王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

ラカージュ2018東京千秋楽観劇雑記


先月末、もう一度ミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール 籠の中の道化たち』を観に行ってきました。



東京千秋楽ということで、どんなに名残惜しくても開演すれば待った無し、じりじりと迫る終演の気配を感じながら劇場中が今この時を楽しんでいて、感情って伝染するし充満するんだなあと思ったりしました。
当日は満月、しかも“ブルー”ムーンだったということで、終わったあとまで粋な演出でしたよね。






以下、雑々々記です。
大きなネタバレと、キャストさんにはあまり関係のない私情ばかりですご容赦ください。
思い出しているうちに記憶があやふやになってしまったので、私の中のラカージュはもはや別物になっているかもしれません。
語ってる内容ぜんぶ記憶違いの可能性あるけど、ただひとつ、楽しかったことだけは間違いない。そこだけは自信があります。
あとはぜんぶ嘘か本当。



東京前半の感想はこちら






● ロ・シンさん
黒髪おかっぱのロ・シンさん、心の中で推させてもらってます。
指の先までピンと伸びててとってもかわいいんです。
一幕最後、上手側から『ありのままの私』を歌うザザを見ているんですけど、なんかこう、「思わず目が離せない」状態からシャンタルさんと顔を見合わせるところがとても真に迫っていて、圧倒された時ってこうなるよねと思いました。
ロ・シンさんやシャンタルさんだけでなく、周りにいる全員が様々な表情でザザを見つめていて、それぞれの性格や背景が感じられる貴重なシーンでした。



● ジャクリーヌさん
やっぱりジャクリーヌさん好きだなあ。
彼女がストーリー上の役割のわりにまったく「話を回すためのキャラクター」感がないのが本当にすごい。むしろ「キャラクターが話を振り回してる」みたい。一幕でちゃんと伏線を張っているからというのもあるんでしょうけど、違うんだそんな小手先の話じゃなくジャクリーヌさんが生き生きしてないとこの話はハッピーコメディとして成り立たないんだ……
ほんと早くAIスピーカー〈ジャクリーヌさん〉できないかな。「ジャクリーヌ!今日の服装どうかな!」って聞いたら「颯爽としてまばゆいばかりね〜ん」って答えてほしい……
でもこの言葉、私は香寿さんのジャクリーヌとしての佇まいの修飾にこそぴったりだなあと思う。



● ブランコ
ザザがブランコに乗って上がっていくところ最高です。すごい刺さる。



● シェ・ジャクリーヌでアンヌに煽られて手拍子しちゃうジャン・ミッシェルがかわいい
かわいい。
このままいけば結婚できるかも!?ってくらいの空気に持っていったのはジョルジュでもシビルでもジャン・ミッシェルでもなく、参加を拒まれていたアルバンだったというのは、息子の十分な反省材料になりますね……(母、かつらとっちゃったけど)。



● 誰もみんな同じ
前回「そうだ、昔の話なんだ」と思い直したものの、いざ見てみるとやっぱりそこの頭の切り替えが難しい。
ダンドン議員の主張だけを見れば「ああ、昔だ」とわかるんですけど、ジュルジュやアルバンの家族としての姿や街での過ごし方を見るとうっかり現代の話のような気がしてしまう。むしろ未来とすら。
後者がそう感じられるのは、前者にかかわる個人の多様性については世間的に少しずつ浸透しはじめている一方で、後者、個人の築く関係の多様性についてはこれからな部分があるからでしょうか。
「誰もみんな同じ」と言うと、一見その多様性からは一番遠いところにあるようですが、ここで歌われているこの言葉には、様々に異なる人々や関係性をみな「違うまま」ひとつの街にくるんでしまう包容力がある気がして、なんだかほっとします。「あなたと私は違うけれど、同じだね」って、この作品の発するメッセージは、とても心強い。



● ありのままの私
今回、改めて見ると結構大事だなーと思ったジャン・ミッシェルの言動がいくつかあって、
◆ 旅行から帰ってきて「やっぱり家は落ち着く」と言っている
◆ 自分の家庭とあちらの家庭は「相性が悪い」ので父は外務省勤務ということにした
◆ アルバンの「3人で食事をしながら結婚について話そう」という提案については快く承諾している
◆ ジョルジュがジャコブと呼びボーイとして接している人物をクロディーヌと呼びメイドとして接している(服装も褒める)
◆ 元カノにもカジェルたちにもフラット
などのあたりとか。


つまりジャン・ミッシェルは、物語のはじめの方では、自分の置かれた環境や家族、まして彼らの好みも趣味もプライドも、否定したりネガティブに語ったりはしていないんですよね。一日だけ犠牲にしようとするけど、普段から蔑ろにしているわけじゃない(多分)。
隠し事をするにも彼なりの理由があって、それは「変に思われるかも」とか「恥ずかしいから」などではなく、「先方が伝統家族モラルを重んじるTFMの幹事長」ゆえに「うちとは相性が悪い」から、という具体的なもので。
アンヌの父親がそういう人でなければ、ジャン・ミッシェルは普通に家族を紹介した、かもしれない。余地はある。余地は。


「でも実際アンヌのお父さんはそういう人なので、お願い!一晩だけだから!ごめんねっ☆」
と頼む時、根底にあるのは、愛されている自信と、自分が愛しているということは口に出さなくても知っているはずという横着と、それに付随する「これはあくまで望ましい将来をつかむための手段であって、あなたたちを根本から否定するものでは全くない」ということを相手も当然わかってくれるはず、という驕り。なのかな。と思った時に、
たとえば私のある特徴が先方と折り合わないことを理由に「その時だけ消えててくれればいい」と身内に言われたとして、どう感じるだろうか、と考えたんですけど。


当然悲しい、悲しいし腹立たしいし申し訳ないし絶望するけれど、「先方がそういう人」「それがまかり通る時代」「身内本人から全否定を受けたわけではない」と思えば、もしかしてそこは首肯してしまうのかもしれないと思ったんです。
そしてじゃあ、私はジャンの何があまりにひどく残酷だと感じたんだろうと考えて、ああそうだった、シビルだ、「シビルは参加できる」のがつらいんだ。と思いました。


ジャン・ミッシェルは、
◆ アンヌのご両親は僕の「両親」に会いに来るので母さんを呼びたい
と言っていて、
そうか彼にとって、「血が繋がって」いて「女性」のシビルは、「本当の」母親なんだよな、と今更。
アルバンを隠したいから代わりにシビルを呼ぶ、ではなくて、シビルが母親だからシビルを呼ぶ、というのが彼の考えなんですよね。


そして、アルバンは母親ではない、かつアンヌの父との相性の悪さが「見た目から明らか」だから同席を拒否される。


ジャンを20年間育てた自分はあくまで母親の「代わり」で、両家の食事会では必要とされず、その一方でジャンをジョルジュに渡したきり会いに来ないシビルは「本当の」母親として食事会に出ることができる。
まだ「ジャクリーヌさんに母親のフリをしてほしいんだ」とか言われた方がよっぽどましかもしれない!





……などと考えながら千秋楽をみていたら、一幕最後のジョルジュがアルバンに伝えるところ、二人の気持ちが本当につらくて。
ジョルジュの台詞、一日だけの嘘だよ、傑作だろ、「僕が外務省の外交官で、シビルが僕の妻で、君は……」
アルバンは、なんなんでしょうか。
「本当の」母親とされるシビルを呼ぶ、その彼らの選択がアルバンのアイデンティティを否定する。アルバンは「血の繋がりもなく」「女性でもなく」「だから当然母親でもない」のだと。彼らにそんなつもりはなくて、彼はそれこそが一日だけの偽りだと言っているのに。






そこでカジェルたちの歌が聞こえてくるわけですよね。


ありのままに見えて
全部イリュージョン
本当は 嘘が本当





そりゃやめてってなるよー!!





嘘の母親が本当なのか、本当の母親が嘘なのか。それって誰が決めるのか?
ここでアルバンの歌う『ありのままの私』、その原題の『I Am What I Am』は、さっきのジョルジュの台詞「僕が外務省の外交官で、シビルが僕の妻で、君は(You are)……」も受けてるんでしょうか。いや原文わからないけど。
ジョルジュが継げなかった言葉をアルバンが繋ぐ。
I Am What I Am、私は私。







この直前にジャン・ミッシェルが漏らした「ごめんなさい」って、一体、なんなんですかね?






● 見てごらん
時は過ぎて二幕、問題はここですよ。
「おじさんの練習」までしたアルバンを前に、ジャン・ミッシェルが「彼なんかに頼んだ僕が馬鹿だった」みたいなことのたまうじゃないですか。
さっきの「ごめんなさい」は!!??!?
反省しても10秒で忘れる感じ!?!?
あといちいち使う言葉が強いよ!!
そして噴き出す積年のアルバンへの不満。
「理解して欲しかった、尊重して欲しかった」って、あーーーー!それは!まあ……そうかも……………


ジャン・ミッシェルの全身から溢れる「どうしてわかってくれないの!?!?」という気持ち、これはなんだか、個人的には単なるわがままのようには見えなくてですね……


そう言いつつジョルジュが歌い出したら今度はジョルジュに感情移入する。まじ忙しい。
「おまえにどんな権利があってアルバンを傷つけるようなことをするんだよ!!!え!?わかってる!?!?わかってないね!?」って私の中のジョルジュが息子に言ってる。
『ありのままの私』の前、アルバン本人は、ジャン・ミッシェルには何も言わなかったから。いかに愛しているかとかどんなに大変だったかとか言ってもおかしくないのに、息子のことをただ見つめるだけで。だからジョルジュが言ってくれてるんでしょ……ジョルジューーー!!あいしてるーー!!!!
アルバンはあの時何も言わなかったし、ジャン・ミッシェルは今シャツを着ているし、相手の女性は来訪を拒まれていない。できる限り尊重されているように、私には見えるよジャン・ミッシェル……



千秋楽では、『見てごらん』を聴いているジャン・ミッシェルが内心とても揺れているのが伝わってきて、その思いを振り切るように出て行ってしまう彼に半分苛立ち、半分胸が痛みました。
彼の思いは思春期という名の普遍性を持つ一方で、なんらかの当事者家庭のかぞくやきょうだいの抱える「当人以外が普遍という言葉で片付けてはいけない」ジレンマも含んでいるような気がしたから。


ところで、私、ジャン・ミッシェルに関する木村さんのインタビューをいくつか読んで、びっくりしたことがあるんですけど。
「思ったことを貫き通したいとか、ワガママなところは…僕と似ているところかなと思います」と共通点を見つけたり、「(親子はどこかに似ている部分があるから)鹿賀さんの姿を見て、自分のお芝居にうまく取り入れたい」と考えたりとか(以上『livedoor NEWS』)、「僕の母親はけっこう“ザザ”タイプで」と共感したりするのとかは(『週刊女性PRIME』)、いわゆる役作りっぽくてしかも成果が見られてて、すごいな…!!と思っていて。
でも、インタビュアーさんにジャンは行動だけとればかなり無神経……という点についてふられた時に
「たぶん考えすぎるとできないと思います」とおっしゃってて(『omoshii mag』vol.12 誌面インタビュー記事)。
えーーーーー!!ですよ。そういうのありなの!?って。「でも彼は彼なりに考えがあって…」というようなことをおっしゃるのかと思ったんですよ。何か無理にでも自分なりに理解とか動機付けとかしたりするもんじゃないのみたいな。
でもこれ読んでめっちゃくちゃ腑に落ちました。あのジャン・ミッシェル、確かに、きっとそんなに深く考えてない。そんなに深く考えてないからあんな感じなんであって、自分のやろうとしてることが無神経だと感じるくらいには思慮深かったら、あんなこと言わない。そりゃそうだ。できあがったジャン・ミッシェル像を見れば、木村さんは二重の意味で正しい。
(引用の仕方がへたくそで真意を損ねている可能性があるので是非記事全文をご覧になっていただけると嬉しいです、他の役作りも興味深い)


言うことだけじゃなくて言われたこと、たとえば元カノの言葉が「30分で片付ける」から「20分で片付ける」になるのも、カジェルのおひとりの言葉が「電話して」から「帰って来てから電話して」になるのも、意味全然わかってなさそうだったけど、それが切ないような、でもそこがいいんだわ……わかる………と思えるような。難儀だわー……


理解のための理解をしないという役作りが、観客の感情移入の余地を残すということがあるのかもしれないなーと思いました。ふしぎ。脚本と観客への信頼のあらわれでもあるのかな。




● そんなこと言われなくても本人が一番よくご存知よ
ダンドン議員が騒いだ時のアンヌの台詞(言い回しは曖昧)。
ここかなり笑いが起きてましたし、実際愛原さんの「面白い台詞ですよ〜」感が全くない言い放ち方、コメディとシリアスを両立させていて最高に巧み……!と思うんです。
そんで「ほんとそれ!!!」と思ったんですよ。


この台詞には、ジョルジュとアルバンたちを侮蔑語で呼んだダンドンに対して、アンヌが大真面目にこう叫ぶことで天然に追い打ちをかけてしまう、というような文脈の笑いが含まれてると思うんですけど、
いやでもほんとに、なんらかの当事者は、「侮蔑語で呼ばれる自分」も含めて自身のマイノリティ属性と向き合っていて、ほんとに、そんな大きい声で言われなくったって知ってる、ほんとにそう、私はそう(このケースの当事者ではないけど)。誰かにとってはめずらしくても、当事者にとっては常に付いて回るものだから。その言葉で呼ばれる自分と誰よりも長く一緒にいるから、何度も言われなくても重々承知してる。


それと、この台詞の一方で、ダンドン議員がいくら騒いでもジョルジュとアルバンとジャン・ミッシェルが何も言わないの、個人的にかなりリアルに感じました。
言い返してもどうせ聞こえないし、事態が悪くなるだけだし、時勢的には向こうのほうがメジャー、端的に言って面倒。
ここでジャンが憤慨して「僕の家族を侮辱しないでいただきたい!!」→ジョルジュアルバン感動→ジャンも自身の気持ちに気づいて感動、からの仲直りとか、
アルバンが「私たちは何と言われてもいい、でも、息子は関係ないでしょう!!」→ジャン感動、アルバンの愛を知る、からの仲直りとかだったら多分、私の中ではしっくりこなかった気がします。
ジョルジュとアルバンが「ハイハイおっしゃる通りでございますね」とやり過ごす、そうだよなあって。ダンドン議員は彼の主観的認識について話していて、ジョルジュとアルバンは事実レベルで間違っていることだけを訂正する。その内容もおそらくダンドン議員には取るに足らないことなわけですけど、当事者にとってはあきらかな「違い」なのに当事者以外には「見えにくい」のも、そうだよなあって。
そして彼らを見て育ったジャンが、侮辱に乗せられず、あえてダンドン議員と同じ土俵に立って彼自身の「主観的認識」をただ告げることで対応するのがとても好き。木村さんの千秋楽のあの喋り方、目線のやり方、間の取り方、やっぱりこの方の演技を見るのが好きだなあと思いました。
あとアンヌが父親に、「私の意見はあなたの意見とは違う、けれど私は変わらずあなたのことを愛している」ということを口に出して伝えているのがまたいいなと思います。


アンヌって、たぶんジャン・ミッシェルがアルバンの存在そのものを隠そうとしていたことまでは知らないんですよね。「ジャン・ミッシェルは『ジョルジュが父親でありアルバンが母親である』で押し通そうとした」、というのが、実際アンヌの前で起きた出来事なので。
で、「母親のアルバンは(生物学的上は)男性だった」ということが判明するわけですけど、それでも彼女は「この方たちのことが好き」と言う。最初見たときは「偏見を持たず本質を見抜けていい子だ…!!」という感じでしたけど、そういえばひとつ重要なことをすっ飛ばしていて、それがアンヌが「ジョルジュが父親でありアルバンが『母親』である」ということまでもを特に何も言わず受け入れているという点で。
ジャン・ミッシェルはアルバンを母親の「代役」と思っていたけど、アンヌは「アルバンはジャン・ミッシェルの母親である」そのままで問題ない、という。
「アルバンは母親」「その母親のアルバンは男性だった」という順番で情報が入って来たアンヌが、ジャン・ミッシェルより先に「アルバンは母親」ということを再認識するのが面白い構造だなあと思います。
男性女性という話より先に母親という情報が入ったからこそ、アンヌにとって性別が「母親かどうかに深くかかわらない情報」になり得たのかもしれないですね。




● 見てごらん(リプライズ)
一度目の『見てごらん』の時、ジョルジュが言わんとしているのはアルバンのことだ、というのはジャン・ミッシェルもわかっているように見えました。そしてそれがその通りであることも。
だからこそかなと思うのですが、千秋楽、ジャン・ミッシェルの『見てごらん』は、まるで父親からの問いを紐解き、なぞっていくようで。


僕が人生に恐れを抱いた時
心を痛めてた
その人は誰?




個人的に感じたのは、「その人」がアルバンだとジャン・ミッシェル自身が納得した、だけではなくて、「そして、『そういう人』をたとえば『母親』というのだ」、ということに無意識に思い至っているのではないか、と。
生物学上「血の繋がりもなく」「女性でもない」、けれど、それでもアルバンは「母親」だったのだと、かりそめの宴やアンヌの言動を通してそういう発見をジャン・ミッシェルはしたのではないか、と思いました。
ジャン・ミッシェルとアルバンの当人がしっくりくるのならたぶん言葉は「母親」でも「父親」でも「育ての親」でもなんでもいいのだと思います。感情でも現象でも属性でも、名前をつけることで全貌が見えることってある。
木村さん、この歌の「誰?」のところの抑えた感じとても好きでした。



● 彼は僕の母親です
彼の「母親の発見」においてもう一つ重要なのが直前の「彼は僕の母親です」という宣言だと思うのですけど、この、「彼は」というのもとてもかみしめたいところです……
「彼が僕の母親です」だと、
「母親(は誰なのか、いるのか)」という言葉に重点がおかれてしまうんですけど、
「彼は僕の母親です」は「彼(はなんなのか)」という言葉のほうに重きがおかれるんですよね。ジャン・ミッシェルがここで「彼は」という出だしでアルバンのアイデンティティの一部を語るのは、アルバンに「私は私」と言わせた行為の清算のようにも思えます。あと、「彼は(まぎれもなく)僕の母親です」というニュアンスもこもってる気がする。
そしてもうひとつ。「彼が僕の母親です」とした場合、母親はアルバンひとりに限られるような印象を受けますが、「彼は」なら、シビルも母親のままでいられるんですよね。ジャン・ミッシェルの中でシビルが母親であるという事実は、これまでもこれからも変える必要はなく、きっとアルバン自身が(ジョルジュには悪く言っても)息子のために残してきた道なんですよね。
彼の中で今まさに母親という言葉の再定義がなされたのだとして、しかしそれは変更ではなく拡張だったのかなと思わせられる台詞のように感じました。




● 最後のハグ
なんか!前に見た時よりジャン・ミッシェルのニュアンスが少しだけ軽くなってて!気のせい??
「じゃあ!…またね。」
そんな感じ。
私はやっぱり別れ、親離れのシーンかなと思ったのですが、この軽さ、ジャン・ミッシェルらしいなと思いました。
このすぐ帰ってきちゃうんじゃないか不安になる感じ。でもなんというか、『アンヌと腕を』からの『君と腕を』の流れを見てるから、なんだかんだジャンもアンヌとうまくやっていくのかな……と想像させられますね。
そして最後のシーンはやっぱり泣いちゃう。歌詞をどうしてもどうしてもジョルジュとアルバンの奥の鹿賀さんと市村さんに重ねて見てしまう。いかんいかん……


あらためて、市村さんのアルバンって喜怒哀楽が豊かで、けれどもネガティブオーラは極力早めに引き上げ、ポジティブオーラはどこまでも振りまく、とてもとても素敵。
ニコニコ、プンプン、ルンルン、ウットリ、そういう文字が見えてきそう。
その感情に見合うだけの愛を真正面から、テキトーなんだけどアルバンのためだけに語る鹿賀さんのジョルジュもすごい。これは見ていて幸せになるはずだわ……。
ジャン・ミッシェルとアンヌもだけど、「仲が良いひとたち」って永遠に見てられますよね……それだけじゃ物語が生まれないから問題が起こるけど、問題が起こっても大方仲が良いのが素晴らしい。
手に手を取って、腕を組んで、そういう意識的繋がりを愛と呼んで、その連なりを家族と呼ぶ、それって素敵で希望があるなあと思うフィナーレでした。



劇場に行くのが難しい家族も見たがっているので、ぜひ映像化していただけたら!!!
う れ し い で す!!!!