王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

ミュージカル『エリザベート』 ルドルフにまつわる音楽について書く

ミュージカル『エリザベート』のルドルフにまつわる楽曲について、好きなところがたくさんあるので感想を書きました。
(作詞:ミヒャエル・クンツェ、作曲:シルヴェスター・リーヴァイ、訳詞:小池修一郎



私はミュージカルも音楽も詳しくないので、語るための言葉と知識を持ち合わせておらず、途中でこれは何を書いているのだろうかと我に返ったりしましたが、とりあえず熱い思いの丈を最後まで綴りましたのでここに埋めます。



この文章は主に思い込みと妄想で構成されています。
すみません。



● ♪ ママ、何処なの?


長調なところが好き

この曲、歌詞の内容は寂しいのに曲調は明るい長調なんですよね。
シンプルなメロディと伴奏だけ聞いていると、まるで素朴な童謡のように感じます。
これがもう……!! 気丈に振る舞う彼の健気さと健全さ、彼をそうさせる皇太子としての自覚を感じさせて切ないったらありゃしないんですよね……!!!
そして、「それでもママを信じる気持ち」みたいのも見え隠れしてて、悲しげな短調だったら感じなかったであろう「ルドルフの抱く一縷の望み」が表現されていてつらい。さみしい……



・トートが優しい

トートのメロディめっちゃ優しい。下からそっと上がってくるところが優しい。言葉も優しい。


トートってシシィには嫌がられてるけど、ルドルフにはルドルフがかけてほしい言葉ばかり言ってくれるんですよね。
それがシシィにとっての死とルドルフにとっての死は違うんだなあと思うところの一つで、個人的には、ルドルフはトートに自分が生きるための言葉を言わせているように感じることが多いです。
シシィは死にたくないのに死に魅了されてしまっているけど、ルドルフは、生きるために、前に進むために、自分を鼓舞するために死を意識している。


「呼んでくれれば 来てあげる」って、「死のうと思えばいつでも死ねるから」と思うことで生きる気力を保ってるってことなんじゃないかなと……トート、その出現に関してはわりと受け身なほうですよね。シシィの時と違って。


ルドルフは「♪ 闇が広がる」の前、久しぶりに死への思いが頭をもたげたんじゃないかと思うんですけど、そこでトートが煽ってまた生きるほうへ向かわせたのがすごいなあと。
トートがルドルフを籠絡するという、トート側の物語と利害が一致するのも興味深いです。



● ♪ 父と息子


・繰り返される親子の対立

前半は「♪ 皇帝の義務」の陳情部分のメロディ、後半は「♪ 皇后の務め」のメロディが使われています。この構成は「♪ 第四の諍い」に近い。これはフランツがゾフィーと決別するシーンで歌われるもので、その後「♪ ゾフィーの死」に繋がります。


フランツの母であるゾフィーが亡くなり、入れ替わるように登場する大人のルドルフ。息子である彼ともまた、「親子でありながら対立」してしまっているフランツの姿が、同じメロディラインが使われることで強調されているように思います。
フランツだってそんなこと望んではいないだろうに。


それにしても、「♪ 皇后の務め」があまりに強烈すぎて、しかもその後の意見がぶつかるシーンで何度も同じメロディが使われていたおかげで、「ずちゃちゃずちゃちゃずちゃちゃ」が始まった時の「火蓋切られたー!!」感が半端ない。
初見でもリプライズによって音楽が定着していくのすごい。



● ♪ 憎しみ(HASS)


・消えたメロディ

メロディとハーモニーが消え、リズムと言葉のアクセントが残った音楽。
リズムや全体の構成は「♪ ミルク」がベースになっていると思われます。


メロディやハモり、パート割りがなくなったことで情報の幅がぐっと狭まっており、ミルクの時に見受けられた個々人の多様な怒りがHASSでは画一化されているように感じられます。
ミクロがマクロになったというか。顔が見えにくくなったというか。
ニゾンで「単純なリズムのフレーズ」が執拗に繰り返され、さらに各フレーズの前半にタタッと走るようにアクセントが置かれていることが多いので、全体的に追い立てるような攻め立てるような印象になっています。
ミルクは偶発的な怒りの発露という感じでしたが、HASSはもう少し計画的なもの、近づいてくるシュプレヒコールのようです。どちらも誰か(主にルキーニ)に扇動されていることは変わりないのですが。


ルドルフとフランツが下に降りて向かい合っている時、民衆はなんとなくこの後出てくる旗のシンボルのような形で並んでいるように見えます。
そこがまた、本人達の意思とは関係なく知らず知らずのうちに操られ誘導されているようにも感じられて寒気がします。ハプスブルクの親子は奇しくもそのシンボルの中心にいる。



・歌詞がこちらに飛び出してくる

この短い曲の中に、登場する演説者の掲げた汎ゲルマン主義、反ハプスブルグ君主制、親プロイセン反ユダヤ主義などが詰め込まれていると思うのですが、個人的に特にすごいと思うのが「20世紀」という言葉が出てくる点。
これがあるだけで、観客の私がドキッとしてしまうんですよね……「ハプスブルク+1800年代=昔」みたいな頭で見ている時に、急に「20世紀」というわりと身近な言葉が出てくると、「あれっ?」と思ってしまう。「これそんな最近の話だっけ?」みたいな。
それまでより19世紀末という時代がちょっとこちらに近づいたように感じてしまう。


さらに追い討ちをかけるように、いつの間にかかの独裁者を思わせる風貌に変わっているルキーニ、あの敬礼、そして上から姿を現すあの旗が、私の時代認識に揺さぶりをかけます。「えっこれいつの話だっけ?」と。


急に時系列がとんでくるのでいつも少し混乱してしまうのですが、ただ、この2つの演出にはルキーニが「100年間尋問され続けている」という設定がものすごく活きているなあと思います。ルキーニが1910年に自殺してから100年ということは、だいたい2010年。ほぼ今じゃん!
死後ルキーニの知り得る現代史が随時最新化されていくのかどうかわからないですけど、
ルキーニが見てきたのかもしれない「ルドルフたちにとっての未来」=「私たちにとっての遠くない過去(現代といってもいい) 」を彼が突き付けてくることで、観客の私は急に傍観者から当事者へと変えられてしまうのです。「他人事だと思って見ていただろう、違う、この話とおまえは地続きなんだぜ」と。
市民に蔓延った感情、それを煽ったドイツ民族主義者の原理、その後登場するウィーン市長、彼らに影響を受けた画家志望の青年、そしてそれから何が起きたか、それを知っている私たち。時間が急激に流れて、ルキーニの物語は一瞬だけ私たちの生きる時代をかすめていきます。
フォーカスはすぐにルドルフへと戻り、彼は旗を引き下ろしますが、民衆たちによってまたそれを突きつけられてしまう。


ここでちょっと疑問に思ってしまうのが、「ルドルフにはこの旗の意味がわかるの?」ということです。このシンボルを採用した人物は、ルドルフの亡くなったまさにその年に生まれるはずなのに。
個人的には私は、この作品のルドルフはこれから起こるかもしれない悲劇を少なからず予見していたのだ、と考えています。具体的にとはいかなくても、ハプスブルク帝国崩壊だけにとどまらない世界の不幸が起きる、という漠然とした不安・推測・妄想・恐怖(ここはルドルフを演じる役者さんによって違う気がします)が彼を襲っていたのだと。
憎しみの至る先を彼は独りで見つめていたのかもしれない、それを踏まえると、この後の歌もいくつもの意味が重なっているように聞こえてきます。



● ♪ 闇が広がる(リプライズ)


・人は何も見えない

エリザベートの長女が亡くなった時に歌われた「♪ 闇が広がる」のリプライズ。
オリジナルのほうはだいぶ具体的な内容の歌に聞こえるんですが、リプライズは暗喩表現が多用され、また「何も見えない」のが「皇帝」から「人」へと変わっているので、歌詞の抽象度がかなり高くなっているように思います。
ほんと、いかようにも解釈できる。
「皇帝は何も見えない」だと、前後の内容も合わせて「トートの存在自体見えてない」とか「トートがシシィに悪さ(悪さ?)してることも知らない」とか「(「♪ 不幸の始まり」で歌われているような)栄光の終焉も帝国の滅亡も知らない」とかなんとなく意味がしぼりこめそうな感じなんですけど、
「人は何も見えない」って、すごい、解釈の余地が広大。地平線が見えそう。


私はもともとはここを、
① みんなトートの存在自体見えてない、トートがルドルフに近づいていることもルドルフが闇を抱えていることも誰も知らない
② 帝国滅亡の危機が迫っていることを誰も(特に皇帝)知らない、知ろうとしない
③ ルドルフ自身がトートのこともこれから先のこともよくわからない、混乱のさなか、暗中模索
などなどの意味合いで受け取っていました(①②はオリジナルと似てる)。
でもHASSのあとのルドルフを見ていたら、もうひとつの意味合いも浮かんできたんですよね。
「これから起こる悲劇を、人は誰も知り得ない」。
ルドルフの予見していたものについて、(人でないトート以外)誰とも共有し得なかったのだ(そしてそれは当たり前のことなのだ)、というような。
ただ、面白いことに、ルドルフの見ていたイメージをのちの時代に生きる私たちだけは具体的に共有することができるんですよね。あの旗とルキーニの姿から、理屈じゃなくて肌でびりびりと、悪寒のように。未来を知る私たちだけはルドルフに共感できる。


HASSの前、ルドルフは「よく見てください!」って言うんですけど、フランツはしばらくしたらどっかいっちゃう。ここが「人は何も見えない」に対応してもいると思ってて、
家のことも国のことも、その先の悲劇も、フランツとビジョンを共有することはできなくて、なんかもうルドルフの無力感大きすぎる。



・濁音の良さ

「闇“が”広“が”る」ってタイトルからしてそうなんですけど、この歌は濁音の響きがものすごく効いてると思うんですよね。濁音が特別多いわけじゃないんですけど、「我慢できない」とか「王座に座るんだ 王座」とか「皇帝ルドルフは立ち上がる」とか印象的なところにちゃんと濁音があって、これが発音されることでトートとルドルフの密着感や、閉鎖的で暗澹とした雰囲気を盛り立てている。
もし「やみかひろかる」だったら音がだいぶカラッとすっきりしてトートとルドルフの間に少し隙間があるような印象になるんじゃないかなあと思います。
「やみかひろかる」「やみがひろかる」「やみかひろがる」「やみがひろがる」。口に出して言ってみるとなんとなく最後のが一番距離が近くて重厚な感じがするんですけどそう感じるのは私だけかもしれないすみません。


あと、その濁音群のなかにあると逆に清音も映える気がして、特に「革命の歌に踊る」ってところが最高に推せるんですよね……
頭の「かく」という明瞭な響きが最高だし、「かく めい」という響きの硬さ(かく)と柔らかさ(めい)の対照性が最高だし、「歌に」の「う」で音が上がり弾けるような「た」が続くことで「うた」という言葉の美しい響きが彗星の如く現れる感じが最高。しかもそれら清音のきらめきが最後「踊る」という濁音の世界に収斂されてしまうのが最高の高。推せる〜〜〜!!



● ♪ 独立運動


・出だしのルドルフの高音が好き

出だしのルドルフの高音が好きです!!!



・エーヤンは鬼

「♪ ミルク」のメロディをベースに、「♪ 最後のダンス」ちょこっとと、「♪ エーヤン」。
もうここのエーヤンはほんと鬼で、このメロディが使われるだけでルドルフがかつてハンガリーを助けた母の姿に自分を重ねている感がめちゃくちゃ出ちゃうんですよね!!!! 本人にそのつもりがなくても、周りはきっとそう思っている、というニュアンスも含めて、つらい。



・見てきたものがここに集約される

あとエーヤンとミルクってどっかで見た並びだな……とか思って、いやルドルフのバイト先!! ルドルフ!! どっちもルドルフいるじゃん!!!!! という。
(ルドルフを演じる役者さんは一幕の「ハンガリー訪問(デブレツィン)」と「♪ ミルク」のシーンに市民として出演している)


デブレツィンでは「♪ エーヤン」を歌ってるわけじゃないですけど、BGMで流れてるし……
なんか、そうやって市民を演じているルドルフ役者さんを見ることで、ルドルフがもしハプスブルク家に生まれてなかったらどうだったかな、とか、逆にその市民の彼から見たルドルフ(ハプスブルク家)ってどうよ、とか考えさせてくれるなと思ってたんですけど、そうかその「市民の彼ら」もここに結実するわけなのですね……………エリザベートにエーヤンしていた彼……ミルクがないのは誰のせいだと怒っていた彼……国中に渦巻いているものが見えている彼……彼らの行き着く先はハンガリー独立、ドナウ連邦……そうか…………………


なんか、ミルクを求める青年と、独立運動に加担する皇太子という、本来ならば絶対に交わることのない二人の人物が、同じ役者とメロディによって交叉し重なり合うのすごい運命のいたずらって感じがします……演出の効果なんだけど……素晴らしいなあ。


ダンスのところの音楽も、エーヤンの伴奏からのミルクですね。ほんとエーヤンは鬼。



● ♪ 僕はママの鏡だから


長調なところが好き(2回目)

ルドルフ、歌のはじめは短調で憔悴して本心を吐露している感じだったのに、いざ本題というところで長調になっちゃうじゃないですか。
もーーーそこがルドルフーーーーー昔から変わってないーーーー!!! 「♪ ママ何処なの」から変わってないーーーー!!!!
皇太子としての自覚とママを信じる気持ちが彼をそう振る舞わせるのかなって思わせる長調ーーー!!!


感情のまま話してた時はまだ若干ママが話を聞いてくれるかもしれない空気があったのに、「打ち明けるよ」で少し気を持ち直してからはもう「政治の話ね」ですよ。ルドルフが皇太子らしさを見せた途端にシシィの心の扉が閉まってしまうんですよね……シシィにとっての牢獄、ハプスブルクの血……なんかシシィはルドルフの中にフランツを見てつらそうにするしフランツはルドルフの中にシシィを見てささくれだつし、誰かルドルフのことを見てあげて……


しかも、政治の話になるところ、伴奏の「♪ 私だけに」のメロディを追いかけるように似たようなメロディを歌う感じなんですよね。ママの歌をリプライズしそうなんだけどしないんですよ。もう一度言いたい、リプライズしそうなんだけどしないんですよ。「僕はママの鏡」と言いつつメロディはなぞらないんですよ……!!! ルドルフー!!!!
一方シシィは「♪ 私だけに」のメロディで返してくるんですよずるくないですか!??(ずるくはない)
絶対助けてくれない感じじゃないですか……
ルドルフ、もう短調のまま「ママ助けて父上が虐めるんだここは牢獄だ」と訴えれば良かったんじゃないかと思ってしまいます。ママは「♪ 皇后の務め」でそうしていたのでそっちのほうが通じた気がする。


(8/26追記:8/22に観劇して気づいたんですけど、「♪ 私だけに(三重唱)」のトートソロが「♪ 僕はママの鏡だから」のメロディと同じだったんですね……!!
うわー! ……うわー!! と思いました。
とても闇が深い……エリザベート、本当に見れば見るほど奥行きが出てくる)



・溝が現れる

結局、ルドルフの懇願は最後にほんの少しだけ「♪ 私だけに」のメロディをなぞって終わります。
それに対するママの返答は、あの通り。
最後の返事に使われているメロディは、その「♪ 皇后の務め」の終わりでシシィの訴えをやんわりと受け流したフランツの「♪ 君の味方だ」と同じです。
シシィがやられて傷ついたことを、今度はシシィがやってしまっている。
このメロディは「♪ 第四の諍い」でフランツがゾフィーと決別する時にも使われていて、しかも「♪ 最後のダンス」の出だしに微妙に似ている気もするので、なんだか死があらわれる前触れのメロディのようにも聞こえてしまいます。
ふたりの間にあった大きな溝がゆっくりと可視化されていくようなメロディ。
でも、もともとは「♪ 皇帝の義務」でフランツが「もし選べるのなら……」と本心を垣間見せたメロディであったことも忘れちゃいけないよなあと思います。あの時、あの母子の間にも溝があったんだ。



・「あなたが側にいれば」

これは2016年版のDVDを見ていて気づいたことなので、今年もそうなっているかはわからないのですが(8/26追記:2019年版でもそうでした)、
シシィの歌のあと、クラリネットオーボエが聞き覚えのあるメロディを静かに奏でていたのですよね。
フランツとシシィが2人で歌う曲の、「勇気を失い くじけた時でも」の部分のメロディです。たぶん…………
これは「♪ 君の味方だ」にも「♪ 第四の諍い」にもなかったので、わざわざここに付け足されているものだと思うのですが、そこのメロディだけが流れて、その先に続くことなく中途半端に終わってしまいます。
なんらかの作品を鑑賞する時に、描かれたことと同じくらい「描かれなかったこと」が強いメッセージを持つことがよくありますが、これもそうなのかもしれないと思いました。
続けて紡がれることのなかったメロディがかつて伝えていたのは、歌の表題でもある「あなたが 側にいれば」という言葉。
ルドルフが小さい頃からずっと言いたくて、そして結局言えなかった言葉のようにも思えました。
代わりにルドルフが口にした「ママも僕を見捨てるんだね」というつぶやきの、「あなたは私を見殺しにするのね」というシシィの言葉との小さな差異が、このメロディによって浮き彫りになるようで。
彼のそばにいてくれたのは最初から最後までトートだけ。



長調なところが好き(3回目)

私は、今年ルドルフを演じている役者さんの一人である木村達成さんのファンなのですが、「♪ 闇が広がる」と同じくらい木村さんの歌うこの曲が存外に好きでして……
音域とか専門的なこともあるのでしょうけど、個人的にはこの曲の
長調だけど気持ち的には短調、だけど、長調だ」
みたいな調性が、木村さんがここぞという時に放つ
「光は闇に堕ちた、しかし光り続ける」
みたいな属性と響き合っていてとってもいいなあって思ってます!!!ファンなので!!! !



● ♪ マイヤーリンク(死の舞踏)

・エーヤンは鬼(2回目)

この曲、終盤「♪ エーヤン」の短調ワルツアレンジになるので、「またエーヤン……つらい……」って思うんですけど、「♪ 我ら息絶えし者ども」の「誰も知らない真実エリザベート」のところも同じメロディなんですよね。ほんと、それ、ルドルフもだね、って思います。ルドルフがなぜ死んだのかトート以外誰も知らないじゃないか。



・調子の狂う音楽

前半部分、主旋律と伴奏が微妙に食い違ってる感じなのと、主旋律自体が不自然な感じなのと、リズムパートが落ち着かない感じなので、全体的にちぐはぐ感があってなんだか調子の狂う、奇妙な雰囲気が出ています。
特にリズムパートのせわしなさが「わっ、わっ」ってなる。これが123,456の6拍子として、いわゆる「ずんちゃっちゃっ,ずんちゃっちゃっ」ではなくて、「ずんちゃっちゃっ,ずんちゃー」なのが一回ブレーキかけられるみたいでつんのめるし、3小節目にいきなり「ずんちゃっずんちゃっずんちゃっ」になるから2拍子になった!? と混乱するし。
とにかくパターン通りでないので「自分の思った通りにならない」、ルドルフが何か大きな意志に絡め取られてゆくのを感じます。



・表題の「(死の舞踏)」という文言

私は「死の舞踏」と聞くと「2006年オリンピックのスルツカヤ選手のSPすごかったよね!!!!」と思ってしまうのですが、そのショートプログラムに使用されたリストの曲『死の舞踏』の原題《Totentanz》、まさにトートって感じですね。そりゃそうなんですけど。


この文言が表題に入っているということは、人が死(死者)と踊る「死の舞踏」という芸術的モチーフを多少なりともこのシーンに見出してよいということだと思っていて、
となればここでルドルフと踊っているトートやトートダンサーは死の舞踏の絵でいうところの骸骨なのかなあと考えたりしました。


骸骨といえば、『死の舞踏』と名の付くサン=サーンス交響詩があって、この曲の中では踊る骸骨の骨がかちゃかちゃとこすれあう音を木琴で表現しているんですけど、
2016年版エリザベートのDVDを見返してたら「♪ マイヤーリンク(死の舞踏)」で木琴みたいな音が鳴ってたので「骸骨……!」ってなりました。今年も鳴ってるんですかね……!?


(8/26追記:8/22に見た限りでは、少なくとも1巡目のたーららららーのところでは木琴は鳴っていない。2巡目は微妙にそれらしき音が聞こえるような気もしたけれど、鳴っていたとしてもそんなに全面に出ているわけではないようです。)


どんどん話がそれるんですけど、
その死ぬ時に踊る「死の舞踏」、これがあるからっていうのもあってトートが「最後のダンスは俺のもの」って自信持って言ってるんだと思ってて、
その最後のダンスはまさにこのワルツ(「♪ マイヤーリンク(死の舞踏)」= 結婚式後の舞踏会の「♪ 死の時のワルツ」)で踊るんだと思ってるんですけど、
それ考えると、シシィが「私は好きな音楽で踊る」って言ってるの、すごい、強い。トートが「シシィとワルツで踊ろう ♪ 」って思ってるのに、シシィがそれを「踊る時は全てこの私が選ぶ」と一刀両断してるんですよね!?
「♪ 私が踊る時」には当時のシシィが生きる上での信念が表明されていると思ってたんですけど、それがそのまま死に対する信念にもなっているというのが面白いと思いました。
どう生きたいかと、どう死にたいかは、無関係ではないのだと。
それにしても、トート、フランツとも踊ったんですかね。トートがフランツとワルツを踊りたくなかったからフランツは長生きしたのかな。



短調のワルツなところが好き
短調のワルツなところが好きです!!!!
この曲もそうなんですが、短調ワルツってその悲しげな印象とぐるぐる回るイメージから「数奇な運命」感が漂うものが多くて好きなんですよね……
また全然関係ないんですけど、映画『アナスタシア』に『Once Upon a December』という短調ワルツの曲があって、アナスタシアがそれを歌いながら亡霊たちと踊るシーンがほんとめちゃくちゃ美しいので見てください……BW版のそのシーンも宣伝でちょっと見たんですけど絶対素敵っぽいです……日本版楽しみです。



で、このシーンの音楽がワルツであることには、前述の「トートの死の舞踏がワルツだから」以外にも色んな意味を見出せる気がしていて。
ワルツって男女で回り踊るというイメージがあるので、最期にルドルフと一緒にいた女性の存在を示唆しているんじゃないかとか。
皇太子がワルツで死の舞踏を踊ることで、その最後をワルツとともに歩んだハプスブルク帝国の崩壊の始まりを象徴しているんじゃないかとか。
この作品の他のワルツ曲(「♪ 結婚の失敗」「♪ マダム・ヴォルフのコレクション」)とともに並べた時に見えてくる、どこか皮肉っぽい視線とか。特に後者のマデレーネさんのとこでマイヤーリンクと同じメロディが使われているというのが見過ごせない。引き立てられたのは妖しげな雰囲気だけだろうか?


何より、ワルツのこのリズム感ですよね。
もしこの曲を2拍子とかにしても、主旋律の不自然さが強いので奇妙な印象はそのまま残ると思うんです。なんですけど、2拍子や4拍子だと、直線的なイメージ、死へと一直線に向かっている感じが強くなるんじゃないかという気がします。踊らされている、逃げられない、抗えない、否が応でも死に近づいていくというような。
それを考えた時に私がこのワルツのリズムに感じるのは、トートがルドルフに対して残した死への猶予、選択の自由です。
ルドルフは死に追い詰められ翻弄されているけれど、トートは逃げ道を完全に塞いでいたわけではない。
トートに「選ばされた」のではなく、「ルドルフは最終的に自ら死を選んだのだ」という印象が、このワルツのリズムによって作り上げられているのではないか、と、ちょっと思ったりしました。



● ♪ 死の嘆き

・シシィによるリプライズ

少年ルドルフの「♪ ママ、何処なの?」とほぼ同じメロディ、伴奏。
シシィがリプライズしたことで、やっとルドルフの方を見てくれた、応えてくれたという感じがします。
そしてこの素朴な曲は、大人が歌うと子守唄みたいになるのだなあと。
ひょっとしたらシシィが初めてルドルフに歌った子守唄なのかもしれない。
子供のルドルフはもういないし、大人のルドルフだっていないのに。
シシィが自分のために歌った子守唄。
遅かった。本当に。



● ♪ 我ら息絶えし者ども


・ルドルフが2人いる

最初なんとも思わず見てたんですけど、冒頭の証人たちのシーン、ルドルフが2人いますよね。
少年時代と青年時代で役者さんが違うから、というメタ的な理由は抜きにして、そのことにあんまり違和感がないのが不思議で。
でも、「♪ 死の嘆き」でシシィがなんとなく小さな子供に向けて歌っているように感じるのを体験すると、なんというか、それまで歌われなかったことの重大さに気づくというか、孤独な子供の姿が浮かび上がってくるというか、その孤独な子供をルドルフは大人になってもずっと抱えていたのだなと感じるというか……だから2人いても違和感がないのかな。


ただ、2人いても違和感ないけど、そもそもなぜ2人いるのかと考えると、ルキーニが「子供が巻き込まれた」ということを訴えるために子供の歌声が必要だったのではないのか、と思うんです。たぶん青年の歌声だけでは観客はそのことに気づかない。
自らの演出によってそのように印象を操作しているルキーニは、もうこの時点で信頼できない語り手であることが明らかだったのだなあと思います。
ルキーニが、エリザベートの罪深さを印象付けたかったのか、子供が巻き込まれるなんてあってはならないことだと言いたかったのかはわからないけれど。






以上です!!
ありがとうございました!!