王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

終わらせるということ ー ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を見た(2回目)

先日、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を観ました(2回目)。

前回の感想はこちら



【前回】
ロミオ:大野さん
ジュリエット:木下さん
ベンヴォーリオ:木村さん
マーキューシオ:黒羽さん
ティボルト:廣瀬さん


【今回】
ロミオ:古川さん
ジュリエット:葵さん
ベンヴォーリオ:木村さん
マーキューシオ:平間さん
ティボルト:渡辺さん


ということで、ベンヴォーリオ以外全員異なるキャストさんでした。
どちらも……!!
どちらもすごく良かった……!!
こんなにも変わるものかと。
観終わった後の印象が全然違う。
心底全キャストの全組み合わせを見たかったです。
三浦さんのベンヴォーリオ、私絶対好きだと思う。
そんな予感がひしひしとしている。




以下、感想です。
ネタバレありです。
W・トリプルキャストの役者さん同士を比較する記述が多々登場しますが、
どちらか一方の良し悪しを主張するものではありません。
「みんな違ってみんないい」ですね本当に。
作品への思い入れが深まる。



ロミオとジュリエット

とにもかくにも今回一番驚かされたのが古川さんのロミオです。
なんだか勝手に、闇を抱えたガラス細工のように繊細なロミオなんだろうな…!と思っていたのですが、全然違う!
雰囲気は陰っぽく涼やかなのですが、振る舞いは明るくおっとりまっすぐなロミオ。
たとえがあれですが勉強が得意で世間擦れしていない生徒会長みたいだと思いました。
むしろ大野さんのロミオの方が太陽のような優しさの中に闇を抱えているように見えた。


でも始まってすぐ、「これは…!!」と思わされまして。
目線のやり方なのか声の届け方なのかなんなのか、
『僕は怖い』の意味が全く異なって聴こえたんですよね。
大野ロミオは自分自身にひたひたと迫る死を恐れているように感じたのですが、
古川ロミオは、ただ他者の死を怖いと言っている。
自身の消失ではなく、親しい人の喪失を恐れているように聞こえたんです。
古川ロミオは、喪うことは怖いけれど、自分が死ぬことはそれほど恐れていないのだ、という印象を受けて、
結構衝撃でした。
そんなふうに弱さと強さが逆転するのかと。


その延長線上で何が起こるかというと、
ロミオが自分の死を恐れていないせいで、
死ぬことがロミオにとっての救いであるという印象が強くなるんですよね。
古川ロミオにとって一番怖いのは他者の喪失で、
それから逃れるためにジュリエットのあとを追った。
大野ロミオは自分の死を恐れていたけど、それでもジュリエットのあとを追った。



全然、印象が違う。



古川ロミオは利己的で、だからこそ叙情的でした。
「親しい人を喪うこと」への恐怖は、具体的で、観る側がそれを言葉で想像することができるから。
そして、彼がそれを「連鎖させた」という物語まで浮かび上がっていたから。





葵さんのジュリエット、可愛らしく、はねっかえりで微笑ましかったです。
本当に携帯持ってなさそう。


スマホとかSNSに疎いから逆にそれを過信してしまっているという感じで、
「メール読んでないの!?」っていう台詞も妙に説得力がありました。
スマホもメールも万能ではないと、知らない女の子。
メールというツールの不確実性を知ってたら、神父さんが「ロミオにメールしとくね」って言い出した時「メールじゃなくて電話にしてもらえませんか!?」って言っちゃいますよねーーー
「せめてLINEでお願いできませんか?」
「むしろ今お電話をお借りしてわたしからお伝えしてもいいですか?」
「むしろ使いをやってほしいのですが?」
みたいな。
だから神父さんはさーーー、もうちょっと気を配ってもいいですよねーーー
ロミオもさーーー、荷物とかも普通に他人に預けちゃうしさーーー。
スマホどころか財布とかクレカとか着替えとか家の鍵とか全部失ってそう。
最後に「過失」という言葉が思い浮かぶの、個人的には少し気になるかなあとは思いました。なんかジュリエットが違う意味で可哀想で。
そういう点では直接言いに行ったベンヴォーリオは本当に信頼できる。



あと葵さんは台詞を喋るみたいに歌いますね!
歌と台詞がかなりシームレスな印象ですごいなぁと思いました。
そして古川さんとの声の重なりが!
「相性が良い」というわけではない気がしたのですが、決して混じり合わない二人の声色がとても良かった。
一幕の終わり、なんだか泣けてしまいました。
2人の歌声がチェンバロとフルートみたいだなあと思って。
声を重ねても一つにはなれないのに、そのもどかしさが愛しい。




● ティボルト

渡辺さんのティボルトはつよい。
「う る さ いっ!」めっちゃいい……ときめいた……好き……


廣瀬さんのティボルトはもう「ティボルト」でいられない、つらい、無理、だからロミオを地獄送りにする、という感じでしたが、
渡辺さんのティボルトはまだ公私の分別がついているように見えました。
まだ公の仮面を被った「ティボルト」でいられてて、ちゃんと「本当の自分」との境目を認識できている。


で、だからこそ何が怖かったかって、
『今日こそその日』で
ジュリエットを奪われた→ロミオを地獄送りにする
キャピュレットの名誉を守る→ロミオを地獄送りにする
って、彼の中で公私の利害が完全一致してしまっていたところですね。
とにかくロミオを地獄送りにすればキャピュレットのティボルトとしても本当のティボルトとしても万々歳じゃね…?
みたいになってしまっていたところ。


ブレーキなし。迷いなし。
理性を保ったままの狂気。
むちゃくちゃ怖い。
渡辺さんのティボルトには強さ正しさゆえの危うさが表現されていると思いました。




● マーキューシオ

平間さんや大貫さん、アンサンブルの皆様を見ていると、やっぱり踊れるっていいなあ……と思います。
素直に単純にかっこいい。
「言葉に準じない動き」で雰囲気を作る、思いを滲ませる、時代を形作るって、神業じゃないですか……


そして平間さんのマーキューシオはとても自立しているなあと。
その方向がまっとうかは別として、
黒羽さんのマーキューシオのように、「繋ぎ止めておけば死なない」という感じがない。
どんなに止めても死ぬ時は死ぬだろうな、という印象でした。
そしてその影響で、ベンヴォーリオもマーキューシオを繋ぎ止めようとしているようには見えず、お互い自立した関係に。


マーキューシオ、ロミオがいきなり結婚してしまった上に翻意の説得にも応じないとわかって、「もう終わりだ」みたいなこと言って去っていくと思うんですけど。
その後の平間さんのマーキューシオは、ロミオがロミオ自身の名を(自分たちの「居場所」を象徴するモンタギューの名を)愚弄したように感じられることに対する怒りを、
ロミオ自身に向けられずにティボルトに転嫁しているという感じで。


このマーキューシオの戦いは彼とモンタギューの名誉回復のために必要なことであって、
それがわかるからベンヴォーリオもそれを否定しきれない。
止めてしまえばマーキューシオがマーキューシオでなくなってしまうというか。ちょっと尾崎豊さんっぽくなってますけど。マキュがマキュであるために戦っている。
マーキューシオにも、自由に生きる権利があるんですよね。ロミオが愛による解決を主張するのと同じように、マーキューシオは、マーキューシオのやり方でしか前を向けない。


ティボルトもマーキューシオも、本来はロミオに向けるはずの怒りをいったんお互いに向けていて、
2人とも本当はロミオに対して怒っている。(なんなら怒っている理由も割と似ている)
となればその当事者ロミオが間に割って入ってきた時、躊躇なくいけるほうが本懐を遂げてしまうのは当然で。
マーキューシオはロミオを刺せないよね……だからティボルトに刃物を向けてるんだもんね……


その「ロミオを刺せない」ことの根拠である愛情が、最期にロミオへとまっすぐ向けられるのも切ない。
結局ロミオのことは憎めないし、逆に心配するという……マーキューシオー!!!




● ベンヴォーリオ

一幕ではしゃいで古川ロミオに結構強めに突っ込まれていたのがかわいい。


古川ロミオと平間マーキューシオの間にいる木村ベンヴォーリオは、誰にも依存していないなあと。
そしてとても聡い。
これは木村さん自身の演技の変化というより、周りのキャストさんの違いによってそう見えるのだと思うのですが。


一番その差に感動したのが、ベンヴォーリオがロミオを庇うために言う「僕たちは犠牲者だ」のところ。
黒羽マーキューシオ・大野ロミオの時は、共感性感受性の高いベンヴォーリオが2人の代わりに「僕たちは(ロミオは、マーキューシオは)犠牲者だ」と必死に訴えているという印象でした。


今回は、悲しみに動転しつつ藁にもすがる思いで「僕たち(ヴェローナの子供たち)は犠牲者だ」という切り札を切った、という印象に変わって。
全部が全部本心ではない、
大人たちと刺し違えるためのとっさの機転。
憎しみの継承という言説、あなたたちなら身に覚えがあるでしょう、と。
彼は大人たちの使う「憎しみ」という言葉を覚えていた。


これが「全部が全部本心ではない」というところが重要で、
ティボルトは憎しみを大人たちに植えつけられたと本気で思っていたけど、
ベンヴォーリオやマーキューシオはそういうのそこまで興味なさそうだったんですよね。
自分たちは自分たちの意志で動いているんだって思ってた。
そこの感覚が、「違った、僕たちはやはり犠牲者だった」と完全に翻ったか、
「僕たちは犠牲者なんて弱きものではないけれど」と思い通している部分があるか、の差。
たぶん、マーキューシオの弱さに共鳴している(対、黒羽マキュ)ように見えるか、強さに共鳴している(対、平間マキュ)ように見えるかの違いによるものかなあと。



大公様に対してロミオを庇うように手を広げていたのが、子供っぽくて、兄を守る弟みたいでね……
ロミオにそうやって守られたことがあるんだろうな。




ところで当のベンヴォーリオはロミオがティボルトを刺すところを見ていないんですね!
マーキューシオを抱きしめて項垂れていて。
憔悴していたからというのもあるだろうけど、まさかロミオが復讐するとは思ってもみなかったんだろうなあと。
裏を返せば、ベンヴォーリオ自身に復讐という発想がなかったということにもなりそうですけれど。
彼は最初から最後まで憎しみにとらわれてはいない感じがしますね。



あと『どうやって伝えよう』、今回は冷静に聞けたんですけど、
最初のほうむちゃくちゃ優しいトーンで歌ってたんですね……めっちゃロミオのこと考えてるじゃん……「俺たちが」夢に見ていた世界じゃなくて「君が」夢に見ていた世界の話をしてるの、俺と君の方向性が若干ずれていたことを示唆しているしその上でむちゃくちゃロミオのこと尊重してるじゃん…………自分の痛みは後回しでロミオの痛みに思いをはせるベンヴォーリオつらい……
キャピュレット側はわりと自分のことを歌っている歌が多かったなあって、
相手のことばかり考えてるベンヴォーリオの歌を聴いてたら思いました。



でも、そんな優しいモンタギュー第1位(私の中で)のベンヴォーリオですけど、
狂気の沙汰のとこで思ったんですが
もし亡くなったのが他の仲間でも、ベンヴォーリオは喪が明けるまでちゃんと待ったんですかね?
これ、役者さんと演出によって全然違うと思うんですけど、
木村さんのベンヴォーリオだと、他ならぬマーキューシオだからこそそういう気持ちになったんじゃないのかな、と思えるんですよね。
みんな狂っていると言うけど、ベンヴォーリオだってマーキューシオを亡くすまではそっち側だったんじゃないか、という気がします。
ある意味しっぺ返しを受けているのかも。
彼も。




ヴェローナの大人たち

ロレンス神父がメールの件もそこそこに歌い出した時、
「ちょっと待って!!そこに正座して!!!」って言いたくなったのに、歌声を聴いていたらそんなことすぐ忘れてしまったので岸さんはすごい。
気が散っても本筋に呼び戻してくれる。


シルビアさんの乳母、一番感情移入してしまったかもしれません。
ジュリエットに幸せになって欲しかったんだよ〜〜本当に〜〜〜!!
心の底から大切なんだよ〜〜ジュリエットのことが〜!
ロミオなんかよりパリス伯爵の方がいいよ、って言うの、つらいし、でも半分は本当にそうである気もするし。
家族愛を押し付ける気はないけど、でも、ジュリエットなんで死んじゃったの……


パリス伯爵もっと見たかったです。
めっちゃいい人。
姜さんだからこその人の良さ、おとぼけ加減、チクチク感。
翌日結婚するつもりで来るかもと思うと心が痛いんだよな……


ヴェローナ大公、カズさんー!!!
ヴェローナで一番カッコいい。
大公様が階段を降りてくるのほんと好きで。
登場するだけで場が締まるのですよね。


モンタギュー夫妻とキャピュレット夫妻は、この悲劇の一番の加害者であり被害者なんですよね。
我が子の死を見るまで、ほとんど何もできなかった。
でもロミオってそこまで憎しみを植えつけられていなかった印象なんですけどどうだったんですかね…
モンタギュー夫妻についてはあまり多くは語られませんでしたが、登場するたびにつらくなりました。
ロミオはまっすぐ育っていたようなのになんでこんなことになってしまったんだろう。
ジュリエットパパの歌はどうしてもほだされてしまいます。
あんな風に歌われたら、パパのこと憎めなくなってしまう。



ヴェローナの子供たち

大人たちに罰がくだって、争いは終わったけれど。
親の世代が和解したからといって、子の世代で新たに生まれた確執は別になくならないじゃないですか。
ロミオとジュリエットの死よりもマーキューシオやティボルト、その他犠牲になった仲間(がいるかわからないけど)の死のほうがよほど悲しいという人たちがいるはずで、
彼らの傷は、ロミオとジュリエットの愛ゆえの死を知ったところでどうにもならないじゃないですか。
残った若者たちの中にその葛藤を抱えている人がいると思うんですけど、
そんな彼らと共にこれから歩んでいくのがベンヴォーリオの役目なのかなあと思いました。
彼も大切な人を敵方に奪われた当事者で、いま喪失の連鎖の末端にいる。
その彼が「許し合おう」と声を上げるのは、大人たちが言うのとは少し違う意味合いを持つ気がします。
争いを終わらせよう。
この喪失に耐えよう。
ここの木村さんの声が、思ったよりずっとよく通るのが私はとても好きです。


最後ロミオのおでこに自分のおでこを寄せるところ、お別れをしているようにも見えるし、「君が」夢に見ていた世界になるよって伝えているようにも見えました。
「俺が」夢に見ていたのはこんな世界じゃないけど、
「君が」夢に見ていた世界はきっとこんなんだろ、と。




そんな見方もあるかもねと水に流してください。





以上。

テクノロジーは悲劇に敵わず、役者は悲劇を塗り替える。ー ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を見た

先日、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』を観ました。
面白かったー!!


話の筋は知っているし、物語そのものにそれほど思うところはないのに、なんでこんなに面白いのか。
このロミジュリは何回でも観られる、と思いました。
以下、感想です。ネタバレあり。
とても一方的な解釈の話です。
そんな見方もあるよねと水に流していただけたら幸いです。
公式サイトはこちら



● 推しがめっちゃいい

推しのお芝居がいい。輝いてる。楽しそう。最高。
私は木村達成さんのファンなのですが、舞台上でベンヴォーリオが動いているのを見て
「えー!やだ!あの人いい!誰!?
……え!?木村達成さん!?」
ってなりました。
推しじゃん!みたいな。


だって、こんなに歌えるなんて聞いてないし!!
一年前の『ラカージュ・オ・フォール』では「譜面を真摯かつ丁寧に追えている」という感じですごいよかったんですけど、
今年の木村達成さんは「譜面通りの歌はマスターしている」って感じで、少し余裕が!!生まれている!!
「何を歌うか」から「どう歌うか」に変わっている。


ダンスも一年前は若干どんくさい感じがあって、それが役に合ってて可愛かったんですけど、
今年の木村達成さんはダンスにこなれ感があって、
「あーっっ!!去年のあれ演技だったんだーっ!!」って一年越しに思い知らされました。
ステップしっかり踏むジャン・ミッシェルかわいいよジャン・ミッシェル。



お芝居もね……楽しそうで……
ベンヴォーリオという役を全力でまっとうしようとしている様が眩しくて、思わず目を細めました。


この日グッズ買う予定じゃなかったのに、終演後気分が昂ぶっちゃってものすごい勢いで物販行ってアクリルキーホルダーなど買いましたよね。
「あれっ今日手持ちあったっけ!?」って焦った。あってよかった。


木村さんのお芝居、ここからさらに上に行く感がましましだったので、次ほんと観るのが楽しみです。
もっと通えたらよかったー!!!!



ベンヴォーリオについてはまたあとで書きます。



ロミオとジュリエット

大野さんのロミオと木下さんのジュリエットの組み合わせ、光り輝くばかりで眩しすぎません…!?
ただでさえ推しが眩しいのに、このお二人がさらに眩しくて、気持ち的にはサングラスが必要。


大野さんのロミオは、なんかこう、うまく言えないんですけど、「外側がクッションでできているのかな…?」っていう素材感。
どんな衝撃でも吸収する緩衝材みたいで、柔らかくあたたかい。
対して木下さんのジュリエットは「外側に吸音材が施されているのかな…?」と。周囲の音を吸い込んでしまうような凛とした何かがあって。


だからこの二人が向かい合うと「ふわっ」「スッ」とすべてが静かになるんですよね。
めっちゃ喋ってるんですけど。
そこに二人の世界が出来上がっていて、一瞬で惹かれあってしまったことにも説得力がありました。


それに、二人が周りの言うことをあまり聞かない感じもとてもしっくりくるんです。
自身の性質に守られて、外からの働きかけが届かない。
特にロミオのクッション性は、ジュリエットにも仲間たちにも優しいけど実は本人を一番に外の世界から守って(≒阻んで)いるんですよね。
だから仲間に好かれるし、本人は愛を探している。
その彼にもっとも寄り添うことができたのは、内側から湧き上がる死、という。


大野さんのお芝居は初めて拝見したのですが、とにかく誠実な演技をされる方だなあと思いました。
最後の挨拶の時に「皆様の一生の思い出になるように……」というようなことをおっしゃっていて、
ああ、そんなにも高い志で挑まれているのだな、だからこんなに必死で、命を少しずつ燃やすような演技をするのだなと思いました。
「一生の」って、言葉としてかなり強いですよね。


木下さんの感極まったような挨拶にもうるっときてしまったのですが、
その時に感じたご本人の繊細な感じ、ジュリエットの時はまったく感じなかったなと思ってまた驚きでした。
木下さんのジュリエットは意外と一本気で勇気があるんですよね。
可憐なのだけれど、走るのとか速そうで。
「そうなりますように」?みたいなことをボソッというシーンとか最高でした。
思わずハッとさせられる、そんなお芝居が多くて。
彼女のジュリエットの歌は心地よくて永遠に聞いていられます。



● ティボルト

ティボルトかわいそう……。
ティボルトとロミオは二人とも跡取りだしジュリエットのことを好きになってはいけないのも同じなのに、なんでこんなことになってしまったんですかね??
と見ていて考え込んでしまうような、生真面目ティボルトでした。


ティボルトは名前を守るために戦い、己を抑え込み、苦しんでいて、それにひきかえロミオは……
ティボルトがあれだけ俺はティボルトだと言い聞かせて自身を律していたのに!
ロミオは名前なんかどうでもいいみたいなこと言っちゃってて!!ぱっと結婚しちゃうし!
ジュリエットを奪ったことに加えて、その名前なんて意に介さないみたいな感じが本当にはらわた煮え繰り返って仕方ないだろうなあと。
ティボルトはこれまでの人生のすべてを否定されたのですよね。ロミオに。
そして、人生のすべてを奪われるのですよね。ロミオに。


廣瀬さんのティボルトは、刺される直前にロミオに対してそれほど敵意をむき出しにしてはいないような感じがして、
それがまた悲しい。
私にはティボルトが少しだけロミオに赦されようとしたように見えてしまいました。
なぜ。なぜ。



● マーキューシオ

黒羽さんのマーキューシオ、未成年性がすごい。
自分も含めて何も守ろうとしていない。
守られようともしない。
そういう概念がない。
だから生き急いでしまう。
ただ何も奪われたくないから戦っている。
もーーだから木村さんのベンヴォーリオが思ったよりマーキューシオ寄りの立ち位置にいるの、すごいわかるんですよ……
肩掴んでないと死んじゃいそうなんですもん。
一緒にいれば安心、今日も生きてる、楽しいねと。
存在が刹那的。
大野さんのロミオもふわふわしてるけど、そのへんは大丈夫そうだから。


「天真爛漫キャラ」を演じるのと同じくらい、生きるための頼みの綱のひとつが切れてしまっている状態を演じるのは難しいと思うのですが、
黒羽さんは普通にやってる感じですごかったです。とても安定感があった。


最初の方は2人のちびっ子ギャング感が可愛いかった……全然ちびっ子ではないんだけど。



● ジュリエットのお母さん

春野さんのキャピュレット夫人、こわかった……!!
彼女の体現する「母親の思い」って、今この現代の日本では「呪いである」と評価が定まりつつある種類のものであって、
それを反映したお芝居になっていると思うのですが、
時代が違えば私も「あれが本当の優しさ」と認識したかもしれず。
そういう意味でも恐ろしく、悲しかった。
彼女もまたかつての子供であったからこそ。



● 死

大貫さん……
この作品の空気を決定している役ですね。
いるなあ、いるなあって常に気になるし、油断するとすぐ飲み込まれるし。
なんか、『旅の絵本』を眺める時の言い知れぬ不安に似ていた。
大貫さんの死は外からの訪問者ではなく、内にいる影という印象を受けました。
何を実体にしているかは、知らない。



● テクノロジーの発展はロミオとジュリエットの悲劇を完全喪失させ得るのか

っていう実験の側面があると理解したのですが。
結論はスマホをもってしてもロミジュリの物語には勝てないという。
人が関わる以上、悲劇は継続させることができる。
人が関わる以上、死はいかようにも忍び込むことができる。
そして人はミラーボールの下でも恋に落ちることができる。



ほんと『ロミオとジュリエット』という悲劇の強度すごすぎで、
世界設定はちゃめちゃなのに成立してるし
スマホはすごく浮いてるのに物語は瓦解してないし
背景にチェキ的なのが映し出されてもベンヴォーリオは歌うんですよね。
何が面白いのかわからないのにむちゃくちゃ面白い。
見せ方、潤色、演出、楽曲、何らかのきっかけで鷲掴みにされてしまえば整合性なんて気にならなくなるんだなと思いました。



● ベンヴォーリオ

木村さんのベンヴォーリオはすごく普通の人でした。
ふわふわしてるマーキューシオとロミオをつなぎとめて、ただ楽しくやってた子。


でも急に終わりが始まって、
自分は地に足がついている、という自負が苦しみに変わり、
全能感はまぼろしだったと知って、
自分だけが狂えないという事実に絶望する。
「マーキューシオの喪が明けるまで」という言葉が誰にも、ただの一人にも届かないあのシーンが本当に悲痛で。
王でもリーダーでも器用者でもないただの凡人。
ジュリエット服毒前のソロ、すごい良かったです。


「どうやって伝えよう」は大人になる過程を見せてくれているようで、
でもロミオが亡くなった後は風船の紐を手放してしまった子供みたいでした。
彼がみんなに生きていてほしいと思ってやったこと、全部裏目に出て、みんな飛んでっちゃった。
「争いはもういい」という感情がリアルで、あれは愛とか自由とか理性とかよりも「疲れ」だな、っていう。


観る前は、ベンヴォーリオには一歩引いた常識人というイメージがありましたが、
木村さんのベンヴォーリオはどちらかというとずっと火中の栗を拾いにいってる人で、他者への共感性が高く、境界が曖昧ですらあるように見えました。
「僕たちは犠牲者だ」って、「僕たち」に自分を入れないで言ってるみたいな。
まるで自分が引き裂かれたみたいに、仲間の死を心から悲しみ、いとおしむ、無力で心優しい青年でした。
彼はひとり取り残されて大人になってしまった。もうかえれない。行くしかない。


そういうベンヴォーリオもあるんだなあと。
このベンヴォーリオは私が思っていたよりもあわれで、悲しい。



……でもなんか、なんだかんだ、この人たぶん死なないな、という感じがあって、それがこの街に残された希望なのだなと。
悲劇は繰り返し演じられることで、その悲しみも、喜びも、何度でも新しく塗り替えられるのだなあと思いました。
当たり前のことだけれど。



キャストの組み合わせ総当たりで全部見たいです。



以上。

ハイステ “最強の場所” 感想メモ

はーーーー……
終わってしまった……




今回はライブビューイングでの観劇でした。
最後のカーテンコール、小坂さんの挨拶の途中でだんだん声が小さくなって画面がファー〜って白くなって終わってしまい、むちゃくちゃ「エーー!」だったのですが、
後日烏野キャストのカーテンコール映像がWebで公開されるということで、公式様どこまでもありがとうございます……





今日は、なんだかもう、書くことないな、と思いました。
「やりきった!」という気持ちでいっぱいです。
私、何もやってないのに。無関係者なのに。
観ていただけなのに。
なんの達成感なのかわかりませんが、
「私も明日からまた頑張ろう!」と思っています。




あー!でもこれだけは言わなければ!!!




及川さん、めっっっちゃ良かった……!!




遊馬さんは、本当に3年間かけて最高の及川さんになっていったのだなあと思いました。
「3年間ありがとう」という台詞が二重の意味に聞こえて、
及川さんの3年間、遊馬さんの3年間、高校の部活という時間、舞台を作り上げた時間、そういう、想像し得る彼(ら)の想いみたいのが一気に胸に去来しました。





あと狂犬ちゃんとSATORIさん、すっごい「マンガっぽい」キャラなのに「うわーーーー3次元にちゃんといるーーーーー!!」って感じがしてすごいワクワクしました……動きがまたリアル。リアルってなんだろう。
そういえば、その覚さん役の加藤さんをはじめ、白鳥沢メンバーのカーテンコールの挨拶が本当にしっかりしていて「これなら会社のちょっとしたパーティーのスピーチも任せられるな……」と思っていたところに、ウシワカ役の有田さんの挨拶がすごいふにゃふにゃで映画館中がホンワカしてたの控えめに言って最高でした。



あとねあとねやっぱりツッキーと山口が最高でね…………!!!!!
山口の槍の殺陣めっちゃカッコよかったなあ。
ツッキーはほんともう言うことないなあ。
感無量。小坂さん超ツッキーですよね。





……だめだ!!
このまま行くと全員書くことになる!!!
点呼になってしまう!
点呼っていうか、語彙力の消失した金八先生の最後のホームルームみたいになってしまう。
まだ6人しか書いてないのにもう3回最高って言葉使ってるし。
だってみんな最高だったから!!




観劇中は、なんだか、思い出のつまった宝箱に触れているようでした。
久々に学習机の引き出しを開けて、「あー、この楽譜、あのコンクールの時のだな」とか、「あー、この手紙、授業中にまわってきたやつだな」とかって、
ひとつひとつ昔の思い出を愛おしんでいくみたいに、
「ああ、この音楽、日向と影山が初めて会った時のだな」とか、「ああ、このシンクロダンス、最初はグダグダだったな」とかって、自然と思い出されて、懐かしんで。


ものを取り出していけばいつかは底が見えるように、
いつの間にか舞台の終わりも見えてきて。
「これがスガさんの最後のプレーだな」、とか、思ったりして。




ハイステと出会ってからの時間の積み重ねが、記憶になって、思い出すとそこに感情が伴って、いつの間にか自分でも驚くほどの愛着になっていた。



名残惜しくて、
でもこれで本当に大団円という感じがして、
聞こえるわけがないのに
映画館でもやっぱり拍手をしてしまうのは不思議だなあと思いました。




楽しかったなあ。
烏野キャストのみなさん、本当にお疲れ様でした。
キャストの皆様、スタッフの皆様、関係者の皆様、何もかも忘れて夢中になれる時間を、ありがとうございました。
そして須賀さん。素敵な日向を、素敵な劇団を作り上げてくださり、
本当に。ありがとうございました。

NHKドラマの岡田将生さんがすごいことになってる噺

「イケメン俳優」ってのは
なかなかにつらい稼業でございまして、
コケれば「やっぱり」
当たれば「たまたま」
ブレイクした日にゃ「のぼせるな」、
まして漫画アニメの実写なんざ出ようものなら
「やめてよして」の大合唱にございます。



ところが昨今、
そんなそしりをそっと宥めるような
えらいドラマがありまして。






えっタイトル?







タイトルはほら、
あのーーーほら……アレです、




NHKのーーー、
金曜夜10時からやってるーーーー、
岡田将生さん主演のーーーーー、
あーー!ここまで出てるのに出てこない。




しょうがないからタイトル出るまで
もう少しお付き合いくださいね。
えっいやだ?
そんなあなたは
金曜10時にNHKをつけてみてください、
たぶんアバンの後に
タイトルが出るんじゃないかと思います。



聞いてくれる方はもう少し。


このドラマはね、
とにかく主演の岡田将生さんが
ものすごいんですよ。
なんでかってね、
主人公の八雲さんって落語家さんをね、
青年期からおじいさんになるまで
ずーっと岡田さんが演じているんですよ。



若い頃はともかく、
おじいさんになってからを演じるのは
難儀なことでしょう。
だって岡田さんまだ29歳ですよ。
私も第一話を見て驚きましたよ。
ご年配のメイクを施した岡田さんが、
そんなに歳の変わらない竜星涼さん(25)を
小僧っ子扱いしてるんですからね。
「いやこんなの間が持たないだろ」
って普通に思いましたね、
だって29って30にもなってないですからね。



ところがね。
これが不思議なもんで、
なぜだかすぐに気にならなくなったんです。
まだまだ若いはずの岡田さんが、
お年を召された八雲さんに見えるんですよ。
なんでだと思います?





「岡田さんのおじいさん演技がうまいから」、
まずはそれにつきます。
きめ細かな特殊メイクを真実のものにする、
岡田さんの緩慢な動き。
「老いとは何か」、その定義について
こちらも思わず考えてしまう。
この演技は本当に見ものです。
そして、ここにはまた別の仕掛けもありそうで。



私が思うにね、
八雲さんは、
「どこかで時間が止まってしまった人」なんですよね。
歳は取っているけど、
時代は過ぎているけれど、
彼の中の時計は止まっている。




だから、「おじいさん」を「若者」が演じているという小さな違和感が
そのまま八雲さんの「見た目」と「中身」のアンバランスさとなって
滲み出ているんですよね。



これは一種の暗喩でもある。



青年期を演じた役者に
老年期まで続投させるというのはよくあることだけれども、
そのキャスティングがここまでカチリッとはまるのは
見ていてたいそう気持ちがいいものです。




第二話からは回想に入りましてね、
八雲さんの幼少期から壮年期までの人生が語られるんですがね。
青年期の八雲さんがこれまた大変に美しい。


どのくらい美しいかっていうと、そりゃあもう
「有楽亭八雲 岡田 美しい」
で画像検索してもらうとよくわかりますね。



さてここでいう「美しさ」とは、
容姿だけに限ったことではございません。
立ち居振る舞い、仕草、視線、
そのひとつひとつに隙がない。
美しい八雲で在ろうと自身を律している、
その内向的な縛りに「品(ひん)」が宿っているんですね。




これが劇中で彼のやる「落語」にも
大きな影響を与えていて、
なんとまあその発される声の、
艶やかなこと。



正直言うと、私、
少し見くびっていたのですね。
風貌は完璧かもしれない、
だけども落語のシーンは
それなりでしかないだろうと。
芸では八雲さんに近づけないだろうと。
しかもアニメ版石田彰さんだぞと。
アニメ版、石田彰、さんだぞと。





いや知ってました?
岡田さん、むちゃくちゃ
か細い声が出るんですよ。



言われてみればこれまでも
たまに素っ頓狂な声出してた気はしますけどもね、
でもそれがね、
こんなに巧みに操られた声技になるとは思わなんだ。




落語家として上手いというのとは違うかもしれない、
けれども、
役者としての意地と凄みがそこにはある。
ドラマで有楽亭八雲を演じているのは自分なんだと、
睨め付けて譲らない心根の強さが見える。






岡田将生さんがこんなに役を愛する役者さんだなんて、
知りませんでしたよ。






さて、回想は第六話で終わり、
第七話からは再び六十代の八雲さんが現れます。
ここでこの作品への驚きを新たにしてくれたのが
竜星涼さん(25)の本格的な登場なんですね。




彼は刑務所帰りにそのまま八雲に弟子入りを志願するという、
元チンピラの与太郎役を演じています。
またこの与太郎が実に与太郎でしてね。
与太郎与太郎、まあ見事な与太郎具合なんです。



少し話があっちゃこっちゃしますがね、
実はこの作品、ここまでの回想で
山崎育三郎さん演じる有楽亭助六という
もう一人の落語家が出てきていましてね。


八雲の親友でありライバルである彼は、
繊細な八雲とは正反対の性格、
言ってみれば「根明」なんでございまして。
その彼の人ったらしな落語がまたうまい。
山崎さんの才能は
こういう方向でも活かされるのか、
と思わず唸ること三度。




一方、与太郎与太郎でまた「根明」なんですね。



「根暗」な八雲さんに縁のあるこの「根明」二人、
同じ根明でも微妙に違う。
助六がどこか危うさを抱える
「一寸先は闇落ち」タイプの根明なら、
与太郎は何があっても光属性、
「石橋を叩いて踊る」タイプの根明なんです。




似ているようでどこか違う、
そんな助六与太郎の「差分」を、
山崎さんと竜星さんは二人で
見事に表現してしまっている。
与太郎が動けば動くほど、
助六という人物の輪郭がより鮮やかになる。




第六話、回想の中で山崎さんは
これ以上ないであろうという
助六の「芝浜」を披露してくれます。
本当に素晴らしかった。



その「芝浜」を、
第八話で与太郎が受け継ぐ。
そんなシーンで、
斜めに見ていたこちらが
ぐうの音も出ないような
あの台詞の言い方。




うまい、うますぎる。
役者も演出もうますぎる。






第八話まで見てきましたけれどもね、
もう本当に、
山崎さん、岡田さん、竜星さんの
三つ巴。
それこそ助六、八雲、与太郎のように
三者三様、全員が輝いている。





そしてその中でもやはり、
主演として、
ひとりの人間の青年期から老年期までを
生き抜こうとする岡田さんの佇まいには
目を見張るものがあります。










……いや、ほんとのところ、
私、少し大袈裟に言ってるかもしれません。
ちょっと大仰かも。


でもこのドラマを見てるとね、
これくらい諸手を挙げて絶賛したくなるんですよ。
なんででしょうね、わからないけど、
この岡田さんの挑戦は、
なんとなくもっと誰かに見てほしいって思ってしまうんですよね。




もし自分が岡田さんのファンだったら、
これって贔屓目に見てるだけかしらなんて
思ったかもしれませんけどね、
私は岡田は岡田でも
V6のほうの岡田さんのファンなんで、
もう堂々と言ってしまいます。



このドラマの岡田将生さんはとても良い!!!








ここまで読んでくださったあなた、
ありがとうございます。
いや、ドラマ見てくださいなんてことは言いません、
ただ岡田将生さんがすごいよってことを言いたかっただけなんです。



少々長くなってしまいましたので
私の感想はこの辺で。
原作を尊重し、
ろくでもない改変もなく、
落語を「演じる」ということに
真摯に向き合った作品です。
充分すぎるほど満足な「実写化」でした。






それにしても結局タイトル思い出せませんでしたね。
なんだったかなー、
しょう、しょう……
え?縦?微妙な縦読み?上の文?
「少々長く……」
いやそんな回りくどいことしても何も面白くないですね。



NHK総合 毎週金曜夜10時から、
昭和元禄落語心中』、
残り二話ですが
どうぞお見知りおきを!

舞台『魔界転生』感想メモ

先日、日本テレビ開局65年記念舞台『魔界転生』を観たので感想を書きます。



● はじめに

「刺さる」か「刺さらない」かで言えば、私には「刺さらない」作品でした。
にもかかわらず、4時間飽きずに観ることができまして。あらためて4時間て!休憩を抜かしても3時間半。3時間半あったら結構色んなことできたな〜とかそういうの微塵も思わなかった。本当にすごい。


いつも、自分の好み心底どんぴしゃみたいな作品に出会えた時は帰り道もずっと「ヒャッホー!」で、
そうじゃなかった時はすぱっと「自分には合わなかったな!」で終わる感じなのですが、


この作品はどちらでもありませんでした。
「合う合わないについて考えてたことをいつの間にか忘れてた」。
こういう冗談は苦手だな、とか色々拒否反応もあったんですけど、それでも「あっ」と思ったところから知らないうちに心掴まれ最後はスタンディングオベーションですよ。



距離感のある人間の心も置き去らず、くるっと巻き込んで一緒にエンディングまで連れて行く、それってほんと難しいことのような気がするんです。
老若男女問わず、好み問わず、慣れ不慣れ問わず、大きな作品で幅広い客層の期待に応えるってこういうことなのだなあ、と感嘆しました。



以下、特に強く印象に残ったシーンや登場人物についてメモ。
ネタバレありです。ご了承ください。






● お品さんと淀殿のシーン

もーーー!!ここ!!!!高岡早紀さんと浅野ゆう子さんが本当に素晴らしい!!!!
私、「動いてないのに全く棒立ちに見えない演技」が大好きなんですけど、あのお品さんにはほんともう心の中で事前スタオベしてましたね……ブラボー!!!!
そして淀殿のあの表情声仕草!!!!むちゃくちゃ納得感のある変化!!!!泣く!!!
気の強いおなごじゃの→私もすぐに行きます覚悟なさりませ、みたいな流れのところ、すっごい好きでした。



根津甚八さん

私が一番最初に「あっ」と思わされたのが甚八さんの初登場シーンでした。
最初村井さんだと気づかなくて劇団出身の役者さんかと思ったんですけど、なんか心の眼鏡を拭いてよく見たら村井さんだった。
あの安定感ーーー、もはやベテランの域ーーー本当に上手いーーーーすごいーーーー。
甚八さんがよく喋るシーンが終わると、ふうっと息をついてしまって、それで「あっ私今引き込まれてた」って気づく感じでした。めちゃくちゃ上手い人のミスチル一曲聴いたみたいな疲労感。
もはや台詞回しというより節回しですよね、村井さんの甚八さんには半端ないグルーヴを感じました。
あとこういう方が職場にいたらめっちゃありがたいと思った。又十郎のことちょいちょい気にかけててね……さりげなく「しっかりしないと」みたいに励ましたりしててね……優しい……
魔界衆チームに甚八さんがいたら四郎ももうちょっと楽だったと思う。



天草四郎

カーテンコールの時の溝端さんめっちゃ流し目で妖艶だった!!!!
でも本編では意外にもそういった人物造形ではなくて、ただひたすらに、普通の青年で。
二度も担ぎ上げられてしまったその姿、同情というかなんだろう、「がんばって……」みたいな。
なんかもう「扱いにくい方々だ」あたりのあれ、適切なフォローもバックアップもなくいきなり大きなプロジェクト任されてる入社2年目の正社員さんのそれだよね……入浴剤とか入れてゆっくりお風呂につかってほしいよ……デスクの上に「おつかれさま!」って書いたキットカットでも置いときたいよ……ていうかちゃんとおうちに帰って……
最後の方、階段のセットが出てきたので「これはやはり階段落ち!?」と思わせて結局しないじゃないですか。そこがほんともうこの作品の天草四郎の解釈のあらわれみたいでー!!!!!
溝端さんの漂わせる悲哀、厭世、「本人は『ただの人』と思っているかもしれないけれど『祭り上げられるほどの何かが間違いなくある人』」の絶妙なオーラ加減、とっても良かったです。



柳生宗矩魔界転生して奥から走ってくるシーン

最高でしたよね。
花火バーって出てきてうわーーやっぱり火の演出ってかっこいいな!ってテンション上がったところにさらに髑髏柄の着物きたマツケンさん登場ですからね、「ひゃー!!!!」ですよ。むちゃくちゃカッコいい。
それに対して淀殿は特殊効果なしで出てきたのもよかった。ここの浅野さんの「待ちくたびれたわ!」やカーテンコールの宗矩が持つ金色の布が大多数の理解できるメタ的ジョークとして成り立つのがほんと感動的。「みんなが知ってる名優」であることの凄さ。



柳生宗矩vs柳生十兵衛

私はこのシーンを先程の淀殿vsお品さんのシーンと対になるものとして見ていたんですけど、この両方に甚八さんがひそかに立ち会っているという構成がなんだかとても好きでして……甚八さん、真田十勇士ではどういう立ち位置だったのかなあ。っていうか何、いま調べたら村井さん真田十勇士甚八だけじゃなくて秀頼もやってたの!?!!あああああーーー!そうなんだーーーーあーーーあーーーーー。あのシーンやあのシーン、色々見方に層が出来てきますねうわー。知らなかったー。知っとけばよかったー。


話を本題に戻して、最近マンガ『ワールドトリガー』を一気読みしたのですけど。
強敵のお爺さんを前にしてあるキャラクターがこう言うんですよ。

親父に鍛えられた6年間
親父が死んでからの3年間
その全部をあわせても
この爺さんの厚み・・には勝てない


それなーーーー!
柳生宗矩のあの厚み!!!絶対に勝てない!!!!見ればわかる!!!!
生身の人間からそういうマンガみたいな年輪殺気を感じるってそうそうできない経験で、もはやこのシーンだけでも舞台を観に行った甲斐がありました。
私のような若手俳優さんのファンが松平健さんの殺陣を肉眼で拝見して「カッコイイ」と思えるこの空間、
そして逆に若手俳優さんたちの殺陣を見て「あらいいじゃない」と松平健さんのファンの方が思ってくださるかもしれないこの空間、
なんて贅沢な異文化交流なんでしょう。
感謝しかありません。



● 柳生又十郎

出てきた時からずっと(なんか「チェブラーシカ」に似てるな……)
と思ってました。
帰ってきて画像検索したらそんなに似てなかった。


私は又十郎を演じていた木村達成さんのファンなのですが、今回はなんだか孫の学芸会を見守る祖母みたいな気持ちで見てしまいました。「あの子、うちの孫なんです!」みたいな。上川隆也さんの弟だなんて大役を立派に務め上げて……はじめての殺陣や所作も頑張ってて……上川さんと松平さんと木村さんの3人だけでお芝居するシーンもあって…………ウッ。
いつも思うんですけど、木村さんは漫画原作ものだとクールな役どころを演じることが多いのに(そしてそれがめちゃくちゃ板についているのに)、
そうでないと途端に 一に愛嬌、二に気合い、三四がなくて五に愛嬌テヘッ みたいな感じになるのすごく良いと思います。好きです。


ものすごい個人的には、十兵衛の言う「又十郎の剣は活人剣」があまりピンときていなくて、「小栗さんは!? 小栗さんのことはどうなるの!?」という気持ちが拭えないですね……
小栗さんが死なばもろともという時に、又十郎、小栗さんを「斬れない」どころか一瞬目を逸らしますよね? その隙に小栗さんがやられてしまうじゃないですか、それが頭から離れなくて! 四郎だけを斬ろうとして間に合わなかったならまだしも、といまだに悶々としてます。その経験があるからこそのこれからに期待ということ…?
この活人剣という表現、最後まで斬ろうとしなかったけど斬ることで坊太郎を救った主税の剣のことだったらすごい納得できるなあとか。
あと逆に、坊太郎が主税に言った「俺とお前とでは背負っているものが違いすぎる」という言葉は主税より又十郎のほうが私の中で通りがいいなあと思ったりして、
すごい嫌なこと言うと、「松田さんの役が十兵衛の弟という設定で良かったのでは?」という考えが私の頭をよぎりました。


しかし!!!!
そんな私の邪念をはねのけてあまりある、
又十郎の「みんなの孫」力ですよ……!!!!


又十郎がプンスカ出てきて、
ギャンギャン怒鳴って、
フリーズしたまま息吸わなくて、
きっちり馬に蹴られて、
魔界衆にビビりまくって、
うっかり腰抜けそうになって、
そしてそんな彼の一挙手一投足に
会場が笑うじゃないですか。


肌で感じる「あらあら、まあまあ、ウフフ(仕方のない子ねェ)」の空気。
ウケてる……ウケてるよ……!!
明治座がウケてるよ……!!
明治座の……孫……!(個人の感想です)



最後に十兵衛が「進歩のないやつがもう一人来たぞ」って言って又十郎が再びギャンギャン怒鳴ってフリーズするところ、
「日常が戻ってきた」という物語の着地点としてかなり機能していたと思っていて。
もしこの物語の中で又十郎のエピソードや成長が色濃く描かれていたら、戦い後の「日常再び」の呑気さはあんまり出なかったのかもしれないなと思うんですよね。
これはすずちゃんにも言えることですけど、変わらないからこそ愛しいというか、なんかね、兄上の愛もそこはかとなく感じますよね……そうそう皆本さん可愛くてコメディの間合い上手でとても良かった……



木村さんが毎日作演出を手掛けているという馬のシーンの日替わりも、客層を踏まえたネタのチョイスが的確で良かったし、「スナックで昭和歌謡を歌うのが好き」という世代超越友好力がフルに活かされていたと思います。
はーーー木村さん明治座で輝いてたー!!!!
観に行ってよかったーーー!!



● 北条主税

今回、若い俳優さんたちがおそらくかなりご自身の得意なところで勝負できているのではないか、と随所随所で感じたのがとても印象に残っています。
長く見ているファンにとっては「またこういう感じの演技か」と思うような演技でも、初めて見た人にはむちゃくちゃ新鮮な驚きになりうるんですよね。(ということをジャニオタをやっていて学んだ)
大きな舞台、普段とはちがう客層の作品で、推しにスポットが当たって「はまる」瞬間ってほんと最高です。嬉しいですよね……
私、昔、好きなジャニーズのアイドルさんがいただいた役や作品を「おいしい」とか「おいしくない」とかしょうもない見方をしていた時があって、でも今その方が歩んでいる道を眺めてほんと思うのは、
いただいた仕事がどんなにおいしくないように見えても、どんなに見せ場がなくても、どんなにコケたと言われてても、一個一個真摯に取り組んでいる人はひとつひとつ信頼を得ていくんだな……ってことですね……シンライ、名声とはちがうけど、いつかひつよう、ぜったい。
といいつつ、この舞台の若手俳優さんたちはみんな見せ場があって、生き生きと輝いていたので、やっぱりそういうのも大事だよねと思った次第です。
そしてわかりやすい見せ場以外でも、小栗さんがカーテンコールでもずっとあの顔してるのとか、盛り上がる前に斬られちゃう荒木先生がめいっぱい全力なのとか、そういうのが素敵だなあと思いました。


で、個人的に、今回一番大きな驚きがあったのが松田凌さん演じる北条主税です。
主税は、上でも書きましたけど又十郎と逆に「物語、変化、成長」がかなり描かれていた人物だと思っているのですが、その一方で、キャラクターはそこまで濃くない。すごく真っ当で、デフォルメ的なキャラ作りもなく、真面目な青年といった印象でした。
それをね!!!「キャラが立ってない」と感じさせないってむちゃくちゃすごいことだと思うんですよね!!!!!!
下手したら埋もれると思うんですよ、vs坊太郎という、淀殿vsお品さん・宗矩vs十兵衛に並ぶエピソードを託されているだけに、余計に物語負けすると思うんですよ。しかも坊太郎が玉ちゃんの強烈なカワイイキャラで仕上がってるから、ふつう並んだら絶対薄いじゃないですか。
なのに負けてない!!!!!
真っ当な、背筋のすっと伸びた、松田さんの明瞭な存在感がまじですごい。
「これといった特徴のない」人物を立たせられるって舞台役者さんとしてものすごい強みですよね。舞台の主人公って、そういう在り方を求められることも少なくないと思うから。
松田さんは今回初めて拝見したので、ちょっと感動してしまいました。



柳生十兵衛

なんか、喋りが巧すぎる役者さんって浮くことあるじゃないですか。
だから村井さんとか山口さんがエンジン全開で巧いのに全然浮かないのすっごいなと思って。
というか、こんなに色んなタイプの役者さんがいるのに誰一人浮いてなくて、スケールが大きいのにごちゃごちゃ感もなく、まとまりがあるのすっごいなと思って。
そんなこと考えながら見てたら、十兵衛が四郎に「お品さんも淀殿もみんな俺ん中にいるぞ」的なこと言いだして、あーーこの舞台もそれだ!!!!って思いましたよね。
上川さんがみんなを受け止めるてるからみんな全力を出せるんだなあと。
堤さんの演出と、上川隆也さんという舞台の中でこんなにも様々な役者さんたちが乱反射している世界……
でっかいなあ…………!!!!
十兵衛という人間のスケールと上川さんの器の大きさに気づいて、至極圧倒されましたね…………
でも「戸田も千八もいるぞ」みたいなこと言いだしたから、「それは別に嬉しくないんじゃないかな」って思いました。四郎知らない人だし。四郎が人見知りしちゃう。ジョアンとペドロにしてあげて。
とか考えてて「あーーー!又十郎(と主税)にも語りかけてるのかこれーーー!!!!十兵衛どこまでも大きいーーーー!!!」て思いました。
十兵衛のからっぽって、包容力でもありつつ虚空でもあるっていう、そこから来てる十兵衛の優しさと残酷さがねーーー、体現されすぎててねーーー、そりゃ最後又十郎も泣いちゃうよねーーー、、、、
上川さん、見惚れました。





以上!
次回作『ロミオ&ジュリエット』、木村さんのベンヴォーリオは全然想像つかないので楽しみです。

朗読劇『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』感想メモ

先日、恋を読む『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』木村達成さん・清水くるみさん出演回を観劇しました。


以下、話の展開や演出についてネタバレがありますのでご注意ください。








今回の感想。箇条書きにすると、


・泣いた
・しんどい
・声がいい
・好青年
・清水くるみさんがすごい


という感じです。




もーーめっちゃ泣いてしまったーーー!
始まる前は「なんか現実離れしてそうな話だな…なじめるかな…」と思ってたんですけど、
実際観たらその設定の説明にはあまり時間を割いていなかったので、逆に「なるほどそういうものか」と思わせてくれてよかったです。



二人の間に横たわっていたのは「時間の進行が逆」という特殊な事情なんですけど、
その結果として二人に起こったこと、二人がやったこと自体はそこまで現実離れしていなくて、自分の中にも思い当たる節があったので後半ずぶずぶと感情移入してしまいました。
自分を愛してくれた人が自分のことを「知らない人」と認識する日が来るとか、
相手の認知に合わせて会話をするとか、
目の前のこの人は自分の知っているあの人とは違うと感じてしまうとか、
逆にこの人はあの人なんだとふと気づいた時の罪悪感とか、
もうあの人には会えないんだと思い知らされるとか、そういうの。
かつての記憶があるからこそ悲しい。
もう一度観たらきっと最初からずっと悲しい、私も二人が過ごした時間を知ってしまったので。




木村さん演じる高寿くん、とても好青年で、
この間出演していた坂上みきさんのラジオでの「褒められても謙遜しないスタイル」みたいな雰囲気は微塵も感じられなくて、役者さんってすごいなーと思いました。
ラカージュの時に散々思った「足長っ!顔小さっ!まぶしっ!!」っていうキラキラぼうや感もあんまりなくて、
普通の、「あちゃー」がちょっと顔に出やすい誠実な若者という印象。
「自分に自信がない役もできるんだ…」と、とても新鮮に感じました。
そういう役もまた見てみたい!!



そしてやっぱり声が好きですね……
「一目惚れをした」。
この一言だけで現実から舞台上の世界に引き込まれてしまって、そっからずっと「きむらたつなり声がいい〜〜〜〜好き〜〜〜〜」って思ってました。



で、木村さんこういうのほんと外さない……すごい……信頼性高い……と思ったのが後半の畳み掛けるようなところなんですけど、
何が感動したかってそれをさらに上に引き上げるような清水くるみさんのお芝居!!!!
清水さんの演技が木村さんの手を引いてどんどん駆け上っていくような感じもしたし、呼応する木村さんの打ち返しが清水さんのブーストになっているようにも見えた。
物語の初めから終わりまでを貫く愛美ちゃんの感情の濃淡が見事で、しかもそれを最後に大きなうねりとして舞台上に展開させていくんですよね。
叶うことのない言葉を何度も叫んで、ピンときてない相手に別れを、ってもーーー!!!!せつない!!!!


清水さんの愛美ちゃん、舞台らしい大きな演技なのに大げさな感じは全くなくて、自然体、等身大、普通の二十歳の女の子に見えるのがすんごいなーと思いました。
実在感が強い。
物語的にもお芝居的にも、愛美ちゃんの方が一枚上手で少し前を走っていて、
それを追いかけるような高寿くんがもどかしくも初々しくて良かった。
「もー愛美ちゃんも15歳の高寿くんに全部言っちゃいなよ…!!」って何度思ったことか。
5年後にも相手に事情を話せる高寿と、話せない愛美とでは今回の別れのつらさが段違いすぎる……思い出を相手と共有できない絶望……


ていうか二人の並びめっちゃほんわかでしょ……かわいい……
(◜◡◝)
↑見ててこんな顔になってしまう……顔文字正しく表示されるかわからないけど……


そんな二人を包み込むようなスタッフワークもとっても素敵でした。見守るような距離感。






あと面白いなあと思ったのが、すみません、私はまだ原作を読んでいないのでどの程度原作に忠実に作られていたのかわからないのですが、この物語、本当に朗読劇にぴったりですよね……
舞台上で二人が持っている台本って、もはや愛美のメモだね…………っていう。
高寿が30日目にこと細かに愛美に話した、これから起こることが書かれているメモ。


高寿に教えてもらった通りに振る舞う愛美と、台本を手に持って書かれている通りに演じる役者さんと、で
この物語は二重の意味で約束に縛られ、なぞられているんだなあと思うと、
最後に二人が台本を打ち捨てるシーンもより意味合いが強くなるなあと感じたりました。
愛美ちゃんはメモの予定調和から解放されてなお、高寿くんに「また明日」と言うんですね……愛美ちゃん………



あと高寿がたこ焼きを食べる愛美を見て「やっばり愛美は愛美なんだ」って悟るシーンがあったような気がするんですけど、
これってほんと、今回バラエティに富んだキャストさんが一つの役を交代で演じることで、実践的に証明される感じありますよね……
清水さんの愛美ちゃんは清水さんの愛美ちゃんで、たとえば山崎紘菜さんの愛美ちゃんはきっとまた全然違う愛美ちゃんで。
同じ台本で同じ台詞で同じことをやっても、人によってまったく違うっていうのが多分ものすごい実感できるっていう。
そして逆に同じ台本で同じ役者さんでも、一公演目と二公演目とでは異なる感情が生まれていたりもするだろうし、
そういうの、愛美ちゃんもそうだったのかなあみたいな。
お芝居における可能性、余地、自由の中に愛美ちゃんの幸せがあったであろうことが想像できてしまう。
二人が紡いだ物語と朗読劇という形式の相似性に驚かされました。
というかもう、輪になってる運命のn+1周目が鈴木さん山崎さんでn+2周目が梶さん高月さんでn+3周目が木村さんと清水さん(以下略)なのでは……!!!?!
他のペアも見たかったなあ。






余談ですけど、急にひらパーの話が出てきたのでひらパー兄さんファンの私は妙にドキドキしました。
ひらパー兄さんことV6の岡田准一さんも枚方出身なんです、今年もひらパーをどうぞよろしくお願いします。

マンガ『ハイキュー!!』29巻の「どん ぴしゃり」について書く

8月3日に発売されたマンガ『ハイキュー!!』のコミックス33巻にて、春高二回戦、烏野高校 対 稲荷崎高校の試合が決着しました。


ハイキューの台詞や言葉選びにはいつも驚かされますが、今回特に熱いレトリックや仕掛けが満載で感動したので感想を書きます。


他にも語りたい項目が山ほどあるのですが、
本記事では、
稲荷崎戦序盤、コミックス29巻の第253話「追い打ち」にて、宮兄弟の速攻シーンに登場した 「どん ぴしゃり」に見られる仕掛け6つとそのすごさについて書きたいと思います。




あくまで「古舘先生がどのような意図で描かれたのかは全くわからないけど、私は読んでこのように感じた」という話です。
こういう解釈もあるかもねくらいに思っていただけたら幸いです。



以下、個人の感想です!!



● 1. 「変人速攻」の本歌取り

まずは言わずもがなですが、
「どん ぴしゃり」という表現は、日向影山の「変人速攻」で使用される言葉
「ドンピシャ!!!」
がもとになっていると思われます。
なにかの要素の一部を取り入れることで本家を連想させるという、いわばパロディ、和歌で言うところの本歌取りに近い手法です。


このシーンでは、本家でおなじみのキーワードを下敷きにした言葉を使うことで、双子速攻の「変人速攻の模倣であるがやや異なる部分もある」という点を説明無しで読者に感じさせるという効果を生んでいます。


で、これ何がすごいと思ったかって、
「双子速攻が行われた瞬間 リアルタイムで確実に 読者に『変人速攻』を想起させている」
という点なんです。


仮にこの言葉がなかった場合、読者が即座には「変人速攻みたいだ」と思いつかない可能性があります。
すると、双子速攻が終わった後の武田先生の「今のはまるで日向君と影山君の変人速攻…?」という台詞で初めて「ホンマや」と気づくことになってしまう。
つまり感情にタイムラグが発生してしまう、登場人物たちの驚きから一歩遅れてしまうんです。


ところが、この「どん ぴしゃり」、これがスパイクのコマに書き込まれているだけで、「うわ、出た、これ、変人のやつ、」マンガの中のみんなと同じタイミングでリアルタイムに驚くことができてしまうんですよ。
魔法か!!!!


臨場感をもたせるのに最高の手法が使われている……と思いました。



● 2. 「変人速攻的なもの」を予感させる序詞

前段の本歌取りの話と全く同じことが「どん ぴしゃり」の前にくる一連の流れにも言えます。
ここで全文を引用します。




A. 変人速攻(コミックス8巻より)

── 今
この位置、
このタイミング
この角度で !!


ドンピシャ !!!




B. 双子速攻(コミックス29巻より)

この位置
頃合い
この角度


どん ぴしゃり





ここで言いたいのは、本歌取りは「どん ぴしゃり」の前から始まっている、ということ。
そして、この一連の流れはちょっとした序詞的性質を帯びているということです。


「今 この位置、このタイミング この角度で!! 」→「ドンピシャ!!! 」って、
「HUGっと!」→「プリキュア」なみに脳内に刷り込まれてるじゃないですか。え?私だけ?
そうするともう、「この位置」という文字の並びが見えた瞬間、「あっ」と思うわけです。


さらに、脳裏をよぎったものが何かはっきり認識する前に「どん ぴしゃり」が来る。
予感、体験、実感ってその流れ、もうまったく双子速攻を目撃したマンガの中の彼らの認知プロセスそのものなんですよね。まるで疑似体験のよう。


しかも何より熱いのは、宮兄弟には「この位置」の前の「今」にあたる言葉がなくて、その代わりにそのタイミングでコマに描かれた影山が「!」となっている、
つまり双子速攻という初登場の技を(変人速攻の「今」にあたる時点で)「影山が誰より早く予感している」描写がなされていることですね。
一度披露されれば次からはみんなすぐ「もしやまた!?」となると思うんですけど、一発目、「まさかの予感」のその前から反応してる影山すごくない!!??!!?



● 3. 「こここ」の頭韻

「変人速攻」と「双子速攻」の全文を見比べた時、明らかに異なる箇所が一つあります。それが「頃合い」
なぜ「このタイミング」という言葉から変える必要があったか、というのは置いておくとして、ここで注目したいのは変えた後に「頃合い」という言葉が選ばれた、という点です。


本家は「この位置」「このタイミング」「この角度で」と、「この」を反復することで強調やリズム感がもたらされていましたが、「双子速攻」ではその大事な「この」が取り払われてしまいました。


そこで「おや?」と調子を崩されたような違和感を生じさせつつお目見えするのが「頃合い」。
見た目はまったく異なりますが、
実は「ころあい」と「このたい(みんぐ)」はざっくりいうと母音的にほぼ同じなんですよね(ooai)。


かつ、
「こ」という頭文字も生きているので、「このいち」「ころあい」「このかくど」という頭韻が姿をあらわすという寸法です。



● 4. ここらでまさかの四四五

上記の頭韻に輪をかけてリズム感を良くしているのが四・四・五音の語句の並びです。
この位置
頃合い
この角度。
生麦
生米
生卵。
逃げるは
恥だが
役に立つ。
ツッキー
突き指!?
大丈夫!?
じぶんの くちから 言いたいね、そんな気分にさせるリズムです。
ちなみにこの253話の次、第254話のサブタイトル「変人・妖怪・魑魅魍魎」も四四五ですね。


この四四五のリズム、他の例を見ても軽やかで楽しげな印象を与えると言っていいように思います。
……が、この双子速攻、なぜかこれに関しては、このトントン拍子感が逆に少し不気味に感じるのですよね。
なぜでしょう?



● 5. 「韻文」という可能性

あらためて変人速攻と双子速攻の序詞を並べてみます。


「── 今 この位置、このタイミング この角度で !!」
「この位置 頃合い この角度」


2つを比較すると、後者には前者の持つダッシュ「─」や読点「、」感嘆符「!!」がありません。
つまり、双子速攻には発話者の息遣いが示されていないのです。



まるで韻文のようにリズミカルな言葉と、隠された(あるいは最初から無い)感情と。
双子速攻に入った時の空気が変わったようなあの感じ、
そこにあるのは、お面をつけて鞠つきをしているような不気味な静けさ、あるいは「無心さ」です。



ちなみに、句読点とかつけると
「この位置、頃合い! この角度!!」
って標語みたいなノリになります。横断歩道を渡ろうねみたいな。四四五すごい。



● 6. 擬似オノマトペの出現

この不気味さに導かれ、満を持して登場するのが、ダメ押しとも言いたくなるような「五音」の言葉「どん ぴしゃり」です。


「どん ぴしゃり」。


この間の空白がまたこわいんですよね。
ここが空くだけで、悠然が広がる。


さらに注目すべきは、最後の「り」です。
なぜならこの一文字があるかないかで言葉の印象が少しだけ変わるから。
結論から言ってしまうと、「どん ぴしゃ」にくらべて、「どん ぴしゃり」は、「すでに終わっている」のです。


これと近い響きを持つオノマトペ、「パシャ」「パシャリ」という言葉を例にとって見てみます。
これが「水たまりに足を下ろす音」だとして、


「パシャ」は足が水についたまさに今その瞬間をとらえている感じがするんですけど、


「パシャリ」は足を下ろし終わった瞬間のような感じがするんですよね。


絵に描くとしたら前者は足の周りに水しぶきが上がってるけど、後者は足の周りに波紋が広がってるみたいな。


他にも、「ガタッ」は机を動かした瞬間、「ガタリ」は机を動かし終わった瞬間、とか。「ムシャ」「ムシャリ」、「カチッ」「カチリ」、「パサッ」「パサリ」などなど。
そんな感じでオノマトペの「リ」は、完了の響きを持っている、と、個人的に、思っています。



一方で、「どんぴしゃり」自体は別にオノマトペではないんですが、
もーここがすごいんですけどこれに空白が入って
「どん ぴしゃり」
となることで、あたかも2つのオノマトペの連続体のようになっているのですよね…!
「どん」と「ぴしゃり」。
だからオノマトペと同じように「り」が完了の響きを持って迫ってくるのではないかと思います。



● 6-2. プレ・擬似オノマトペの出現

ここで「どん ぴしゃり」の比較対象として言及したいのがコレ、
27巻 第234話「アジャスト」、春高一回戦 vs椿原学園でようやく決まった変人速攻の
「ドン」(ページめくる)「ピシャ」
です。


双子速攻はどんぴしゃりの間に挿し込まれた「空白」による区切りでしたが、こちらは「改ページ」しかも「めくり」の発生する完璧な断絶です。
「ここぞ」というタイミングなわけではないので「この位置……」のくだりはなく、代わりに「ドン」を先に見せることで速攻の再来を予感させています。
次ページに孤立した「ピシャ」の電光石火たるや……。


直線的なカタカナ、語尾「シャ」の現在進行形感、その音感を視覚的に引き立てるゴシック体。
明朝体の「どん ぴしゃり」を見た後だと余計に角ばって見えます。とても鋭い。



ここの「ドン」「ピシャ」は普段の「ドンピシャ!!!」とは異なり、かなりオノマトペ寄りの使い方のように思います。
そしてその「ピシャ」、これが響きだけで日向のスパイクの軌道まで含むような音感すらあって、
双子速攻の「ぴしゃり」のすでに完了したような音感とはかなり対照的だなあと思うんです。




「ドンピシャ」で表現される変人速攻と、
「どん ぴしゃり」で表現された双子速攻。
両者はどこが同じで、なにが違ったんでしょうか。
「り」が完了だというなら(私が一人で言ってるだけだけど)、双子速攻のその瞬間に「終わっていた」ものってなんなんでしょう。
そしてあえて問うなら、及川さんと岩ちゃんの超ロングセットアップは、なぜ変人速攻と同じ「ドンピシャ」だったのでしょう。
わーー!!!いっぱい考えたいことあるー!!!!




● 真相は闇の中

以上が私が気づいてかつ言葉にできた仕掛けなんですが、単純に、たった18音にこれだけ工夫をこらせるってすごいなあと感動したんです。


初期変人速攻の「ドンピシャ!!!」に比べて、「どん ぴしゃり」はとても静か。
それは言葉だけでなく、絵も同様です。
そもそもこれがモノローグかどうかもあやしくて、仮にモノローグだとしても声が宮侑くんかどうかはあやしい。
不確定要素が多く残された音の遊びだと思います。
ただ、原点に戻れば同じ印象を残すシーンは確かにあって、25巻 第219話ユース合宿での「どうぞ」という言葉がそえられた宮侑くんのトス、この言葉がきっと彼のセッターとしての本質を表していて、それゆえに双子速攻もああいう空気感になるのかもしれないですね。




このように(?)、稲荷崎戦をはじめとする春高バレー編は、全体的にうっすらと叙事詩のような趣きがあって、様々なレトリックが多用されています。
現在本誌で進行中の試合も熱い。
何かの縁で結びつく言葉が周到に張り巡らされていて、解釈の余地が無限にある。
読んでいてとても面白いんです。



● 終わりに高校のモチーフあるいは比喩について

稲荷崎高校のモチーフは「稲荷」というだけあって狐なんですけれど、ハイキューの高校で婉曲的にモチーフが入ってるってわりとめずらしいのでは、と思っています。
「ねこま」とか「のへび」とか、結構音感からの直球が多いですよね。
「稲荷崎」は、言葉からひとつ隣に連想できないと「狐」にたどり着けない。でもそれがわかると「稲荷」「狐」だから「双子」か……!!!!!!っていう感動があって。稲荷神社にいるあの一対の狐ですね。
カラスといえば八咫烏、とすれば今回の試合は神の使いつながりともいえる同類的組み合わせであり、もしくはカラスを俗と見立てれば対照的な組み合わせでもあり。どちらにせよ烏ってどことやっても因縁の対決ぽくなってすごい。
高校のモチーフはプレースタイルや試合展開に結びついていることも多いと思うので、最初、稲荷崎は「ずるがしこい」とかかな〜と思いましたが、「狐」に託されていたのはどうやらそういうものではなさそうで。



化ける、化かされる。
感化される、変化する。
狐をモチーフとした彼らがなぜ強く、なぜ最強の挑戦者であり続けているのか、そして彼らが一体どのように戦い、何を拠りどころにしてきたのか。
それが見えてきた時、どうして宮兄弟の双子速攻が「どん ぴしゃり」という「音」で表現されたのか、あらためて感じ入るところがある、かもしれません。
詳しくは!!!コミックス32〜3巻あたりで!!!!