しますと言われたら、ちょっと嬉しいかもしれない…………コロナ禍の演劇にまつわる個人的な悲しさのひとつは演目が「観られないまま消滅してしまった/してしまう」ことだもんな……
それでも、おいそれと延期なんてできないんだよな。だからつらいんだよな……そしてその損失よ………………しばらくまた自粛して「もう大丈夫、さあ演劇をやろう」となったとき会社や劇団が存続している保証なんてない。



今更なんだけど、感染症、つくづく演劇と相性よくないとあらためて…人の目の前で人の営みを再現するんだからそりゃそうなんだなあ、客席も舞台上も、、、さっき書いた演劇の好きなとこ全部感染に繋がる。
新しい生活様式ガイドラインもさることながら、感染者が1人でも出たら中止になるの、わかってはいたけど実際起きてみると本当につらい。どなたの身になって想像しても苦しい。そして不確実が過ぎる。でも新型コロナでもインフルエンザでもなんでも本当は同じなんだよな、体調の悪い人が休める環境のほうが健全だしそれでも中止にならない仕組みが整えられていくのかな…また新たな負担が増えるけれど…………
(ところで四季や巌流島、帝劇も、感染者の方がいらっしゃってもクラスターが発生していない、周囲の方にうつっていないというのは、それだけご自身や関係者の方々、運営さんの感染予防対策がしっかりされていたという証だから、本当にすごいと思うんですよね……こうやって少しずつノウハウが蓄積し共有されアップデートされていくのですよね…)



6月半ば、3月に一時的に劇場が開いた時のことを思い出してあれこれ書いたけど、
今、個人的には3月よりつらい状況になっているという感じがする。
感染自体の恐ろしさに加えて、感染したら社会的にやばいという恐怖が強くなっている。自分が劇場で感染した/させたら、自分や周囲の方(感染させた場合はその方々も)の健康を損なうにとどまらず、仕事も生活も趣味も全部失い、家族や職場や演劇や推しに取り返しのつかない迷惑をかけてしまう可能性を感じるという、なんていうか、よりソーシャルな、村八分的な恐怖がある。

そして、劇場に行くのが難しくなった人は多分私だけじゃなくてしかも多分3月よりも多くて、「(観られる人がいるのに)観られない」というつらさ悲しみは思っていたよりもさらに大きなもので、
何より収束する気配がなく「いつまで」という先が見えないというのが耐える気力を削いでいる。
「じゃあ、もういい。こんな苦しい思いをするならもう演劇はいい」
と自分がなってしまうんじゃないかというのが、結構不安。


(でも6月に想像していたよりも配信をやってくれる作品がたくさんあって、その点は本当に本当に本当に嬉しい、とっっっっても救われている)


何度でも言うけど、劇場を疑っているわけでは全然ないのにな、、、
劇場の感染予防対策は万全。
そうであるところがほとんどで、
あとは自分もしっかりすれば、大丈夫なはずなのになあ。



とかなんとか、ぐるぐる考える自分と、
「うるせー!!!!!!いつだって劇場で観る演劇が一番に決まってるだろ!!!!!!」
と出てくるルフィみたいな自分がいる。
この作品はルフィに加勢してくれました。




それでも今、演劇をやるのか?
という問い、私は部外者で無関係だから考えてもなんの意味もないし誰かの答えをどうこういうつもりもないんだけど、
自分が興味ある範囲で誰かが「今やる」と決めたならそれはまさしく今がそのタイミングなのだと支持したいし、
「今やらない」と決めたならそれは今ではないのだと支持したい。当事者の、現場の方々のどういう決断も支持したい、応援したい、そこは変わらない。支持するっていっても別に何もできないけど否定せずにいたい。何もできないけど。




● というようなことを考えさせられた作品だった
見てから少し時間が経ってしまったので、大事なところの記憶が抜け落ちてしてしまっている気がする。あとでまた見返そう。アーカイブ配信のいいところ。
この作品では、「今」、「自分のこととして」観られるような、コロナ禍により事前に共有済みの議題、共通体験が取り扱われていました。
なぜ今、演劇をやる(観る)のか?
今でなくてはいけないか?
その問いに対する答えを、出そうとする過程を見せてもらったような気がしました。
ディベートみたいな演劇だった。