王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

ミュージカル『エリザベート』感想メモ(7/18)

ミュージカル『エリザベート』の7/18マチネを観劇しました。


えっ、嘘でしょ、木村さんのルドルフ、6月に観た時と全然違うんだけど……!?!?!!?
というのが感想。


キャストの違いなのか、『ミュージカル』のインタビュー記事を読んだことによる先入観なのか、席の違いなのか、はたまた進化なのか、多分全部なんですけどとにかく印象が全然違いました。




ルドルフが空っぽじゃない。
それに尽きるんですけど、8月にまた比較したいので自分用に気になったところをメモ。
文章にまとめられなかったので本当にメモ書き。

6月の感想はこちら





● 父と息子、憎しみ(HASS)

台詞が聞き取りやすくなってた!
ルドルフが旗を引き下ろした後にうずくまるところで、己の無力さとハプスブルクの未来を嘆き悔しがっているのがよく伝わってきて、感情が『闇が広がる』へと綺麗に流れていく……!!と思った。



● 闇が広がる

前回より声が出ていた気がした。
1階だったからかもしれないけど1ヶ月で進化したのならすごいなあ。やっぱりボリュームが上がるとそれだけで表現の解像度も上がるなと思いました。一番出やすい声色のままではルドルフっぽくないのはよくわかるし、今作り込まれているルドルフの声色がとても好きなので、とにかく応援したい。



「僕は何もできない 縛られて」のところで両手で自分の首を絞める仕草。歌詞上の意味「世界が沈みゆくのに手出しすることが許されない状況である(己は無力である)」ということに加えて、そのことにルドルフが自身の死にも近いほどの苦しみを感じているということが言外に伝わる。



井上さんトートのスパルタぶりがすごい。
古川さんトートの闇広は飴だったけど、井上さんトートの闇広は鞭。
ぐずぐずしているルドルフに対して「この弱虫が!!!お前はあの猫を殺めたルドルフだろう、英雄になりたいんだろう!?」とでも言うかのような勢い。井上トートが少年ルドルフの告白にギョッとした表情をしていたのがここに繋がる。この俺をわずかでも驚かせた「皇帝」とやらの資質よ、目を覚ませ、がっかりさせるな、と。
この勢いで「見ていていいのか」と迫られて「ハイ」とは言えない。ルドルフにブンブン首を振らせることで形から自覚に追い込む。



「我慢できない」をトートに手を取られて立ち上がりながら歌うの、よく考えたら大変な振りだなと思った。



「王座」での覚醒の表現が好き。
顔つき、目つき、声、ガラッと変わる。ある意味漫画的表現。王道を王道で行くわかりやすさ、定番展開への期待感、「きた」と感じさせる高揚感、それを入れ込むタイミングをかぎわける嗅覚はこれまでの2.5次元作品の経験で培われたのかもしれないと思う。
個人的には「王座ー!!」の最後まで言い切ってくれたら最高。




ハンガリー独立運動

前回は気づかなかったけどトートの「今なら救えるハプスブルク」のところでルドルフが「うん……うん、うん」と何度か小さく頷いている。自身の中でも何か考えを巡らせている、そしてその思考がトートの言葉を聞いてる間にも幾分進んでいることがうかがえる。
こういった仕草や表情の積み重ねを私が拾えたためか、今回はルドルフが自ら考え判断し行動しているように見えた。前回の空っぽルドルフとは異なる、ある程度地に足のついたルドルフ。



手を組む者たちと握手する時に肩や腕をポンポンと叩いたりしている。あくまで上の立場からの歩み寄り、参画、激励なのだなと感じる。そして無自覚な気位の高さ。
ここもルドルフの自発性、積極性を感じるところ。



ハンガリー国王!」夢見るというより現実的な手段として「道筋が見えた」かのよう。テンションは抑えめで浮き足立ってない。
戴冠、覚悟を決めた顔。自分がこれを戴くことでハプスブルクの崩壊を防ぐのだという意志が見える。跪き頭を垂れる姿が様になっていて見目麗しい。



なんとなく前回より意識がトートから離れて、自ら周囲に働きかけているように見える。目の合わせ方とかかな? だいぶリーダーっぽい。
古川さんトートだと甘えるのかな。それはそれで可愛い。



あんまり気にしたことなかったけど、最後のとこルドルフは別に拘束されてるわけじゃないのに逃げないんだな。そこ人柄がうかがえる。



「ルドルフ……ハプスブルク
天を仰いで目をつむる。失敗した……、という声が聞こえてきそう。



「父上……」
前回と同じ弱々しい嘆き。でも前回は父を呼び止めるような言葉に聞こえたが、今回は自分の足元に落ちるような呟き。
失敗してごめん、うまくいけば父を救えたのに、という感じ。自分を責めているふうでもある。
木村ルドルフからは徹頭徹尾、父への敵意は感じられない。強く睨むこともないし声にも必死さや苛立ちはあっても怒気はない。ハプスブルクの名誉を守るという同じ目的のためにぶつかるしかなかった父子。自身の「政治」という言葉の定義に息子を寄せ付けなかった父。


● 僕はママの鏡だから

いい。あと100万回聴きたい。
前回は僕のこと助けてくださいな歌に聞こえたけど、今回は国や家のことも考えているように見えた。
多分今回のルドルフには社会性が感じられたんだと思う。前回は「ママ、パパ、僕、トート、以上」の世界に住んでそうだったけど、今回は他にも人がいる。「孤立無援」も「パパに見捨てられた」だけじゃなく他からの支援も難しいのだというニュアンスに聞こえる。
ママに手を引き抜かれて呆然としているルドルフの顔、差し伸べられていたはずの多くの手の、最後のひとつを失った感。




「ママも……僕を見捨てるんだね」
それまでと同じようなトーンでの「ママも……」からの、振り返ってうわずるような「僕を見捨てるんだね」。大橋くんの少年ルドルフみたいな言い方ー!!!!! 一気に退行した。この「……」で心がぽっきり折れたのがすごいわかった。
ここまでの「皇太子らしい青年ルドルフ」が彼の神経を張り詰めて作られた「振る舞い」であったことがここで初めて明らかになっていた。
ルドルフが唐突に弱さを見せてきて前後が繋がらないように見えるけど、自らの役割、責任、義務を全うしようとして常に気を張っていた人が、ある日突然些細なきっかけで心が折れてしまうことは、よくある、と、思う。
木村さんの死ななそうなルドルフ、亡くなったあと、「そんなふうに全然見えなかったのに」、と、言われたかもしれない。パパもママもそう思ったかもしれない。まさかあの息子が自死を選ぶなんて思わなかったからこそのあの態度だったのかもしれない。木村ルドルフがもっとあきらかに傷つきやすく繊細で内省的だったらどうだっただろう。
皇太子の仮面ががらがらと崩れ落ちて、あとに残ったのは役割を失った幼い青年。



● マイヤーリンク

独立運動もだけどダンスが上達している……! ダイナミックでとてもいい。下から見たからかも。迫力があった。特に舞台中央前方で足後ろに跳ぶやつ(?)が好き。



トートに差し出された拳銃のほうを見るのだけどやや焦点が合っていない。この時点でぞわぞわする。
キスの後、目を閉じたまま少しの間。死の残り香に陶酔するような表情。なんというか、木村さんがそんな耽美な表現をするとは思わなかった。そんな引き出しもあるのか。意外。すごい。好き。
撃つ瞬間、目が三日月に。笑った、かな? わからない、絶妙な一瞬。私には酔い痴れて恍惚としたまま引き金を引いたように見えた。
この時トートから渡されたのが拳銃だったから死んでしまっただけで、お酒だったらお酒だしくすりだったらくすりだし女性だったら女性だし健全な運動だったら健全な運動だったんだろうな。でも、全部やった上で酔えなかったから行き着いた先なのかも。
全然関係ないけどマンガ『進撃の巨人』の「みんな何かに酔っ払ってねぇとやってらんなかったんだな……」という台詞を思い出しました。ルドルフにとって、「ハプスブルク崩壊の危機」の次にようやく酔っ払えたのが死だったのかもしれない。



ところで、前述の『ミュージカル』のインタビュー記事、全編むちゃくちゃ好きなんですけど、特に印象深いところがあって。
井上さんトートとのキスシーンについての、
「僕から死を掴みに行ってキスしようとしたら、顎をガッと止められ、俺からやるんだと逆に迫られて」(『ミュージカル』 2019年7月・8月号)、というところ。後半の内容も大変興味深いですけど、その前の「死を掴みに行く」という表現が面白いなと。
「死」という一般的にネガティブな概念に対して、「掴む」という言葉のポジティブ度がすごい。ポジティブかつアクティブ。しかも「行く」までついてて圧倒的能動。なんだか全然穏やかじゃない。死に臨んでまで生命力がみなぎっている。
この若干粗野な表現が、木村さんのルドルフにおける、井上トートの「死」のイメージをよく表しているような気がしたんですよね。
死を安らぎとか、真の友人とか、帰るべき場所とか、何かもう少し静かな柔らかなイメージのものに捉えているのであれば、このような言葉選びにはならないんじゃないかなと。「掴む」って、対象をある程度つぶしてしまうことも厭わないようなニュアンスもあるから。そこに配慮する必要のないほどの強度のものと捉えているか、あるいは、自分がそこに配慮する余裕がないほどの状況(もがき掴むような)と捉えているか。
どちらにしても、そんな勢いでいくから井上トートにガッと止められるんだよって感じがします。前者でも後者でも、そんな礼を失した状態の青年に閣下が主導権を許すわけない。でもそこが井上トート的には可笑しくも愛しくもあるのではないかな、と思う。面白いです。
はたして木村さんは、古川さんトートの与える死に対しても「掴みに行く」って言うのかな? 多分言わないんじゃないかな? というのが目下気になるところ。もはや知り得ないけれども。



● 悪夢、我ら息絶えし者ども

このルドルフはママに執着しているのではなくて、ママやパパのせいでママやパパを救えなかったことに執着しているみたい。
本末転倒感。



ハンガリー訪問(デブレツィン)

はーーーーーーかわいい。
「よくわからないけど呼ばれたので来ました」感が衣裳とあいまってめっちゃ可愛い。
「今日はお祭りですか?」みたいな。
ふわふわしていて安心する。


● カテコ

少年ルドルフの大橋くん、小さくて健気で本当に守ってあげたくなる。大橋くんルドルフからの木村さんルドルフ、顔立ちや眉毛も似ていて成長した感がすごい……
後ろに下がる時に大橋くんの背中に手を回した木村さん、同じくフォローしようとした秋園さんの手に当たってしまったみたいで二人とも「あっ、あっ、すみません……」みたいになってたのが可愛かった。圧倒的平和。




木村さんルドルフについて、以上。
この間ハイステ映像を見て木村さんの影山役のハマりっぷりにまじ奇跡かよってなって、テニミュドリライ2014のバンダナとった海堂を見てむちゃくちゃイケメンがいるな!?!!!ってなったんですけど、この日ルドルフを見て今の木村さんが一番最高であることを知りました。ロミジュリでも同じこと思った。てかいつも思ってる。





他の登場人物の印象について。




● トート

井上さんトートの帝劇に轟き渡るような歌声が圧倒的。しかもそれが多くの場合シシィたった一人に向けられているにも関わらず、凛と立っていられる花總さんシシィの存在が信じられない。目の前でむちゃくちゃ雷が鳴ってるのに平然としている人を見ている気分。ルドルフに対しても全開だったら今の木村ルドルフでは吹き飛んでしまう。
2人はまるで好敵手。トートがムキになる気持ちがわかる。そしてどんなにシシィに対して強く迫っても失われない、井上トートの沼のような気品が尊い
花總さんシシィ、その美しさがまるで幻想のようで本当に言葉を失う。気高い。
幕切れの井上トートの表情。生きた彼女に愛されたいと望んでいたのに愛されれば則ち死というのはなんと残酷か、と思わずにはいられない。
エリザベートを喪ったのはトートもフランツも同じ。不条理な「北風と太陽」のようだと思った。北風も太陽もエリザベートをなびかせることができず、勝ったのは旅人であるエリザベートただひとり。




● フランツ

6月に観た田代さんフランツについて。
田代フランツはロイヤルで声にも立ち居振る舞いにも隙がなく、正統なハプスブルク家の血筋、まぎれもない皇帝という印象。生まれ持った資質により比較的(あくまで相対的な話)容易に皇帝という役割に順応した人物のように見える。
田代フランツは相手がシシィでなくても、義務を果たすこと、自由を諦めることを誰かに無意識に強要することがありそう。自身がそこに伴う苦痛が少ないから。ルドルフに対してもそう。
シシィとは互いに中央値から反対の方向へと離れているので、最初から最後まで、傑物同士、凡人にはわからない決定的なすれ違いを起こしているという印象。
その彼が、そんな彼が、義務の象徴ともいえそうな母に逆らい、また夜のボートでエリザベートをあんなにも強く求める、その姿がどうしようもなく意外で不器用で切なく苦しい。
彼がエリザベートの死後も長らく国を治め、国父と慕われるようになったのが頷けるフランツ像。エリザベートという大きな自由を失っても、なお、義務に生きることができる(もしくはそれしかできない)人。



一方、田代フランツが適応により皇帝になったのだとしたら、平方さんのフランツは矯正により皇帝になった人。
若かりし頃の平方フランツは口を開けて屈託無く笑う。およそ皇帝らしくないけれど、シシィが彼を好きになってしまったことに強烈な説得力がある。パパも似たような笑い方をしていた気がする。
そこからどんどん皇帝然とした人物になっていく、そのギャップから彼の諦めた自由を知ることができる。
平方フランツはどちらかといえば普通の人で、自由を捨て義務を果たすことにそれなりに大きな苦痛が伴っている、だからこそ、シシィにも同じようなつらい思いをさせてしまうけれども2人ならば、という希望に切実さを感じる。
そんな彼が横に並ぶと、花總さんシシィのエゴの強大さが際立って見える。
『夜のボート』の「わかって 無理よ 私には」、愛希シシィ・田代フランツの時は「あなたの愛には応えられない」、「皇后らしくは生きられない」、「あなたの望みを叶えることはできない」みたいな意味のように聞こえたけれど、花總シシィが平方フランツに言うそれは「私には 他人を 愛することができない」というシシィの痛切な真情の吐露のように思えた。彼女がそれを伝えたことこそ、フランツとの、(愛とは違うかもしれないけれど)深い繋がりの証では。その告白を受け止めるだけの愛の深さが平方フランツにはある気がする。



ふたりのフランツで一番大きく印象が変わったのが『悪夢』。平方フランツは完全に巻き込まれた感が本当に憐れで、可哀想。なんだよもういい加減にしてくれよと無茶苦茶感情移入してしまう。
田代フランツは、実はこの人にこそトートが憑いているんじゃないかと思わせる、何か因縁めいた、ハプスブルク家の血のにおいを感じさせる気がした。
田代フランツがトートに対峙し取り乱す姿は、トートによって全てを奪われ傷ついているのは実はシシィではなくフランツであると気づかせてくれる。そして、愛希シシィも田代フランツも年老いているのに古川トートだけ変わらず若い姿であることが、田代フランツの人間味を唐突に強調してくる。トートはフランツとハプスブルクをどうしたかったのか、結局その結末は描かれないまま物語は終わる。史実をもとにした話だからできることだなと。



● ルキーニ

酔っ払いっぱなしの山崎さんルキーニと、シラフの成河さんルキーニ。
山崎ルキーニは自分(≒トート)に心酔していて、他の人がいる方に目線をやっていても誰のことも見ていない。そう感じられる目の表現が素晴らしい。
そして、自身の外界認識が周囲のそれと所々ずれている(トートが実在するかどうかとか)ことに本人が気づいていない。
だからルキーニが盛り上がれば盛り上がるほど、私の中に得体の知れないこわさみたいなのが湧き上がっていきました。
ヤスリ、すなわち役割を与えられた時の彼の浮かれぶり。


逆に成河ルキーニは完全にシラフであれを喋ってて、彼は多分100年間毎日ソワレをこなしているんですよ。彼の裁判、地下の小さな空間に傍聴者が3人くらいしかいないところから始めて、評判が評判を呼んでどんどん箱が大きくなってついにインペリアルテアトルで開催されるまでになったんですよ。
とかそんな過程を思わせるような、劇場を知り尽くした成河さんの演技のスケールの正確さ、観客を翻弄する間合いと緩急。駆け引きのような芝居の圧の調整。すんごいなあ。演技って他にやることあるんだっけって思うくらい常にあらゆるパラメーターが操作されている気がする。我々は彼に扇動されている。
時折見え隠れする小男ルキーニの素顔が、彼が千両役者であることを証明するというか。成河ルキーニの動機は、売名、だと思う。
こうして見ると、『エリザベート』はrole、役、役割にとらわれた男たちの物語でもあるのだなあと。




ゾフィー

そう考えた時に、ゾフィー、彼女がなぜ「宮廷ただ一人の男」と呼ばれたのかがよくわかるなあと思ったりしました。
自分に与えられた役割のために、誰よりも多くを犠牲にして義務を果たそうとした人物。
香寿さんのゾフィーの死、まるで黒色の鱗がぱらぱらと剥がれ落ちていくようでした。たぶんそれは威厳。どれだけの嘘で自分を塗り固めたんだろう。
現代の価値観に生きる私はゾフィーのやり方には全然賛成できないけど、どうか黄泉の国では安らかにと、
自由の象徴のような翼を得た涼風さんゾフィーの最期の表情を見て思いました。
涼風ゾフィー、お年を召してからお茶目さがあったのが余計につらいんだ……。




シシィについては次もう一度見たら書きたい。
おしまい。