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役割を演じることに関する個人的な思い出と考察 舞台『血の婚礼』感想(10/2)

舞台『血の婚礼』東京千秋楽公演(10/2マチネ)を観ました。


前回(9/22)観劇した時は最後の暗転で思わず天を仰ぎましたが、今回はもはや上を向く余裕もなく、項垂れてしまいました。
素晴らしかった。


舞台上の情動が胸に突き刺さる、鮮烈な公演でした。


そして、一回、二回と観る度にメッセージを異にしたこの作品は、結局三度私の中で印象を翻しました。
あくまで私にとっては、ですが、興味深い発見が3つ。


それらはすべて、「役割を演じる」ということについてでした。






 
東京公演を全部で3回観ましたが、毎回異なる印象、発見があって楽しかったです。
「わからない」「共感できない」、それらが作品を鑑賞する上で必ずしも決定的な没交渉の原因とはならないのだと、この作品が教えてくれました。



以下、ネタバレありのとても個人的な感想です。
まとまりのない文章ですみません。




目次


 

1. 冒頭シーンと私の超個人的な思い出の類似性について

(2,3との話のつながりはそれほどないので、飛ばしていただいて大丈夫です)
初っ端から個人的すぎる話で申し訳ありませんが、作品冒頭の花婿とその母の会話、なんだか家族が認知症初期の人と話している会話みたいだなあ…と思って見ていました。花婿の母が認知症に絡めて描かれているとはまったく思いませんが、
・母が花婿を花婿として見ていないように感じられるところ
・話の微妙な噛み合わなさ
・昔の強烈な思い出を何度も話すこと
・「自分の家」に固執すること
・村の女など、家の外の人との会話では正気に戻るように見えること
などなど、なんとなーく似ていて、昔の私の感覚をリアルに呼び起こしてくれました。私には以前、認知症の祖母とこんな感じの会話を繰り返していた時期がありました。
そのおかげで、私は本来であれば関係ない何か別の思い入れを持ってこの冒頭のシーンに没入してしまいました。(繰り返しますが花婿の母が認知症であるとして演出されているように見えるという意味ではありません、ただ表面的に似ていると感じただけです)



認知症の初期症状というと記憶障害による物忘れが主のように思っていましたが、私が実際に祖母と過ごしていてインパクトの大きかったことのひとつは、見当識障害によって発生する「とにかくお互いの認識が合わない」という事象でした。
意識ははっきりしているのですが、今がいつで、ここがどこで、話している相手が誰なのか、ということに対する認識が私と祖母とで合わない。
たとえば私が「今は平成〇〇年で祖母は自宅にいて家族である私と話している」と認識している状況について、祖母自身は「今は昭和〇〇年で自分は友人の家にいて友人の子どもと話している」と認識していました。私の世界と祖母の世界にズレがある。この時、世界とは事実ではなく認識なのだと強く思いました。まるで過去から未来にタイムスリップしてきた人と話しているみたいでした。
その場に他の家族がいたとしたら多数決で私の認識が正しいとなりますけど、もし祖母と同じような認識の人々と私一人とで多数決をとれば私の認識のほうがおかしいとなるんですよね。「世界」って脆いと思いました。


こういった認知のずれがある状況について、「そうじゃないよ」といくら言ったところで祖母を混乱させてしまうか、納得したように見えて数分後にはまた同じ認識に戻ってしまっているだけなので、ほとんど意味はありませんでした。
なので、できる限り祖母の認識に合わせて会話をしていたのですが、この作品の花婿とその母のゆらゆらとした会話は、まさにその当時の状況にとてもよく似ていました。
自分を自分として見てくれない相手に対して、相手の世界に飛び込み、相手の望む役割を演じ、相手の脈絡のない話に合わせて会話をする、その難しさ。
つねに即興劇をやっているような感覚に近かったかもしれません。


花婿のいう、「で、俺は?」という言葉の……つらさ?でしょうか?私はつらかったわけではありません。でも、徐々に自分が自分でなくなっていくようで、よくわからない心地でした。
ある晩どうしても帰るといって家を出て行こうとするので、万策尽きて「私はおばあちゃんの孫だよ、ここはおばあちゃんのおうちなんだよ!」と声を荒げてしまったところ、「またまたあ」と祖母が本気で困っているのを隠すように笑って言ったのですが、あの時の強烈な罪悪感は彼女の表情と共に今でも良く覚えています。幸か不幸か、そんなやりとりがあったことは祖母自身は直ぐに忘れてしまったようでしたが……


あの時の感覚を、私は須賀健太さん演じる花婿の中にまざまざと見てしまっていました。そこに確かに私のリアルがあると思いました。
スペインとは別のところにある重複したリアリティ、とても不思議でした。作品を鑑賞するって、自分が舞台上の世界に引き込まれてしまうこともあれば、逆に自分が舞台上の世界を超個人的な世界に引き込んでしまうこともあるんだなと思いました。
私の目に見えた花婿は、母に対していくつもの「役」を演じて、結局自分自身のことをほとんど見てもらえなかった人、それでも母を愛そうとしていた人、でした。


認知症が進むと、祖母は、私のことを完全に他のとある誰かと認識するようになり(それまではたまに孫だと認識してくれる時間もあった)、彼女の中から「私」は完全に消え去ってしまいました。
仕方がないとわかっていても寂しかった。と、今になって、思えました。あの時は何も考えられなかった。振り返る時間をこの作品がくれました。
それがひとつめの私の超個人的な感想です。


実は、本題はここからで。
その経験からしばらく経って、認知症ケアに演劇的手法を取り入れることを提案する記事をどこかで読みました。


祖母も常にそうでしたが、家にいるのにどうしても「自分の家」(あるタイミングで住んでいた昔の家)に帰りたがる、というのは、かなりの認知症あるあるだそうです。
そのとき「ここが今のおうちなんですよ」と説き伏せようとするのではなく(ほぼ意味がないので)、「楽しいのでもう少しお話ししたいです」「今日はご家族はご用事で、お夕飯は作らなくていいそうですよ」と言う……のが私たちがやっていたことですが、その記事ではさらに一歩進んだ方法が紹介されていました。
昔のことで記憶が曖昧なのですが、いわく、「ではバス停まで送っていきましょう」と言って、バス停らしきもののところまで行って一緒に家の方へ向かうバスが来る(実際には来ない)のを待つのだそうです。これを読んだ時、私、めちゃくちゃ膝を打ちました。
「自分だけじゃなく、世界も、相手の認知に合わせて拡張するんだ」、と。
そんな方法、私には思いつかなかったので、ほんとめちゃくちゃ膝を打ちました。膝がボンゴになるかと思うくらい。
そうしてしばらくすると相手が落ち着くので、また一緒に家に帰る…と言うことだった気がしますが、うまくいくのかどうかは別として、私はこんなところに、あの日常の最果てみたいなところから、ポコッと非日常の演劇が生まれる、ということに本当に感動して。私たちは俳優ではないのに。ここは舞台上でもなんでもないのに。
演劇の可能性、面白いなって思ったのです。


そしてそしてのこの作品、杉原さん演出の『血の婚礼』。
会場アナウンス中に俳優が客席を歩いて出てくる、
照明器具の影が舞台装置に映る、
完全に暗転せずに大道具の転換がめっちゃ見える。
日常を非日常に変えようとする瞬間が見える。
これらが演出する、日常との地続き感。
これって、世界が脆いからできることです。


認知症ケアにおける演劇と同じベクトルを、私はここに見てしまったのです。このシアターコクーンに蜃気楼のように現れたアンダルシアは、いきなりできたものではなくて、役者が自分と世界を拡張し、観客がそれを受け取ることで作り出されているのだと、その経過を見せることで明言している。
あの非日常の最果てみたいなところから、私たちのいる日常と手を握ろうとしている。
相手の認識に合わせて架空の世界が作り出される、そんな認知症ケアがある日常へ、ごりごりに作り込まれ隔絶された架空の世界であるはずの非日常がわざわざ手を伸ばす。
突如として現れる日常との非日常の架け橋、ここには双方向性があるのです。


それって、なんの意味があるの?


いやそれが、わからないんです。
わからないけど、面白いと思ったんです。
世界の拡張まではできなかったけど、私のやっていた「役を演じる」という日常における「演劇」が、ここで「本物の演劇」と双方向性を持つことで、二つが対等であると錯覚させられ、ふと謎に「あれにも意味があったのだ」と感じさせられてしまった。
いや厳密に言うとたぶん意味なんてないんです、ないのですが、「自分のやっていたことは無意味じゃなかった」「それなりに、価値があった」と思えることって大事なんだと、この時思いました。
なんでそんな結論になるのか、うまく説明できないのがもどかしいです。でも、杉原さんの演出はたぶん意図していないところで、私たちの営みを肯定してくれた。須賀さんの今にも泣き出しそうな表情は、自分で否定しようとしているもう一つの私たちを打ち消そうとしてくれた。


今もあちこちで繰り返されているかもしれない役者でもなんでもない私たちの演劇が、どんどん肯定されていけばいい。
嘘をつく後ろめたさなど消えてしまえばいい。
演技は嘘だけど、それを真実にすることで得られる安心があるはずだから。




昔の記憶が曖昧すぎて検索したのですが、もしかしたらこのお方(菅原さん)だったのかなあという方の記事を見つけました。もしよろしければ。
ちょうどEXITVでお見かけしたばかりのりんたろー。さんとの対談だったので読み始めたのですが、お二方の経験に基づくお話がとても明確に心に響いてきました。
詳しく調べ切ることができなかったので、もし現場であまりよく思われていないケア方法であったら申し訳ありません。



2. 花婿の母が求められていた役割について

ここからは私なりに『血の婚礼』自体と向き合ってみた話をしたいと思います。
1回目に観たあと、私はこの作品に宮沢賢治っぽさのようなものを感じ、内容を読み解くひとつの手がかりとして賢治作品をいくつか読んでから2回目の観劇に臨みました。
しかし、3回目(今回)にあたっては、やはりロルカ本人やスペインのことをもっと知ってから観てみたいなという思いが強くなり、ちゃんと予習してみることにしました。


↓ お世話になったのはこちら! ↓
 
岩波ジュニア新書
池上 俊一『情熱でたどるスペイン史 』


読みやすい…
ジュニア向けのためやさしく書かれていて、最初の導入としては大変ありがたい本だと思いました。
一番のお目当てであった第6章の『詩人ロルカ』は演劇人よりも詩人としてのロルカについてさっくりと解説をしているのみであったのですが、その他の章に個人的に大きな大きな発見がありました。第3章『古典演劇の開花』です。
私はこの本で初めて、スペインにおける「名誉」なる言葉を知ったのです。


前回の感想でロルカが農村を回って演劇を上演していたことに触れましたが、このとき彼の主宰劇団<ラ・バラッカ>で主に上演していたのが、16世紀から17世紀にかけてスペインで開花した古典演劇の作品だったそうです(ロルカは19-20世紀の人物)。
その古典演劇人の中でも特にペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカがスペイン黄金世紀演劇の頂点と見做されているようなのですが、その彼の作品について、本書ではこのように書かれています。

カルデロン作品でも、「名誉」はもっとも高く称揚される価値でした。(中略)おなじく『名誉の医者』(一六三七年)では、無実の妻でさえ、名誉・世間体が失われそうなときには夫は裁き殺さねばならない、体面への汚点を血で洗い流すのだ、と言っています。名誉のためならなんのためらいや妥協もなく殺人を犯しても構わない。まるで名誉はあらゆる法を超えているかのようです。
 
(池上 俊一『情熱でたどるスペイン史』 岩波ジュニア新書、2021年、電子書籍版)


 
え……なんか…………私の知ってる「名誉」とちょっと違う……………穏やかじゃないねえ………スペインにおける「名誉」って一体なんなんだろう…………
と思ったり、思わなかったりしていた時、ふと自分が1回目の感想で(ラストシーン中に花婿の母が発した)「『息子のメンツは?』という言葉は分かりやすかったな……。」と書いていたことを思い出したのです。(上演台本によれば正しくは「倅の面子は?」でした)
あの時は本当に何気なく書いたのですが、もしかして、あれは……と思って岩波文庫版の同台詞を見てみると、なるほどこちらは「あの子の名誉は」となっていました。
この「名誉」と「スペインにおける『名誉』」が同じ単語であるかは原著をあたってみないとわかりませんが、勝手にそうだと仮定すると、この台詞は自分が考えていたより重要な台詞だったのではないか……?と思えてきたのです。


ほら、あの女、わざわざあたしのところまでやって来て、泣いている。なのに、あたしはあの目の玉をえぐり出そうともせずに、こんなにのんきに構えている。いったいどういうわけなんだろう。あたしは息子を愛しちゃいなかったのかしら? でも、それじゃあの子の名誉はどうなるんだろう? うちの息子の名誉はどうしてくれるのよ? (花嫁を殴打し、花嫁は床に倒れる)
 
(ガルシーア・ロルカ『三大悲劇集 血の婚礼』 牛島信明訳、岩波文庫、1992年、p.128)

 
とりあえず、この台詞からは、花婿がレオナルドと相討ちになったこの時点ですら、まだ「名誉」のための戦いが終わっていないことが推測できます。
花婿は自分の父と兄を奪った血筋であり花嫁までも奪ったレオナルドをこうして討ち取ったのに、それでもまだ名誉は挽回しきれていないのです。
そしてこの花婿の母の葛藤の内容から見るに、せめて母が花嫁の目の玉をえぐり出そうとでもすれば、花婿の名誉は守られるのかもしれません。先ほど引用した「名誉・世間体が失われそうなときには(中略)裁き殺さねばならない、体面への汚点を血で洗い流すのだ」という文章にも通じるところがある気がしました。


そこまでしなくちゃいけない「名誉」とは一体、どんなものなのでしょう。
「これです!」と書きたいところですが、どうやらその内容は長年研究や議論の対象となってきたもののようですので、結論は割愛します。さくっと一言でまとめるには私には難しすぎた。全然わからん。
ただ、その根本にカトリックへの改宗やレコンキスタに端を発する倫理観、歴史観があり、私には感覚だけではわからない部分が存在するということはわかりました。
一方で「無謀を承知で野獣のように突進し、敵になぶり殺しにされることを望むスペイン人」や「自陣の戦死者が多ければ多いほど名誉だと考えるスペイン人」の言動が「イタリア人やフランス人を大いに驚かせた」……という著者の書きぶりは、第二次世界大戦での日本の作戦を思い起こさせもします。スペインにおける名誉というものを、私の中にも馴染みがある日本的と言われる諸々の性質に置き換えてイメージすることは可能であると思いました。(しかし国民全員がその性質で動いているのだと無批判に考えてはいけないなと)
「倅の面子」という翻訳は、その私の感覚に無意識にアクセスして来たからこそ直感的に理解できたのだと思います。「息子の名誉」と耳に入って来たら、たぶんスルーしてしまった気がする。





なお、『情熱でたどるスペイン史』では、「名誉」についてこのようにも語っています。


「名誉」は生命と同等の価値があり、命をかけて守るべきものでした。そして社会が認めるその名誉をもっているかぎりで、どんな身分であれ、皆が平等だと感じるのです。
 
(池上 俊一『情熱でたどるスペイン史』 岩波ジュニア新書、2021年、電子書籍版)


 
「名誉」をちょっと胡散臭く感じてきた私ですが、他方、クニやムラで生きる上で「名誉」がいかに重要なものであるか、については想像に難くありません。なんだろね、嫌になっちゃうね。でもそれがあって初めて平等に生きられる人もおそらくいて、私みたいな人間もそうかもしれなくて、あーーーそうよこれ、前々回の感想で衣装のハーネスについても同じようなこと書いた気がする、あのハーネスは抑圧の象徴でもあり、といいつつ私たちはその抑圧に守られてもいるかもしれず、そしてその「抑圧」の正体のひとつはこの「名誉」かもしれないんだな………





なお本書ではタイトル通り、「情熱」ということばに絡めて「名誉」という概念について全編にわたって解説してくれています。ご興味のある方は是非…!


あと「名誉」に関わるスペインの歴史の流れという点では意外とこの世界遺産のページがわかりやすいと思いました……内容が正しいのかはわかりません




さて、ここで私の中において重要になって来たのが、「『血の婚礼』でも、古典演劇に倣ってスペインにおける『名誉』というものが肯定的に描かれていたのだろうか?」ということです。(いや、そもそも古典演劇が名誉を肯定的に描いていたのかどうかは読んでないので知らないのですが)


私の答えはNOで、だからこその「倅の面子は?」であり、「あの子の名誉は」だったんだなあと思ったのです。
もう一度同じ文を引用します。(文章構成下手くそか)

ほら、あの女、わざわざあたしのところまでやって来て、泣いている。なのに、あたしはあの目の玉をえぐり出そうともせずに、こんなにのんきに構えている。いったいどういうわけなんだろう。あたしは息子を愛しちゃいなかったのかしら? でも、それじゃあの子の名誉はどうなるんだろう? うちの息子の名誉はどうしてくれるのよ? (花嫁を殴打し、花嫁は床に倒れる)
 
(ガルシーア・ロルカ『三大悲劇集 血の婚礼』 牛島信明訳、岩波文庫、1992年、p.128)


 
花婿の母は、のうのうと生き残って家まで戻って来た花嫁に対し、「目の玉をえぐり出そうともしない」自分に動揺し、自分は花婿を愛してはいなかったのか?と自問自答する。そして、このままでは息子の「名誉」を回復することができないと自分に言い聞かせて、なんとか、花嫁に対して暴力を振るっているのです。
私にはここの葛藤が母の内面をそっくり反映しているようにも見えました。
花婿の母は、「『花婿の父』の代わり」を演じ続けて来たのではないか、と。
ここは本当の自分と、「『男の代わり』である自分」とが相克している場面なのではないか。
私は須賀健太さん演じる花婿に、母の望む「役」を演じる人の姿を見ましたが、実はその母もまた、誰か……村の人?社会?亡くした夫?もしかしたら花婿?……から求められて『男の代わり』を演じ続けていた。

だけど、おまえがたしかに男であって主人であり、支配するのはやっぱりおまえなんだってことを思い知らせるようにね。あたしはこのことを、おまえの父さんからおそわったの。だけど、もう父さんはいないから、こうして強い男の心がまえを説くのも、あたしの役目なのよ。
 
(同書、p.86)


 
こちらも岩波文庫版からの引用ですが、彼女は母親としてだけでなく『男である父親の代わり』として、花婿に「男とはなんたるか」を教えて来たのです。
(性差について教えたりすることはとても重要なことだと思います。ここで私がじとっとした目線を向けているのは、その「男」の「内容」、マチスモ、男性優位主義です)


そしてもうひとつ、それに関する意味が込められているのでは、と感じたのが、花婿が亡くなったにもかかわらずその母が「あたしは平然としていなくちゃいけない」と言って髪の毛を束ねるシーンです。母のおろした長い髪の毛は、ここで女の象徴として演出に使われていたのではと思いました。それを束ね、「哀れな女に見られたくない」と言う。ここで哀れな女から強い女、あるいは『男の代わり』に戻ろうとしている。


すごく面白いと思ったのは、花嫁もこのことを理解していると台詞でわかるようになっている点です。彼女は、「手」ではなく、「つるはし」か、「大きな鎌」か、「力まかせに骨まで砕いて」ほしい、と花婿の母に言うのです。
「手」はシーツの縁をかがったり子犬の刺繍をしたりする女性の象徴、「手」以外の道具はナイフを持ち歩いたり畑に行ったりする男の象徴ではないか…というのは、私が勝手に思ったことですが、それなら花嫁は「女のあなたではなく、『男の代わり』であるあなたにこそ殺してほしい」と言っているように聞こえるな、と……そして母親は「手」でも「道具」でも彼女を殺すことができない。


母親が花嫁に何度も言う、「お前が汚れてないからって、それであたしはどうなるっていうんだい?」という台詞。
今まで私は、「それはそう」「花嫁がどっちだろうともはや関係ねーわ」くらいに思ってたんですが、いや、今回はこれもすごい重要な台詞に聞こえて来ましたね………

お前が死んだからって、それであたしがどうなるっていうんだい? 何にもならない、何にも。
 
(『血の婚礼 上演台本』 田尻陽一訳、ホリプロ、2022年、電子書籍版)


『男の代わり』目線で見れば、花嫁がここで死ねば息子の名誉は回復できると思われるので、少なくとも「何にもならない、何にも」ではないはずです。むしろそれでこそ「名誉ある母親」でいられるのではないかとすら思えます。しかし、彼女はそうあることを放棄し、花嫁に生きて泣くことを許した。
つまり彼女はここで、少なくともこの時点では『男の代わり』でいることを放棄したのではないか、と私は思いました。
死んだって、「何にもならない、何にも」。
これは、「名誉」のために命のやり取りをすることの否定ではないでしょうか?


「名誉」を称揚するための作品なのであれば、ここで花婿の母が花嫁を殺して終わるのではないか。
その結末を迎えることを「何にもならない」と母に言わせることは、「名誉」に従って生きる生き方についてなんらかの疑問を呈しているように、私には思えました。


そして、「ずるい」のか、「巧み」なのか……忘れてはいけないのが、あまりにも父親の存在が希薄であるという点です。家父長制的なものはほぼすべて『男の代わり』としての女たちに背負わせて、「名誉」は子どもたちに背負わせる。一応花嫁の父という人物がいるにもかかわらず、ある意味かなりの蚊帳の外です。(花嫁の父役である吉見さんはすごい存在感でしたが)


「男」である作者ロルカがあえてそうしたのでしょうか?
それとも、「男」は外で働くしすぐに死んでしまったりするから、これが当時のリアルだったのでしょうか…?
わかりませんが。




3. レオナルドが果たした役割について

ここまで考えていて個人的に謎だったのが、「じゃあ結局、レオナルドや花婿はなんだったのよ………………」ということですね……あの決闘ですら、彼らの名誉は完結しないのですものね。それこそ、結局、二人とも亡くなってしまってすら、「何にもならない、何にも」だった。


それを考えようとするヒントは、『血の婚礼』岩波文庫版に収録されている二篇、『イェルマ』『ベルナルダ・アルバの家』の中にありました。
この二篇、個人的にはですが読んでいてとてもつらかった……私は向田邦子作品が好きでかつ苦手なのですが、この二篇はその向田作品の苦手なところに似ている何かを黒魔術に使いそうなトカゲとかそういうのと一緒に煮込んで煮凝りだけを取り出したみたいな感じでした。でも、今書かれたものであると言われても驚かないし、今書かれたものであったとしても名作と言われるのではないかと思いました。


つらかったけど得たものはたくさんありました。
一番は、三作とも似たような世界観(地と血に縛られた農村)で描かれていると思われるため、『血の婚礼』の世界観への理解も深まったような気がしたこと。
・三作品とも「名誉」という切り口で見ようと思えば見ることができる気がしました(もちろん他の視座からも可能)
・「親と同じことを子も繰り返す」みたいな信念はどの作品にもナチュラルに出て来た気がします。
・他の二つについても父親の存在が薄い。特に『ベルナルダ・アルバの家』には花婿の母と同じようにマチスモに囚われた男の代わりとしての女性がいます。
・他の作品を読んで、当時の女性はイエの名誉を守るために父親が認めた相手と結婚しなくてはいけなかったんだなあと思いました。『イェルマ』には「(主人は)父さんが選んでくれたから、一緒になったの」「あたしみたいに喜んで結婚した女なんかいないわ」というわかりやすい台詞も。裕福な家の花嫁があばら屋と牛二頭しかないレオナルドと結婚できる道などどこにもなかったんだな、花嫁が気まぐれで選んだ別れではなかったんだなと感じました。
・あくまで連想に過ぎないのですが、他の男性と逃げて戻ってきた花嫁が「名誉」を掲げるムラの人々によってどんな目に遭わされるのか、具体的に想像してしまうようなシーンが確か『ベルナルダ・アルバの家』のほうにあり、ものすごく気持ちが滅入りましたし、それなら私も花嫁みたいに言うかもな…………と思ってしまいました。暴走した名誉?正義?のために法の外でやろうとすること、怖いよ………。これはスペインだからどうこうとかじゃないです。多分どこも同じ。ちょっと言葉が具体的すぎたのでここには書きません。



なのでなんか花嫁のことについては、心から「仕方がなかった………………」と思いました。自分本位だなあと思ってたけど、もはやそういう話じゃないっていうか………でも、「じゃあ自分で名誉の死を遂げなよ」も違うのよ…………イエのために花婿と結婚しようって決意してたのにレオナルド来ちゃったんでしょ、そんで好きすぎてどうしようもなくなって手を引いて逃げちゃったんでしょ…………でも自分で死ぬのも怖いでしょ、でもきっと他の女が酷い目に遭うのも見てきたはずなので、自分もそれをやられると思ったらそりゃそれだって怖いでしょ……………そのループ、この子一人のせいにしたってなんの解決にもならないのよ………………これ女性や子どもの人権の話だよ……最初のスタート地点からおかしいのよ……………花婿の母も「この子のせいじゃない」って言うよそりゃ…………


で、あらためてこれは女たちの話だと思ったし、いやこのマチスモや名誉に疑問を投げかけてくる面を見ればめちゃくちゃ「男」の話のはずなのになぜ女たちの話になるんだろう?とも思うし、そこはもうちょっと考えてみないとまだわからないなと思いました。
ただ、このあえて男たち自身のマチスモが薄めに描かれているはずの作品で、特に「レオナルド」という役が放った光というのは当時の観客にとってものすごく大きかったのではないか、とはちょっと想像したりしました。
レオナルドは男の中の男みたいな感じだし自身の嫁に対してはご主人様ど真ん中みたいな態度ですけど(逆にいうと夫という役割をそれなりに演じようとはしている)、「花嫁と逃げる」「花嫁と一緒にいるために花婿と戦う」、少なくともこの場面においては彼はたぶんこの作品の中で一番「名誉」というイデオロギーから解放されている人物なのではないかと思えてきたのですよね……



名誉なんてどうでもいい、あの子と一緒にいたい。



と、そういうことなのかな……?と思ったら、つらくて眩しくて。
男がのらりくらりと描かれている悲劇三部作を通して読んだ後だと、レオナルドのこの真っ直ぐな思いと行動は強烈すぎて、見ていて泣けてすらきました。
仕方がない、仕方がなかった………彼はそれだけ全身で花嫁に囚われてしまったから。
そして、足に残ったハーネスが表している通り、花婿がどれだけ「名誉」に囚われていたかもまたレオナルドと対比することでよくわかるのです。
仕方がない、仕方がなかった………彼はずっとそうするように教わってきたから。
自分の欲望に正直でいることが今よりもさらに難しい時代だったんだろうなあとちょっと理解した上で見たレオナルドは、なんというか……“初めて自分で見つけた北極星 ……、みたいだったよね………(急な詩的表現)(全然上手くない)


この子のせいじゃない。あたしのせいでもない。(皮肉たっぷりに)じゃあ、一体、誰のせいなんだよ?
 
(『血の婚礼 上演台本』 田尻陽一訳、ホリプロ、2022年、電子書籍版)


 
花婿の母もまた、夫や親から「教わってきた」人です。その母も、父も、そのまた母も父も。
誰か一人のせいじゃない。
じゃあ、一体、誰のせいなんだよ?
私も考えなくてはいけないことだと思いました。
今も、この問いは私とまったく無関係、ではないと感じるので。



現代社会でも一定の価値観のもとで「役割」や「役」を演じなくてはいけない場面というのは多分とても多くて、私も今もそこから抜け出してはいないので、この作品で「役割を演じていた」花婿やその母と同じ闇をなぞり、「役割を放棄した」レオナルドに希望の光を見ました。
どちらにも、何かを救う磁力のようなものを感じました。彼らは一幕で眩しくて暗かったし、二幕では暗くて眩しかった。
その逆転の鮮やかさと言ったらない。
そして、他人の期待に応えることって本当に素晴らしいことだけど、それと同じくらい、自分の期待に自分自身が応えることも大事なんじゃないか、その姿が思わぬ方向で他人の胸を打つこともあるんじゃないかと、木村さんのレオナルドを見ていて思いました。血を吐くように心肝を吐露し、自身の中の真理を追究しさえするようなレオナルドの姿に、本当に圧倒されました。
木村さんはいつも、他人の期待も見据えつつ、自分自身の期待を無視することなく物事に挑んでいるのかな、だから突拍子もないと思えるような成長の姿を見られるのかもしれないな…!!と思いました。







最後に、木村さんとレオナルドについていくつか。
・さっき「仕方ない」って書いたけど、不倫を肯定しているわけではありません。それはそれこれはこれ
・木村さん、感情が先に立つ人だと思った
・一幕二幕一回ずつ声が裏返りぎみなところがあってすごく感情に臨場感があって良かった
・実は花婿が「山は安いですよ」と言ったのが、レオナルドが花嫁と逃げた一番のきっかけになったのでは?と思うくらい、この台詞聞いて悲しそうな感情を巻き起こしてた
・詩としてめちゃくちゃ好きなところ、「どっちだ?」「誰だ?」「どの手だ?」のやりとりのところ
・花嫁に触れる手から愛おしさが溢れてる
・フェロモンてお芝居で操作できるんですかね
・悲しみの表出としての笑顔というのがあるんだな
・花嫁に後ろから抱きつかれて全身を使って大きく顔を上げるところ、舞台映えする動きだし感情的にも不自然じゃなくていいなあと思った
・あまり感情を見せなかったカーテンコール、一瞬だけど感無量というように目を瞑った表情、とても素敵でした。




木村さんをはじめとした出演者の皆々様の渾身のお芝居、そしてスタッフの皆様のクリエイティブなお仕事ぶりが、この作品のことを「わからない」から「もっと知りたい」と思わせてくれました。
結論が出ない疑問もたくさんありましたが、珍しく自分の頭を使って考えたことは無駄にはならないかなと思います。
インプットには本やなんらかのデバイスがどうしても必要になってきますが、考えることって、道具が何もなくてもできるんですよね。
すっごい便利な娯楽じゃん!しかも無料だし!ウケる!と思いました。(ウケない)



いつも使わない箇所の筋肉をかなり使いました。
おかげで観劇後数日は毎回筋肉痛みたいになってしまって、頭も脚も(それはスローモーションを真似したから)久々に心地よい疲れを味わいました。
楽しい時間を、ありがとうございました。



以上