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王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

キャラ信仰が崩壊した日──映画『シン・ゴジラ』を観た

エヴァンゲリオンを見たことがない。


と告白すると、同じく見たことがない人にとっては「へー」だし見たことある人にとっても「へー」だし、要するに私の鑑賞履歴や文化的バックボーンなんて心底どうでもいいですよね。
飲み会とかで「こんな時どういう顔をすればいいのかわからないの」って言われて
エヴァですね!お好きなんですか?」
って返せるくらいの日常会話のとっかかり的なフワッとした知識はありますが、正しい応対は「笑えばいいと思うよ」らしいので次から気をつけようと思っています。そういえば、ゴジラ作品も1992年の『ゴジラvsモスラ』くらいしかまともに見たことがないかもしれない。『風の谷のナウシカ』は金曜ロードショーでやってたら見るけど、『巨神兵東京に現わる』は見てない。実写版『進撃の巨人』は前後編とも見ました。つまらなかった。まぁまぁ必修科目ほぼ履修してない、そんなレベルで今話題の映画『シン・ゴジラ』を観ました。
私から自信を持って言えることはただ一つ。





色々見たことなくても楽しめる!!





随所に散りばめられていると思われるパロディ、オマージュ、引用、全然わかんなくてもオールオッケー面白いです。知ってたらもっと奥行きのある見方をできるんだろうけど、そういう前知識なくてもこれだけ満足できるってのはすごい。とにかくテンポがいいのでテレビ見てて「なんかダラダラしてんな〜この番組」って思うことが多い人にはオススメです。


でも。


私はそれよりも別のところでちょっとしたショックを受けまして。
今までの価値観が崩れてしまった。




以下、ネタバレしまくりの雑感です。
未見の方は読まないでください。









引っ張るほどのことでもないので早速言ってしまうと、「この映画はキャラが立っていないのに面白かった」。そのことに小さなショックを受けました。



個人的には、「うわ!!!!やばい!!!!!めっちゃ、、、、面白かっ…………た…………」というほどではなかったのですが、でも普通にふっつーに面白かったし興味深く観れたし2時間まったく飽きなかった。この面白さに、「登場人物たちのキャラの魅力」がほとんど寄与していなかったことに驚いています。(ゴジラというキャラクターについては一旦横に置いておいて)



私は今まで「キャラが立っていてもつまらない作品はあるが、キャラが立っていなくて面白い作品はない」と思っていました。つまりまあ、とにかくキャラが立っているに越したことはないと。



個人的にキャラが立っているという状態には二通りあると思っていて、ひとつは、物語の中で一定の言動や行動が繰り返されることにより再現条件が定着した状態。もうひとつは、そのすでにどこかで定着したものをうまく流用した状態。前者は積み重ねが必要なため最初はお互いに手探りですが、その分思い入れが強くなる。後者は例えばツンデレのように一回の出現で即共有できるので手っ取り早いし安心できる、さらにはそこから斜め上に行くという技も早い段階で使うことができます。
おそ松さんを例にとるとチョロ松が2、3回突っ込んだ段階で即認識されたツッコミキャラが後者、そのツッコミキャラも踏まえたエピソードの積み重ねにより発現したいじられキャラが前者です。そして例えば「自意識ライジング」のように、これらの再現条件が意図的もしくは偶発的に重なったとき、掛け合わせの妙によって物語は爆発的な推進力を得ることがあります。


でも『シン・ゴジラ』の登場人物においてはこのどちらもが極力排除されている。


普通、これだけ会議シーンがあればそれを織り成すメンバーは絶対にもっとキャラを立てたくなる。絶対に「個性豊かな面々」にしたくなる。誇張演出、過剰演技、コミカル音楽、誰かが変なこと言って「・・・」みたいな凍った空気になる展開、実は事件に深く関わる生い立ち、芝居掛かった名台詞、これらを使って巧みに張り巡らされた伏線、そんなあれこれもう絶対にやりたくなる。特に巨災対のメンバーはもっと色んな方向性での彩り豊かなオタク演出ができたはず。でもこの映画にはそれがない。
「レインボーブリッジ封鎖できません!!!」とか言わない。
ましてや、インパクトある台詞をCMで繰り返し流して事前にキャラ立ちさせたりなんて絶対にしない。
プライベートの話もほぼ出てこないし、下手したら登場人物の名前もあんまり覚えてない。
「わたし登場人物さんたちのこと、なんにも知らなかったんだ…こんなに近くにいたのに…」マジでこんな感じ。今更気付いたって…遅いよね…!



ちなみに一人だけ上に書いたこと全部やらされてる人がいて、それが石原さとみさんなんですけど、そのせいでキャッチコピーの「現実 対 虚構。」ってこれじゃねーかなぐらい彼女の周りだけ時空歪んでましたよね。可愛いからいいけど。ただここから想像できるのは「日本側の登場人物も同じようにキャラ立ちしていたらおそらくだいぶ鬱陶しい」ということで、これは今までの私の考えを真っ向から否定する言説なのです。


なんで…なんでだよ……キャラ……立ってた方がいいじゃん……綾波レイとか……話は知らないけど名前とおおまかなキャラクターは知ってるみたいなさ……キャラが立って先導してくれないと…話の輪郭なぞれないって思ってたんだよ……



キャラ信者の私の反論はもう、笑点だって知らないメンバー入ってきたら戸惑うじゃん」くらいしか残されていない。


そう、私がキャラが立っていた方が良いと思い込んでいた理由の一つに、「登場人物が判別可能になり、先のエピソードの予測がつくようになるから」というのがあったのだと思います。「私は今何を見せられているのだろう」という混沌に射す光のひとつがキャラなのです。


裏を返すと、『シン・ゴジラ』にはそれがなく、混沌のままでも飽きずに見られて面白かったということになる。確かに、おなじみのゴジラというキャラクターですら初っ端から知らない形態で出てきて、(怪獣に接したことのない登場人物たちはもちろん)観客にとっても正体不明な謎の巨大生物へとリセットされてしまっていました。



そうか……混沌ね…何が起こるかわからない面白さってやつかね……






はて。本当にそうでしょうか?





結論から言うと私は「違う」と考えています。
私は「キャラが立っているに越したことはない」の他にもう一つ信条があって、そいつが「もしそうならおれも潰れる」と叫んでいるので、どうしても守ってあげたい。
それは「全く予測のつかない話は、一定時間以上興味が持続しない」ということです。
これを読んでくださっている方は、この文章がどこに行き着くのか意味不明なのでそろそろ読むのをやめたいと感じていると思います。それです。ちなみにこの予測は、当たっているかいないかは関係ありません。先の見えないジェットコースター的展開の物語は、予測が立てられないからではなくて、意図的に偏って開示された情報から立てた予測が裏切られ続けるから面白いのです。


ということで、私自身も終着点がわからなくなって飽きてきたので、もう結論を書きます。




キャラを立てる必要がなかった理由は、これが虚構の世界を土台にした私的個人の物語ではなく、現実の世界を土台にした公的集団の物語だから。



すげーふつーのこと言ってる。




つまり、そこにはキャラの代替となり得る「肩書き」があった。
それをテロップで表示して、私たちがその文字列からイメージする「それっぽさ」を必要最小のアクションで肯定する(余貴美子さん演じる防衛大臣のメイクと口調みたいに)。それだけで私たちが先を予測するには十分だったということです。
その手があったかー!!



ただ本来、職業ドラマなどを見ればわかるように、肩書き(公)とキャラ(私)は物語において共存可能であるはずです。むしろ人間を描くなら両翼となるべきものかもしれない。


なので実際のところ私が驚いていたのは、キャラが立ってなくても面白かったというとことだけではなく、「登場人物のキャラ描写を捨てる」というこの映画の選択そのものですね…。



物語の片翼を捨て去って、それでこんなに、こんなにも盛り上げることができるのか。
こんなにも人を惹きつけることができるのか。

結構な衝撃でした、、、




付け加えると、「こんなにも」盛り上がれる、惹きつけられるのは、一定の条件を満たしている人だけではないかと思っています。捨て去られた、というよりあえて描かれなかった片翼を、無意識に補完している人。物語の土台となっている現実世界を説明されなくても知っている人です。
この物語は、この数年間を日本で過ごした人が共通的に体験した現実に根ざしています。
そのバックボーンがなければ、きっと前半に散りばめられた情報や感情的なフックのいくつかは拾うことができない。逆に言うとそれさえあれば、あれだけ不親切な台詞の応酬でもなんとなく話の展開の予測がついたのではないかと思います。そして、自分の中の記憶や願いがこの映画のちょっとしたシーンに共鳴した人もきっと少なくないはず。エヴァンゲリオンを見ていなくても、初代ゴジラを見ていなくても。





この映画を、そういったバックボーンを持つ一人としてリアルタイムで観ることができて良かったなと思う。『シン・ゴジラ』はそんな作品でした。





以下、蛇足。



・キャラを立てないことのメリット
石原さとみさんだけがキャラ立ちさせられてたのは彼女一人が「アメリカ」だったからですかね。
この映画においては、日本政府サイドは間違いなくキャラが立っていない方がよかった。
市川実日子さん演じる尾頭ヒロミ課長補佐をはじめ、かなり好感の持てる登場人物が多いように感じましたが、これはキャラを立てるのではなくとにかく立てない、寝かす、可能な限り倒して倒して言動や行動をギリギリまで削ぎ落としたからこその、「余計なことをしない」点を拠り所とする好ましさだと思います。なんていうかすごくストレスフリー映画。だからこそほんのわずかに本音の滲み出たようなシーンが強く印象に残る。いつも思うけど高橋一生さんは職業人としての私情のはさみ方が本当にうまい。
特筆すべきは長谷川博己さんの演技の鼻につかなさで、役者さんが政治家の役であれだけ喋ってるのに特に摩擦もなくするする時が流れていくのがすごいし、目を瞑った時だけ時間が止まったような感じがしたの、なんていうか実はあれだけでもう十分すぎるくらい「私」は表現されてたよねって思います。
あと、役職付の人が格好良く見える作品ってのはやっぱいいですね。キャラが立っちゃってると「その登場人物単体」が格好良く見えるだけで役職のイメージまで波及しないんだろうな。これを観たこどもたちが、尾頭ヒロミのようになりたいと思うのか、尾頭ヒロミが果たしたような仕事をしたいと思うのか。の、違いは結構大きい。

追記。シンゴジラ人間を描けてない説があるそうだけど、実際「公」的な立場の人は緊急時に「私」に戻る時間を持てない(持つことを許されない)感があるので、その人間ドラマの二重の放棄こそがこの映画のリアルシミュレーションという性格を成立させてるんだろうなあ、とは思いました。


ゴジラの怖さ
中盤、夜のゴジラは本当に怖くて美しかった。「夜のゴジラ」ってなんか頭悪そうな表現ですね。実際頭悪いんで仕方ないです。
ゴジラってそれこそ「キャラクター」であって、キャラの立ったその先に何があるかって親しみとか慣れとか陳腐化なんで、そこから今更「怖い」という感情を抱かされるなんて思わなかったです。またあの闇に映える紫の光がさあ…色の気高さかなぁ。青白い光を思い起こさせるけど、そのままの色だったらまだここまで怖くなかったと思う。
既存キャラクターのゴジラに対する畏怖の念と絶望のアップデート、これをやってのけているのが『シン・ゴジラ』のすごいとこなんだろな。



・前半と後半のズレ
前半はリアルなシミュレーションであり、おさらいでもあるという感じ。
その流れであの夜のゴジラだったんで、なんかもうこのまんま全滅して終わるんじゃ…って思って見てました。前半で「矢口プラン」って言葉が出てなかったら本気でその展開を有力視してたかもしれない。というか、プロット考える段階で、落とし所としてその選択肢はあったんじゃないかと思うんだよなぁ。
なのに、後半からの急なトントン拍子がすごかった。「全滅の世界線から分離した矢口の生きている世界線」みたいになってた。前半のリアル路線かなぐり捨てて一致団結、任務遂行やったー!っていうこの落差、前半と後半の間にプリズムが置かれてて意図的にねじ曲げられたリアリティを見せられていると感じました。蜃気楼でもいいです。私たちが知っている前半の延長線上では起こらなかったこと、私たちの記憶にはない映像。微かに重なる姿をブレさせて、見せられたのは虚構そのものです。そもそも前半もゴジラいるんでっていうかこれ映画なんで当たり前に全部虚構ですけど、後半の嘘っぱち度合いは角度が違った。普通プリズムって人が物語に接する前に設置されてるんですけど、シンゴジラは途中だったからその存在を認識しやすくて、たぶん後半は「私たちが見たかったもの」なんだと思う。


・めっちゃ高まるあれ
キャラを立たせたり掛け合わせたりっていうのは登場人物にはほぼ行われてない一方で、テロップや劇伴、東京の風景とかではかなり積極的に使われてます。
その集大成、新幹線×「無人新幹線爆弾」のテロップ×宇宙大戦争マーチのシーン最高でした…!!



以上。