『虎に翼』を観ています。
第6週30話の寅子の演説、内容もお芝居も演出も本当に素晴らしかった。
私が一番好きなのは、最後の「男女、関係なく!!!」と啖呵を切るところ。伊藤沙莉さんの声に、心の叫びに、身体が打ち震えました。まるで私自身が共鳴するように。
私はこの言葉を聞くその瞬間まで、寅子は「弱き者=女性」を助けたいのだと思い込んでいました。でも寅子の中に、この物語の中に、そんな無意識の偏りはなかった。この物語はもっともっと広く手を広げている。過敏性腸症候群を彷彿とさせる症状に悩まされ続けた優三さんをはじめとして、たとえひとつふたつ強き属性を持っていたとしても、先天的にも後天的にも誰でも弱き状態になりうるというのが注意深く描かれていたと思います。逆に、同じ弱き属性を持っている者の中でも、他に持つ属性によってさらに弱くも、強くもなるというのは寅子と周りの人物を丹念に、時にあっけなく描くことで表現されていました。
寅子は、環境に恵まれていた。運も良かった。だから、スタートラインに立てた。それを誰よりも寅子はわかっていて、だからこそあんなに怒っていた。自分が怒っていることに気づくことができた。
「生い立ちや 信念や
格好で切り捨てられたりしない、
男か女かでふるいにかけられない社会になることを
私は心から願います。
いや、みんなでしませんか?
しましょうよ」
寅子の演説のこのくだりは、第一話で語り手の尾野真千子さんが読み上げた日本国憲法第十四条、
“すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。”
に結びついていると感じます。
第一話で新聞を読んで寅子が泣いていたのは、かつてより自身が成し遂げたいと思っていた社会の姿が、他ならぬ憲法によって高らかに宣言されていたからだと思いました。
寅子が怒りを感じていた一因である「法による差別」は、この時、ひとつの解消を迎えたのです。だから彼女は涙を流していたのではないでしょうか。
その「伏線回収」を見て、私はようやくこのドラマのオープニングテーマである米津玄師さんの『さよーならまたいつか!』の意味がわかったような気がしました。
このオープニング、私はずっと「変身バンクだな」と思いながら毎回毎回、早送りせずに観ていました。セーラームーンや、プリキュアが彼女たちに与えられた特別なパワーをもって戦闘服に変身するシーン。『虎に翼』のオープニングは、「寅子が法律という力を得て戦おうとする姿」を描いているのだと思っていました。
しかし、共亜事件の裁判が終わった後、寅子は桂場に「法律は盾や毛布のようなものだと考えていたけど、今は違う」「法律は使うものじゃなくて守らなければいけない水源のようなものだと感じる」と語りました。言われてみれば、オープニングで寅子の手からは、何かが湧き出ているような感じもします。水属性の力を司る人物の変身シーンと言われれば納得です。ただ「法律が水源」というイメージ、私はまだピンときていないので、その寅子(とおそらく桂場も近い思想を抱いているのであろうとわかる彼の寅子への反応がすごく良い…松山ケンイチさん本当にうまい)の感覚が、ドラマが進むにつれて私もわかるようになったらいいなあと思っています。
で、私には他にもピンときていないことがあって、それが『さよーならまたいつか!』ってタイトル、何???ってことだったのですが、今回、その答えのひとつがわかったような気がしたのです。
歌詞の中には、何度か「100年先」という言葉が出てきます。「それくらい遠い未来(寅子たちの時代の100年先が“もう少しで今”になることも織り込み済みで)のいつかにまた会いましょう」ということだと思っているのですが、
“会う”とは……?というのがイメージがわかなかったのです。
でも今回、この寅子の「怒りの演説」と『さよーならまたいつか!』という言葉で、ハッと思い出したものがありました。
それが、漫画『進撃の巨人』のハンジさんの台詞です。
進撃の巨人を読んでいない方には申し訳ありません。
この台詞は、「もうダメだ‥我々が失敗すれば今日世界が滅亡する…」というような感じの時に、世界を救おうとする一派のリーダー的な人(ハンジさん)が言った台詞です。
私は最初に漫画でこの台詞を読んだ時ものすごく違和感があったのです。「『今日はダメでも』って、今日がダメならもう全員一生ダメだが!?!」と。「今日がダメなら『いつの日か』なんて絶対来ないのに、なんでこんな悠長なこと言ってるんだろう?」と。
でも、日々現実を生きるうちに、この台詞への印象が大きく変わっていきました。
ということを、以前他の記事(『進撃の巨人 -the Musical-』配信感想とハンジさんのこと - 王様の耳はロバの耳)に書いたのでそのまま転載します。
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「でも…あきらめられないんだ 今日はダメでも… いつの日か…って」
(第132話「自由の翼」)
前述のフロックの最期に際し、彼の言うことは正しいと認めた上で、ハンジさんが続けた台詞です。
私は最初これを読んだ時、その時間感覚に違和感を抱きました。地鳴らしはもうすぐそこまで来てるんだから、「今日はダメでも」って今日ダメだったらもう全部ダメじゃない????「いつの日か」ってそんな悠長な感覚でいられるわけなくない???と。
しかし時間が経つにつれ……というか、進撃とは関係ない現実のあれこれを目撃するにつれ、そうか、ハンジさんは、ハンジさんのように理不尽と向き合い続けている人たちは、そんな思いで毎日歩みを止めずに行動を続けていたんだな……と思うようになりました。今この時だけの話じゃないんだと。
私の生きている現実世界では今も昔も、社会を変えようと行動をしている人たちがたくさんいて、それでもまだまだ意味わからん判決が出たり、意味わからん言論がまかり通っていたりもして、それが私が当事者である事柄であったりするとなおのこと「もーーーーーーーーーーーーーーーー」とまじで嫌になるんだけど、
そんな中でハンジさんのこの言葉はもう、「ほんとそれ」でしかない……
今日はダメでもいつの日か。それはつまり希望ですよね。行動し続けるための光。この道の先により良い未来があるという信念。それを見失えばもう何もできない。
そしてハンジさんは、対巨人の時は当事者だったけれど、地鳴らしに関してはどちらかと言えば黙っていれば守られるわけだから非当事者の立場なんですよね。そこから、しかし、声を上げた。「虐殺を肯定する理由があってたまるか」と。じゃあ止めることで危機に追い込まれるパラディの人々はどうなる?と考えれば、そこは「フロックが正しい」……
アルミンは「何かを変えることのできる人間がいるとすれば 大事なものを捨てることができる人だ」と言いました。これは進撃の巨人という作品を貫くひとつのテーマでもあったと思います。それに照らせば、ハンジさんは、何かを変えるために何も捨てられなかった人なのかな、と思います。
だから、ハンジさんは表面上は何も変えられなかったようにも見えたし、理想論に終始した自分の不甲斐なさを責めていた。
でも、ほんと子供みたいなこと言うけど、現実を生きていると、たかが学校や職場とかのルールとかですら何かを変えるのは本当に難しい…………自分が当事者のケースならあきらめた方が、非当事者のケースなら見て見ぬ振りした方が楽なのかもしれないと思うし、もし変わったとしてそのときのコストや誰かへの不利益ってどうなんだっけとか考えたらまたあーーーーってなるし………
だから、ハンジさんを見てると本当に現実を生きる人の悩みが描かれているような気がして、私はこんな立派な戦い方は全然できてないけど、でもできるところだけでもちゃんと襟を正して生きなきゃって思うんですよね…………
あともうひとつ私が好きなのは、「いつの日か」という言葉には自分がいない未来も含まれていて、自分は恩恵を受けられない可能性をも想定しているよね、と、思えるところです。王家の巨人継承問題で「解決不能の問題を未来の子供達に残していいのか」と葛藤する姿がちゃんと描かれていたから、(以下略)
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ここに書いてあることほぼそのまま寅子に思ってる、今、私。
「いつか」は希望、行動し続けるための光。
この道の先により良い未来があるという信念。
それを見失えばもう何もできない。
第一話の冒頭のシーンは、演説をした時の寅子にとっての「いつか」のひとつだったのかもしれません。
ああそうか、「さよーならまたいつか!」とは、
「この願いをきっと叶えてみせる」という信念を根底に置いた、その時私はそこに“在り”ましょう、たとえ私が生きていなくとも。という約束なのかもしれない、と思いました。
“そこに在る”というのは、そこに実在しなくとも、その実現に寄与した、貢献した、「戦った痕跡」を確かにそこに残す、ということかなと思います。
その変革は今じゃないかもしれない。
時期尚早かもしれない。
でも、「今」、私たちが步みを進めなければ、「その時」は絶対に来ない。
この一歩がきっと「いつか」につながる時が来る、だから歩みを止めるな。たとえ歩みを止める時があっても、その火だけは絶やすな。
「消え失せるなよ」、そう自分と同志たちを鼓舞する歌なのではないかと思いました。
そう考えた時、「さよーなら」「知らねえけれど」「知らなかっただろ」と時折言葉が荒くなることに、私はものすごいリアリティを感じたのです。
怒りをモチベーションに何かを変えようとする時って、気分が昂ると言葉が荒くなるんですよね。「知らねーーーーーよ!!!!」って言いたくなる時めっちゃある。それで「感情的にならずに」「もっと冷静に」「言い方に気をつけて」とか言われちゃう。相手の思うつぼ、トーンポリシングまっしぐらです。
その「知らねーーーーーよ!!!!」な怒りをおさえつつもちらちら見えてしまっているこの歌、当事者性がすごくて、米津玄師さんの感受性に脱帽です。「安全圏からの傍観エンパワメントソング」「高みの見物ソング」にならないこのバランス感覚、本当にすごい。
物語や歌に鼓舞される感じ、久々なので(そういうドラマが最近なかったということではなくて、私が最近ドラマも映画も小説も漫画もなーんにも触れてなかっただけです)、すごい、毎日ワクワクしながらドラマを追っています。
第一話は川を流れる笹舟から始まりました。
川は「水源」と関わりがあるのかもしれません。その流れに乗る笹舟は、寅子の歩みを示すものかもしれない。笹舟は第一話では川岸にひっかかったまま、先に進めなくなっています。戦争が終わり寅子がまた歩き始める時、日本の社会はどのように変わっていくのでしょうか。
そして、その先にある「今」、私たちの生きる令和時代は、彼女たちにとっての「いつか」になれているのでしょうか。私には、とてもそうは思えません。
その答えをこれからどう描いてくれているのか、この先の物語も本当に楽しみです。