王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

ミュージカル『エリザベート』 ルドルフにまつわる音楽について書く

ミュージカル『エリザベート』のルドルフにまつわる楽曲について、好きなところがたくさんあるので感想を書きました。
(作詞:ミヒャエル・クンツェ、作曲:シルヴェスター・リーヴァイ、訳詞:小池修一郎



私はミュージカルも音楽も詳しくないので、語るための言葉と知識を持ち合わせておらず、途中でこれは何を書いているのだろうかと我に返ったりしましたが、とりあえず熱い思いの丈を最後まで綴りましたのでここに埋めます。



この文章は主に思い込みと妄想で構成されています。
すみません。



● ♪ ママ、何処なの?


長調なところが好き

この曲、歌詞の内容は寂しいのに曲調は明るい長調なんですよね。
シンプルなメロディと伴奏だけ聞いていると、まるで素朴な童謡のように感じます。
これがもう……!! 気丈に振る舞う彼の健気さと健全さ、彼をそうさせる皇太子としての自覚を感じさせて切ないったらありゃしないんですよね……!!!
そして、「それでもママを信じる気持ち」みたいのも見え隠れしてて、悲しげな短調だったら感じなかったであろう「ルドルフの抱く一縷の望み」が表現されていてつらい。さみしい……



・トートが優しい

トートのメロディめっちゃ優しい。下からそっと上がってくるところが優しい。言葉も優しい。


トートってシシィには嫌がられてるけど、ルドルフにはルドルフがかけてほしい言葉ばかり言ってくれるんですよね。
それがシシィにとっての死とルドルフにとっての死は違うんだなあと思うところの一つで、個人的には、ルドルフはトートに自分が生きるための言葉を言わせているように感じることが多いです。
シシィは死にたくないのに死に魅了されてしまっているけど、ルドルフは、生きるために、前に進むために、自分を鼓舞するために死を意識している。


「呼んでくれれば 来てあげる」って、「死のうと思えばいつでも死ねるから」と思うことで生きる気力を保ってるってことなんじゃないかなと……トート、その出現に関してはわりと受け身なほうですよね。シシィの時と違って。


ルドルフは「♪ 闇が広がる」の前、久しぶりに死への思いが頭をもたげたんじゃないかと思うんですけど、そこでトートが煽ってまた生きるほうへ向かわせたのがすごいなあと。
トートがルドルフを籠絡するという、トート側の物語と利害が一致するのも興味深いです。



● ♪ 父と息子


・繰り返される親子の対立

前半は「♪ 皇帝の義務」の陳情部分のメロディ、後半は「♪ 皇后の務め」のメロディが使われています。この構成は「♪ 第四の諍い」に近い。これはフランツがゾフィーと決別するシーンで歌われるもので、その後「♪ ゾフィーの死」に繋がります。


フランツの母であるゾフィーが亡くなり、入れ替わるように登場する大人のルドルフ。息子である彼ともまた、「親子でありながら対立」してしまっているフランツの姿が、同じメロディラインが使われることで強調されているように思います。
フランツだってそんなこと望んではいないだろうに。


それにしても、「♪ 皇后の務め」があまりに強烈すぎて、しかもその後の意見がぶつかるシーンで何度も同じメロディが使われていたおかげで、「ずちゃちゃずちゃちゃずちゃちゃ」が始まった時の「火蓋切られたー!!」感が半端ない。
初見でもリプライズによって音楽が定着していくのすごい。



● ♪ 憎しみ(HASS)


・消えたメロディ

メロディとハーモニーが消え、リズムと言葉のアクセントが残った音楽。
リズムや全体の構成は「♪ ミルク」がベースになっていると思われます。


メロディやハモり、パート割りがなくなったことで情報の幅がぐっと狭まっており、ミルクの時に見受けられた個々人の多様な怒りがHASSでは画一化されているように感じられます。
ミクロがマクロになったというか。顔が見えにくくなったというか。
ニゾンで「単純なリズムのフレーズ」が執拗に繰り返され、さらに各フレーズの前半にタタッと走るようにアクセントが置かれていることが多いので、全体的に追い立てるような攻め立てるような印象になっています。
ミルクは偶発的な怒りの発露という感じでしたが、HASSはもう少し計画的なもの、近づいてくるシュプレヒコールのようです。どちらも誰か(主にルキーニ)に扇動されていることは変わりないのですが。


ルドルフとフランツが下に降りて向かい合っている時、民衆はなんとなくこの後出てくる旗のシンボルのような形で並んでいるように見えます。
そこがまた、本人達の意思とは関係なく知らず知らずのうちに操られ誘導されているようにも感じられて寒気がします。ハプスブルクの親子は奇しくもそのシンボルの中心にいる。



・歌詞がこちらに飛び出してくる

この短い曲の中に、登場する演説者の掲げた汎ゲルマン主義、反ハプスブルグ君主制、親プロイセン反ユダヤ主義などが詰め込まれていると思うのですが、個人的に特にすごいと思うのが「20世紀」という言葉が出てくる点。
これがあるだけで、観客の私がドキッとしてしまうんですよね……「ハプスブルク+1800年代=昔」みたいな頭で見ている時に、急に「20世紀」というわりと身近な言葉が出てくると、「あれっ?」と思ってしまう。「これそんな最近の話だっけ?」みたいな。
それまでより19世紀末という時代がちょっとこちらに近づいたように感じてしまう。


さらに追い討ちをかけるように、いつの間にかかの独裁者を思わせる風貌に変わっているルキーニ、あの敬礼、そして上から姿を現すあの旗が、私の時代認識に揺さぶりをかけます。「えっこれいつの話だっけ?」と。


急に時系列がとんでくるのでいつも少し混乱してしまうのですが、ただ、この2つの演出にはルキーニが「100年間尋問され続けている」という設定がものすごく活きているなあと思います。ルキーニが1910年に自殺してから100年ということは、だいたい2010年。ほぼ今じゃん!
死後ルキーニの知り得る現代史が随時最新化されていくのかどうかわからないですけど、
ルキーニが見てきたのかもしれない「ルドルフたちにとっての未来」=「私たちにとっての遠くない過去(現代といってもいい) 」を彼が突き付けてくることで、観客の私は急に傍観者から当事者へと変えられてしまうのです。「他人事だと思って見ていただろう、違う、この話とおまえは地続きなんだぜ」と。
市民に蔓延った感情、それを煽ったドイツ民族主義者の原理、その後登場するウィーン市長、彼らに影響を受けた画家志望の青年、そしてそれから何が起きたか、それを知っている私たち。時間が急激に流れて、ルキーニの物語は一瞬だけ私たちの生きる時代をかすめていきます。
フォーカスはすぐにルドルフへと戻り、彼は旗を引き下ろしますが、民衆たちによってまたそれを突きつけられてしまう。


ここでちょっと疑問に思ってしまうのが、「ルドルフにはこの旗の意味がわかるの?」ということです。このシンボルを採用した人物は、ルドルフの亡くなったまさにその年に生まれるはずなのに。
個人的には私は、この作品のルドルフはこれから起こるかもしれない悲劇を少なからず予見していたのだ、と考えています。具体的にとはいかなくても、ハプスブルク帝国崩壊だけにとどまらない世界の不幸が起きる、という漠然とした不安・推測・妄想・恐怖(ここはルドルフを演じる役者さんによって違う気がします)が彼を襲っていたのだと。
憎しみの至る先を彼は独りで見つめていたのかもしれない、それを踏まえると、この後の歌もいくつもの意味が重なっているように聞こえてきます。



● ♪ 闇が広がる(リプライズ)


・人は何も見えない

エリザベートの長女が亡くなった時に歌われた「♪ 闇が広がる」のリプライズ。
オリジナルのほうはだいぶ具体的な内容の歌に聞こえるんですが、リプライズは暗喩表現が多用され、また「何も見えない」のが「皇帝」から「人」へと変わっているので、歌詞の抽象度がかなり高くなっているように思います。
ほんと、いかようにも解釈できる。
「皇帝は何も見えない」だと、前後の内容も合わせて「トートの存在自体見えてない」とか「トートがシシィに悪さ(悪さ?)してることも知らない」とか「(「♪ 不幸の始まり」で歌われているような)栄光の終焉も帝国の滅亡も知らない」とかなんとなく意味がしぼりこめそうな感じなんですけど、
「人は何も見えない」って、すごい、解釈の余地が広大。地平線が見えそう。


私はもともとはここを、
① みんなトートの存在自体見えてない、トートがルドルフに近づいていることもルドルフが闇を抱えていることも誰も知らない
② 帝国滅亡の危機が迫っていることを誰も(特に皇帝)知らない、知ろうとしない
③ ルドルフ自身がトートのこともこれから先のこともよくわからない、混乱のさなか、暗中模索
などなどの意味合いで受け取っていました(①②はオリジナルと似てる)。
でもHASSのあとのルドルフを見ていたら、もうひとつの意味合いも浮かんできたんですよね。
「これから起こる悲劇を、人は誰も知り得ない」。
ルドルフの予見していたものについて、(人でないトート以外)誰とも共有し得なかったのだ(そしてそれは当たり前のことなのだ)、というような。
ただ、面白いことに、ルドルフの見ていたイメージをのちの時代に生きる私たちだけは具体的に共有することができるんですよね。あの旗とルキーニの姿から、理屈じゃなくて肌でびりびりと、悪寒のように。未来を知る私たちだけはルドルフに共感できる。


HASSの前、ルドルフは「よく見てください!」って言うんですけど、フランツはしばらくしたらどっかいっちゃう。ここが「人は何も見えない」に対応してもいると思ってて、
家のことも国のことも、その先の悲劇も、フランツとビジョンを共有することはできなくて、なんかもうルドルフの無力感大きすぎる。



・濁音の良さ

「闇“が”広“が”る」ってタイトルからしてそうなんですけど、この歌は濁音の響きがものすごく効いてると思うんですよね。濁音が特別多いわけじゃないんですけど、「我慢できない」とか「王座に座るんだ 王座」とか「皇帝ルドルフは立ち上がる」とか印象的なところにちゃんと濁音があって、これが発音されることでトートとルドルフの密着感や、閉鎖的で暗澹とした雰囲気を盛り立てている。
もし「やみかひろかる」だったら音がだいぶカラッとすっきりしてトートとルドルフの間に少し隙間があるような印象になるんじゃないかなあと思います。
「やみかひろかる」「やみがひろかる」「やみかひろがる」「やみがひろがる」。口に出して言ってみるとなんとなく最後のが一番距離が近くて重厚な感じがするんですけどそう感じるのは私だけかもしれないすみません。


あと、その濁音群のなかにあると逆に清音も映える気がして、特に「革命の歌に踊る」ってところが最高に推せるんですよね……
頭の「かく」という明瞭な響きが最高だし、「かく めい」という響きの硬さ(かく)と柔らかさ(めい)の対照性が最高だし、「歌に」の「う」で音が上がり弾けるような「た」が続くことで「うた」という言葉の美しい響きが彗星の如く現れる感じが最高。しかもそれら清音のきらめきが最後「踊る」という濁音の世界に収斂されてしまうのが最高の高。推せる〜〜〜!!



● ♪ 独立運動


・出だしのルドルフの高音が好き

出だしのルドルフの高音が好きです!!!



・エーヤンは鬼

「♪ ミルク」のメロディをベースに、「♪ 最後のダンス」ちょこっとと、「♪ エーヤン」。
もうここのエーヤンはほんと鬼で、このメロディが使われるだけでルドルフがかつてハンガリーを助けた母の姿に自分を重ねている感がめちゃくちゃ出ちゃうんですよね!!!! 本人にそのつもりがなくても、周りはきっとそう思っている、というニュアンスも含めて、つらい。



・見てきたものがここに集約される

あとエーヤンとミルクってどっかで見た並びだな……とか思って、いやルドルフのバイト先!! ルドルフ!! どっちもルドルフいるじゃん!!!!! という。
(ルドルフを演じる役者さんは一幕の「ハンガリー訪問(デブレツィン)」と「♪ ミルク」のシーンに市民として出演している)


デブレツィンでは「♪ エーヤン」を歌ってるわけじゃないですけど、BGMで流れてるし……
なんか、そうやって市民を演じているルドルフ役者さんを見ることで、ルドルフがもしハプスブルク家に生まれてなかったらどうだったかな、とか、逆にその市民の彼から見たルドルフ(ハプスブルク家)ってどうよ、とか考えさせてくれるなと思ってたんですけど、そうかその「市民の彼ら」もここに結実するわけなのですね……………エリザベートにエーヤンしていた彼……ミルクがないのは誰のせいだと怒っていた彼……国中に渦巻いているものが見えている彼……彼らの行き着く先はハンガリー独立、ドナウ連邦……そうか…………………


なんか、ミルクを求める青年と、独立運動に加担する皇太子という、本来ならば絶対に交わることのない二人の人物が、同じ役者とメロディによって交叉し重なり合うのすごい運命のいたずらって感じがします……演出の効果なんだけど……素晴らしいなあ。


ダンスのところの音楽も、エーヤンの伴奏からのミルクですね。ほんとエーヤンは鬼。



● ♪ 僕はママの鏡だから


長調なところが好き(2回目)

ルドルフ、歌のはじめは短調で憔悴して本心を吐露している感じだったのに、いざ本題というところで長調になっちゃうじゃないですか。
もーーーそこがルドルフーーーーー昔から変わってないーーーー!!! 「♪ ママ何処なの」から変わってないーーーー!!!!
皇太子としての自覚とママを信じる気持ちが彼をそう振る舞わせるのかなって思わせる長調ーーー!!!


感情のまま話してた時はまだ若干ママが話を聞いてくれるかもしれない空気があったのに、「打ち明けるよ」で少し気を持ち直してからはもう「政治の話ね」ですよ。ルドルフが皇太子らしさを見せた途端にシシィの心の扉が閉まってしまうんですよね……シシィにとっての牢獄、ハプスブルクの血……なんかシシィはルドルフの中にフランツを見てつらそうにするしフランツはルドルフの中にシシィを見てささくれだつし、誰かルドルフのことを見てあげて……


しかも、政治の話になるところ、伴奏の「♪ 私だけに」のメロディを追いかけるように似たようなメロディを歌う感じなんですよね。ママの歌をリプライズしそうなんだけどしないんですよ。もう一度言いたい、リプライズしそうなんだけどしないんですよ。「僕はママの鏡」と言いつつメロディはなぞらないんですよ……!!! ルドルフー!!!!
一方シシィは「♪ 私だけに」のメロディで返してくるんですよずるくないですか!??(ずるくはない)
絶対助けてくれない感じじゃないですか……
ルドルフ、もう短調のまま「ママ助けて父上が虐めるんだここは牢獄だ」と訴えれば良かったんじゃないかと思ってしまいます。ママは「♪ 皇后の務め」でそうしていたのでそっちのほうが通じた気がする。


(8/26追記:8/22に観劇して気づいたんですけど、「♪ 私だけに(三重唱)」のトートソロが「♪ 僕はママの鏡だから」のメロディと同じだったんですね……!!
うわー! ……うわー!! と思いました。
とても闇が深い……エリザベート、本当に見れば見るほど奥行きが出てくる)



・溝が現れる

結局、ルドルフの懇願は最後にほんの少しだけ「♪ 私だけに」のメロディをなぞって終わります。
それに対するママの返答は、あの通り。
最後の返事に使われているメロディは、その「♪ 皇后の務め」の終わりでシシィの訴えをやんわりと受け流したフランツの「♪ 君の味方だ」と同じです。
シシィがやられて傷ついたことを、今度はシシィがやってしまっている。
このメロディは「♪ 第四の諍い」でフランツがゾフィーと決別する時にも使われていて、しかも「♪ 最後のダンス」の出だしに微妙に似ている気もするので、なんだか死があらわれる前触れのメロディのようにも聞こえてしまいます。
ふたりの間にあった大きな溝がゆっくりと可視化されていくようなメロディ。
でも、もともとは「♪ 皇帝の義務」でフランツが「もし選べるのなら……」と本心を垣間見せたメロディであったことも忘れちゃいけないよなあと思います。あの時、あの母子の間にも溝があったんだ。



・「あなたが側にいれば」

これは2016年版のDVDを見ていて気づいたことなので、今年もそうなっているかはわからないのですが(8/26追記:2019年版でもそうでした)、
シシィの歌のあと、クラリネットオーボエが聞き覚えのあるメロディを静かに奏でていたのですよね。
フランツとシシィが2人で歌う曲の、「勇気を失い くじけた時でも」の部分のメロディです。たぶん…………
これは「♪ 君の味方だ」にも「♪ 第四の諍い」にもなかったので、わざわざここに付け足されているものだと思うのですが、そこのメロディだけが流れて、その先に続くことなく中途半端に終わってしまいます。
なんらかの作品を鑑賞する時に、描かれたことと同じくらい「描かれなかったこと」が強いメッセージを持つことがよくありますが、これもそうなのかもしれないと思いました。
続けて紡がれることのなかったメロディがかつて伝えていたのは、歌の表題でもある「あなたが 側にいれば」という言葉。
ルドルフが小さい頃からずっと言いたくて、そして結局言えなかった言葉のようにも思えました。
代わりにルドルフが口にした「ママも僕を見捨てるんだね」というつぶやきの、「あなたは私を見殺しにするのね」というシシィの言葉との小さな差異が、このメロディによって浮き彫りになるようで。
彼のそばにいてくれたのは最初から最後までトートだけ。



長調なところが好き(3回目)

私は、今年ルドルフを演じている役者さんの一人である木村達成さんのファンなのですが、「♪ 闇が広がる」と同じくらい木村さんの歌うこの曲が存外に好きでして……
音域とか専門的なこともあるのでしょうけど、個人的にはこの曲の
長調だけど気持ち的には短調、だけど、長調だ」
みたいな調性が、木村さんがここぞという時に放つ
「光は闇に堕ちた、しかし光り続ける」
みたいな属性と響き合っていてとってもいいなあって思ってます!!!ファンなので!!! !



● ♪ マイヤーリンク(死の舞踏)

・エーヤンは鬼(2回目)

この曲、終盤「♪ エーヤン」の短調ワルツアレンジになるので、「またエーヤン……つらい……」って思うんですけど、「♪ 我ら息絶えし者ども」の「誰も知らない真実エリザベート」のところも同じメロディなんですよね。ほんと、それ、ルドルフもだね、って思います。ルドルフがなぜ死んだのかトート以外誰も知らないじゃないか。



・調子の狂う音楽

前半部分、主旋律と伴奏が微妙に食い違ってる感じなのと、主旋律自体が不自然な感じなのと、リズムパートが落ち着かない感じなので、全体的にちぐはぐ感があってなんだか調子の狂う、奇妙な雰囲気が出ています。
特にリズムパートのせわしなさが「わっ、わっ」ってなる。これが123,456の6拍子として、いわゆる「ずんちゃっちゃっ,ずんちゃっちゃっ」ではなくて、「ずんちゃっちゃっ,ずんちゃー」なのが一回ブレーキかけられるみたいでつんのめるし、3小節目にいきなり「ずんちゃっずんちゃっずんちゃっ」になるから2拍子になった!? と混乱するし。
とにかくパターン通りでないので「自分の思った通りにならない」、ルドルフが何か大きな意志に絡め取られてゆくのを感じます。



・表題の「(死の舞踏)」という文言

私は「死の舞踏」と聞くと「2006年オリンピックのスルツカヤ選手のSPすごかったよね!!!!」と思ってしまうのですが、そのショートプログラムに使用されたリストの曲『死の舞踏』の原題《Totentanz》、まさにトートって感じですね。そりゃそうなんですけど。


この文言が表題に入っているということは、人が死(死者)と踊る「死の舞踏」という芸術的モチーフを多少なりともこのシーンに見出してよいということだと思っていて、
となればここでルドルフと踊っているトートやトートダンサーは死の舞踏の絵でいうところの骸骨なのかなあと考えたりしました。


骸骨といえば、『死の舞踏』と名の付くサン=サーンス交響詩があって、この曲の中では踊る骸骨の骨がかちゃかちゃとこすれあう音を木琴で表現しているんですけど、
2016年版エリザベートのDVDを見返してたら「♪ マイヤーリンク(死の舞踏)」で木琴みたいな音が鳴ってたので「骸骨……!」ってなりました。今年も鳴ってるんですかね……!?


(8/26追記:8/22に見た限りでは、少なくとも1巡目のたーららららーのところでは木琴は鳴っていない。2巡目は微妙にそれらしき音が聞こえるような気もしたけれど、鳴っていたとしてもそんなに全面に出ているわけではないようです。)


どんどん話がそれるんですけど、
その死ぬ時に踊る「死の舞踏」、これがあるからっていうのもあってトートが「最後のダンスは俺のもの」って自信持って言ってるんだと思ってて、
その最後のダンスはまさにこのワルツ(「♪ マイヤーリンク(死の舞踏)」= 結婚式後の舞踏会の「♪ 死の時のワルツ」)で踊るんだと思ってるんですけど、
それ考えると、シシィが「私は好きな音楽で踊る」って言ってるの、すごい、強い。トートが「シシィとワルツで踊ろう ♪ 」って思ってるのに、シシィがそれを「踊る時は全てこの私が選ぶ」と一刀両断してるんですよね!?
「♪ 私が踊る時」には当時のシシィが生きる上での信念が表明されていると思ってたんですけど、それがそのまま死に対する信念にもなっているというのが面白いと思いました。
どう生きたいかと、どう死にたいかは、無関係ではないのだと。
それにしても、トート、フランツとも踊ったんですかね。トートがフランツとワルツを踊りたくなかったからフランツは長生きしたのかな。



短調のワルツなところが好き
短調のワルツなところが好きです!!!!
この曲もそうなんですが、短調ワルツってその悲しげな印象とぐるぐる回るイメージから「数奇な運命」感が漂うものが多くて好きなんですよね……
また全然関係ないんですけど、映画『アナスタシア』に『Once Upon a December』という短調ワルツの曲があって、アナスタシアがそれを歌いながら亡霊たちと踊るシーンがほんとめちゃくちゃ美しいので見てください……BW版のそのシーンも宣伝でちょっと見たんですけど絶対素敵っぽいです……日本版楽しみです。



で、このシーンの音楽がワルツであることには、前述の「トートの死の舞踏がワルツだから」以外にも色んな意味を見出せる気がしていて。
ワルツって男女で回り踊るというイメージがあるので、最期にルドルフと一緒にいた女性の存在を示唆しているんじゃないかとか。
皇太子がワルツで死の舞踏を踊ることで、その最後をワルツとともに歩んだハプスブルク帝国の崩壊の始まりを象徴しているんじゃないかとか。
この作品の他のワルツ曲(「♪ 結婚の失敗」「♪ マダム・ヴォルフのコレクション」)とともに並べた時に見えてくる、どこか皮肉っぽい視線とか。特に後者のマデレーネさんのとこでマイヤーリンクと同じメロディが使われているというのが見過ごせない。引き立てられたのは妖しげな雰囲気だけだろうか?


何より、ワルツのこのリズム感ですよね。
もしこの曲を2拍子とかにしても、主旋律の不自然さが強いので奇妙な印象はそのまま残ると思うんです。なんですけど、2拍子や4拍子だと、直線的なイメージ、死へと一直線に向かっている感じが強くなるんじゃないかという気がします。踊らされている、逃げられない、抗えない、否が応でも死に近づいていくというような。
それを考えた時に私がこのワルツのリズムに感じるのは、トートがルドルフに対して残した死への猶予、選択の自由です。
ルドルフは死に追い詰められ翻弄されているけれど、トートは逃げ道を完全に塞いでいたわけではない。
トートに「選ばされた」のではなく、「ルドルフは最終的に自ら死を選んだのだ」という印象が、このワルツのリズムによって作り上げられているのではないか、と、ちょっと思ったりしました。



● ♪ 死の嘆き

・シシィによるリプライズ

少年ルドルフの「♪ ママ、何処なの?」とほぼ同じメロディ、伴奏。
シシィがリプライズしたことで、やっとルドルフの方を見てくれた、応えてくれたという感じがします。
そしてこの素朴な曲は、大人が歌うと子守唄みたいになるのだなあと。
ひょっとしたらシシィが初めてルドルフに歌った子守唄なのかもしれない。
子供のルドルフはもういないし、大人のルドルフだっていないのに。
シシィが自分のために歌った子守唄。
遅かった。本当に。



● ♪ 我ら息絶えし者ども


・ルドルフが2人いる

最初なんとも思わず見てたんですけど、冒頭の証人たちのシーン、ルドルフが2人いますよね。
少年時代と青年時代で役者さんが違うから、というメタ的な理由は抜きにして、そのことにあんまり違和感がないのが不思議で。
でも、「♪ 死の嘆き」でシシィがなんとなく小さな子供に向けて歌っているように感じるのを体験すると、なんというか、それまで歌われなかったことの重大さに気づくというか、孤独な子供の姿が浮かび上がってくるというか、その孤独な子供をルドルフは大人になってもずっと抱えていたのだなと感じるというか……だから2人いても違和感がないのかな。


ただ、2人いても違和感ないけど、そもそもなぜ2人いるのかと考えると、ルキーニが「子供が巻き込まれた」ということを訴えるために子供の歌声が必要だったのではないのか、と思うんです。たぶん青年の歌声だけでは観客はそのことに気づかない。
自らの演出によってそのように印象を操作しているルキーニは、もうこの時点で信頼できない語り手であることが明らかだったのだなあと思います。
ルキーニが、エリザベートの罪深さを印象付けたかったのか、子供が巻き込まれるなんてあってはならないことだと言いたかったのかはわからないけれど。






以上です!!
ありがとうございました!!

ミュージカル『エリザベート』感想メモ(7/18)

ミュージカル『エリザベート』の7/18マチネを観劇しました。


えっ、嘘でしょ、木村さんのルドルフ、6月に観た時と全然違うんだけど……!?!?!!?
というのが感想。


キャストの違いなのか、『ミュージカル』のインタビュー記事を読んだことによる先入観なのか、席の違いなのか、はたまた進化なのか、多分全部なんですけどとにかく印象が全然違いました。




ルドルフが空っぽじゃない。
それに尽きるんですけど、8月にまた比較したいので自分用に気になったところをメモ。
文章にまとめられなかったので本当にメモ書き。

6月の感想はこちら





● 父と息子、憎しみ(HASS)

台詞が聞き取りやすくなってた!
ルドルフが旗を引き下ろした後にうずくまるところで、己の無力さとハプスブルクの未来を嘆き悔しがっているのがよく伝わってきて、感情が『闇が広がる』へと綺麗に流れていく……!!と思った。



● 闇が広がる

前回より声が出ていた気がした。
1階だったからかもしれないけど1ヶ月で進化したのならすごいなあ。やっぱりボリュームが上がるとそれだけで表現の解像度も上がるなと思いました。一番出やすい声色のままではルドルフっぽくないのはよくわかるし、今作り込まれているルドルフの声色がとても好きなので、とにかく応援したい。



「僕は何もできない 縛られて」のところで両手で自分の首を絞める仕草。歌詞上の意味「世界が沈みゆくのに手出しすることが許されない状況である(己は無力である)」ということに加えて、そのことにルドルフが自身の死にも近いほどの苦しみを感じているということが言外に伝わる。



井上さんトートのスパルタぶりがすごい。
古川さんトートの闇広は飴だったけど、井上さんトートの闇広は鞭。
ぐずぐずしているルドルフに対して「この弱虫が!!!お前はあの猫を殺めたルドルフだろう、英雄になりたいんだろう!?」とでも言うかのような勢い。井上トートが少年ルドルフの告白にギョッとした表情をしていたのがここに繋がる。この俺をわずかでも驚かせた「皇帝」とやらの資質よ、目を覚ませ、がっかりさせるな、と。
この勢いで「見ていていいのか」と迫られて「ハイ」とは言えない。ルドルフにブンブン首を振らせることで形から自覚に追い込む。



「我慢できない」をトートに手を取られて立ち上がりながら歌うの、よく考えたら大変な振りだなと思った。



「王座」での覚醒の表現が好き。
顔つき、目つき、声、ガラッと変わる。ある意味漫画的表現。王道を王道で行くわかりやすさ、定番展開への期待感、「きた」と感じさせる高揚感、それを入れ込むタイミングをかぎわける嗅覚はこれまでの2.5次元作品の経験で培われたのかもしれないと思う。
個人的には「王座ー!!」の最後まで言い切ってくれたら最高。




ハンガリー独立運動

前回は気づかなかったけどトートの「今なら救えるハプスブルク」のところでルドルフが「うん……うん、うん」と何度か小さく頷いている。自身の中でも何か考えを巡らせている、そしてその思考がトートの言葉を聞いてる間にも幾分進んでいることがうかがえる。
こういった仕草や表情の積み重ねを私が拾えたためか、今回はルドルフが自ら考え判断し行動しているように見えた。前回の空っぽルドルフとは異なる、ある程度地に足のついたルドルフ。



手を組む者たちと握手する時に肩や腕をポンポンと叩いたりしている。あくまで上の立場からの歩み寄り、参画、激励なのだなと感じる。そして無自覚な気位の高さ。
ここもルドルフの自発性、積極性を感じるところ。



ハンガリー国王!」夢見るというより現実的な手段として「道筋が見えた」かのよう。テンションは抑えめで浮き足立ってない。
戴冠、覚悟を決めた顔。自分がこれを戴くことでハプスブルクの崩壊を防ぐのだという意志が見える。跪き頭を垂れる姿が様になっていて見目麗しい。



なんとなく前回より意識がトートから離れて、自ら周囲に働きかけているように見える。目の合わせ方とかかな? だいぶリーダーっぽい。
古川さんトートだと甘えるのかな。それはそれで可愛い。



あんまり気にしたことなかったけど、最後のとこルドルフは別に拘束されてるわけじゃないのに逃げないんだな。そこ人柄がうかがえる。



「ルドルフ……ハプスブルク
天を仰いで目をつむる。失敗した……、という声が聞こえてきそう。



「父上……」
前回と同じ弱々しい嘆き。でも前回は父を呼び止めるような言葉に聞こえたが、今回は自分の足元に落ちるような呟き。
失敗してごめん、うまくいけば父を救えたのに、という感じ。自分を責めているふうでもある。
木村ルドルフからは徹頭徹尾、父への敵意は感じられない。強く睨むこともないし声にも必死さや苛立ちはあっても怒気はない。ハプスブルクの名誉を守るという同じ目的のためにぶつかるしかなかった父子。自身の「政治」という言葉の定義に息子を寄せ付けなかった父。


● 僕はママの鏡だから

いい。あと100万回聴きたい。
前回は僕のこと助けてくださいな歌に聞こえたけど、今回は国や家のことも考えているように見えた。
多分今回のルドルフには社会性が感じられたんだと思う。前回は「ママ、パパ、僕、トート、以上」の世界に住んでそうだったけど、今回は他にも人がいる。「孤立無援」も「パパに見捨てられた」だけじゃなく他からの支援も難しいのだというニュアンスに聞こえる。
ママに手を引き抜かれて呆然としているルドルフの顔、差し伸べられていたはずの多くの手の、最後のひとつを失った感。




「ママも……僕を見捨てるんだね」
それまでと同じようなトーンでの「ママも……」からの、振り返ってうわずるような「僕を見捨てるんだね」。大橋くんの少年ルドルフみたいな言い方ー!!!!! 一気に退行した。この「……」で心がぽっきり折れたのがすごいわかった。
ここまでの「皇太子らしい青年ルドルフ」が彼の神経を張り詰めて作られた「振る舞い」であったことがここで初めて明らかになっていた。
ルドルフが唐突に弱さを見せてきて前後が繋がらないように見えるけど、自らの役割、責任、義務を全うしようとして常に気を張っていた人が、ある日突然些細なきっかけで心が折れてしまうことは、よくある、と、思う。
木村さんの死ななそうなルドルフ、亡くなったあと、「そんなふうに全然見えなかったのに」、と、言われたかもしれない。パパもママもそう思ったかもしれない。まさかあの息子が自死を選ぶなんて思わなかったからこそのあの態度だったのかもしれない。木村ルドルフがもっとあきらかに傷つきやすく繊細で内省的だったらどうだっただろう。
皇太子の仮面ががらがらと崩れ落ちて、あとに残ったのは役割を失った幼い青年。



● マイヤーリンク

独立運動もだけどダンスが上達している……! ダイナミックでとてもいい。下から見たからかも。迫力があった。特に舞台中央前方で足後ろに跳ぶやつ(?)が好き。



トートに差し出された拳銃のほうを見るのだけどやや焦点が合っていない。この時点でぞわぞわする。
キスの後、目を閉じたまま少しの間。死の残り香に陶酔するような表情。なんというか、木村さんがそんな耽美な表現をするとは思わなかった。そんな引き出しもあるのか。意外。すごい。好き。
撃つ瞬間、目が三日月に。笑った、かな? わからない、絶妙な一瞬。私には酔い痴れて恍惚としたまま引き金を引いたように見えた。
この時トートから渡されたのが拳銃だったから死んでしまっただけで、お酒だったらお酒だしくすりだったらくすりだし女性だったら女性だし健全な運動だったら健全な運動だったんだろうな。でも、全部やった上で酔えなかったから行き着いた先なのかも。
全然関係ないけどマンガ『進撃の巨人』の「みんな何かに酔っ払ってねぇとやってらんなかったんだな……」という台詞を思い出しました。ルドルフにとって、「ハプスブルク崩壊の危機」の次にようやく酔っ払えたのが死だったのかもしれない。



ところで、前述の『ミュージカル』のインタビュー記事、全編むちゃくちゃ好きなんですけど、特に印象深いところがあって。
井上さんトートとのキスシーンについての、
「僕から死を掴みに行ってキスしようとしたら、顎をガッと止められ、俺からやるんだと逆に迫られて」(『ミュージカル』 2019年7月・8月号)、というところ。後半の内容も大変興味深いですけど、その前の「死を掴みに行く」という表現が面白いなと。
「死」という一般的にネガティブな概念に対して、「掴む」という言葉のポジティブ度がすごい。ポジティブかつアクティブ。しかも「行く」までついてて圧倒的能動。なんだか全然穏やかじゃない。死に臨んでまで生命力がみなぎっている。
この若干粗野な表現が、木村さんのルドルフにおける、井上トートの「死」のイメージをよく表しているような気がしたんですよね。
死を安らぎとか、真の友人とか、帰るべき場所とか、何かもう少し静かな柔らかなイメージのものに捉えているのであれば、このような言葉選びにはならないんじゃないかなと。「掴む」って、対象をある程度つぶしてしまうことも厭わないようなニュアンスもあるから。そこに配慮する必要のないほどの強度のものと捉えているか、あるいは、自分がそこに配慮する余裕がないほどの状況(もがき掴むような)と捉えているか。
どちらにしても、そんな勢いでいくから井上トートにガッと止められるんだよって感じがします。前者でも後者でも、そんな礼を失した状態の青年に閣下が主導権を許すわけない。でもそこが井上トート的には可笑しくも愛しくもあるのではないかな、と思う。面白いです。
はたして木村さんは、古川さんトートの与える死に対しても「掴みに行く」って言うのかな? 多分言わないんじゃないかな? というのが目下気になるところ。もはや知り得ないけれども。



● 悪夢、我ら息絶えし者ども

このルドルフはママに執着しているのではなくて、ママやパパのせいでママやパパを救えなかったことに執着しているみたい。
本末転倒感。



ハンガリー訪問(デブレツィン)

はーーーーーーかわいい。
「よくわからないけど呼ばれたので来ました」感が衣裳とあいまってめっちゃ可愛い。
「今日はお祭りですか?」みたいな。
ふわふわしていて安心する。


● カテコ

少年ルドルフの大橋くん、小さくて健気で本当に守ってあげたくなる。大橋くんルドルフからの木村さんルドルフ、顔立ちや眉毛も似ていて成長した感がすごい……
後ろに下がる時に大橋くんの背中に手を回した木村さん、同じくフォローしようとした秋園さんの手に当たってしまったみたいで二人とも「あっ、あっ、すみません……」みたいになってたのが可愛かった。圧倒的平和。




木村さんルドルフについて、以上。
この間ハイステ映像を見て木村さんの影山役のハマりっぷりにまじ奇跡かよってなって、テニミュドリライ2014のバンダナとった海堂を見てむちゃくちゃイケメンがいるな!?!!!ってなったんですけど、この日ルドルフを見て今の木村さんが一番最高であることを知りました。ロミジュリでも同じこと思った。てかいつも思ってる。





他の登場人物の印象について。




● トート

井上さんトートの帝劇に轟き渡るような歌声が圧倒的。しかもそれが多くの場合シシィたった一人に向けられているにも関わらず、凛と立っていられる花總さんシシィの存在が信じられない。目の前でむちゃくちゃ雷が鳴ってるのに平然としている人を見ている気分。ルドルフに対しても全開だったら今の木村ルドルフでは吹き飛んでしまう。
2人はまるで好敵手。トートがムキになる気持ちがわかる。そしてどんなにシシィに対して強く迫っても失われない、井上トートの沼のような気品が尊い
花總さんシシィ、その美しさがまるで幻想のようで本当に言葉を失う。気高い。
幕切れの井上トートの表情。生きた彼女に愛されたいと望んでいたのに愛されれば則ち死というのはなんと残酷か、と思わずにはいられない。
エリザベートを喪ったのはトートもフランツも同じ。不条理な「北風と太陽」のようだと思った。北風も太陽もエリザベートをなびかせることができず、勝ったのは旅人であるエリザベートただひとり。




● フランツ

6月に観た田代さんフランツについて。
田代フランツはロイヤルで声にも立ち居振る舞いにも隙がなく、正統なハプスブルク家の血筋、まぎれもない皇帝という印象。生まれ持った資質により比較的(あくまで相対的な話)容易に皇帝という役割に順応した人物のように見える。
田代フランツは相手がシシィでなくても、義務を果たすこと、自由を諦めることを誰かに無意識に強要することがありそう。自身がそこに伴う苦痛が少ないから。ルドルフに対してもそう。
シシィとは互いに中央値から反対の方向へと離れているので、最初から最後まで、傑物同士、凡人にはわからない決定的なすれ違いを起こしているという印象。
その彼が、そんな彼が、義務の象徴ともいえそうな母に逆らい、また夜のボートでエリザベートをあんなにも強く求める、その姿がどうしようもなく意外で不器用で切なく苦しい。
彼がエリザベートの死後も長らく国を治め、国父と慕われるようになったのが頷けるフランツ像。エリザベートという大きな自由を失っても、なお、義務に生きることができる(もしくはそれしかできない)人。



一方、田代フランツが適応により皇帝になったのだとしたら、平方さんのフランツは矯正により皇帝になった人。
若かりし頃の平方フランツは口を開けて屈託無く笑う。およそ皇帝らしくないけれど、シシィが彼を好きになってしまったことに強烈な説得力がある。パパも似たような笑い方をしていた気がする。
そこからどんどん皇帝然とした人物になっていく、そのギャップから彼の諦めた自由を知ることができる。
平方フランツはどちらかといえば普通の人で、自由を捨て義務を果たすことにそれなりに大きな苦痛が伴っている、だからこそ、シシィにも同じようなつらい思いをさせてしまうけれども2人ならば、という希望に切実さを感じる。
そんな彼が横に並ぶと、花總さんシシィのエゴの強大さが際立って見える。
『夜のボート』の「わかって 無理よ 私には」、愛希シシィ・田代フランツの時は「あなたの愛には応えられない」、「皇后らしくは生きられない」、「あなたの望みを叶えることはできない」みたいな意味のように聞こえたけれど、花總シシィが平方フランツに言うそれは「私には 他人を 愛することができない」というシシィの痛切な真情の吐露のように思えた。彼女がそれを伝えたことこそ、フランツとの、(愛とは違うかもしれないけれど)深い繋がりの証では。その告白を受け止めるだけの愛の深さが平方フランツにはある気がする。



ふたりのフランツで一番大きく印象が変わったのが『悪夢』。平方フランツは完全に巻き込まれた感が本当に憐れで、可哀想。なんだよもういい加減にしてくれよと無茶苦茶感情移入してしまう。
田代フランツは、実はこの人にこそトートが憑いているんじゃないかと思わせる、何か因縁めいた、ハプスブルク家の血のにおいを感じさせる気がした。
田代フランツがトートに対峙し取り乱す姿は、トートによって全てを奪われ傷ついているのは実はシシィではなくフランツであると気づかせてくれる。そして、愛希シシィも田代フランツも年老いているのに古川トートだけ変わらず若い姿であることが、田代フランツの人間味を唐突に強調してくる。トートはフランツとハプスブルクをどうしたかったのか、結局その結末は描かれないまま物語は終わる。史実をもとにした話だからできることだなと。



● ルキーニ

酔っ払いっぱなしの山崎さんルキーニと、シラフの成河さんルキーニ。
山崎ルキーニは自分(≒トート)に心酔していて、他の人がいる方に目線をやっていても誰のことも見ていない。そう感じられる目の表現が素晴らしい。
そして、自身の外界認識が周囲のそれと所々ずれている(トートが実在するかどうかとか)ことに本人が気づいていない。
だからルキーニが盛り上がれば盛り上がるほど、私の中に得体の知れないこわさみたいなのが湧き上がっていきました。
ヤスリ、すなわち役割を与えられた時の彼の浮かれぶり。


逆に成河ルキーニは完全にシラフであれを喋ってて、彼は多分100年間毎日ソワレをこなしているんですよ。彼の裁判、地下の小さな空間に傍聴者が3人くらいしかいないところから始めて、評判が評判を呼んでどんどん箱が大きくなってついにインペリアルテアトルで開催されるまでになったんですよ。
とかそんな過程を思わせるような、劇場を知り尽くした成河さんの演技のスケールの正確さ、観客を翻弄する間合いと緩急。駆け引きのような芝居の圧の調整。すんごいなあ。演技って他にやることあるんだっけって思うくらい常にあらゆるパラメーターが操作されている気がする。我々は彼に扇動されている。
時折見え隠れする小男ルキーニの素顔が、彼が千両役者であることを証明するというか。成河ルキーニの動機は、売名、だと思う。
こうして見ると、『エリザベート』はrole、役、役割にとらわれた男たちの物語でもあるのだなあと。




ゾフィー

そう考えた時に、ゾフィー、彼女がなぜ「宮廷ただ一人の男」と呼ばれたのかがよくわかるなあと思ったりしました。
自分に与えられた役割のために、誰よりも多くを犠牲にして義務を果たそうとした人物。
香寿さんのゾフィーの死、まるで黒色の鱗がぱらぱらと剥がれ落ちていくようでした。たぶんそれは威厳。どれだけの嘘で自分を塗り固めたんだろう。
現代の価値観に生きる私はゾフィーのやり方には全然賛成できないけど、どうか黄泉の国では安らかにと、
自由の象徴のような翼を得た涼風さんゾフィーの最期の表情を見て思いました。
涼風ゾフィー、お年を召してからお茶目さがあったのが余計につらいんだ……。




シシィについては次もう一度見たら書きたい。
おしまい。

木村達成さん出演作感想メモその2(COLORS、おでかけ、ぼく明日再演)


ちょっと前に見たもの3作品まとめてメモ。

木村達成オフィシャルDVD『COLORS』

周りは就活中なのにやりたいことが見つからない大学4年生が宮古島に行って悩んでいるという設定(多分)でのショートムービー。
謎多きシチュエーションに戸惑う。
とりあえず「撮影地である宮古島に行きたい」と強く思いました。宮古島のプロモーションとしてはかなり刺さった。
泊まってるとこいいなーー休暇ってこういう感じで過ごせるといいよな〜〜。
木村さんのポイントとしては
・スケボーしてるところが見られる!
・朝ごはんを作ってるところが見られる!
・なにか食べているところが見られる!
・パン屋さんにいるところが見られる!
・海辺で戯れているところが見られる!
・よくなにかを飲んでいる!
などなど、見てみたかった姿は盛りだくさんだったように思います。
しかし設定上、晴れやかな笑顔は少なめで悶々としている感じのシーンが多いので、「せっかく宮古島に来たんだし、空は青いし、楽しくやろうよー!」とか言いたくなってしまうんですけどでもよくよく考えたら愁いの表情がこんなに長い時間見られるのは貴重かもしれない。
どうでもいい話ですけど、1回目の朝食シーンでは食べたあと食器が放置されるので、「ちょっと!せめて水にはつけておいたほうが!!」と思ってしまうんですが、精神が安定したと思われる2回目はちゃんとトレイごと持って席を立ったので「細やかな心理描写だな」と思いました。
最後のインタビュー面白かったです。映像のお芝居についてとか、興味深いな〜。


● 多和田秀弥・木村達成 おでかけ! in 鎌倉

対照的なお二人が一緒に鎌倉を散策することで
「なんでも似合う木村さん」と、
「絶対いい人多和田さん」を同時に堪能できる最強DVD。本当にホリプロさんには足を向けて眠れない……ありがとうございます……
多和田秀弥(任益)さんめっちゃいい人。絶対に幸せになってほしい。
木村さんに関しては
・大仏見学に行く木村さん
・鎌倉彫がうまい木村さん
など、特に見たいと思ったことないけど見てみたら最高なシチュエーションがいっぱいあった。
そして、
・豆柴ちゃんにやたら懐かれる木村さん
に関しては思った以上の破壊力。
・犬大好きなのに豆柴ちゃんにあまり懐かれない多和田さん
とあわせて圧倒的「なごみ」が画面から襲いかかってきます。
かわいいよーーー!!
あと
・どんな帽子でも似合ってしまう木村さん
も最高。
多和田さんからスイーツ分けてもらってるのもかわいい。良さが溢れてる。
役に入ってない木村さんはスコーンとしててそのギャップが楽しい。
心が干からびたら見たい映像No.1。





● 恋を読む『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(再演)

CSテレ朝チャンネルで見ました。


劇場で観ることが叶わなかったのでテレビ放送は本当にありがたい……
東宝さんテレビ朝日さんありがとうございます……!!!




初演の感想はこちらなんですが、この感想を書いた回のあとの千秋楽ではさらに木村さんの感情がほとばしっていて、まるで制御不能になったかのようなドライブ感に
「あー、私木村さんのこういうお芝居が好きなんだったなあ」と思ったものでした。
とにかく目が離せなかった。


でも今回は、その時よりもずっと柔らかく、淡々とした印象で。
感情のほとばしる濁流から一転、こんこんと湧き出る泉のようでした。
語弊があるけど、見ていて眠くなるくらい、
穏やかで良かったです。




清水くるみさん演じる愛美ちゃん、今回も本当に素敵でした。
相変わらずの実在感。その辺にいそうでいないようでいそうな絶妙な女の子。
そして、今回初めて気づいたんですけど、清水さんの愛美ちゃんはちゃんと若いんだけど母性というかお母さん感がすごい。
随所で滲み出る「この人を守らなくては」という想い、配慮、慈しみ。
まるで愛おしい子供に言い聞かせるように話していることもあって。
この子、こんなにも高寿くんのことを大切に、守るように1ヶ月を過ごしてきたんだなーと新たな発見がありました。





そして木村さん演じる高寿くん。
好き。
もう好きなシーンあげたらきりがない。
「いいよ」はもちろん好きだし、髪の毛切ってもらってる時に仰け反って後ろ向くのも好きだし、
遮って「んーん、送る」って言うのも好きだし「ええっ?え、教室に貼り出されるって……」の慌てぶりも好きだし「美しい風景を目に焼き付けた」のところで愛美ちゃんと目を合わせるのも好きだし「ツタヤの発祥地」のドヤ顔も好きだし最後愛美ちゃんの話を聞いている時の表情も好きだし「また明日」の一点の曇りもない笑顔も好きです。
高寿くんの笑顔がピュアであればあるほど切なく残酷になるシーン。


木村さんは前回は清水さんに引っ張ってもらっている印象でしたけど、今回はリードしている感じで(優位に立ってるとかじゃなくて、社交ダンス的な意味で)「おおお」と思いました。
木村さんの場作りによって清水さんのお芝居のナチュラルさが全面にきらめいている……!!
すごい良かったです、なんか、包容力があって。



ふたりのお芝居の雰囲気が変わったことから、心に引っかかる台詞も前回とは少し違っていて、
今回特に響いたのが終わりの方の愛美ちゃんのモノローグ。
「だけどそれでもずっと変わんないものがあって それはきっと愛って名前で」。
そうだ、確かにあった、それ、と思いました。
今回木村さんが演じた高寿くんのずっと変わんなかったもの、そのひとつが、愛美ちゃんに伝えようとする姿勢で。
湧き上がる感情に押し流されず、表現することを放棄せず、真摯かつ理性的に気持ちを伝えようとする姿勢。
目の前の大切な人に、自分の言葉で、という一貫した誠意が高寿くんにはあったなあと。
それが愛って言われたら確かにそうだなあと。


前回の、感情に振り回されっぱなしみたいな木村さんの演技も最高に好きだったけど、
今回のお芝居は、感情に負けない演技の良さを教えてくれたし、なんだか高寿くんがいっそう魅力的なひとに見えました。



清水さんと木村さんのペアは本当に相性が良かったように思います。
また共演してほしいです……!!!

ハイステ “東京の陣” 感想メモ

先日、「ハイパープロジェクション演劇ハイキュー!! “東京の陣”」を観劇しました。
すごい面白かった。


以下、感想メモです。



● オープニング

「あれ?ハイパーヒプノシス演劇ハイロー!! を見に来たかな?」と思いました。東京ディビジョン。
あとジャニーズカウントダウンコンサートっぽい感じもある。盆と大晦日が一緒に来たなみたいな。
木兎さん、あの白黒もふもふ衣装を冗談抜きの本気で着てるのほんとすごくて、それだけでオープニング大興奮でした。
あれに着られず着こなしてみせるってトップアイドル並みの存在感だよ!!


3つのグループ(高校)のコンセプトが冒頭ではっきり示されててめちゃくちゃいいし、
何よりそれぞれのグループ(高校)のセンターが誰なのか一発わかるのが最高なんですよね……私はセンタータイプの人のファンになることはあまりないのですが、好きになったグループのセンターには永遠にセンターでいてほしいと願うオタクです。


● 戸美高校

大将さんについて語りたいんですけどその前に、
戸美の5番やばくない……?
広尾さんです。
個人的に容姿が好きというのもあるんですが、動きが!動きがなんかすごい!!
スパイクとかサーブとかなにかのアクションをするたびに余韻で
ニョロロロローン、、、
ってするのがめっちゃ蛇で。
広尾さんの腕なんかのエフェクトかかってる!?と思わず双眼鏡を覗き込みました。生身の腕だった。
戸美は蛇がモチーフになってると思うんですけど、広尾さんは蛇に憑かれてるレベル。ひろおスネイク。阿良々木くんちょっと来て!!!と思いました。そういえば広尾さんと阿良々木くん少し髪型似てるな…


あと、みんなで踊ったりしている時も一人だけニョローンの余韻が微妙に長くて最後まで残っているように見えたのですよね。
それによって、戸美の圧倒的ヘッドである大将さんに対して、尾っぽ、しんがりの広尾さんというイメージが見えまして、より戸美が蛇っぽく猫に絡んでるように感じられたような気がします。
身体の使い方に長けているように見えたのでダンスが得意なお方なのかなー、と思ってプロフィールを見たら「特技 ピアノ」って書いてあって「ピアノ…!」と思いました。
ピアノが特技の佐藤たかみちさん。覚えた。



そして、大将優。
すぐるはあまりにもすぐる。
福澤さんの見た目、演技、ダンス、そして雰囲気、あまりにも過不足なくすぐる。
「これが……2.5次元……!!」と思いました。いつも誰かしらで思わされることですけど、この驚きはほんと何度体験しても快感ですね。
あと声がね!!!
私のイメージとは違ったんですけど、少しざりっとした氷砂糖のような声がヒールらしくもあり、ミカちゃんと話す時とのギャップも生んで最高に良かったです。あとなんか彼が色々言ってるとだんだん「そうですよね……」と思えてくる。脳にじわじわくるっていうか。
すぐるなーーー、本当に良かったんだよな〜〜!!
スター型主将とリーダー型主将に並び立って遜色ないコンセプト型主将〜〜!!
今までの高校のセンターの方々を思い返して、最後にこのすぐるを見せられたら、
新しい日向にも期待しかないな。



戸美、ハイキューにはめずらしくかなり悪役っぽい描かれ方もしていると思うんですけど、
役者さん全員が彼らの信念をちゃんと大事に見せていてくれて嬉しかったです。
舞台上の空気の歪み、捻れた雰囲気を創り出していた戸美はあまりにも戸美だった。
曲もかっこいいしそれを歌負けせずにカッコよく歌って踊る戸美メンの完成度よ。
SHaaa SHi SHi SHi、みたいなフレーズかっこよすぎじゃない??
ヘビってめっちゃイケメンなモチーフだったんだなあ。戸美、デビューさせたい。
そして和田さん、SixTONESに楽曲を提供なさったりしないかななどと思いました。




● 梟谷高校

今回も木葉さんが好きでした!!!!
東さんの木葉さんほんと楽しそうで大好きなんだよな……キラキラして見える。
なんかこう、目が離せないし、応援したくなるし、今この瞬間を生きてるし、教室ではチャラいと思ってたけどたまたま部活中の木葉を見かけて「木葉ってあんなカオ……するんだ」とか同級生に思われてそうだし、小学生にバレーを教えるのが一番うまそう。
なんといったらいいのか、なんか、物語の外にある日常を想像させる佇まいなんですよね。
ハイステのおかげで好きになったキャラ暫定第1位、木葉さんです。


梟谷はみんな楽しそうなんだけど、条善寺の時の楽しさとは違ってやっぱ強豪だな、「楽しむ為には強さが要る」だな、と思えるのがまた演出・役者さんたちのすごいところ。
そして、木兎さんと赤葦さんがむちゃくちゃ安定していてなんかいろいろ泣いた。
良かったね……
赤葦さん役の髙﨑さん、結構滅茶苦茶なセリフ言ってるのに「自分で言って笑ってしまう」を絶対にしないのすごいなと思いました。


梟谷のガッとした勢いと団結には優しい説得力があって、「ああ、音駒、勝てないな」とわかってしまう、そこがまたすごくて胸がぎゅっとなりますね。




● 音駒高校

あかねー!!!!好きだー!!!!
拡声器とあかねちゃんのバランス最高かー!!!拡声器選んだ人ありがとうございます!!!!
私、やばい2.5次元には「フィギュアに命が宿っちゃったみたい」と思うことがよくあるんですけど、重石さんのあかねちゃんはまさにそれ!!
快活で弾けるような女の子、可愛かったな〜。
アリサさんも綺麗で声が耳に優しくてうっとりした。今回、声が良い役者さんが多かった。


あと、私の中で常々「ハイステなぜラップしてしまうのか」問題と「ハイステなぜ歌ってしまうのか」問題が持ち上がるんですけど、いや悪いことだと思ってるわけじゃないんですけど。
今回あかねちゃん見てたらすっごいしっくりきて、
あの試合中の歌は誰に届くか知れない「声」を舞台的に表現したものであり、
あるいは応援歌、あるいはベンチのメンバーの必死の祈り、あるいは、コート内の彼らが心の中で自分自身を奮い立たせている姿のあらわれなんだなってはじめて思い至りましたね……
フィギュアの選手が試合前にテンション上げるために聞く音楽とか、
甲子園で演奏されるチャンステーマとか、
できる、落ち着け、って自分に言い聞かせる言葉とか、イマジネーションとか、
ああいうのの表現なんだなーって。


ハイステは初めからカウントと決まり事だらけの舞台だったと思いますけど、それに慣れて「余白」に感じられるようになった部分にさらに言葉とリズムと節回しが書き込まれていってどんどんどんどん情報量が増えていっているので、次どこに何が書き込まれるのか楽しみです。




音駒はもう超超安定してて、前回の烏野もそうだったけど、もう何も言うことないな…!!って思いました。
信頼と安心で溢れている。
それがほんとうにどれだけ稀有で、ありがたいことなのか。
ひしひしと感じています。


烏野がいなくなってどうなるんだろうと少し不安でしたが、
今作を見て、私個人的には、「ああ、すごい。大丈夫なんだな」と思いました。
仕事でキーマンが抜けるとか、部活でエースが引退するとか、やばいじゃないですか。周りが存続の危機を危惧するじゃないですか。
でも抜けても結構そのまま維持できてたりすると、「なんだ、意外と大丈夫なんだ。」とか言われたりするけど、違うんですよね!!!
あれは抜ける側と残る側の引き継ぎと覚悟と努力の賜物であって、ほんとはぜんっぜん大丈夫なんかじゃなくて、必死に穴を開けないように、抜ける人が渡して、渡して、残る人が受け取って、受け取って、埋めて埋めて、何事もなかったように、何事も起きないようにしてるんだと思うんですよね!!!!
烏野から音駒へ。そして梟谷へ、戸美へ。
繋がったんだね、と思いました。
以前、須賀さんとウォーリーさんと和田さんの対談で「ハイステを長く続けていきたい」と皆さんがおっしゃっていましたけど、これなら本当に続きそうだな、って思いました。
当時は、烏野変わっちゃったら無理じゃないかなー?と思いましたけど。
そんなことなさそうなの、すごいね。烏野。すごいね。須賀さん。礎を作ったね。
そしてそれを繋いでくれた音駒キャストの皆さん、本当にありがとう。




その音駒、理想の兄選手権やってるのかってくらい兄みが強い。
夜久さん海さん2人とも声がいいー!!動きがいいー!!THE安定感。なんなの?キャスティング最高じゃない?(今更)
山本兄さんのさー、守ってあげたい輩感っていうの…?いいですよね…彼の葛藤、いっつも泣いちゃうんだよなあ…
福永さん、キャストが変わってもアクロバティックで嬉しかったです。2年トリオ可愛いんだよなあ。わちゃわちゃとはちょっと違うんだけど。ごちゃって感じで。
リエーフ、研磨との絡みとか良かったー!石倉さんはいろんな強みがありますね。
芝山くんはめちゃ芝山くん。オーディション会場に入ってきた瞬間選考員全員が満場一致で「芝山くんが来た!」って思ったやつなんじゃないかって考えながら見てました。演技も良かった!!





黒尾さん。
近藤さんの黒尾さんは、前も書いたかもしれないんですけど私の中のクロイメージとは結構違ってて、原作の黒尾さんは前世が野武士っぽいんだけど、舞台の黒尾さんは前世がヴィジュアル系貴族っぽい(個人のイメージです)。
だけど根底が確かに同じという印象があって、何度見てもすごいなあと。
彼の懐の深さと、キャプテンとしての背中と、執着と。


研磨の繋ぐ「関係性」が今回の試合ではそんなに多くは描かれていない分、
黒尾さんの紡いでいる関係性が今作の頼みの綱みたいなとこがあって、
登場する高校や人物たちが全員わりと黒尾さんを経由地として繋がってるんですよね。
そして烏野メンバーの残像が舞台上にちらつくのも彼の存在が大きいような気がしました。
第三体育館組だしなあ。
その重さに耐えうる立ち姿。
とにかく背中がさあかっこいいんだよねー!!!
なにかを背負うのが似合う、すっごい頼もしい役者さんだと思いました。



一方研磨くんは、
「やくそく」というキーワードで主役として物語を紡がれてはいましたけど、彼自身に何か劇的なことが起こるかというとそうでもないという、微妙な立ち位置で。
烏野復活の時の日向影山コンビもそうでしたけど、物語を区切った時の、仲間たちが輝く中での「あまりわかりやすいドラマがない主役」ってなんか難しいよなあと思います。
しかも永田さんの研磨は相変わらず、ほんとに、本っ当に立ち姿に覇気がない。


前にも書きましたけど、
「熱量」がひとつの売り文句にもなっているこの舞台で、
冷や水」と言ってもいいような研磨の佇まいは、誰より異質で、危ういなと思います。
生の舞台で、直接他のキャラクターたちの「熱」や「圧」を肌で感じるからこそ、
よりリアルに研磨という存在に違和感を覚えることができて。
音駒の昔の先輩たちは彼の「この感じ」に対して「やる気がないならやめろ」とか言ったんだろうなあって、すっごくわかる。


研磨の、周囲とは方向性の違う「熱」や「圧」や「愛」を、全力で内側に振り切って舞台に立っている永田さんには感服します。永田さん自身は全力で外側に見せたいタイプに見えるので、余計に。
だから、これで春高のゴミ捨て場の決戦にのぞむ研磨が永田さんじゃなかったら、ウソでしょ、と思います。
孤爪研磨ってなんだったのか、
あの境地の研磨を表現できるのは、ここまで爪を研いできた永田さんしかいないでしょ。と勝手に思っている。
待ってます。





以下、ついでに(?)。


● 新生烏野

のんびり書いていたら烏野の新キャストが発表されていました。
いちばんに「おおっ」と思ったのは日向役の醍醐さんで、ペダステの坂道役のあとに新海誠監督の次回作の主役にも抜擢されてたじゃないですか、いやあすごい子がいるなあと思ってたらハイステの日向も掴み取るってほんとすごい。『天気の子』公開後にハイステですよね。むちゃくちゃ楽しみ。
そして月島役の山本さんもびっくり!私は小坂さんを超える月島蛍は未来永劫出てこないと思ってるんですけど、こうやってビジュアルを見ると「確かにこういう月島もいるかも…シュッとしてる…スタイリッシュ…」って感じですでに好き。 山本さん、舞台に立つと余計にシュッとして見えるんですよね。コメントもめっちゃしっかりしている…
あと空手とダンスの心得がある方が演じる影山ってすごい期待しかない。赤名さんの持つバックグラウンド、影山の動きに似合いそうな気がします。木村さんはリアル影山、影山さんはリアル飛雄だったけど、赤名さんはリアルトビオって感じになるかな……!?
そして何より日向影山の変人コンビが2人とも2000年生まれで若い!!一般的には高校を卒業したばっかりの年代ですもんね。次からは変人コンビの若さ、青さが描かれていくターンだと思っているので、ぴったりの配役だなあと思います。
他の皆さんもほんとワクワクします。コメントとかほんと次世代…!
なんか、せっかくなので今までとまったく違うものが見れたら嬉しいですね。
楽しみだなー!!!
















……でも改めて思ったのは、初代烏野最高だったな!!!!!!
ってことです。(交代組含)
あのシーンとかこのシーンとか、初代にやってほしかったのたっっっっくさんある。
だからこそ、新生烏野には期待しています!!!

ミュージカル『エリザベート』感想メモ(6/13)

ミュージカル『エリザベート』の6/13マチネを観ました。
木村達成さんの演じるルドルフについて、記憶が鮮明なうちに、感じたことをメモしておきます。
もう一回観たらちゃんと感想としてまとめたいです。






はじめに

「これは私の楽しみにしていたルドルフとは違うようだ」というのが第一印象。
私はルドルフに、憂国の皇太子とかシシィの面影とか青年の絶望、儚さみたいなのを求めていたんですけど、
木村さんのルドルフは他人の意志でカラカラ動き回る傀儡の皇太子のように見えた。
え、ほんとに?ほんとにそういう方向性なの??
観てる方も演じる方もつらすぎない???




最初、表現力とか理解力とかなにかの力不足でそういうふうに見えてしまっているのかとも思ったんですけど、
家に帰ってパンフレットを読んだら「教育」「子供のルドルフ」というキーワードが木村さんから出されていたので、
うわーーこれほんとにそういう役作りなんだーーーー!と。
なんか木村さんがそっちの方向のルドルフになるとは想像していなくてちょっとびっくりしました。



木村ルドルフ全般の話

木村ルドルフ、もちろん国や家のことを心から思ってはいるんですけど、
なぜか中身は空洞で、周りから吹き込まれたことを鵜呑みにしていいように踊らされているという印象が強いです。
真剣なんだけど本気ではないというか。
常に誰かから何かを教わって、示された方向に素直に突き進むルドルフ。
ハンガリー国王!のとことかトートに手取り足取りくらいの勢いだし。
にも関わらず、本人は自分の頭で考えて行動しているつもりで、なんでも全力なところがつらい。
真摯で実直、あるいは愚直。
どちらかといえば硬質で、儚さは感じられない。
焦燥感に駆られていて、
他人に必要以上にネジを巻かれて生き急いでいる感がすごい。



彼は何をそんなに焦っているんだろう、と思うんですけど、
なんというか、それこそ その「空洞」、「空虚感」を自ら埋めようと躍起になっている、という感じがします。
親の愛で充たすことのできなかったそれを、代わりの何かに打ち込むことで埋めようとしている。
あるいは、その何かを果たすことで愛や承認を手に入れようとしている。
なんなら母や父にこっちを向いてほしい、それだけのようにも思えます。
木村ルドルフの「沈む世界を僕が救わなければ」という皇太子らしい使命感の裏には、「沈む世界を救ったら褒めてもらえるかな?」という息子としての期待が見え隠れしてる。



そしてまた厄介なのがその彼の選んだ手段が悉く父の政治と相容れないという点で、
もしルドルフがフランツと同じような思想のもとに突き進んだのであれば(父子関係的には)そこまで問題なかったのですよね。
でも彼はそうはできなかった。
彼はシシィの価値観に基づく教育を受けてしまったから。



のちのちのシーンで『夜のボート』を聴いていて、このシシィとフランツのすれ違い、溝がそのままルドルフの中に内在化されてしまっていたのだ、と思いました。
精神の在り処の遠さ、価値観の乖離、フランツ(ゾフィー)の教育とシシィの教育の溝。
フランツの器にシシィの型をはめてできてしまった空洞が、誰からも充たされることなく(自分で充たすこともできず)、そのままぽっかり残ってしまった。
それが木村ルドルフの空洞の正体。かもしれない。



『父と息子』〜『憎しみ(HASS)』

ルドルフがフランツに訊かれてドイツ民族主義者の名前を教えるところがあるんですけど、そこがよく聞こえなくて。
このあたりは(中身が伴っているかはどうあれ)ルドルフがフランツよりも見通せているものが確かにあったのだ、ということを示すシーンでもあると思うのでもうすこし強く出てもいいんじゃないかなあと思うなどしました。
木村ルドルフは人の意見に振り回されっぱなしだけど、登場人物の中では誰よりも人の話を聴いているし、周りを見ようとしているし、建設的な話し合いを求めているような気がするんですよね、、、
親身になってくれるのがトートだけじゃなかったら、新たな時代の良き皇帝になれたかもしれないという雰囲気はある。



『闇が広がる』とトートの話(脱線)

もうほんと闇が広がるでのトートの言葉、ルドルフにとっていちいちキラーフレーズすぎて!!
ルドルフの空洞埋める埋める。
呼んだら来てくれるし、そばにいてくれるし、やりたいこと理解してくれるし、応援してくれるし。
ルドルフの欲しそうなもの全部くれる!!すごい!!
しかも遠目に見ると古川さんのトートと木村ルドルフが結構似ているので、「ここに鏡があるな」と思いました。だからわかるんだろうなと。
この2人の組み合わせはトートの「ルドルフを利用している」感が薄いし、ルドルフの「トートを訝しんでいる」感も薄い。




しかも少年ルドルフのシーンで古川トートがあまりにも幼き日の自分を見るような目で少年を見るので、古川トートもまた自分が母親に愛されなかったと感じているのではないかと思ってしまいました。シシィを好きになったのは、母親に似ていたから。ルドルフに(マクシミリアンとかにはしてなさそうな)思わせぶりなちょっかいを出すのは、自分と似ているから。ルドルフの死後シシィの懇願を退けたのは、シシィ(=母親)に愛されなければ意味がないから。古川トートの恋はある種の復讐でもあって、最後にシシィを手に入れた瞬間ふっと表情が消えるのは、復讐を遂げてしまったことに気づいたから。
なんてことをばーっと思い起こさせるトートでした。
黄泉の国がどういうシステムかわからないけど、古川トート(10万歳くらい)の容姿はルドルフと同じくらいの歳で止まってそう。なんかあったんだろな。その時に。
そもそも黄泉の帝王に母親という存在がいるのかわからないけど。



闇が広がるの話に戻って。
木村ルドルフは最初トートのことを忘れていて、拳銃を見て(だったかな?)思い出す感じなんですけど、
「友達を忘れはしない」という言葉が「ずっと覚えていて意識上にあった」なのか「記憶の底に眠っていたけど思い出せる状態だった」なのかでルドルフの孤独感も変わってくるんだなーと思いました。木村ルドルフは後者。思い出すまでひとりぼっち。
あとは正直言うとドキドキしすぎてあまり記憶がない。次回よく見る。
歌のことはよくわからないけど声が出にくそうな箇所があったのでとにかく応援したい。




ハンガリー独立運動

最後の「ハプスブルク!」の表情がとても印象的でした。
少しだけ恥じ入るような感じがあったんですよね。一瞬自分を情けないと思ったような、羞恥心が顔を出したような。
ここは本当にいろんな感情パターンが考えられる台詞だと思うんですけど、
そんな顔するー!?!?と思って。
多分ここが一番、彼にとって王座は目的ではなくて手段なんだなと感じさせられたところかもしれません。
本当に家や国の行く末を第一に案じての行動だったなら、もっと違う表情になりそう。


『僕はママの鏡だから』

木村ルドルフは、魂の解放を求めるような愛希さんのシシィには全然似てないな、と思います。むしろ真逆で魂の拠り所を求めているみたい。
なので、シシィの「わからないわ」は本当にそうだろうなあという感じです。
この歌、今までは魂の共鳴を求める歌だと思ってたけど、
木村ルドルフの場合は「僕はママの望むような人間になれているはずだよ」という訴えに聞こえました。ママの望む教育をしっかり受けて、ママのような人間になれているよ、僕はママのことよくわかっているよと。先天的じゃなくて後天的な類似性の話をしている。
でもはたから見ればその主張はあまりに一方的で、「僕はママの鏡」というのもルドルフひとりの思い込み、もしくはそうありたいという願望でしかなくて、シシィは全然そんなこと思ってなくて、ルドルフの握る手もなんとも思っていなくて、政治の話も今のシシィには届かなくて、結局ルドルフの声は誰にも届かなくて、
なんかもうつらい……!!



シシィはこの時点でルドルフがどれだけ追い詰められていたかなんて全くわからなかったのですよね。
わからないだろうなあと思います。
シシィとルドルフは似ていない。
そういう意味では、フランツだってわかってなかったし似ていない。
というか、誰だってわからないのですよね。他者のことは。だからわかろうとする。
ルドルフはシシィとフランツのことをわかろうとしたけど、ふたりはルドルフのことをわかろうとしなかった。
それだけのこと。




「ママも僕を見捨てるんだね」
という台詞、他と少し違う高めの声色で、
同じような言い方をした「父上」という台詞と対になっているのだと気付かされました。
ママ以外にルドルフを見捨てたのは、父。
木村ルドルフは母と父の二人から見捨てられ(たと感じ)、まるで子供のような声、立ち姿で2つの台詞を発していて、
これって少年ルドルフでは? この言い方加藤憲史郎君の少年ルドルフでは?? と思ってしまいました。
木村ルドルフの中に少年ルドルフが生きている。


シシィは「あなたはもう大人」と言っていたけれど、
彼の中には子供の部分がそのまま残っていて、
その子供が両親から見捨てられ、目の前に拓かれたはずの道も断たれて震えている、
そこにトートがやってくる。



「そうかあ」
と思いました。(語彙力)




古川トート……木村ルドルフのこと全部お見通しだからな……すごい良い友達に見えちゃう……
「そんな家出て、うち(黄泉家)に来いよ」みたいな温かい気持ちが少しでもあったんじゃないかって……(ない)



『マイヤーリンク(死の舞踏)』

木村さんの動き、ダンスというよりも体操の床運動っぽく見えました。なんでだろう?
良いのか悪いのかわかりませんが、木村ルドルフの性格をあらわしているようで好きです。


このシーン、個人的には、木村ルドルフを抗わせるものはなんだろう、とも思ってしまって。
死への恐怖とか、罪の意識だけだったらつらいな……
青年ルドルフは、両親以外にも生きる希望はあるのだと知っていたのかなあ。知っていたらいいなあ……。
最期に虚空が広がったような顔をしたのがとても怖かったです。



『ミルク』

若いパパ感がすごい!!!!
絶対家に赤ちゃんがいる。
細身で足が長くてパンツの丈ちょっと短くても別に気にしないみたいなパパ感がとても良い。
帽子がよく似合っていて可愛い。


カーテンコール

後ろに下がる時少年ルドルフの憲史郎君の背中に手を当てているのが優しい。
そして2人並んで両手でバイバイしてるのが可愛い。
手を振りながら小首を傾げる感じがまた可愛い。


次回の感想に書きたいことメモ

・愛希さんシシィの強さ
・トートに一番多くを奪われているのは田代さんフランツな気がする話
・成河さんルキーニがすごい
・香寿さんゾフィーで泣いてしまう
・HASS




おしまい

唐突にマダム・ヴォルフのコレクションの話なんですが、美麗さんめちゃくちゃ綺麗でした。すごい。すごい。



これから木村さんのルドルフがどの方向に深まっていくのか、とても楽しみです。
もっとつらくなるのも覚悟しよう。


私は観劇前にいつも油断して、木村さんのことを感覚と勢いで演技をするやんちゃな人だと思ってしまうので、
実際に舞台に立っている姿を見て
えええこんな役作りを……!?とか
歌やダンスどれだけ努力したの……!?とか
ものすごく基本的なところから驚いてしまいます。
役者として当たり前すぎることなんですけど、その当たり前をちゃんとやって確かな成果を出しているということに毎回感動してしまう。
努力するのは当たり前のことだけど、
努力できるのは当たり前のことじゃないし、
努力が結実するのは全然当たり前のことじゃないので。
人はソフトウェアじゃないから、普通こんなに着実に刻んでバージョンアップはしていかないんだよな……。
きっともっともっと良くなるはず、と思えるのほんとにありがたいです。
私も頑張って来月まで乗り切ろう。

終わらせるということ ー ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を見た(2回目)

先日、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を観ました(2回目)。

前回の感想はこちら



【前回】
ロミオ:大野さん
ジュリエット:木下さん
ベンヴォーリオ:木村さん
マーキューシオ:黒羽さん
ティボルト:廣瀬さん


【今回】
ロミオ:古川さん
ジュリエット:葵さん
ベンヴォーリオ:木村さん
マーキューシオ:平間さん
ティボルト:渡辺さん


ということで、ベンヴォーリオ以外全員異なるキャストさんでした。
どちらも……!!
どちらもすごく良かった……!!
こんなにも変わるものかと。
観終わった後の印象が全然違う。
心底全キャストの全組み合わせを見たかったです。
三浦さんのベンヴォーリオ、私絶対好きだと思う。
そんな予感がひしひしとしている。




以下、感想です。
ネタバレありです。
W・トリプルキャストの役者さん同士を比較する記述が多々登場しますが、
どちらか一方の良し悪しを主張するものではありません。
「みんな違ってみんないい」ですね本当に。
作品への思い入れが深まる。



ロミオとジュリエット

とにもかくにも今回一番驚かされたのが古川さんのロミオです。
なんだか勝手に、闇を抱えたガラス細工のように繊細なロミオなんだろうな…!と思っていたのですが、全然違う!
雰囲気は陰っぽく涼やかなのですが、振る舞いは明るくおっとりまっすぐなロミオ。
たとえがあれですが勉強が得意で世間擦れしていない生徒会長みたいだと思いました。
むしろ大野さんのロミオの方が太陽のような優しさの中に闇を抱えているように見えた。


でも始まってすぐ、「これは…!!」と思わされまして。
目線のやり方なのか声の届け方なのかなんなのか、
『僕は怖い』の意味が全く異なって聴こえたんですよね。
大野ロミオは自分自身にひたひたと迫る死を恐れているように感じたのですが、
古川ロミオは、ただ他者の死を怖いと言っている。
自身の消失ではなく、親しい人の喪失を恐れているように聞こえたんです。
古川ロミオは、喪うことは怖いけれど、自分が死ぬことはそれほど恐れていないのだ、という印象を受けて、
結構衝撃でした。
そんなふうに弱さと強さが逆転するのかと。


その延長線上で何が起こるかというと、
ロミオが自分の死を恐れていないせいで、
死ぬことがロミオにとっての救いであるという印象が強くなるんですよね。
古川ロミオにとって一番怖いのは他者の喪失で、
それから逃れるためにジュリエットのあとを追った。
大野ロミオは自分の死を恐れていたけど、それでもジュリエットのあとを追った。



全然、印象が違う。



古川ロミオは利己的で、だからこそ叙情的でした。
「親しい人を喪うこと」への恐怖は、具体的で、観る側がそれを言葉で想像することができるから。
そして、彼がそれを「連鎖させた」という物語まで浮かび上がっていたから。





葵さんのジュリエット、可愛らしく、はねっかえりで微笑ましかったです。
本当に携帯持ってなさそう。


スマホとかSNSに疎いから逆にそれを過信してしまっているという感じで、
「メール読んでないの!?」っていう台詞も妙に説得力がありました。
スマホもメールも万能ではないと、知らない女の子。
メールというツールの不確実性を知ってたら、神父さんが「ロミオにメールしとくね」って言い出した時「メールじゃなくて電話にしてもらえませんか!?」って言っちゃいますよねーーー
「せめてLINEでお願いできませんか?」
「むしろ今お電話をお借りしてわたしからお伝えしてもいいですか?」
「むしろ使いをやってほしいのですが?」
みたいな。
だから神父さんはさーーー、もうちょっと気を配ってもいいですよねーーー
ロミオもさーーー、荷物とかも普通に他人に預けちゃうしさーーー。
スマホどころか財布とかクレカとか着替えとか家の鍵とか全部失ってそう。
最後に「過失」という言葉が思い浮かぶの、個人的には少し気になるかなあとは思いました。なんかジュリエットが違う意味で可哀想で。
そういう点では直接言いに行ったベンヴォーリオは本当に信頼できる。



あと葵さんは台詞を喋るみたいに歌いますね!
歌と台詞がかなりシームレスな印象ですごいなぁと思いました。
そして古川さんとの声の重なりが!
「相性が良い」というわけではない気がしたのですが、決して混じり合わない二人の声色がとても良かった。
一幕の終わり、なんだか泣けてしまいました。
2人の歌声がチェンバロとフルートみたいだなあと思って。
声を重ねても一つにはなれないのに、そのもどかしさが愛しい。




● ティボルト

渡辺さんのティボルトはつよい。
「う る さ いっ!」めっちゃいい……ときめいた……好き……


廣瀬さんのティボルトはもう「ティボルト」でいられない、つらい、無理、だからロミオを地獄送りにする、という感じでしたが、
渡辺さんのティボルトはまだ公私の分別がついているように見えました。
まだ公の仮面を被った「ティボルト」でいられてて、ちゃんと「本当の自分」との境目を認識できている。


で、だからこそ何が怖かったかって、
『今日こそその日』で
ジュリエットを奪われた→ロミオを地獄送りにする
キャピュレットの名誉を守る→ロミオを地獄送りにする
って、彼の中で公私の利害が完全一致してしまっていたところですね。
とにかくロミオを地獄送りにすればキャピュレットのティボルトとしても本当のティボルトとしても万々歳じゃね…?
みたいになってしまっていたところ。


ブレーキなし。迷いなし。
理性を保ったままの狂気。
むちゃくちゃ怖い。
渡辺さんのティボルトには強さ正しさゆえの危うさが表現されていると思いました。




● マーキューシオ

平間さんや大貫さん、アンサンブルの皆様を見ていると、やっぱり踊れるっていいなあ……と思います。
素直に単純にかっこいい。
「言葉に準じない動き」で雰囲気を作る、思いを滲ませる、時代を形作るって、神業じゃないですか……


そして平間さんのマーキューシオはとても自立しているなあと。
その方向がまっとうかは別として、
黒羽さんのマーキューシオのように、「繋ぎ止めておけば死なない」という感じがない。
どんなに止めても死ぬ時は死ぬだろうな、という印象でした。
そしてその影響で、ベンヴォーリオもマーキューシオを繋ぎ止めようとしているようには見えず、お互い自立した関係に。


マーキューシオ、ロミオがいきなり結婚してしまった上に翻意の説得にも応じないとわかって、「もう終わりだ」みたいなこと言って去っていくと思うんですけど。
その後の平間さんのマーキューシオは、ロミオがロミオ自身の名を(自分たちの「居場所」を象徴するモンタギューの名を)愚弄したように感じられることに対する怒りを、
ロミオ自身に向けられずにティボルトに転嫁しているという感じで。


このマーキューシオの戦いは彼とモンタギューの名誉回復のために必要なことであって、
それがわかるからベンヴォーリオもそれを否定しきれない。
止めてしまえばマーキューシオがマーキューシオでなくなってしまうというか。ちょっと尾崎豊さんっぽくなってますけど。マキュがマキュであるために戦っている。
マーキューシオにも、自由に生きる権利があるんですよね。ロミオが愛による解決を主張するのと同じように、マーキューシオは、マーキューシオのやり方でしか前を向けない。


ティボルトもマーキューシオも、本来はロミオに向けるはずの怒りをいったんお互いに向けていて、
2人とも本当はロミオに対して怒っている。(なんなら怒っている理由も割と似ている)
となればその当事者ロミオが間に割って入ってきた時、躊躇なくいけるほうが本懐を遂げてしまうのは当然で。
マーキューシオはロミオを刺せないよね……だからティボルトに刃物を向けてるんだもんね……


その「ロミオを刺せない」ことの根拠である愛情が、最期にロミオへとまっすぐ向けられるのも切ない。
結局ロミオのことは憎めないし、逆に心配するという……マーキューシオー!!!




● ベンヴォーリオ

一幕ではしゃいで古川ロミオに結構強めに突っ込まれていたのがかわいい。


古川ロミオと平間マーキューシオの間にいる木村ベンヴォーリオは、誰にも依存していないなあと。
そしてとても聡い。
これは木村さん自身の演技の変化というより、周りのキャストさんの違いによってそう見えるのだと思うのですが。


一番その差に感動したのが、ベンヴォーリオがロミオを庇うために言う「僕たちは犠牲者だ」のところ。
黒羽マーキューシオ・大野ロミオの時は、共感性感受性の高いベンヴォーリオが2人の代わりに「僕たちは(ロミオは、マーキューシオは)犠牲者だ」と必死に訴えているという印象でした。


今回は、悲しみに動転しつつ藁にもすがる思いで「僕たち(ヴェローナの子供たち)は犠牲者だ」という切り札を切った、という印象に変わって。
全部が全部本心ではない、
大人たちと刺し違えるためのとっさの機転。
憎しみの継承という言説、あなたたちなら身に覚えがあるでしょう、と。
彼は大人たちの使う「憎しみ」という言葉を覚えていた。


これが「全部が全部本心ではない」というところが重要で、
ティボルトは憎しみを大人たちに植えつけられたと本気で思っていたけど、
ベンヴォーリオやマーキューシオはそういうのそこまで興味なさそうだったんですよね。
自分たちは自分たちの意志で動いているんだって思ってた。
そこの感覚が、「違った、僕たちはやはり犠牲者だった」と完全に翻ったか、
「僕たちは犠牲者なんて弱きものではないけれど」と思い通している部分があるか、の差。
たぶん、マーキューシオの弱さに共鳴している(対、黒羽マキュ)ように見えるか、強さに共鳴している(対、平間マキュ)ように見えるかの違いによるものかなあと。



大公様に対してロミオを庇うように手を広げていたのが、子供っぽくて、兄を守る弟みたいでね……
ロミオにそうやって守られたことがあるんだろうな。




ところで当のベンヴォーリオはロミオがティボルトを刺すところを見ていないんですね!
マーキューシオを抱きしめて項垂れていて。
憔悴していたからというのもあるだろうけど、まさかロミオが復讐するとは思ってもみなかったんだろうなあと。
裏を返せば、ベンヴォーリオ自身に復讐という発想がなかったということにもなりそうですけれど。
彼は最初から最後まで憎しみにとらわれてはいない感じがしますね。



あと『どうやって伝えよう』、今回は冷静に聞けたんですけど、
最初のほうむちゃくちゃ優しいトーンで歌ってたんですね……めっちゃロミオのこと考えてるじゃん……「俺たちが」夢に見ていた世界じゃなくて「君が」夢に見ていた世界の話をしてるの、俺と君の方向性が若干ずれていたことを示唆しているしその上でむちゃくちゃロミオのこと尊重してるじゃん…………自分の痛みは後回しでロミオの痛みに思いをはせるベンヴォーリオつらい……
キャピュレット側はわりと自分のことを歌っている歌が多かったなあって、
相手のことばかり考えてるベンヴォーリオの歌を聴いてたら思いました。



でも、そんな優しいモンタギュー第1位(私の中で)のベンヴォーリオですけど、
狂気の沙汰のとこで思ったんですが
もし亡くなったのが他の仲間でも、ベンヴォーリオは喪が明けるまでちゃんと待ったんですかね?
これ、役者さんと演出によって全然違うと思うんですけど、
木村さんのベンヴォーリオだと、他ならぬマーキューシオだからこそそういう気持ちになったんじゃないのかな、と思えるんですよね。
みんな狂っていると言うけど、ベンヴォーリオだってマーキューシオを亡くすまではそっち側だったんじゃないか、という気がします。
ある意味しっぺ返しを受けているのかも。
彼も。




ヴェローナの大人たち

ロレンス神父がメールの件もそこそこに歌い出した時、
「ちょっと待って!!そこに正座して!!!」って言いたくなったのに、歌声を聴いていたらそんなことすぐ忘れてしまったので岸さんはすごい。
気が散っても本筋に呼び戻してくれる。


シルビアさんの乳母、一番感情移入してしまったかもしれません。
ジュリエットに幸せになって欲しかったんだよ〜〜本当に〜〜〜!!
心の底から大切なんだよ〜〜ジュリエットのことが〜!
ロミオなんかよりパリス伯爵の方がいいよ、って言うの、つらいし、でも半分は本当にそうである気もするし。
家族愛を押し付ける気はないけど、でも、ジュリエットなんで死んじゃったの……


パリス伯爵もっと見たかったです。
めっちゃいい人。
姜さんだからこその人の良さ、おとぼけ加減、チクチク感。
翌日結婚するつもりで来るかもと思うと心が痛いんだよな……


ヴェローナ大公、カズさんー!!!
ヴェローナで一番カッコいい。
大公様が階段を降りてくるのほんと好きで。
登場するだけで場が締まるのですよね。


モンタギュー夫妻とキャピュレット夫妻は、この悲劇の一番の加害者であり被害者なんですよね。
我が子の死を見るまで、ほとんど何もできなかった。
でもロミオってそこまで憎しみを植えつけられていなかった印象なんですけどどうだったんですかね…
モンタギュー夫妻についてはあまり多くは語られませんでしたが、登場するたびにつらくなりました。
ロミオはまっすぐ育っていたようなのになんでこんなことになってしまったんだろう。
ジュリエットパパの歌はどうしてもほだされてしまいます。
あんな風に歌われたら、パパのこと憎めなくなってしまう。



ヴェローナの子供たち

大人たちに罰がくだって、争いは終わったけれど。
親の世代が和解したからといって、子の世代で新たに生まれた確執は別になくならないじゃないですか。
ロミオとジュリエットの死よりもマーキューシオやティボルト、その他犠牲になった仲間(がいるかわからないけど)の死のほうがよほど悲しいという人たちがいるはずで、
彼らの傷は、ロミオとジュリエットの愛ゆえの死を知ったところでどうにもならないじゃないですか。
残った若者たちの中にその葛藤を抱えている人がいると思うんですけど、
そんな彼らと共にこれから歩んでいくのがベンヴォーリオの役目なのかなあと思いました。
彼も大切な人を敵方に奪われた当事者で、いま喪失の連鎖の末端にいる。
その彼が「許し合おう」と声を上げるのは、大人たちが言うのとは少し違う意味合いを持つ気がします。
争いを終わらせよう。
この喪失に耐えよう。
ここの木村さんの声が、思ったよりずっとよく通るのが私はとても好きです。


最後ロミオのおでこに自分のおでこを寄せるところ、お別れをしているようにも見えるし、「君が」夢に見ていた世界になるよって伝えているようにも見えました。
「俺が」夢に見ていたのはこんな世界じゃないけど、
「君が」夢に見ていた世界はきっとこんなんだろ、と。




そんな見方もあるかもねと水に流してください。





以上。

テクノロジーは悲劇に敵わず、役者は悲劇を塗り替える。ー ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を見た

先日、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を観ました。
面白かったー!!


話の筋は知っているし、物語そのものにそれほど思うところはないのに、なんでこんなに面白いのか。
このロミジュリは何回でも観られる、と思いました。
以下、感想です。ネタバレあり。
とても一方的な解釈の話です。
そんな見方もあるよねと水に流していただけたら幸いです。
公式サイトはこちら



● 推しがめっちゃいい

推しのお芝居がいい。輝いてる。楽しそう。最高。
私は木村達成さんのファンなのですが、舞台上でベンヴォーリオが動いているのを見て
「えー!やだ!あの人いい!誰!?
……え!?木村達成さん!?」
ってなりました。
推しじゃん!みたいな。


だって、こんなに歌えるなんて聞いてないし!!
一年前の『ラカージュ・オ・フォール』では「譜面を真摯かつ丁寧に追えている」という感じですごいよかったんですけど、
今年の木村達成さんは「譜面通りの歌はマスターしている」って感じで、少し余裕が!!生まれている!!
「何を歌うか」から「どう歌うか」に変わっている。


ダンスも一年前は若干どんくさい感じがあって、それが役に合ってて可愛かったんですけど、
今年の木村達成さんはダンスにこなれ感があって、
「あーっっ!!去年のあれ演技だったんだーっ!!」って一年越しに思い知らされました。
ステップしっかり踏むジャン・ミッシェルかわいいよジャン・ミッシェル。



お芝居もね……楽しそうで……
ベンヴォーリオという役を全力でまっとうしようとしている様が眩しくて、思わず目を細めました。


この日グッズ買う予定じゃなかったのに、終演後気分が昂ぶっちゃってものすごい勢いで物販行ってアクリルキーホルダーなど買いましたよね。
「あれっ今日手持ちあったっけ!?」って焦った。あってよかった。


木村さんのお芝居、ここからさらに上に行く感がましましだったので、次ほんと観るのが楽しみです。
もっと通えたらよかったー!!!!



ベンヴォーリオについてはまたあとで書きます。



ロミオとジュリエット

大野さんのロミオと木下さんのジュリエットの組み合わせ、光り輝くばかりで眩しすぎません…!?
ただでさえ推しが眩しいのに、このお二人がさらに眩しくて、気持ち的にはサングラスが必要。


大野さんのロミオは、なんかこう、うまく言えないんですけど、「外側がクッションでできているのかな…?」っていう素材感。
どんな衝撃でも吸収する緩衝材みたいで、柔らかくあたたかい。
対して木下さんのジュリエットは「外側に吸音材が施されているのかな…?」と。周囲の音を吸い込んでしまうような凛とした何かがあって。


だからこの二人が向かい合うと「ふわっ」「スッ」とすべてが静かになるんですよね。
めっちゃ喋ってるんですけど。
そこに二人の世界が出来上がっていて、一瞬で惹かれあってしまったことにも説得力がありました。


それに、二人が周りの言うことをあまり聞かない感じもとてもしっくりくるんです。
自身の性質に守られて、外からの働きかけが届かない。
特にロミオのクッション性は、ジュリエットにも仲間たちにも優しいけど実は本人を一番に外の世界から守って(≒阻んで)いるんですよね。
だから仲間に好かれるし、本人は愛を探している。
その彼にもっとも寄り添うことができたのは、内側から湧き上がる死、という。


大野さんのお芝居は初めて拝見したのですが、とにかく誠実な演技をされる方だなあと思いました。
最後の挨拶の時に「皆様の一生の思い出になるように……」というようなことをおっしゃっていて、
ああ、そんなにも高い志で挑まれているのだな、だからこんなに必死で、命を少しずつ燃やすような演技をするのだなと思いました。
「一生の」って、言葉としてかなり強いですよね。


木下さんの感極まったような挨拶にもうるっときてしまったのですが、
その時に感じたご本人の繊細な感じ、ジュリエットの時はまったく感じなかったなと思ってまた驚きでした。
木下さんのジュリエットは意外と一本気で勇気があるんですよね。
可憐なのだけれど、走るのとか速そうで。
「そうなりますように」?みたいなことをボソッというシーンとか最高でした。
思わずハッとさせられる、そんなお芝居が多くて。
彼女のジュリエットの歌は心地よくて永遠に聞いていられます。



● ティボルト

ティボルトかわいそう……。
ティボルトとロミオは二人とも跡取りだしジュリエットのことを好きになってはいけないのも同じなのに、なんでこんなことになってしまったんですかね??
と見ていて考え込んでしまうような、生真面目ティボルトでした。


ティボルトは名前を守るために戦い、己を抑え込み、苦しんでいて、それにひきかえロミオは……
ティボルトがあれだけ俺はティボルトだと言い聞かせて自身を律していたのに!
ロミオは名前なんかどうでもいいみたいなこと言っちゃってて!!ぱっと結婚しちゃうし!
ジュリエットを奪ったことに加えて、その名前なんて意に介さないみたいな感じが本当にはらわた煮え繰り返って仕方ないだろうなあと。
ティボルトはこれまでの人生のすべてを否定されたのですよね。ロミオに。
そして、人生のすべてを奪われるのですよね。ロミオに。


廣瀬さんのティボルトは、刺される直前にロミオに対してそれほど敵意をむき出しにしてはいないような感じがして、
それがまた悲しい。
私にはティボルトが少しだけロミオに赦されようとしたように見えてしまいました。
なぜ。なぜ。



● マーキューシオ

黒羽さんのマーキューシオ、未成年性がすごい。
自分も含めて何も守ろうとしていない。
守られようともしない。
そういう概念がない。
だから生き急いでしまう。
ただ何も奪われたくないから戦っている。
もーーだから木村さんのベンヴォーリオが思ったよりマーキューシオ寄りの立ち位置にいるの、すごいわかるんですよ……
肩掴んでないと死んじゃいそうなんですもん。
一緒にいれば安心、今日も生きてる、楽しいねと。
存在が刹那的。
大野さんのロミオもふわふわしてるけど、そのへんは大丈夫そうだから。


「天真爛漫キャラ」を演じるのと同じくらい、生きるための頼みの綱のひとつが切れてしまっている状態を演じるのは難しいと思うのですが、
黒羽さんは普通にやってる感じですごかったです。とても安定感があった。


最初の方は2人のちびっ子ギャング感が可愛いかった……全然ちびっ子ではないんだけど。



● ジュリエットのお母さん

春野さんのキャピュレット夫人、こわかった……!!
彼女の体現する「母親の思い」って、今この現代の日本では「呪いである」と評価が定まりつつある種類のものであって、
それを反映したお芝居になっていると思うのですが、
時代が違えば私も「あれが本当の優しさ」と認識したかもしれず。
そういう意味でも恐ろしく、悲しかった。
彼女もまたかつての子供であったからこそ。



● 死

大貫さん……
この作品の空気を決定している役ですね。
いるなあ、いるなあって常に気になるし、油断するとすぐ飲み込まれるし。
なんか、『旅の絵本』を眺める時の言い知れぬ不安に似ていた。
大貫さんの死は外からの訪問者ではなく、内にいる影という印象を受けました。
何を実体にしているかは、知らない。



● テクノロジーの発展はロミオとジュリエットの悲劇を完全喪失させ得るのか

っていう実験の側面があると理解したのですが。
結論はスマホをもってしてもロミジュリの物語には勝てないという。
人が関わる以上、悲劇は継続させることができる。
人が関わる以上、死はいかようにも忍び込むことができる。
そして人はミラーボールの下でも恋に落ちることができる。



ほんと『ロミオとジュリエット』という悲劇の強度すごすぎで、
世界設定はちゃめちゃなのに成立してるし
スマホはすごく浮いてるのに物語は瓦解してないし
背景にチェキ的なのが映し出されてもベンヴォーリオは歌うんですよね。
何が面白いのかわからないのにむちゃくちゃ面白い。
見せ方、潤色、演出、楽曲、何らかのきっかけで鷲掴みにされてしまえば整合性なんて気にならなくなるんだなと思いました。



● ベンヴォーリオ

木村さんのベンヴォーリオはすごく普通の人でした。
ふわふわしてるマーキューシオとロミオをつなぎとめて、ただ楽しくやってた子。


でも急に終わりが始まって、
自分は地に足がついている、という自負が苦しみに変わり、
全能感はまぼろしだったと知って、
自分だけが狂えないという事実に絶望する。
「マーキューシオの喪が明けるまで」という言葉が誰にも、ただの一人にも届かないあのシーンが本当に悲痛で。
王でもリーダーでも器用者でもないただの凡人。
ジュリエット服毒前のソロ、すごい良かったです。


「どうやって伝えよう」は大人になる過程を見せてくれているようで、
でもロミオが亡くなった後は風船の紐を手放してしまった子供みたいでした。
彼がみんなに生きていてほしいと思ってやったこと、全部裏目に出て、みんな飛んでっちゃった。
「争いはもういい」という感情がリアルで、あれは愛とか自由とか理性とかよりも「疲れ」だな、っていう。


観る前は、ベンヴォーリオには一歩引いた常識人というイメージがありましたが、
木村さんのベンヴォーリオはどちらかというとずっと火中の栗を拾いにいってる人で、他者への共感性が高く、境界が曖昧ですらあるように見えました。
「僕たちは犠牲者だ」って、「僕たち」に自分を入れないで言ってるみたいな。
まるで自分が引き裂かれたみたいに、仲間の死を心から悲しみ、いとおしむ、無力で心優しい青年でした。
彼はひとり取り残されて大人になってしまった。もうかえれない。行くしかない。


そういうベンヴォーリオもあるんだなあと。
このベンヴォーリオは私が思っていたよりもあわれで、悲しい。



……でもなんか、なんだかんだ、この人たぶん死なないな、という感じがあって、それがこの街に残された希望なのだなと。
悲劇は繰り返し演じられることで、その悲しみも、喜びも、何度でも新しく塗り替えられるのだなあと思いました。
当たり前のことだけれど。



キャストの組み合わせ総当たりで全部見たいです。



以上。