王様の耳はロバの耳

言いたいけど言えないからここにうずめる

ハイステ “最強の場所” 感想メモ

はーーーー……
終わってしまった……




今回はライブビューイングでの観劇でした。
最後のカーテンコール、小坂さんの挨拶の途中でだんだん声が小さくなって画面がファー〜って白くなって終わってしまい、むちゃくちゃ「エーー!」だったのですが、
後日烏野キャストのカーテンコール映像がWebで公開されるということで、公式様どこまでもありがとうございます……





今日は、なんだかもう、書くことないな、と思いました。
「やりきった!」という気持ちでいっぱいです。
私、何もやってないのに。無関係者なのに。
観ていただけなのに。
なんの達成感なのかわかりませんが、
「私も明日からまた頑張ろう!」と思っています。




あー!でもこれだけは言わなければ!!!




及川さん、めっっっちゃ良かった……!!




遊馬さんは、本当に3年間かけて最高の及川さんになっていったのだなあと思いました。
「3年間ありがとう」という台詞が二重の意味に聞こえて、
及川さんの3年間、遊馬さんの3年間、高校の部活という時間、舞台を作り上げた時間、そういう、想像し得る彼(ら)の想いみたいのが一気に胸に去来しました。





あと狂犬ちゃんとSATORIさん、すっごい「マンガっぽい」キャラなのに「うわーーーー3次元にちゃんといるーーーーー!!」って感じがしてすごいワクワクしました……動きがまたリアル。リアルってなんだろう。
そういえば、その覚さん役の加藤さんをはじめ、白鳥沢メンバーのカーテンコールの挨拶が本当にしっかりしていて「これなら会社のちょっとしたパーティーのスピーチも任せられるな……」と思っていたところに、ウシワカ役の有田さんの挨拶がすごいふにゃふにゃで映画館中がホンワカしてたの控えめに言って最高でした。



あとねあとねやっぱりツッキーと山口が最高でね…………!!!!!
山口の槍の殺陣めっちゃカッコよかったなあ。
ツッキーはほんともう言うことないなあ。
感無量。小坂さん超ツッキーですよね。





……だめだ!!
このまま行くと全員書くことになる!!!
点呼になってしまう!
点呼っていうか、語彙力の消失した金八先生の最後のホームルームみたいになってしまう。
まだ6人しか書いてないのにもう3回最高って言葉使ってるし。
だってみんな最高だったから!!




観劇中は、なんだか、思い出のつまった宝箱に触れているようでした。
久々に学習机の引き出しを開けて、「あー、この楽譜、あのコンクールの時のだな」とか、「あー、この手紙、授業中にまわってきたやつだな」とかって、
ひとつひとつ昔の思い出を愛おしんでいくみたいに、
「ああ、この音楽、日向と影山が初めて会った時のだな」とか、「ああ、このシンクロダンス、最初はグダグダだったな」とかって、自然と思い出されて、懐かしんで。


ものを取り出していけばいつかは底が見えるように、
いつの間にか舞台の終わりも見えてきて。
「これがスガさんの最後のプレーだな」、とか、思ったりして。




ハイステと出会ってからの時間の積み重ねが、記憶になって、思い出すとそこに感情が伴って、いつの間にか自分でも驚くほどの愛着になっていた。



名残惜しくて、
でもこれで本当に大団円という感じがして、
聞こえるわけがないのに
映画館でもやっぱり拍手をしてしまうのは不思議だなあと思いました。




楽しかったなあ。
烏野キャストのみなさん、本当にお疲れ様でした。
キャストの皆様、スタッフの皆様、関係者の皆様、何もかも忘れて夢中になれる時間を、ありがとうございました。
そして須賀さん。素敵な日向を、素敵な劇団を作り上げてくださり、
本当に。ありがとうございました。

NHKドラマの岡田将生さんがすごいことになってる噺

「イケメン俳優」ってのは
なかなかにつらい稼業でございまして、
コケれば「やっぱり」
当たれば「たまたま」
ブレイクした日にゃ「のぼせるな」、
まして漫画アニメの実写なんざ出ようものなら
「やめてよして」の大合唱にございます。



ところが昨今、
そんなそしりをそっと宥めるような
えらいドラマがありまして。






えっタイトル?







タイトルはほら、
あのーーーほら……アレです、




NHKのーーー、
金曜夜10時からやってるーーーー、
岡田将生さん主演のーーーーー、
あーー!ここまで出てるのに出てこない。




しょうがないからタイトル出るまで
もう少しお付き合いくださいね。
えっいやだ?
そんなあなたは
金曜10時にNHKをつけてみてください、
たぶんアバンの後に
タイトルが出るんじゃないかと思います。



聞いてくれる方はもう少し。


このドラマはね、
とにかく主演の岡田将生さんが
ものすごいんですよ。
なんでかってね、
主人公の八雲さんって落語家さんをね、
青年期からおじいさんになるまで
ずーっと岡田さんが演じているんですよ。



若い頃はともかく、
おじいさんになってからを演じるのは
難儀なことでしょう。
だって岡田さんまだ29歳ですよ。
私も第一話を見て驚きましたよ。
ご年配のメイクを施した岡田さんが、
そんなに歳の変わらない竜星涼さん(25)を
小僧っ子扱いしてるんですからね。
「いやこんなの間が持たないだろ」
って普通に思いましたね、
だって29って30にもなってないですからね。



ところがね。
これが不思議なもんで、
なぜだかすぐに気にならなくなったんです。
まだまだ若いはずの岡田さんが、
お年を召された八雲さんに見えるんですよ。
なんでだと思います?





「岡田さんのおじいさん演技がうまいから」、
まずはそれにつきます。
きめ細かな特殊メイクを真実のものにする、
岡田さんの緩慢な動き。
「老いとは何か」、その定義について
こちらも思わず考えてしまう。
この演技は本当に見ものです。
そして、ここにはまた別の仕掛けもありそうで。



私が思うにね、
八雲さんは、
「どこかで時間が止まってしまった人」なんですよね。
歳は取っているけど、
時代は過ぎているけれど、
彼の中の時計は止まっている。




だから、「おじいさん」を「若者」が演じているという小さな違和感が
そのまま八雲さんの「見た目」と「中身」のアンバランスさとなって
滲み出ているんですよね。



これは一種の暗喩でもある。



青年期を演じた役者に
老年期まで続投させるというのはよくあることだけれども、
そのキャスティングがここまでカチリッとはまるのは
見ていてたいそう気持ちがいいものです。




第二話からは回想に入りましてね、
八雲さんの幼少期から壮年期までの人生が語られるんですがね。
青年期の八雲さんがこれまた大変に美しい。


どのくらい美しいかっていうと、そりゃあもう
「有楽亭八雲 岡田 美しい」
で画像検索してもらうとよくわかりますね。



さてここでいう「美しさ」とは、
容姿だけに限ったことではございません。
立ち居振る舞い、仕草、視線、
そのひとつひとつに隙がない。
美しい八雲で在ろうと自身を律している、
その内向的な縛りに「品(ひん)」が宿っているんですね。




これが劇中で彼のやる「落語」にも
大きな影響を与えていて、
なんとまあその発される声の、
艶やかなこと。



正直言うと、私、
少し見くびっていたのですね。
風貌は完璧かもしれない、
だけども落語のシーンは
それなりでしかないだろうと。
芸では八雲さんに近づけないだろうと。
しかもアニメ版石田彰さんだぞと。
アニメ版、石田彰、さんだぞと。





いや知ってました?
岡田さん、むちゃくちゃ
か細い声が出るんですよ。



言われてみればこれまでも
たまに素っ頓狂な声出してた気はしますけどもね、
でもそれがね、
こんなに巧みに操られた声技になるとは思わなんだ。




落語家として上手いというのとは違うかもしれない、
けれども、
役者としての意地と凄みがそこにはある。
ドラマで有楽亭八雲を演じているのは自分なんだと、
睨め付けて譲らない心根の強さが見える。






岡田将生さんがこんなに役を愛する役者さんだなんて、
知りませんでしたよ。






さて、回想は第六話で終わり、
第七話からは再び六十代の八雲さんが現れます。
ここでこの作品への驚きを新たにしてくれたのが
竜星涼さん(25)の本格的な登場なんですね。




彼は刑務所帰りにそのまま八雲に弟子入りを志願するという、
元チンピラの与太郎役を演じています。
またこの与太郎が実に与太郎でしてね。
与太郎与太郎、まあ見事な与太郎具合なんです。



少し話があっちゃこっちゃしますがね、
実はこの作品、ここまでの回想で
山崎育三郎さん演じる有楽亭助六という
もう一人の落語家が出てきていましてね。


八雲の親友でありライバルである彼は、
繊細な八雲とは正反対の性格、
言ってみれば「根明」なんでございまして。
その彼の人ったらしな落語がまたうまい。
山崎さんの才能は
こういう方向でも活かされるのか、
と思わず唸ること三度。




一方、与太郎与太郎でまた「根明」なんですね。



「根暗」な八雲さんに縁のあるこの「根明」二人、
同じ根明でも微妙に違う。
助六がどこか危うさを抱える
「一寸先は闇落ち」タイプの根明なら、
与太郎は何があっても光属性、
「石橋を叩いて踊る」タイプの根明なんです。




似ているようでどこか違う、
そんな助六与太郎の「差分」を、
山崎さんと竜星さんは二人で
見事に表現してしまっている。
与太郎が動けば動くほど、
助六という人物の輪郭がより鮮やかになる。




第六話、回想の中で山崎さんは
これ以上ないであろうという
助六の「芝浜」を披露してくれます。
本当に素晴らしかった。



その「芝浜」を、
第八話で与太郎が受け継ぐ。
そんなシーンで、
斜めに見ていたこちらが
ぐうの音も出ないような
あの台詞の言い方。




うまい、うますぎる。
役者も演出もうますぎる。






第八話まで見てきましたけれどもね、
もう本当に、
山崎さん、岡田さん、竜星さんの
三つ巴。
それこそ助六、八雲、与太郎のように
三者三様、全員が輝いている。





そしてその中でもやはり、
主演として、
ひとりの人間の青年期から老年期までを
生き抜こうとする岡田さんの佇まいには
目を見張るものがあります。










……いや、ほんとのところ、
私、少し大袈裟に言ってるかもしれません。
ちょっと大仰かも。


でもこのドラマを見てるとね、
これくらい諸手を挙げて絶賛したくなるんですよ。
なんででしょうね、わからないけど、
この岡田さんの挑戦は、
なんとなくもっと誰かに見てほしいって思ってしまうんですよね。




もし自分が岡田さんのファンだったら、
これって贔屓目に見てるだけかしらなんて
思ったかもしれませんけどね、
私は岡田は岡田でも
V6のほうの岡田さんのファンなんで、
もう堂々と言ってしまいます。



このドラマの岡田将生さんはとても良い!!!








ここまで読んでくださったあなた、
ありがとうございます。
いや、ドラマ見てくださいなんてことは言いません、
ただ岡田将生さんがすごいよってことを言いたかっただけなんです。



少々長くなってしまいましたので
私の感想はこの辺で。
原作を尊重し、
ろくでもない改変もなく、
落語を「演じる」ということに
真摯に向き合った作品です。
充分すぎるほど満足な「実写化」でした。






それにしても結局タイトル思い出せませんでしたね。
なんだったかなー、
しょう、しょう……
え?縦?微妙な縦読み?上の文?
「少々長く……」
いやそんな回りくどいことしても何も面白くないですね。



NHK総合 毎週金曜夜10時から、
昭和元禄落語心中』、
残り二話ですが
どうぞお見知りおきを!

舞台『魔界転生』感想メモ

先日、日本テレビ開局65年記念舞台『魔界転生』を観たので感想を書きます。



● はじめに

「刺さる」か「刺さらない」かで言えば、私には「刺さらない」作品でした。
にもかかわらず、4時間飽きずに観ることができまして。あらためて4時間て!休憩を抜かしても3時間半。3時間半あったら結構色んなことできたな〜とかそういうの微塵も思わなかった。本当にすごい。


いつも、自分の好み心底どんぴしゃみたいな作品に出会えた時は帰り道もずっと「ヒャッホー!」で、
そうじゃなかった時はすぱっと「自分には合わなかったな!」で終わる感じなのですが、


この作品はどちらでもありませんでした。
「合う合わないについて考えてたことをいつの間にか忘れてた」。
こういう冗談は苦手だな、とか色々拒否反応もあったんですけど、それでも「あっ」と思ったところから知らないうちに心掴まれ最後はスタンディングオベーションですよ。



距離感のある人間の心も置き去らず、くるっと巻き込んで一緒にエンディングまで連れて行く、それってほんと難しいことのような気がするんです。
老若男女問わず、好み問わず、慣れ不慣れ問わず、大きな作品で幅広い客層の期待に応えるってこういうことなのだなあ、と感嘆しました。



以下、特に強く印象に残ったシーンや登場人物についてメモ。
ネタバレありです。ご了承ください。






● お品さんと淀殿のシーン

もーーー!!ここ!!!!高岡早紀さんと浅野ゆう子さんが本当に素晴らしい!!!!
私、「動いてないのに全く棒立ちに見えない演技」が大好きなんですけど、あのお品さんにはほんともう心の中で事前スタオベしてましたね……ブラボー!!!!
そして淀殿のあの表情声仕草!!!!むちゃくちゃ納得感のある変化!!!!泣く!!!
気の強いおなごじゃの→私もすぐに行きます覚悟なさりませ、みたいな流れのところ、すっごい好きでした。



根津甚八さん

私が一番最初に「あっ」と思わされたのが甚八さんの初登場シーンでした。
最初村井さんだと気づかなくて劇団出身の役者さんかと思ったんですけど、なんか心の眼鏡を拭いてよく見たら村井さんだった。
あの安定感ーーー、もはやベテランの域ーーー本当に上手いーーーーすごいーーーー。
甚八さんがよく喋るシーンが終わると、ふうっと息をついてしまって、それで「あっ私今引き込まれてた」って気づく感じでした。めちゃくちゃ上手い人のミスチル一曲聴いたみたいな疲労感。
もはや台詞回しというより節回しですよね、村井さんの甚八さんには半端ないグルーヴを感じました。
あとこういう方が職場にいたらめっちゃありがたいと思った。又十郎のことちょいちょい気にかけててね……さりげなく「しっかりしないと」みたいに励ましたりしててね……優しい……
魔界衆チームに甚八さんがいたら四郎ももうちょっと楽だったと思う。



天草四郎

カーテンコールの時の溝端さんめっちゃ流し目で妖艶だった!!!!
でも本編では意外にもそういった人物造形ではなくて、ただひたすらに、普通の青年で。
二度も担ぎ上げられてしまったその姿、同情というかなんだろう、「がんばって……」みたいな。
なんかもう「扱いにくい方々だ」あたりのあれ、適切なフォローもバックアップもなくいきなり大きなプロジェクト任されてる入社2年目の正社員さんのそれだよね……入浴剤とか入れてゆっくりお風呂につかってほしいよ……デスクの上に「おつかれさま!」って書いたキットカットでも置いときたいよ……ていうかちゃんとおうちに帰って……
最後の方、階段のセットが出てきたので「これはやはり階段落ち!?」と思わせて結局しないじゃないですか。そこがほんともうこの作品の天草四郎の解釈のあらわれみたいでー!!!!!
溝端さんの漂わせる悲哀、厭世、「本人は『ただの人』と思っているかもしれないけれど『祭り上げられるほどの何かが間違いなくある人』」の絶妙なオーラ加減、とっても良かったです。



柳生宗矩魔界転生して奥から走ってくるシーン

最高でしたよね。
花火バーって出てきてうわーーやっぱり火の演出ってかっこいいな!ってテンション上がったところにさらに髑髏柄の着物きたマツケンさん登場ですからね、「ひゃー!!!!」ですよ。むちゃくちゃカッコいい。
それに対して淀殿は特殊効果なしで出てきたのもよかった。ここの浅野さんの「待ちくたびれたわ!」やカーテンコールの宗矩が持つ金色の布が大多数の理解できるメタ的ジョークとして成り立つのがほんと感動的。「みんなが知ってる名優」であることの凄さ。



柳生宗矩vs柳生十兵衛

私はこのシーンを先程の淀殿vsお品さんのシーンと対になるものとして見ていたんですけど、この両方に甚八さんがひそかに立ち会っているという構成がなんだかとても好きでして……甚八さん、真田十勇士ではどういう立ち位置だったのかなあ。っていうか何、いま調べたら村井さん真田十勇士甚八だけじゃなくて秀頼もやってたの!?!!あああああーーー!そうなんだーーーーあーーーあーーーーー。あのシーンやあのシーン、色々見方に層が出来てきますねうわー。知らなかったー。知っとけばよかったー。


話を本題に戻して、最近マンガ『ワールドトリガー』を一気読みしたのですけど。
強敵のお爺さんを前にしてあるキャラクターがこう言うんですよ。

親父に鍛えられた6年間
親父が死んでからの3年間
その全部をあわせても
この爺さんの厚み・・には勝てない


それなーーーー!
柳生宗矩のあの厚み!!!絶対に勝てない!!!!見ればわかる!!!!
生身の人間からそういうマンガみたいな年輪殺気を感じるってそうそうできない経験で、もはやこのシーンだけでも舞台を観に行った甲斐がありました。
私のような若手俳優さんのファンが松平健さんの殺陣を肉眼で拝見して「カッコイイ」と思えるこの空間、
そして逆に若手俳優さんたちの殺陣を見て「あらいいじゃない」と松平健さんのファンの方が思ってくださるかもしれないこの空間、
なんて贅沢な異文化交流なんでしょう。
感謝しかありません。



● 柳生又十郎

出てきた時からずっと(なんか「チェブラーシカ」に似てるな……)
と思ってました。
帰ってきて画像検索したらそんなに似てなかった。


私は又十郎を演じていた木村達成さんのファンなのですが、今回はなんだか孫の学芸会を見守る祖母みたいな気持ちで見てしまいました。「あの子、うちの孫なんです!」みたいな。上川隆也さんの弟だなんて大役を立派に務め上げて……はじめての殺陣や所作も頑張ってて……上川さんと松平さんと木村さんの3人だけでお芝居するシーンもあって…………ウッ。
いつも思うんですけど、木村さんは漫画原作ものだとクールな役どころを演じることが多いのに(そしてそれがめちゃくちゃ板についているのに)、
そうでないと途端に 一に愛嬌、二に気合い、三四がなくて五に愛嬌テヘッ みたいな感じになるのすごく良いと思います。好きです。


ものすごい個人的には、十兵衛の言う「又十郎の剣は活人剣」があまりピンときていなくて、「小栗さんは!? 小栗さんのことはどうなるの!?」という気持ちが拭えないですね……
小栗さんが死なばもろともという時に、又十郎、小栗さんを「斬れない」どころか一瞬目を逸らしますよね? その隙に小栗さんがやられてしまうじゃないですか、それが頭から離れなくて! 四郎だけを斬ろうとして間に合わなかったならまだしも、といまだに悶々としてます。その経験があるからこそのこれからに期待ということ…?
この活人剣という表現、最後まで斬ろうとしなかったけど斬ることで坊太郎を救った主税の剣のことだったらすごい納得できるなあとか。
あと逆に、坊太郎が主税に言った「俺とお前とでは背負っているものが違いすぎる」という言葉は主税より又十郎のほうが私の中で通りがいいなあと思ったりして、
すごい嫌なこと言うと、「松田さんの役が十兵衛の弟という設定で良かったのでは?」という考えが私の頭をよぎりました。


しかし!!!!
そんな私の邪念をはねのけてあまりある、
又十郎の「みんなの孫」力ですよ……!!!!


又十郎がプンスカ出てきて、
ギャンギャン怒鳴って、
フリーズしたまま息吸わなくて、
きっちり馬に蹴られて、
魔界衆にビビりまくって、
うっかり腰抜けそうになって、
そしてそんな彼の一挙手一投足に
会場が笑うじゃないですか。


肌で感じる「あらあら、まあまあ、ウフフ(仕方のない子ねェ)」の空気。
ウケてる……ウケてるよ……!!
明治座がウケてるよ……!!
明治座の……孫……!(個人の感想です)



最後に十兵衛が「進歩のないやつがもう一人来たぞ」って言って又十郎が再びギャンギャン怒鳴ってフリーズするところ、
「日常が戻ってきた」という物語の着地点としてかなり機能していたと思っていて。
もしこの物語の中で又十郎のエピソードや成長が色濃く描かれていたら、戦い後の「日常再び」の呑気さはあんまり出なかったのかもしれないなと思うんですよね。
これはすずちゃんにも言えることですけど、変わらないからこそ愛しいというか、なんかね、兄上の愛もそこはかとなく感じますよね……そうそう皆本さん可愛くてコメディの間合い上手でとても良かった……



木村さんが毎日作演出を手掛けているという馬のシーンの日替わりも、客層を踏まえたネタのチョイスが的確で良かったし、「スナックで昭和歌謡を歌うのが好き」という世代超越友好力がフルに活かされていたと思います。
はーーー木村さん明治座で輝いてたー!!!!
観に行ってよかったーーー!!



● 北条主税

今回、若い俳優さんたちがおそらくかなりご自身の得意なところで勝負できているのではないか、と随所随所で感じたのがとても印象に残っています。
長く見ているファンにとっては「またこういう感じの演技か」と思うような演技でも、初めて見た人にはむちゃくちゃ新鮮な驚きになりうるんですよね。(ということをジャニオタをやっていて学んだ)
大きな舞台、普段とはちがう客層の作品で、推しにスポットが当たって「はまる」瞬間ってほんと最高です。嬉しいですよね……
私、昔、好きなジャニーズのアイドルさんがいただいた役や作品を「おいしい」とか「おいしくない」とかしょうもない見方をしていた時があって、でも今その方が歩んでいる道を眺めてほんと思うのは、
いただいた仕事がどんなにおいしくないように見えても、どんなに見せ場がなくても、どんなにコケたと言われてても、一個一個真摯に取り組んでいる人はひとつひとつ信頼を得ていくんだな……ってことですね……シンライ、名声とはちがうけど、いつかひつよう、ぜったい。
といいつつ、この舞台の若手俳優さんたちはみんな見せ場があって、生き生きと輝いていたので、やっぱりそういうのも大事だよねと思った次第です。
そしてわかりやすい見せ場以外でも、小栗さんがカーテンコールでもずっとあの顔してるのとか、盛り上がる前に斬られちゃう荒木先生がめいっぱい全力なのとか、そういうのが素敵だなあと思いました。


で、個人的に、今回一番大きな驚きがあったのが松田凌さん演じる北条主税です。
主税は、上でも書きましたけど又十郎と逆に「物語、変化、成長」がかなり描かれていた人物だと思っているのですが、その一方で、キャラクターはそこまで濃くない。すごく真っ当で、デフォルメ的なキャラ作りもなく、真面目な青年といった印象でした。
それをね!!!「キャラが立ってない」と感じさせないってむちゃくちゃすごいことだと思うんですよね!!!!!!
下手したら埋もれると思うんですよ、vs坊太郎という、淀殿vsお品さん・宗矩vs十兵衛に並ぶエピソードを託されているだけに、余計に物語負けすると思うんですよ。しかも坊太郎が玉ちゃんの強烈なカワイイキャラで仕上がってるから、ふつう並んだら絶対薄いじゃないですか。
なのに負けてない!!!!!
真っ当な、背筋のすっと伸びた、松田さんの明瞭な存在感がまじですごい。
「これといった特徴のない」人物を立たせられるって舞台役者さんとしてものすごい強みですよね。舞台の主人公って、そういう在り方を求められることも少なくないと思うから。
松田さんは今回初めて拝見したので、ちょっと感動してしまいました。



柳生十兵衛

なんか、喋りが巧すぎる役者さんって浮くことあるじゃないですか。
だから村井さんとか山口さんがエンジン全開で巧いのに全然浮かないのすっごいなと思って。
というか、こんなに色んなタイプの役者さんがいるのに誰一人浮いてなくて、スケールが大きいのにごちゃごちゃ感もなく、まとまりがあるのすっごいなと思って。
そんなこと考えながら見てたら、十兵衛が四郎に「お品さんも淀殿もみんな俺ん中にいるぞ」的なこと言いだして、あーーこの舞台もそれだ!!!!って思いましたよね。
上川さんがみんなを受け止めるてるからみんな全力を出せるんだなあと。
堤さんの演出と、上川隆也さんという舞台の中でこんなにも様々な役者さんたちが乱反射している世界……
でっかいなあ…………!!!!
十兵衛という人間のスケールと上川さんの器の大きさに気づいて、至極圧倒されましたね…………
でも「戸田も千八もいるぞ」みたいなこと言いだしたから、「それは別に嬉しくないんじゃないかな」って思いました。四郎知らない人だし。四郎が人見知りしちゃう。ジョアンとペドロにしてあげて。
とか考えてて「あーーー!又十郎(と主税)にも語りかけてるのかこれーーー!!!!十兵衛どこまでも大きいーーーー!!!」て思いました。
十兵衛のからっぽって、包容力でもありつつ虚空でもあるっていう、そこから来てる十兵衛の優しさと残酷さがねーーー、体現されすぎててねーーー、そりゃ最後又十郎も泣いちゃうよねーーー、、、、
上川さん、見惚れました。





以上!
次回作『ロミオ&ジュリエット』、木村さんのベンヴォーリオは全然想像つかないので楽しみです。

朗読劇『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』感想メモ

先日、恋を読む『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』木村達成さん・清水くるみさん出演回を観劇しました。


以下、話の展開や演出についてネタバレがありますのでご注意ください。








今回の感想。箇条書きにすると、


・泣いた
・しんどい
・声がいい
・好青年
・清水くるみさんがすごい


という感じです。




もーーめっちゃ泣いてしまったーーー!
始まる前は「なんか現実離れしてそうな話だな…なじめるかな…」と思ってたんですけど、
実際観たらその設定の説明にはあまり時間を割いていなかったので、逆に「なるほどそういうものか」と思わせてくれてよかったです。



二人の間に横たわっていたのは「時間の進行が逆」という特殊な事情なんですけど、
その結果として二人に起こったこと、二人がやったこと自体はそこまで現実離れしていなくて、自分の中にも思い当たる節があったので後半ずぶずぶと感情移入してしまいました。
自分を愛してくれた人が自分のことを「知らない人」と認識する日が来るとか、
相手の認知に合わせて会話をするとか、
目の前のこの人は自分の知っているあの人とは違うと感じてしまうとか、
逆にこの人はあの人なんだとふと気づいた時の罪悪感とか、
もうあの人には会えないんだと思い知らされるとか、そういうの。
かつての記憶があるからこそ悲しい。
もう一度観たらきっと最初からずっと悲しい、私も二人が過ごした時間を知ってしまったので。




木村さん演じる高寿くん、とても好青年で、
この間出演していた坂上みきさんのラジオでの「褒められても謙遜しないスタイル」みたいな雰囲気は微塵も感じられなくて、役者さんってすごいなーと思いました。
ラカージュの時に散々思った「足長っ!顔小さっ!まぶしっ!!」っていうキラキラぼうや感もあんまりなくて、
普通の、「あちゃー」がちょっと顔に出やすい誠実な若者という印象。
「自分に自信がない役もできるんだ…」と、とても新鮮に感じました。
そういう役もまた見てみたい!!



そしてやっぱり声が好きですね……
「一目惚れをした」。
この一言だけで現実から舞台上の世界に引き込まれてしまって、そっからずっと「きむらたつなり声がいい〜〜〜〜好き〜〜〜〜」って思ってました。



で、木村さんこういうのほんと外さない……すごい……信頼性高い……と思ったのが後半の畳み掛けるようなところなんですけど、
何が感動したかってそれをさらに上に引き上げるような清水くるみさんのお芝居!!!!
清水さんの演技が木村さんの手を引いてどんどん駆け上っていくような感じもしたし、呼応する木村さんの打ち返しが清水さんのブーストになっているようにも見えた。
物語の初めから終わりまでを貫く愛美ちゃんの感情の濃淡が見事で、しかもそれを最後に大きなうねりとして舞台上に展開させていくんですよね。
叶うことのない言葉を何度も叫んで、ピンときてない相手に別れを、ってもーーー!!!!せつない!!!!


清水さんの愛美ちゃん、舞台らしい大きな演技なのに大げさな感じは全くなくて、自然体、等身大、普通の二十歳の女の子に見えるのがすんごいなーと思いました。
実在感が強い。
物語的にもお芝居的にも、愛美ちゃんの方が一枚上手で少し前を走っていて、
それを追いかけるような高寿くんがもどかしくも初々しくて良かった。
「もー愛美ちゃんも15歳の高寿くんに全部言っちゃいなよ…!!」って何度思ったことか。
5年後にも相手に事情を話せる高寿と、話せない愛美とでは今回の別れのつらさが段違いすぎる……思い出を相手と共有できない絶望……


ていうか二人の並びめっちゃほんわかでしょ……かわいい……
(◜◡◝)
↑見ててこんな顔になってしまう……顔文字正しく表示されるかわからないけど……


そんな二人を包み込むようなスタッフワークもとっても素敵でした。見守るような距離感。






あと面白いなあと思ったのが、すみません、私はまだ原作を読んでいないのでどの程度原作に忠実に作られていたのかわからないのですが、この物語、本当に朗読劇にぴったりですよね……
舞台上で二人が持っている台本って、もはや愛美のメモだね…………っていう。
高寿が30日目にこと細かに愛美に話した、これから起こることが書かれているメモ。


高寿に教えてもらった通りに振る舞う愛美と、台本を手に持って書かれている通りに演じる役者さんと、で
この物語は二重の意味で約束に縛られ、なぞられているんだなあと思うと、
最後に二人が台本を打ち捨てるシーンもより意味合いが強くなるなあと感じたりました。
愛美ちゃんはメモの予定調和から解放されてなお、高寿くんに「また明日」と言うんですね……愛美ちゃん………



あと高寿がたこ焼きを食べる愛美を見て「やっばり愛美は愛美なんだ」って悟るシーンがあったような気がするんですけど、
これってほんと、今回バラエティに富んだキャストさんが一つの役を交代で演じることで、実践的に証明される感じありますよね……
清水さんの愛美ちゃんは清水さんの愛美ちゃんで、たとえば山崎紘菜さんの愛美ちゃんはきっとまた全然違う愛美ちゃんで。
同じ台本で同じ台詞で同じことをやっても、人によってまったく違うっていうのが多分ものすごい実感できるっていう。
そして逆に同じ台本で同じ役者さんでも、一公演目と二公演目とでは異なる感情が生まれていたりもするだろうし、
そういうの、愛美ちゃんもそうだったのかなあみたいな。
お芝居における可能性、余地、自由の中に愛美ちゃんの幸せがあったであろうことが想像できてしまう。
二人が紡いだ物語と朗読劇という形式の相似性に驚かされました。
というかもう、輪になってる運命のn+1周目が鈴木さん山崎さんでn+2周目が梶さん高月さんでn+3周目が木村さんと清水さん(以下略)なのでは……!!!?!
他のペアも見たかったなあ。






余談ですけど、急にひらパーの話が出てきたのでひらパー兄さんファンの私は妙にドキドキしました。
ひらパー兄さんことV6の岡田准一さんも枚方出身なんです、今年もひらパーをどうぞよろしくお願いします。

マンガ『ハイキュー!!』29巻の「どん ぴしゃり」について書く

8月3日に発売されたマンガ『ハイキュー!!』のコミックス33巻にて、春高二回戦、烏野高校 対 稲荷崎高校の試合が決着しました。


ハイキューの台詞や言葉選びにはいつも驚かされますが、今回特に熱いレトリックや仕掛けが満載で感動したので感想を書きます。


他にも語りたい項目が山ほどあるのですが、
本記事では、
稲荷崎戦序盤、コミックス29巻の第253話「追い打ち」にて、宮兄弟の速攻シーンに登場した 「どん ぴしゃり」に見られる仕掛け6つとそのすごさについて書きたいと思います。




あくまで「古舘先生がどのような意図で描かれたのかは全くわからないけど、私は読んでこのように感じた」という話です。
こういう解釈もあるかもねくらいに思っていただけたら幸いです。



以下、個人の感想です!!



● 1. 「変人速攻」の本歌取り

まずは言わずもがなですが、
「どん ぴしゃり」という表現は、日向影山の「変人速攻」で使用される言葉
「ドンピシャ!!!」
がもとになっていると思われます。
なにかの要素の一部を取り入れることで本家を連想させるという、いわばパロディ、和歌で言うところの本歌取りに近い手法です。


このシーンでは、本家でおなじみのキーワードを下敷きにした言葉を使うことで、双子速攻の「変人速攻の模倣であるがやや異なる部分もある」という点を説明無しで読者に感じさせるという効果を生んでいます。


で、これ何がすごいと思ったかって、
「双子速攻が行われた瞬間 リアルタイムで確実に 読者に『変人速攻』を想起させている」
という点なんです。


仮にこの言葉がなかった場合、読者が即座には「変人速攻みたいだ」と思いつかない可能性があります。
すると、双子速攻が終わった後の武田先生の「今のはまるで日向君と影山君の変人速攻…?」という台詞で初めて「ホンマや」と気づくことになってしまう。
つまり感情にタイムラグが発生してしまう、登場人物たちの驚きから一歩遅れてしまうんです。


ところが、この「どん ぴしゃり」、これがスパイクのコマに書き込まれているだけで、「うわ、出た、これ、変人のやつ、」マンガの中のみんなと同じタイミングでリアルタイムに驚くことができてしまうんですよ。
魔法か!!!!


臨場感をもたせるのに最高の手法が使われている……と思いました。



● 2. 「変人速攻的なもの」を予感させる序詞

前段の本歌取りの話と全く同じことが「どん ぴしゃり」の前にくる一連の流れにも言えます。
ここで全文を引用します。




A. 変人速攻(コミックス8巻より)

── 今
この位置、
このタイミング
この角度で !!


ドンピシャ !!!




B. 双子速攻(コミックス29巻より)

この位置
頃合い
この角度


どん ぴしゃり





ここで言いたいのは、本歌取りは「どん ぴしゃり」の前から始まっている、ということ。
そして、この一連の流れはちょっとした序詞的性質を帯びているということです。


「今 この位置、このタイミング この角度で!! 」→「ドンピシャ!!! 」って、
「HUGっと!」→「プリキュア」なみに脳内に刷り込まれてるじゃないですか。え?私だけ?
そうするともう、「この位置」という文字の並びが見えた瞬間、「あっ」と思うわけです。


さらに、脳裏をよぎったものが何かはっきり認識する前に「どん ぴしゃり」が来る。
予感、体験、実感ってその流れ、もうまったく双子速攻を目撃したマンガの中の彼らの認知プロセスそのものなんですよね。まるで疑似体験のよう。


しかも何より熱いのは、宮兄弟には「この位置」の前の「今」にあたる言葉がなくて、その代わりにそのタイミングでコマに描かれた影山が「!」となっている、
つまり双子速攻という初登場の技を(変人速攻の「今」にあたる時点で)「影山が誰より早く予感している」描写がなされていることですね。
一度披露されれば次からはみんなすぐ「もしやまた!?」となると思うんですけど、一発目、「まさかの予感」のその前から反応してる影山すごくない!!??!!?



● 3. 「こここ」の頭韻

「変人速攻」と「双子速攻」の全文を見比べた時、明らかに異なる箇所が一つあります。それが「頃合い」
なぜ「このタイミング」という言葉から変える必要があったか、というのは置いておくとして、ここで注目したいのは変えた後に「頃合い」という言葉が選ばれた、という点です。


本家は「この位置」「このタイミング」「この角度で」と、「この」を反復することで強調やリズム感がもたらされていましたが、「双子速攻」ではその大事な「この」が取り払われてしまいました。


そこで「おや?」と調子を崩されたような違和感を生じさせつつお目見えするのが「頃合い」。
見た目はまったく異なりますが、
実は「ころあい」と「このたい(みんぐ)」はざっくりいうと母音的にほぼ同じなんですよね(ooai)。


かつ、
「こ」という頭文字も生きているので、「このいち」「ころあい」「このかくど」という頭韻が姿をあらわすという寸法です。



● 4. ここらでまさかの四四五

上記の頭韻に輪をかけてリズム感を良くしているのが四・四・五音の語句の並びです。
この位置
頃合い
この角度。
生麦
生米
生卵。
逃げるは
恥だが
役に立つ。
ツッキー
突き指!?
大丈夫!?
じぶんの くちから 言いたいね、そんな気分にさせるリズムです。
ちなみにこの253話の次、第254話のサブタイトル「変人・妖怪・魑魅魍魎」も四四五ですね。


この四四五のリズム、他の例を見ても軽やかで楽しげな印象を与えると言っていいように思います。
……が、この双子速攻、なぜかこれに関しては、このトントン拍子感が逆に少し不気味に感じるのですよね。
なぜでしょう?



● 5. 「韻文」という可能性

あらためて変人速攻と双子速攻の序詞を並べてみます。


「── 今 この位置、このタイミング この角度で !!」
「この位置 頃合い この角度」


2つを比較すると、後者には前者の持つダッシュ「─」や読点「、」感嘆符「!!」がありません。
つまり、双子速攻には発話者の息遣いが示されていないのです。



まるで韻文のようにリズミカルな言葉と、隠された(あるいは最初から無い)感情と。
双子速攻に入った時の空気が変わったようなあの感じ、
そこにあるのは、お面をつけて鞠つきをしているような不気味な静けさ、あるいは「無心さ」です。



ちなみに、句読点とかつけると
「この位置、頃合い! この角度!!」
って標語みたいなノリになります。横断歩道を渡ろうねみたいな。四四五すごい。



● 6. 擬似オノマトペの出現

この不気味さに導かれ、満を持して登場するのが、ダメ押しとも言いたくなるような「五音」の言葉「どん ぴしゃり」です。


「どん ぴしゃり」。


この間の空白がまたこわいんですよね。
ここが空くだけで、悠然が広がる。


さらに注目すべきは、最後の「り」です。
なぜならこの一文字があるかないかで言葉の印象が少しだけ変わるから。
結論から言ってしまうと、「どん ぴしゃ」にくらべて、「どん ぴしゃり」は、「すでに終わっている」のです。


これと近い響きを持つオノマトペ、「パシャ」「パシャリ」という言葉を例にとって見てみます。
これが「水たまりに足を下ろす音」だとして、


「パシャ」は足が水についたまさに今その瞬間をとらえている感じがするんですけど、


「パシャリ」は足を下ろし終わった瞬間のような感じがするんですよね。


絵に描くとしたら前者は足の周りに水しぶきが上がってるけど、後者は足の周りに波紋が広がってるみたいな。


他にも、「ガタッ」は机を動かした瞬間、「ガタリ」は机を動かし終わった瞬間、とか。「ムシャ」「ムシャリ」、「カチッ」「カチリ」、「パサッ」「パサリ」などなど。
そんな感じでオノマトペの「リ」は、完了の響きを持っている、と、個人的に、思っています。



一方で、「どんぴしゃり」自体は別にオノマトペではないんですが、
もーここがすごいんですけどこれに空白が入って
「どん ぴしゃり」
となることで、あたかも2つのオノマトペの連続体のようになっているのですよね…!
「どん」と「ぴしゃり」。
だからオノマトペと同じように「り」が完了の響きを持って迫ってくるのではないかと思います。



● 6-2. プレ・擬似オノマトペの出現

ここで「どん ぴしゃり」の比較対象として言及したいのがコレ、
27巻 第234話「アジャスト」、春高一回戦 vs椿原学園でようやく決まった変人速攻の
「ドン」(ページめくる)「ピシャ」
です。


双子速攻はどんぴしゃりの間に挿し込まれた「空白」による区切りでしたが、こちらは「改ページ」しかも「めくり」の発生する完璧な断絶です。
「ここぞ」というタイミングなわけではないので「この位置……」のくだりはなく、代わりに「ドン」を先に見せることで速攻の再来を予感させています。
次ページに孤立した「ピシャ」の電光石火たるや……。


直線的なカタカナ、語尾「シャ」の現在進行形感、その音感を視覚的に引き立てるゴシック体。
明朝体の「どん ぴしゃり」を見た後だと余計に角ばって見えます。とても鋭い。



ここの「ドン」「ピシャ」は普段の「ドンピシャ!!!」とは異なり、かなりオノマトペ寄りの使い方のように思います。
そしてその「ピシャ」、これが響きだけで日向のスパイクの軌道まで含むような音感すらあって、
双子速攻の「ぴしゃり」のすでに完了したような音感とはかなり対照的だなあと思うんです。




「ドンピシャ」で表現される変人速攻と、
「どん ぴしゃり」で表現された双子速攻。
両者はどこが同じで、なにが違ったんでしょうか。
「り」が完了だというなら(私が一人で言ってるだけだけど)、双子速攻のその瞬間に「終わっていた」ものってなんなんでしょう。
そしてあえて問うなら、及川さんと岩ちゃんの超ロングセットアップは、なぜ変人速攻と同じ「ドンピシャ」だったのでしょう。
わーー!!!いっぱい考えたいことあるー!!!!




● 真相は闇の中

以上が私が気づいてかつ言葉にできた仕掛けなんですが、単純に、たった18音にこれだけ工夫をこらせるってすごいなあと感動したんです。


初期変人速攻の「ドンピシャ!!!」に比べて、「どん ぴしゃり」はとても静か。
それは言葉だけでなく、絵も同様です。
そもそもこれがモノローグかどうかもあやしくて、仮にモノローグだとしても声が宮侑くんかどうかはあやしい。
不確定要素が多く残された音の遊びだと思います。
ただ、原点に戻れば同じ印象を残すシーンは確かにあって、25巻 第219話ユース合宿での「どうぞ」という言葉がそえられた宮侑くんのトス、この言葉がきっと彼のセッターとしての本質を表していて、それゆえに双子速攻もああいう空気感になるのかもしれないですね。




このように(?)、稲荷崎戦をはじめとする春高バレー編は、全体的にうっすらと叙事詩のような趣きがあって、様々なレトリックが多用されています。
現在本誌で進行中の試合も熱い。
何かの縁で結びつく言葉が周到に張り巡らされていて、解釈の余地が無限にある。
読んでいてとても面白いんです。



● 終わりに高校のモチーフあるいは比喩について

稲荷崎高校のモチーフは「稲荷」というだけあって狐なんですけれど、ハイキューの高校で婉曲的にモチーフが入ってるってわりとめずらしいのでは、と思っています。
「ねこま」とか「のへび」とか、結構音感からの直球が多いですよね。
「稲荷崎」は、言葉からひとつ隣に連想できないと「狐」にたどり着けない。でもそれがわかると「稲荷」「狐」だから「双子」か……!!!!!!っていう感動があって。稲荷神社にいるあの一対の狐ですね。
カラスといえば八咫烏、とすれば今回の試合は神の使いつながりともいえる同類的組み合わせであり、もしくはカラスを俗と見立てれば対照的な組み合わせでもあり。どちらにせよ烏ってどことやっても因縁の対決ぽくなってすごい。
高校のモチーフはプレースタイルや試合展開に結びついていることも多いと思うので、最初、稲荷崎は「ずるがしこい」とかかな〜と思いましたが、「狐」に託されていたのはどうやらそういうものではなさそうで。



化ける、化かされる。
感化される、変化する。
狐をモチーフとした彼らがなぜ強く、なぜ最強の挑戦者であり続けているのか、そして彼らが一体どのように戦い、何を拠りどころにしてきたのか。
それが見えてきた時、どうして宮兄弟の双子速攻が「どん ぴしゃり」という「音」で表現されたのか、あらためて感じ入るところがある、かもしれません。
詳しくは!!!コミックス32〜3巻あたりで!!!!

ハイステ “はじまりの巨人” 感想メモ(ネタバレあり)


先日、「ハイパープロジェクション演劇ハイキュー!! “はじまりの巨人”」を観劇しました。
「あっ、ハイステって、ハイステっていいね!!!?
と改めて思ったので感想メモ。


とても個人的な意見ですが、ハイステっていい意味でも悪い意味でも見てて戸惑うことの多い舞台な気がしていて、それが時として見にくさ受け入れ難さにつながることもあると思うんですけど、
今回は初演と同じくらい戸惑いが少なめで比較的見やすく感じました。
これ……未見の方がハイステを見始めるなら今なのでは……!?
6月17日のライビュに行く→ちょっといいかもと思う→8月の応援上映に行く→秋のハイステ“最強の場所”に行く
この流れ……完璧なのでは……!?!?





以下、ネタバレありです。



● 条善寺を、好きになる。

まず大きかったのはこれです!!!
条善寺とても良い。
条善寺 とても楽しい 条善寺。
なんか見ててすごい楽しい。
いや知ってるんです、漫画でそういうチームだって武田先生が言ってたから!
でも実際見て「本当に楽しい!!」って思わされてびっくりしましたよね、これが「舞台化」かって、これが「生身の人間がやるってこと」なのかって改めて思わされたというか。
目の前にその光景があって、空気を体感できるってすごいですねえ。
追い求めるべきはリアリティじゃなくて、ハッタリが生むリアルなんだ!!みたいな、よくわからない熱い気持ちが生まれました。


あとキャストさんのパフォーマンスはもちろんなんだけど、試合中何度か後ろに投影されてた「J」もダサ可愛くてとても好きでした。
条善寺カラーの補色的な紫、創英角ポップ的なフォント、そもそも「J」というイニシャル的な何か、とにかく絶妙にダサくて、それが映ってる時に烏養さんの「(条善寺の)センスの良さがわかるな!」みたいな台詞が発せられるもんだから「皮肉か!」と突っ込まずにはいられませんでした。
音楽の「ぼぉ〜ん」みたいな音と一緒にJ出てきた時とか最高にJだった。
条善寺にそんなJ要素あったっけ!?と思ったけど、見てて気が抜けるというか、肩の力も抜けて楽しさに繋がっててすごい良かったなあ。


終盤、条善寺が試合に引き込まれて、夢中になって、その姿に私も引き込まれて、夢中になって、魅了されてしまった。
試合が終わって、船木さん演じる照島君が言うんですよね、「終わりかよくそ、せっかくテンションアガってんのに」って。
私「ほんとそれ!!!!!」
あの時パッと浮かんだ「えーもう終わり?」って感情、とてもリアルでした。



● 条善寺キャストを、好きになる。

そんな条善寺ロスの私に救いの手が!
条善寺キャストあらため和久南名物家族応援団!!
応援方法をレクチャーしてくれるキャストのみなさん、おしゃべりも達者ですごい。
特に好きだったのがお母さん役の荒田さんの喋り方。
「とっても簡単よ」
「恥ずかしがらないで」
「3階サボってるの見えるわよ」
邪魔にならず埋もれない声、さりげないタイミング、流れるような言い方とリズム感、あとお母さん感、すごかった。
条善寺と家族応援団とハイステのそれぞれが持つ「ガチャガチャした感じ」が彼らの中で綺麗に融合していて見事でした。



● 「名乗り」の良さを思い知る

場面は戻って、オープニングですよね!!!!!
第二章が始まった感がすごい。
運命の環が再び回り始める感がすごい。
かつて日向と影山が対峙していたあの光の輪の中で、今度は日向と影山が並んでウシワカと対峙しているしかもあの初演と同じテーマソングでってあつすぎる!!!!


あと「っょぃ」と思ったのが後ろにどでかく流れていった「ハイパープロジェクション演劇ハイキュー!! “はじまりの巨人”」の文字です。
普通にタイトルロゴがばーんと表示されるだけなら多分ちらっと見るだけで済ませてたんですけど、
今回、右から左にゆっくり一文字ずつスクロールしてくるから「ハ イ パ ア プ ロ ジェ ク ショ ン……」みたいな感じで一文字一文字心の中で音にして読んじゃったんですよね。なんだか「近くば寄って目にも見よ」みたいな気迫を感じて、
この、あえて、今、タイトルを突きつけてくる感じがなにかの最終回の名乗りとかコンサートの終わりの名乗りとかみたいで燃えました。
名乗られなくても知ってるんだけど、知ってて見てるんだけど、知ってるからこそ、あえて名乗ることのすごさも知ってるみたいな。
そこに覚悟とプライドを感じるのですよね。あっこれ、「コンクリート出身 日向翔陽です」に近いのかも。


ていうか有田さんのウシワカー!!
スパイクかっこいいですねえ……空中で一瞬止まってない?白鳥沢戦楽しみだなあ…



● 街

いつも、日向が街を走るシーンが好きなんですよねえ。
最初は一人で。烏野復活では影山と。進化の夏では谷地さんと。今回は烏野全員で。
体育館の中だけじゃなくて街に、雑踏の中に生きている彼ら、っていうのを思い出させてくれて、密閉空間の中から飛び出して今私たちが生きている世界にまで繋がるかもしれない広がり、地続き感を持たせてくれる。


そしてそのバックに流れている音楽もいつも好きで、というかハイステで流れている音楽は全部好きで、今回も音楽にたくさん泣かされました。ちょこっとモチーフが入ってくるだけで過去作品の該当シーンを思い出しますよね、「鉄壁でも持ってこい」の台詞のとことかね。


そういえば今回ギターにストリングスにズンズンいって若干ラップ、みたいな曲があってびっくりしました。和久南や根性無しのシーンで流れてたと思うんですけど、雰囲気でいったら全然そぐわない感じなのにすごいよかったなー。
こういう曲が入ってくることがそれこそハイステと観客の地続き感、同時代感を生んでいるというか……
なんだか和田さんの音楽ののったハイステを見ていると、烏野の「雑食」ってこんな感じかなと思ったりします。
既成概念にとらわれない、アウトプットの豊かさ(とその何万倍であろうインプットの豊かさ)。
「和田さんは天才」って毎回言ってるけど何度言っても足りない。和田さんは天才!!!



● 変わるということ

田中さんのスガさんめっちゃ完成度高くてびっくりしました。セリフとダンスのキレが抜群。
最初、開演からしばらくは、スガさんが喋ってるってわからなくて、あー、私いままで猪野さんの声を辿ってスガさんを見つけてたんだって知りました。猪野さんの声と素っ頓狂さと優しさは本当に私の中のスガさんと完全一致してたから…!!


田中さんの大地さん、久々に見たけどほんと目と耳を疑うくらいまじ大地さん…人生5周目くらいの大地さん。
秋沢さんの大地さんは、大地さんも最初から安定の主将だったわけじゃなくて1,2年生と同じように成長してきてて今もこれからも絶賛成長中なんだって、私が忘れていた当たり前のことを教えてくれました。彼の大地さんは若さを背負っていた。


渕野さんのノヤさん、塩田さんの田中さんと息ぴったりで見てて気持ちがよかった!
ノヤさんいつもかっこいいけど、少しだけ愁いを帯びる橋本さんのノヤさんの叫びも好きだったなあ。橋本さんって、舞台上の佇まいに独特のエモさ、情緒があるなあと思います。それが不思議と「舞台版」ノヤさんにマッチしてて。


影山さんの影山、照島君が「頭カタそうな顔してるくせにホンット滅茶苦茶な攻撃してきやがるセッター」と評するんですけど、「それだー!!!」ってなりました。影山さんの影山は一見真面目そうな堅物に見えるんですよね。だから日向との速攻のトンデモ感が増し増しで映える。セオリー通りに行かないことの意外性がより大きくなる。
木村さんの影山は、なんとなく「コイツなんかすごいことやってきそう」感があって、だからこそ王様というモチーフがぴったりだったなあと思うんですけど、
影山さんの影山は少し隙があって、でもこういう影山もたしかにいると思いました。「実は影山もボケ」みたいなところも滲み出てて可愛い。


あと私、前作の木葉さんすごい好きなんですけど、今回木兎さんやってたのが木葉さん役の東さんだったと知って驚きました。全然わからなかった!
東さんの木兎さん、木兎みがあふれてすごい良かった。あの木兎みは尋常じゃない。吉本さんの木兎さんも絶好調としょぼくれのギャップが可愛らしくて好きです。
結木さんの赤葦さんは血の通ってない感じがする瞬間があったりしてめちゃめちゃ期待通りだったんですけど、
今回の高﨑さんの赤葦さん、すごい、執事っぽさがすごい。今まで赤葦さんのことそんな目で見てなかったけど、言われてみればそんな存在な気がしてくる……木兎ぼっちゃまの執事……新たな知見を得ました。



キャストが変わるって、こうやってキャラクターたちの見えてなかった一面に気づくことができたり、もともと好きなところをさらに補強してくれたり、面白いなあと思いました。キャラクターのスペクトルを可視化してもらったみたい。
たまに寂寥感が一筋の風のように吹き抜けるのも、それはそれで、いいのかなって。



● 中島君

中島君という役は、これまでその存在が大々的に語られることがなかったにもかかわらず、「小さな巨人」というこの作品にとって大きな看板を背負って唐突に登場する、という、すごく難しい役どころだなあと思ったんですけど……
なんというか、観客が中島君にまだ思い入れがない段階から小さな巨人という言葉を振りかざしたら、下手したらアンバランスさにキャラクターが吹っ飛んじゃうんじゃないかみたいな。


でも全然そんなことなかったです。柳原さんの安定感がすごかった。どっしりとして、須賀さん演じる日向と向き合ってもまったく遜色なくて、今更だけど「役者さんの演技が確か」ってほんとにすごくありがたいことなんだなと思いました。


特に!!特に目の覚めるような思いだったのが後半、月島にキルブロックを決められたところ。
あのキルブロックの演出、進化の夏の時は「killと斬るがかかってんのかー!」とか「ネットの網目を障子の組子に見立ててんのかー!!」「必殺シリーズ風の演出カッケーな!!」とか、「ブロックの比喩表現」としか見てなかったんですけど、
今回中島君が斬られて膝をつく姿を見て思いました。ああこれ、「ブロックされる側の心情表現」でもあるのか、と。今更ながら。
烏野10番を倒して行く、と発奮した矢先に別の人に叩き落とされるって、その心情を喩えるならまさにあんな感じなんだろうなって。短いアクションだけど、鮮烈でした。


和久南、キャストさんのダンスの揃い方や仕草で仲間の頼もしさが感じられたのに加えて、なんだか今までで一番「部活の集団」という感じがしました。
奇をてらわず、真面目にやってきた彼らがなぜ負けるのか?とちょっと考えてしまう、堅実な良いチームでした。



● 変わらないということ

中島君のような坊主の男の子を見ると思い出すんですけど、昔、友達に見せてもらった映像で坊主の男の子が赤いユニフォームを着てラケット持って歌って踊ってて、「うわー、安定してるなー、うまいなー、若いのにすごいなー!!」と、とてもワクワクしたんですよね。
インパクトの強い歌だったこともあって記憶に残っているんです。
川原一馬さんって言うんですけど。


だからハイステ初演をDVDで見た時、「あのひとだ!!」と思いました。
大人になっていてもやっぱりお芝居が上手くて、むしろさらに磨きがかかっていて、だからこそ「舞台版」の縁下さん役なのだと思ったし、だからこそハイキューを演劇にするためのバランサーになっているのかなと思ったりもしました。
でもその時はハイステが春高予選までやってくれて、かつ川原さんがここまで縁下さんをやってくれているとは想像していなかったので。



すごいことだな、と。




実際に川原さんの演じる“根性無しの戦い”を目の当たりにして、
知ってたんだけど、知ってて見てたんだけど、知っててもなお、
なんてなんてこの人はお芝居が上手なんだろうと思いました。


あんなに胸に迫ってくる沈黙、あるんだなあ。
スクリーンに映ったアップの顔を、あんなに固唾を飲んで見守ってしまったの初めてかもしれない。
ふっと息を吐く、その微かな音のなんと雄弁なことか。


「鏡」って無茶苦茶舞台映えする、ここぞの時のための小道具、舞台装置のような気がするんですけど、
最終的に縁下さんのトイレのシーンに収束した時、そうかこのシーンを川原さんが演じるなら、今作ほど適切な鏡の使いどころはないよなと思いました。
(書いてて自信なくなってきたんですけど、鏡ありましたよね…?なかったらすみません…)


私が見た公演のカテコの挨拶で、山口役の三浦さんがこんなことをおっしゃっていて。
「今回、『根性無しの戦い』というのもテーマにあると思っていて、縁下役の川原さんと、観ている方々に一番近い存在であるということを意識しようね、と二人で話していました」と。
本当に、彼らの葛藤はまったく他人事に思えなくて、心情的にゼロ距離すぎて、縁下さんが戦いを終えた時は私まで解放されたような思いがしました。
カテコでは川原さんの登場の際に拍手がひときわ大きくなって。
私も、感動、賞賛、そしてありったけの感謝の気持ちを拍手に込めました。



キャストさんが変わった時に、どうしてもリセットされてしまうのが役者さんと観客の上に降り積もった思い出で、
これは誰がどう努力しても補いようのないものだと思うんですけど、
初演から出続けてくださっている川原さんはお芝居の上手さに加えてこれ(思い出)をフルで持っていたもんだから、
なんだかもう私は泣くしかなかったです。



次作、感慨深すぎて早くも泣きそう。

ラカージュ2018東京千秋楽観劇雑記


先月末、もう一度ミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール 籠の中の道化たち』を観に行ってきました。



東京千秋楽ということで、どんなに名残惜しくても開演すれば待った無し、じりじりと迫る終演の気配を感じながら劇場中が今この時を楽しんでいて、感情って伝染するし充満するんだなあと思ったりしました。
当日は満月、しかも“ブルー”ムーンだったということで、終わったあとまで粋な演出でしたよね。






以下、雑々々記です。
大きなネタバレと、キャストさんにはあまり関係のない私情ばかりですご容赦ください。
思い出しているうちに記憶があやふやになってしまったので、私の中のラカージュはもはや別物になっているかもしれません。
語ってる内容ぜんぶ記憶違いの可能性あるけど、ただひとつ、楽しかったことだけは間違いない。そこだけは自信があります。
あとはぜんぶ嘘か本当。



東京前半の感想はこちら






● ロ・シンさん
黒髪おかっぱのロ・シンさん、心の中で推させてもらってます。
指の先までピンと伸びててとってもかわいいんです。
一幕最後、上手側から『ありのままの私』を歌うザザを見ているんですけど、なんかこう、「思わず目が離せない」状態からシャンタルさんと顔を見合わせるところがとても真に迫っていて、圧倒された時ってこうなるよねと思いました。
ロ・シンさんやシャンタルさんだけでなく、周りにいる全員が様々な表情でザザを見つめていて、それぞれの性格や背景が感じられる貴重なシーンでした。



● ジャクリーヌさん
やっぱりジャクリーヌさん好きだなあ。
彼女がストーリー上の役割のわりにまったく「話を回すためのキャラクター」感がないのが本当にすごい。むしろ「キャラクターが話を振り回してる」みたい。一幕でちゃんと伏線を張っているからというのもあるんでしょうけど、違うんだそんな小手先の話じゃなくジャクリーヌさんが生き生きしてないとこの話はハッピーコメディとして成り立たないんだ……
ほんと早くAIスピーカー〈ジャクリーヌさん〉できないかな。「ジャクリーヌ!今日の服装どうかな!」って聞いたら「颯爽としてまばゆいばかりね〜ん」って答えてほしい……
でもこの言葉、私は香寿さんのジャクリーヌとしての佇まいの修飾にこそぴったりだなあと思う。



● ブランコ
ザザがブランコに乗って上がっていくところ最高です。すごい刺さる。



● シェ・ジャクリーヌでアンヌに煽られて手拍子しちゃうジャン・ミッシェルがかわいい
かわいい。
このままいけば結婚できるかも!?ってくらいの空気に持っていったのはジョルジュでもシビルでもジャン・ミッシェルでもなく、参加を拒まれていたアルバンだったというのは、息子の十分な反省材料になりますね……(母、かつらとっちゃったけど)。



● 誰もみんな同じ
前回「そうだ、昔の話なんだ」と思い直したものの、いざ見てみるとやっぱりそこの頭の切り替えが難しい。
ダンドン議員の主張だけを見れば「ああ、昔だ」とわかるんですけど、ジュルジュやアルバンの家族としての姿や街での過ごし方を見るとうっかり現代の話のような気がしてしまう。むしろ未来とすら。
後者がそう感じられるのは、前者にかかわる個人の多様性については世間的に少しずつ浸透しはじめている一方で、後者、個人の築く関係の多様性についてはこれからな部分があるからでしょうか。
「誰もみんな同じ」と言うと、一見その多様性からは一番遠いところにあるようですが、ここで歌われているこの言葉には、様々に異なる人々や関係性をみな「違うまま」ひとつの街にくるんでしまう包容力がある気がして、なんだかほっとします。「あなたと私は違うけれど、同じだね」って、この作品の発するメッセージは、とても心強い。



● ありのままの私
今回、改めて見ると結構大事だなーと思ったジャン・ミッシェルの言動がいくつかあって、
◆ 旅行から帰ってきて「やっぱり家は落ち着く」と言っている
◆ 自分の家庭とあちらの家庭は「相性が悪い」ので父は外務省勤務ということにした
◆ アルバンの「3人で食事をしながら結婚について話そう」という提案については快く承諾している
◆ ジョルジュがジャコブと呼びボーイとして接している人物をクロディーヌと呼びメイドとして接している(服装も褒める)
◆ 元カノにもカジェルたちにもフラット
などのあたりとか。


つまりジャン・ミッシェルは、物語のはじめの方では、自分の置かれた環境や家族、まして彼らの好みも趣味もプライドも、否定したりネガティブに語ったりはしていないんですよね。一日だけ犠牲にしようとするけど、普段から蔑ろにしているわけじゃない(多分)。
隠し事をするにも彼なりの理由があって、それは「変に思われるかも」とか「恥ずかしいから」などではなく、「先方が伝統家族モラルを重んじるTFMの幹事長」ゆえに「うちとは相性が悪い」から、という具体的なもので。
アンヌの父親がそういう人でなければ、ジャン・ミッシェルは普通に家族を紹介した、かもしれない。余地はある。余地は。


「でも実際アンヌのお父さんはそういう人なので、お願い!一晩だけだから!ごめんねっ☆」
と頼む時、根底にあるのは、愛されている自信と、自分が愛しているということは口に出さなくても知っているはずという横着と、それに付随する「これはあくまで望ましい将来をつかむための手段であって、あなたたちを根本から否定するものでは全くない」ということを相手も当然わかってくれるはず、という驕り。なのかな。と思った時に、
たとえば私のある特徴が先方と折り合わないことを理由に「その時だけ消えててくれればいい」と身内に言われたとして、どう感じるだろうか、と考えたんですけど。


当然悲しい、悲しいし腹立たしいし申し訳ないし絶望するけれど、「先方がそういう人」「それがまかり通る時代」「身内本人から全否定を受けたわけではない」と思えば、もしかしてそこは首肯してしまうのかもしれないと思ったんです。
そしてじゃあ、私はジャンの何があまりにひどく残酷だと感じたんだろうと考えて、ああそうだった、シビルだ、「シビルは参加できる」のがつらいんだ。と思いました。


ジャン・ミッシェルは、
◆ アンヌのご両親は僕の「両親」に会いに来るので母さんを呼びたい
と言っていて、
そうか彼にとって、「血が繋がって」いて「女性」のシビルは、「本当の」母親なんだよな、と今更。
アルバンを隠したいから代わりにシビルを呼ぶ、ではなくて、シビルが母親だからシビルを呼ぶ、というのが彼の考えなんですよね。


そして、アルバンは母親ではない、かつアンヌの父との相性の悪さが「見た目から明らか」だから同席を拒否される。


ジャンを20年間育てた自分はあくまで母親の「代わり」で、両家の食事会では必要とされず、その一方でジャンをジョルジュに渡したきり会いに来ないシビルは「本当の」母親として食事会に出ることができる。
まだ「ジャクリーヌさんに母親のフリをしてほしいんだ」とか言われた方がよっぽどましかもしれない!





……などと考えながら千秋楽をみていたら、一幕最後のジョルジュがアルバンに伝えるところ、二人の気持ちが本当につらくて。
ジョルジュの台詞、一日だけの嘘だよ、傑作だろ、「僕が外務省の外交官で、シビルが僕の妻で、君は……」
アルバンは、なんなんでしょうか。
「本当の」母親とされるシビルを呼ぶ、その彼らの選択がアルバンのアイデンティティを否定する。アルバンは「血の繋がりもなく」「女性でもなく」「だから当然母親でもない」のだと。彼らにそんなつもりはなくて、彼はそれこそが一日だけの偽りだと言っているのに。






そこでカジェルたちの歌が聞こえてくるわけですよね。


ありのままに見えて
全部イリュージョン
本当は 嘘が本当





そりゃやめてってなるよー!!





嘘の母親が本当なのか、本当の母親が嘘なのか。それって誰が決めるのか?
ここでアルバンの歌う『ありのままの私』、その原題の『I Am What I Am』は、さっきのジョルジュの台詞「僕が外務省の外交官で、シビルが僕の妻で、君は(You are)……」も受けてるんでしょうか。いや原文わからないけど。
ジョルジュが継げなかった言葉をアルバンが繋ぐ。
I Am What I Am、私は私。







この直前にジャン・ミッシェルが漏らした「ごめんなさい」って、一体、なんなんですかね?






● 見てごらん
時は過ぎて二幕、問題はここですよ。
「おじさんの練習」までしたアルバンを前に、ジャン・ミッシェルが「彼なんかに頼んだ僕が馬鹿だった」みたいなことのたまうじゃないですか。
さっきの「ごめんなさい」は!!??!?
反省しても10秒で忘れる感じ!?!?
あといちいち使う言葉が強いよ!!
そして噴き出す積年のアルバンへの不満。
「理解して欲しかった、尊重して欲しかった」って、あーーーー!それは!まあ……そうかも……………


ジャン・ミッシェルの全身から溢れる「どうしてわかってくれないの!?!?」という気持ち、これはなんだか、個人的には単なるわがままのようには見えなくてですね……


そう言いつつジョルジュが歌い出したら今度はジョルジュに感情移入する。まじ忙しい。
「おまえにどんな権利があってアルバンを傷つけるようなことをするんだよ!!!え!?わかってる!?!?わかってないね!?」って私の中のジョルジュが息子に言ってる。
『ありのままの私』の前、アルバン本人は、ジャン・ミッシェルには何も言わなかったから。いかに愛しているかとかどんなに大変だったかとか言ってもおかしくないのに、息子のことをただ見つめるだけで。だからジョルジュが言ってくれてるんでしょ……ジョルジューーー!!あいしてるーー!!!!
アルバンはあの時何も言わなかったし、ジャン・ミッシェルは今シャツを着ているし、相手の女性は来訪を拒まれていない。できる限り尊重されているように、私には見えるよジャン・ミッシェル……



千秋楽では、『見てごらん』を聴いているジャン・ミッシェルが内心とても揺れているのが伝わってきて、その思いを振り切るように出て行ってしまう彼に半分苛立ち、半分胸が痛みました。
彼の思いは思春期という名の普遍性を持つ一方で、なんらかの当事者家庭のかぞくやきょうだいの抱える「当人以外が普遍という言葉で片付けてはいけない」ジレンマも含んでいるような気がしたから。


ところで、私、ジャン・ミッシェルに関する木村さんのインタビューをいくつか読んで、びっくりしたことがあるんですけど。
「思ったことを貫き通したいとか、ワガママなところは…僕と似ているところかなと思います」と共通点を見つけたり、「(親子はどこかに似ている部分があるから)鹿賀さんの姿を見て、自分のお芝居にうまく取り入れたい」と考えたりとか(以上『livedoor NEWS』)、「僕の母親はけっこう“ザザ”タイプで」と共感したりするのとかは(『週刊女性PRIME』)、いわゆる役作りっぽくてしかも成果が見られてて、すごいな…!!と思っていて。
でも、インタビュアーさんにジャンは行動だけとればかなり無神経……という点についてふられた時に
「たぶん考えすぎるとできないと思います」とおっしゃってて(『omoshii mag』vol.12 誌面インタビュー記事)。
えーーーーー!!ですよ。そういうのありなの!?って。「でも彼は彼なりに考えがあって…」というようなことをおっしゃるのかと思ったんですよ。何か無理にでも自分なりに理解とか動機付けとかしたりするもんじゃないのみたいな。
でもこれ読んでめっちゃくちゃ腑に落ちました。あのジャン・ミッシェル、確かに、きっとそんなに深く考えてない。そんなに深く考えてないからあんな感じなんであって、自分のやろうとしてることが無神経だと感じるくらいには思慮深かったら、あんなこと言わない。そりゃそうだ。できあがったジャン・ミッシェル像を見れば、木村さんは二重の意味で正しい。
(引用の仕方がへたくそで真意を損ねている可能性があるので是非記事全文をご覧になっていただけると嬉しいです、他の役作りも興味深い)
(2018/06/13追記:すみません……改めて読むと引用の仕方がほんとダメですね。これだとちゃんと役作りをしていないという意味にすら読めてしまうかもしれませんが、全然違うんです、すみません。そして、市村さんをはじめ周囲の皆さんにたくさんアドバイスをいただいて台本を読み込んで読み込んで書き込みだらけで真っ黒だったそうですとなんとなくここに書いておきます……すみません)


言うことだけじゃなくて言われたこと、たとえば元カノの言葉が「30分で片付ける」から「20分で片付ける」になるのも、カジェルのおひとりの言葉が「電話して」から「帰って来てから電話して」になるのも、意味全然わかってなさそうだったけど、それが切ないような、でもそこがいいんだわ……わかる………と思えるような。難儀だわー……


理解のための理解をしないという役作りが、観客の感情移入の余地を残すということがあるのかもしれないなーと思いました。ふしぎ。脚本と観客への信頼のあらわれでもあるのかな。




● そんなこと言われなくても本人が一番よくご存知よ
ダンドン議員が騒いだ時のアンヌの台詞(言い回しは曖昧)。
ここかなり笑いが起きてましたし、実際愛原さんの「面白い台詞ですよ〜」感が全くない言い放ち方、コメディとシリアスを両立させていて最高に巧み……!と思うんです。
そんで「ほんとそれ!!!」と思ったんですよ。


この台詞には、ジョルジュとアルバンたちを侮蔑語で呼んだダンドンに対して、アンヌが大真面目にこう叫ぶことで天然に追い打ちをかけてしまう、というような文脈の笑いが含まれてると思うんですけど、
いやでもほんとに、なんらかの当事者は、「侮蔑語で呼ばれる自分」も含めて自身のマイノリティ属性と向き合っていて、ほんとに、そんな大きい声で言われなくったって知ってる、ほんとにそう、私はそう(このケースの当事者ではないけど)。誰かにとってはめずらしくても、当事者にとっては常に付いて回るものだから。その言葉で呼ばれる自分と誰よりも長く一緒にいるから、何度も言われなくても重々承知してる。


それと、この台詞の一方で、ダンドン議員がいくら騒いでもジョルジュとアルバンとジャン・ミッシェルが何も言わないの、個人的にかなりリアルに感じました。
言い返してもどうせ聞こえないし、事態が悪くなるだけだし、時勢的には向こうのほうがメジャー、端的に言って面倒。
ここでジャンが憤慨して「僕の家族を侮辱しないでいただきたい!!」→ジョルジュアルバン感動→ジャンも自身の気持ちに気づいて感動、からの仲直りとか、
アルバンが「私たちは何と言われてもいい、でも、息子は関係ないでしょう!!」→ジャン感動、アルバンの愛を知る、からの仲直りとかだったら多分、私の中ではしっくりこなかった気がします。
ジョルジュとアルバンが「ハイハイおっしゃる通りでございますね」とやり過ごす、そうだよなあって。ダンドン議員は彼の主観的認識について話していて、ジョルジュとアルバンは事実レベルで間違っていることだけを訂正する。その内容もおそらくダンドン議員には取るに足らないことなわけですけど、当事者にとってはあきらかな「違い」なのに当事者以外には「見えにくい」のも、そうだよなあって。
そして彼らを見て育ったジャンが、侮辱に乗せられず、あえてダンドン議員と同じ土俵に立って彼自身の「主観的認識」をただ告げることで対応するのがとても好き。木村さんの千秋楽のあの喋り方、目線のやり方、間の取り方、やっぱりこの方の演技を見るのが好きだなあと思いました。
あとアンヌが父親に、「私の意見はあなたの意見とは違う、けれど私は変わらずあなたのことを愛している」ということを口に出して伝えているのがまたいいなと思います。


アンヌって、たぶんジャン・ミッシェルがアルバンの存在そのものを隠そうとしていたことまでは知らないんですよね。「ジャン・ミッシェルは『ジョルジュが父親でありアルバンが母親である』で押し通そうとした」、というのが、実際アンヌの前で起きた出来事なので。
で、「母親のアルバンは(生物学的上は)男性だった」ということが判明するわけですけど、それでも彼女は「この方たちのことが好き」と言う。最初見たときは「偏見を持たず本質を見抜けていい子だ…!!」という感じでしたけど、そういえばひとつ重要なことをすっ飛ばしていて、それがアンヌが「ジョルジュが父親でありアルバンが『母親』である」ということまでもを特に何も言わず受け入れているという点で。
ジャン・ミッシェルはアルバンを母親の「代役」と思っていたけど、アンヌは「アルバンはジャン・ミッシェルの母親である」そのままで問題ない、という。
「アルバンは母親」「その母親のアルバンは男性だった」という順番で情報が入って来たアンヌが、ジャン・ミッシェルより先に「アルバンは母親」ということを再認識するのが面白い構造だなあと思います。
男性女性という話より先に母親という情報が入ったからこそ、アンヌにとって性別が「母親かどうかに深くかかわらない情報」になり得たのかもしれないですね。




● 見てごらん(リプライズ)
一度目の『見てごらん』の時、ジョルジュが言わんとしているのはアルバンのことだ、というのはジャン・ミッシェルもわかっているように見えました。そしてそれがその通りであることも。
だからこそかなと思うのですが、千秋楽、ジャン・ミッシェルの『見てごらん』は、まるで父親からの問いを紐解き、なぞっていくようで。


僕が人生に恐れを抱いた時
心を痛めてた
その人は誰?




個人的に感じたのは、「その人」がアルバンだとジャン・ミッシェル自身が納得した、だけではなくて、「そして、『そういう人』をたとえば『母親』というのだ」、ということに無意識に思い至っているのではないか、と。
生物学上「血の繋がりもなく」「女性でもない」、けれど、それでもアルバンは「母親」だったのだと、かりそめの宴やアンヌの言動を通してそういう発見をジャン・ミッシェルはしたのではないか、と思いました。
ジャン・ミッシェルとアルバンの当人がしっくりくるのならたぶん言葉は「母親」でも「父親」でも「育ての親」でもなんでもいいのだと思います。感情でも現象でも属性でも、名前をつけることで全貌が見えることってある。
木村さん、この歌の「誰?」のところの抑えた感じとても好きでした。



● 彼は僕の母親です
彼の「母親の発見」においてもう一つ重要なのが直前の「彼は僕の母親です」という宣言だと思うのですけど、この、「彼は」というのもとてもかみしめたいところです……
「彼が僕の母親です」だと、
「母親(は誰なのか、いるのか)」という言葉に重点がおかれてしまうんですけど、
「彼は僕の母親です」は「彼(はなんなのか)」という言葉のほうに重きがおかれるんですよね。ジャン・ミッシェルがここで「彼は」という出だしでアルバンのアイデンティティの一部を語るのは、アルバンに「私は私」と言わせた行為の清算のようにも思えます。あと、「彼は(まぎれもなく)僕の母親です」というニュアンスもこもってる気がする。
そしてもうひとつ。「彼が僕の母親です」とした場合、母親はアルバンひとりに限られるような印象を受けますが、「彼は」なら、シビルも母親のままでいられるんですよね。ジャン・ミッシェルの中でシビルが母親であるという事実は、これまでもこれからも変える必要はなく、きっとアルバン自身が(ジョルジュには悪く言っても)息子のために残してきた道なんですよね。
彼の中で今まさに母親という言葉の再定義がなされたのだとして、しかしそれは変更ではなく拡張だったのかなと思わせられる台詞のように感じました。




● 最後のハグ
なんか!前に見た時よりジャン・ミッシェルのニュアンスが少しだけ軽くなってて!気のせい??
「じゃあ!…またね。」
そんな感じ。
私はやっぱり別れ、親離れのシーンかなと思ったのですが、この軽さ、ジャン・ミッシェルらしいなと思いました。
このすぐ帰ってきちゃうんじゃないか不安になる感じ。でもなんというか、『アンヌと腕を』からの『君と腕を』の流れを見てるから、なんだかんだジャンもアンヌとうまくやっていくのかな……と想像させられますね。
そして最後のシーンはやっぱり泣いちゃう。歌詞をどうしてもどうしてもジョルジュとアルバンの奥の鹿賀さんと市村さんに重ねて見てしまう。いかんいかん……


あらためて、市村さんのアルバンって喜怒哀楽が豊かで、けれどもネガティブオーラは極力早めに引き上げ、ポジティブオーラはどこまでも振りまく、とてもとても素敵。
ニコニコ、プンプン、ルンルン、ウットリ、そういう文字が見えてきそう。
その感情に見合うだけの愛を真正面から、テキトーなんだけどアルバンのためだけに語る鹿賀さんのジョルジュもすごい。これは見ていて幸せになるはずだわ……。
ジャン・ミッシェルとアンヌもだけど、「仲が良いひとたち」って永遠に見てられますよね……それだけじゃ物語が生まれないから問題が起こるけど、問題が起こっても大方仲が良いのが素晴らしい。
手に手を取って、腕を組んで、そういう意識的繋がりを愛と呼んで、その連なりを家族と呼ぶ、それって素敵で希望があるなあと思うフィナーレでした。



劇場に行くのが難しい家族も見たがっているので、ぜひ映像化していただけたら!!!
う れ し い で す!!!!