王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

歴史は背後に立ち昇る。ー ミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』を観た

先日、ミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール 籠の中の道化たち』を観ました。
次回の観劇に備えて感想メモ。
あらすじ等は公式サイトにて。



木村達成さんのファンなので贔屓目にみまくりです。
「かわいい」「好き」を書き連ねるだけなので読んで得することは何もありません。すみません。



● ジョルジュ

こんなすっとぼけたチャーミング紳士いる!??!!!?
妻にのらくら、息子にでれでれしてるかと思えば急に真心を差し出すような『砂に刻む歌』。
私落ち着きのない人間すぎてテンポのゆっくりな歌は少し苦手なんですけど、ジョルジュの歌は永遠に聴いていられる……深く艶のある大人の男性の声。
「聴き惚れる」ってこういうことなのですね……この歌声にずっとつかっていたい。肩まで。本当に心地よく、心が満たされていくようでした。愛を語られた後のアルバンのうっとりした顔、それはそうなるだろうと思う。


● アルバン

ジョルジュの『砂に刻む歌』が「聴き惚れる」歌ならば、息子の思いを聞いたクラブの看板スター“ザザ”(アルバン)が歌う『ありのままの私』は「心震わす」歌。
声とはただの振動なのだと思い出すような、空気をつたってびりびりと体表に突き刺さるエネルギー。しかもそこにわかりやすい感情なんてなくて、それなのにこちらの心は勝手に共鳴してしまう。歌声が寛大なんです……観る側の自己投影を許容するほどに。この歌は観客の前に掲げられた鏡なんだと思う。
歌い終わったあとの毅然とした退場、かっこよかったなあ。ジョルジュの歌にある「身を引く」って、後ろに下がりそうなイメージがあるけど、アルバンは前に歩いて行くんですよね。
私はこれをプライドだと感じたので(ただの個人的解釈です)、二幕でジャン・ミッシェルがアルバンの捨てるべきものとして「プライド」を指定した時、「わかってるじゃん!わかってないけど、わかってるんじゃん!」と思いました。「解釈合ったね!」みたいな。それがあるから簡単にジャン・ミッシェルの思う通りになんて動けないんだって、わかってるんだねジャン・ミッシェル。でも記憶違いな気がしてきた。


鹿賀さんと市村さん、このお二方はもう、たとえ衣装や台詞がなくてもジョルジュとアルバンになれるのでしょうね……ラカージュコンビとして10年、劇団四季時代から数えれば45年のお付き合いだそうで、その歴史が佇まいの中に高密度で詰め込まれていてまるでブラックホールみたいでした。喩えのセンスが悪い。
だってすごい重力で視線が吸い込まれて目が離せないんだよ!!目が足りないんだ!!!あと耳も吸い込まれたよ!!!
でも2人は何もしてなくて肩の力を抜いてそこにいるだけなんだよ。


ラストで2人が星空に溶け込んで行くかのように観客に背を向けるの、とても美しいです。ラカージュはかなり舞台(架空)と客席(現実)の境界が曖昧な作品だと思うのですが、このシーンで2人が「架空の世界に帰ってしまう」のは寂しくもあり、嬉しくもあり。なんで嬉しいのかよくわからないけど、「きっとこれからも仲良くやってくれるだろう」と思えるからかな。


● カジェルたち

「ミュージカルを観に行ったと思っていたらいつのまにかレビューを見ていた」
な… 何を言ってるかわからねーと思うが(略)。
歌、ダンス、鞭、アクロバット、カンカン!
お腹いっぱい盛りだくさんの百花繚乱全力パフォーマンスが見られるのはラ・カージュだけ!
新納さんと真島さんの「そんなに出てないのにめっちゃ出てた気がする」感がすごい。やっぱり「存在感」っていうのは実在するんだなぁ。
この作品の主役は間違いなくジョルジュとアルバンだけれども、その土台を組み上げているのはカジェルたちなんですよね。
衣装もきらびやかで、まさに銀鱗躍動ですよ。黒髪おかっぱの方の最初の衣装がかわいいんだー。朝顔みたいな柄の。


● マエストロ(塩田明弘さん)

上の方の席だったのでマエストロもとい指揮者の方が観客を煽り盛り上げていらっしゃるのがよく見えて、ああこちらにもパフォーマーがいらっしゃる目が離せない目が足りない……5つほしい……と思っていました。
この作品は出ているみなさんがとても楽しそうでパワフルで、それに呼応して客席まで生き生きとしてきて(まるでクラブの客という大役を任せられたかのように)、あっという間に劇場中が幸せに包まれるんですね。ピンク色の、猥雑で、理不尽をも跳ね除ける幸せ。
その裏には、アルバンの歌う「マスカラ」みたいなものが役にも役者本人にもなんならお客さんにもきっとあるはずで、それをチラリと意識させた上での「それでもね!!!!!」というところが余計に心を打つんですよね。


● ジャクリーヌ

声とノリが最高に気持ちいい。AIスピーカーの声をカスタマイズできるようになったらジャクリーヌさんにしたい。爽快な毎日を送れそう。でも勝手に「よく眠ってるみたいだからアラーム1時間遅らせとくわねん」とか言い出しそう。困る。


● アンヌ

ジャン・ミッシェルが「アンヌといると僕が誰よりハンサムって気にさせてくれるんだぜ」的なことを歌うんですけど、実際登場するアンヌがそのたわ言に説得力持たせすぎててやばい。めっちゃかわいい、めっちゃいい子。
最初に飛び出してきたところ、あのシーンだけで3億回納得する。そらこんな子に「愛してる」とか言われたら「えっ俺もしかしてめっちゃイケメンなんじゃね?」って思うわ。それか「えっこれ結婚詐欺師じゃね?」の二択。でも実際こんな子と腕組んで歩いていたら自然と背筋は伸び顔つきは引き締まり表情は朗らかとなり海は凪ぎ空は晴れ小鳥たちは祝福するであろう……そんな御子である……
ちなみに私は木村さんファンなので「別にアンヌといなくてもハンサムやで」と思ってます。


● ダンドン夫妻

ダンドン夫妻かわいくない……?ダンドン夫妻かわいいよね……?
ダンドン議員、ジャクリーヌさんにのせられて踊っちゃうんだもん……隙ありすぎ……好き……
ダンドン夫人、アルバンとわーってやってるとこめっちゃかわいい。推せる。
ダンドン議員から「全部お前のせいだ」だか「お前の育て方が悪かったんだ」だかみたいなこと言われていたと思うんですけど、その台詞だけでどんな環境で母親をやってきたのかちょこっと察せられるからそんな彼女が『今この時』を一緒に歌っていたあの姿は忘れちゃいけない気がしますね。
ダンドン議員が最後に出てくるシーンもとてもカタルシスがありました。リアリティのかけらもないんだけど、現実にはありえないことをやってしまうのがフィクション、ミュージカルなんだなとあらためて。逆にこれがなければミュージカルとして成立しないんだろうなとすら思う。リアリティなんてくそくらえなのかもしれない。


● ジャコブ

動きが昔のディズニーとかワーナーのアニメみたいでとてもかわいい。ジャン・ミッシェルとドライに仲良しなのもかわいい。2人とも人間関係にとてもドライだと思う。「パパのがいつも一番いい」ってところ私も入れてほしい。AIスピーカーたまにジャコブにするから私が元気ない時「これは僕のこれは君のこれはパパの、からの〜〜〜??」って聞いてほしい。


● ジャン・ミッシェル

かわいいぞーーーーー!!ジャン・ミッシェルかわいいぞーーーー!!!!!


そして足が長い。
あと声が高い。
そして背が高い。
あと顔が良い。
そしてチャイルディッシュ。



結果、「見た目は大人、頭脳は子供、その名はジャン・ミッシェル!」みたいになってる。
チャイルディッシュなのかチャイルドライクなのかは意見の分かれるところだと思うけど、「かわいい!!!身勝手!!浅はか!!待て!!おい!!それ以上喋るな!!自分が何言ってるのかわかってるのかわいい!!!!!」って感じだったので個人的には前者ですかね……ジャン・ミッシェル24歳でしょ……? 爛漫すぎでしょ……かわいい……ずるい……浅薄……


何年か後の再演でジャン・ミッシェルにキャスティングされた俳優さんのファンの方へ私見すぎる伝言を残しておくと、ジャン・ミッシェルは両親に大切に育てられたお坊ちゃんで、自分の蒔いた種であたふたオロオロし、「パァパ」と甘えて父親を手玉に取り、急に低めの声を出して彼女を翻弄し、母親に最高の笑顔でひどいことを言います。なんてやつ!!!なんてやつだ!!!!
つまりこんなやつなのに憎めないように仕上げるという、推しの愛嬌力が最大限に発揮される役です。おめでとうございます。


今までわりと低めの声の役が多かったと思うので、地声に近いというのはもうそれだけで新鮮です。周りを制するほどに声を張り上げるとめっちゃ高くなるの、これまでのイメージとのギャップが大きくてすごく面白い。かわいい。
そして何よりもーーー、歌声がーーーーー!!
伸びやかで、高音に甘い響きがあって、最高か……!!『お皿の絵』の時の瞬発力も好き。
私、木村さんが演技をしている時の声に惹かれてファンになったんですけど、いざ歌い出したら歌声も最高に好みだったとか本当に奇跡じゃないの? これ真顔で言ってる。
ミュージカルへの出演自体が2作目で、普段歌のお仕事をなさっているわけでもなく、経歴だけみれば舞台を台無しにしてしまいかねないことになってしまうリスクだってあった中で、他のお仕事をしつつも一年間レッスンを続けてここまで漕ぎ着けたの本当にすごい……ご本人はもちろんだけど、それを支えた周囲の方も、そこの実現可能性を見極めた方も。
抜擢を無謀の策にしない人財育成……長期展望を下支えにした根気強いプロジェクトマネジメントやで…………


今とても歌声がまっすぐなので、情感を書き込む余白がまだたっぷりあって、それがまたチャイルディッシュなジャン・ミッシェルの姿と重なっていてよいのです…….
気が早いけど、これからももっともっとたくさんの感情を込めた色んな歌を聞いてみたいと思いました。


歌、演技、ダンス、どれも手を伸ばしてやっと及第点に達している気がしていて、何かに食らいついてスタートラインに立ちに来たんだなあという背後の過程に感動しつつ、
あちこちのびしろだらけで、「これからどこをどう、どんなバランスで強化していくんだろう!?」っていう本当にもう将来性の塊がここにいますみたいな……「RPGのはじまり」みたいな。とにかくどこにでも行ける感がすごい。そして、思えばいつもどこかに飛び込んだあとどんどん良くなっていくんだよなあ……ずんずん進んでて次見た時にはすげーレベル上がってるみたいな。「えっもうそこまで行ってんの!?」っていう。


と言っても、いかんせん木村さんがこのままミュージカル俳優の道を進もうとするのかどうかとかは全然わからないのですけど。でもやっぱり歌は聴きたいなあ。他人を演じて、他人の心情を歌ってほしい。


とりあえずなんか、観劇して「ほっとした」というのがなんか正直な感想です……何目線なのか知らないけど…………ファンの端くれがすみません………
「頑張ったんだね」とか「努力したんだね」とかはあんまりしっくりこないんですけど、私が近所のおじさんだったら「よくやった!!!!」って言いにいきますね。
「よくやった!!!もっとやれ!!!!!」かな。
後半にまた観に行くので、どうなっているのかとても楽しみです。






以下、お話についてだらだらと。


同じ脚本家の『キンキーブーツ』が2012年初演、こちらが1983年初演と知って納得。
『キンキーブーツ』は特に違和感なく世界に入り込めたのですが、ラカージュは観ながらいくつか疑問を感じたのです。なぜなら私が舞台上の時代の空気感をわかっていなかったから。『キンキーブーツ』は現代と言って良さそうな時代設定でしたが、『ラ・カージュ』は、もう、違う。間も無く過去になる時代なのだと思いました。今では違和感を覚えるような主張や言葉を議員が声高に叫ぶ、「そんな時代もあったのだ」と振り返るような時代。
なにしろ初演からはもう、ジャン・ミッシェルとアンヌの子が「僕、結婚するんだ!」と言い出してもおかしくないくらいの歳月が流れているんですもんね。


私は最初そこの頭を切り替えられていなかったので、なかなかうまく登場人物の心情を汲むことができず。
特に滑稽に見えてしまったのがジャン・ミッシェルの「他に方法がないんだ!」という台詞。なぜそんなに必死なのか、なぜそんなに悲痛な叫びをあげるのか、なぜそこまでしてアルバンの存在を隠そうとするのか。「そうさせるような時代だったから」、と気づいて(遅い)ようやくしっくりきました。
そこを踏まえると、アンヌという女性の存在がより一層際立ってきて、彼女がいかに希少な人物であったかが想像できます。そりゃ失いたくないよね……嘘をついてでも、と思うのも理解できるし、そのジャン・ミッシェルの予想を遥かに超えたアンヌの言動に驚きもする(彼はあれだけアンヌを高く評価しているにもかかわらず、結果的に彼女をみくびっていたことになってしまった)。そして、家族同士の和解には到底至っていない、棲み分けと言えるような結末も腑に落ちます。「来ないでね」という台詞、意外性(による笑い)のあとに納得感が来るんですよね。その正体はこの空気感だったんだなあと。時代に即した落とし所のリアリティ。まず先にこれがあって初めて「リアリティなんてくそくらえ」ができるのかもしれません。


日本での初演は1985年、(指標として適切かはわからないのですが)例の高裁判決が1997年ですから、自分の記憶も含め、日本でこの時代の空気感が過去のものになり始めたのはそう遠い昔ではないと推測します。でも、もしかしたらもう観客の中には「笑いどころがわからない」人もいるかもしれない。教科書の近現代史を読むような感覚で触れるような人もいるかもしれない。
そこまではいかなくても、この時代にはまだ浸透してなさそうな価値観をもって観ている方がいらっしゃるのではという気がします。
ストレートかつステップファミリーの子であるジャン・ミッシェルの「理解してほしかった、尊重してほしかった」という主張は、アルバンへの浅慮はともかくとして(ともかくとしちゃダメなんだけど)、本当にあの答えで一蹴されるべきものだっただろうか?とか。
ジャコブに対するジョルジュの言動と、ジャン・ミッシェルがアルバンに対してやっていること、何が違うんだろう?とか。
超優秀だけれど勤怠に難のある同僚のフォローを残業手当てもなしにさせられているメルセデスさんは、いつか報われる日が来るだろうか?とか。
アルバンに対して私は「母親よりも母親らしく、女性よりも女性らしく」などと思っていないか?とか。
いやすみませんよくわかんないで書いてますすみません。
そういうものに照らした時、また見えて来る新たな側面もあるのだろうなと思います。そしてそこで浮かび上がる問いの包含に耐えうる作品であるのだと思います。
とにかく現代劇でなくなるからといってこの作品が傑作であることに変わりはなく、ただシェイクスピアエウリピデスに近づいていくだけなので、これからも何度でも何度でも上演して、時代が違えど変わらないもの、いつの時代も面白いと感じるものを見たいなあと思った次第です。


まだ続くんですけど、ジャン・ミッシェルはカジェルたちやジャコブとのやりとりを見るに棲み分けをごく自然に、自由に行き来する者として描かれていると思うのですが、その彼の、父親との最後の抱擁の意味が気になっています。
ジャン・ミッシェルはやたらと周りの人物とハグするんですけど、なんとなく、大体はこれは愛情だねとか感謝だねとかなんかそれっぽい理由を想像できるんですよね。
でも最後だけはよくわからない。
一度ダンドン一家を送ってから、(ザザが一幕で歩いた客席通路を駆け抜けて)わざわざ戻ってきて、父親とハグをして、また(同じ通路から)ダンドン一家の方へ戻っていく。その行動と2人の演技、演出に込められた気持ちが、私には「さようなら」にしか見えなくて、なんでだろうと。
確かに町を出て行くとは言っていたけど。なんか家族の集まりとかもあるってアルバンが言ってたじゃん。またすぐ会えるじゃん。なんでなんだろう。
普通に、「ありがとう」なのかなあ。ハッピーエンドを象徴するシーンなんだろうか。そう見えなかったのは単なるこちらの心持ちかなあ。ていうかちゃんと見てなかったのかも。


個人的には、そもそもジャン・ミッシェルがどのタイミングで感化され何に気づいたのかもまだ考えあぐねています。
そのヒントを拾い集めていて思ったのですが、彼は取り繕いや仕草はジョルジュに似ているけれど、根底はアルバンに近い気がする。そりゃそうだ、アルバンにだって、似るよ。
お芝居って面白い。
そういう気になっているところも、また確認できたらいいなあと思います。





それにしても2016年の夏、「その他」カテゴリで『キンキーブーツ』の感想を書いていた頃、まさか2年も経たないうちに「木村達成さん」カテゴリで『ラ・カージュ・オ・フォール』の記事を書くことになるだなんて夢にも思っていなかった。


そんな感傷に浸っていたら、ふと「君は永遠の驚きだ」というジョルジュの台詞を思い出して、その“あてにならない”過去の膨大な積み重ねに思いを馳せつつ、ああなんと初々しい喜びに満ちた言葉だろうと思ったのでした。


おしまい。